「安房震災誌」から、関東大震災発生3日目の安房での出来事を取り上げてみます。
震災当日の安房郡長大橋高四郎の指揮については、以前に紹介しました。
それでは、9月3日の安房郡の様子はどうだったのか?
ケーキをカットするように、3日の出来事を断片的に並べてみます。
館山にある県の水産試験場の船の発航を依頼・・・
2日の夜半漸く出帆準備が出来、燈台は大小何れも全滅しており、
3日未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行した。
鏡丸には門郡書記が乗船して救護品に就ての一切の処理に任じた。(p257)
そして此等汽船の活動は、9月3日の未明から殆んど毎日のことで、
その航海日記を見ると一見驚くべき活動振りを示してゐる。(p276)
3日の朝になると、東京の大地震、殊に火災の詳細な情報が到着した。
斯くては迚ても郡の外部の応援は望むべくもない、・・・
郡の外部に屬することは迚ても不可能である、
絶望であると郡長はかたく自分の肚を極めた。
そこで、『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばならぬ 』
といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・ (p277)
青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、
其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかった。
ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
1日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に全力を盡して
も尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。・・・・
そこで、吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた
天幕を取り出して形ばかりの仮事務所を造った。 (p239)
光田鹿太郎氏に関してもこうありました。
「3日余震尚ほ甚だし此の時に当り震災の現況を撮影し置くは
永久の紀念たるのみならず教育上、歴史上、科学上有効の
材料たるべき旨を建策し写真師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む
此の写真は御差遣の侍従及び山階宮殿下の御目にかけたるに
何れも好材料なりとて御持帰りあらせらる其の他
地震学者等多数本郡視察者に於て複製して参考に供せらる。」(p341)
ちなみに、4日に開かれた緊急町村会議のあとには
『 震災状況調査 』への記述がありました。
「 被害の状況が明白に調査されなければ、救助計画も出来ない
順序であるから、被害調査は、第一着に手をつけたが、
調査の中枢機関たる町村役場が、何れも全潰又は半潰の
悲惨な状態であるのと、道路も、交通機関も杜絶し、
その上町村吏員も亦た均しく罹災者であるので、
その調査には大なる困難を感じた。
・・・・時を移さず被害の状況をそれぞれ報告されたのである。
郡当局は、それを基調として対応策を決定することが出来た。
だが一度調査したものを更らに精査したり、
又町村の応急施設指導の為めには、郡吏員は、
屢々各町村に出張して、町村吏員を督励したりして、
調査の進捗を図ったのである。
本書の第一編第一章の終りに掲ぐる
『 震災状況調査表 』(大正12年9月19日調 安房郡)は、
即ちそれである。 (p278~279)
すこし日付が先にゆきました。
もどって最後に、ここも引用しておきます。
9月3日の晩であった、
北條の彼方此方で警鐘が乱打された、聞けば
船形から食料掠奪に来るといふ話である。
田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
那古方面へ向て出発したが、
掠奪隊の来るべき様子もなかった。
思ふに是れは心が不安に襲はれて、神経過敏に陥った為めに、
何かの聞き誤りが基となったのであらう。すると、郡長は
『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
といふ意味の掲示をした。可なり放胆な掲示ではあるが、
将に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、
此の掲示が多大に効果があったのである。
果して掠奪さわぎはそれで阻止された。 (p220~221)
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