和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

師範教育。

2010-01-25 | 他生の縁
外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)では、
根本実当という名前について説明しております。
「あとがきに代えて」で
「複合、混成の、という形容詞で、コンポジット・フォトグラフは、重ね取り写真のことになる。根本実当は重ね取りの写真のような人物という命名である。つまり、根本実当はコンポジットと読む」とあります。

この本に
「根本は正統な師範教育を受けたから古典的教師像をいつしか胸にいだいていた。」(p61)という箇所がありました。

ところで、けっこう出ている外山氏のエッセイ類を、ポツポツとネット古本屋へと注文するのが、今年の注文事始みたいになっております。今日も文庫がとどきました。外山滋比古著「空気の教育」(福武文庫)。その文庫解説は森隆夫氏でした。その解説にこうあります。

「私自身、外山先生から多くの薫陶をうけているが、そのうち印象に残っていることを、二つ書かせていただくことにしたい。
第一は、立派な先生には立派な恩師がいるということである。外山先生の本の中に『ことわざの論理』という本がある。それはT書籍のT選書と呼ばれているが、T選書は表紙に推薦のことばをのせる慣わしになっている。ところが、外山先生の『ことわざの論理』には推薦のことばがのっていないのである。私がそのことに気付いたのは、私の本もこの選書の一冊に加えてもらうことになったときである。編集の人が誰か推薦のことばをいただいて欲しいという。どうしても必要なのですかと聞いたところ、例外が一冊だけあって外山先生であるというのだが、その理由は、外山先生の恩師福原麟太郎先生が他界されていたため推薦のことばがもらえないからであるという。外山先生は私が推薦のことばを書いてもらいたい人は恩師福原麟太郎先生以外にはないとおっしゃったそうである。そのとき、もしどうしても推薦のことばが必要といわれるなら、本はださなくてもよいとまでおっしゃったそうである。恩師を尊敬してやまない外山先生の姿から福原先生の空気の教育の偉大さも察しられる。と、感心は出来るが、さすが外山先生と、私のような目下の者が、外山先生を賞める訳にはいかない。なぜなら、尊敬する人から賞められるのが本物だからである。・・・」

「外山先生から学んだことの第二は、エッセイを書けるようになれといわれたことである。あるとき、外山先生が私に、『エッセイが書けるようにならなければ駄目ですよ』とおっしゃった。当時、四十歳を過ぎたばかりの私には、その意味がよく理解できなかった。・・・・ところが、最近になってエッセイの意味が何となくわかってきたような気がする。つまり、エッセイというのは題材は何でもいいのだから自由な訳である。・・・自由は自己の能力の範囲内でしか自由でありえない。そのことがわかっていないといけないということ。さらに、自由な題材ということは、『何から』でも学べることができないと不可能なのである。・・・」

この解説を読んだら、私は満腹。さて、本文を読むだろうか?
この満腹感だと、そのままになりそうだなあ(笑)。
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