匿名コラム「紳士と淑女」が、徳岡孝夫氏の文だとわかってみると、
そういえば、私は徳岡氏の文を読んでいない。
私が知っている徳岡氏というのは、ドナルド・キーン氏の訳者としてでした。
まあ、そういうわけで、何冊か古本屋へと徳岡孝夫氏の本を注文しております。
とりあえず、「妻の肖像」という本が手元に届いております。
そこに掲載されている「喪妻記」の雑誌掲載年は2001年4月とあります。
そこからの引用。
「十五年前の脳下垂体腫瘍のため右眼失明、左眼は視野きわめて狭く、矯正視力0・2しかない薄明である。前方にファインダーミラーを認め、よく見ると車だったという危険なこともたびたびある。外出時には杖をひくが、大きい横断歩道を渡るときには先に『これが人生の見納めの景色かなあ』と思ってから渡るようにしている。」と徳岡氏ご自身のことに触れておられました。
そういえば、話題がそれてゆきますが、2001年(平成13年)9月17日の一枚の写真がありました。小泉総理に招かれた、山本夏彦・徳岡孝夫・石井英夫・川上信定の諸氏。それを石井英夫氏が撮った写真があります。
「諸君!」2009年6月最終号。
そこに石井英夫氏が、その写真について言及しております。
山本夏彦ファンには、先刻ご承知の写真一枚であります。
「その翌平成十四年二月、八十七歳の山本さんはガンで胃の全摘出手術を受け、そのガンの転移で十月二十三日、世を去った。直前まで原稿を書き続け、利き腕の右手には最後まで点滴の針を打たせなかった。絶筆は写真コラム『遠きみやこにかへらばや』である。」と、その一枚の写真のあとを石井英夫氏は書いております。
その写真、そういえば、山本夏彦氏の顔がすぐれない。
もうひとつ、徳岡孝夫氏の顔も写っております。
写真といえば、幸田文の一枚の写真があります。
昭和28年頃の木村伊兵衛撮影の一枚。その幸田文の目が、どうもピントがあっていないような感じを受けておりました。よくテレビで拝見するようなテリー伊藤氏の目みたいな感じに、私には思えるのでした。
青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店)に、こんな箇所があります。
「机の上に二つの地図を置いて、ホログラフィみたいなもので覗くと立体的に見えるんです。母は片目が悪くて、まあ見えるという程度なので、なかなかうまく立体的に見えないと騒いでいました。」(p34)という箇所があります。
次にいきましょう。
幸田露伴の眼は、どうなっていたか。
青木玉著「小石川の家」(講談社・単行本)に、こんな箇所。
「目はもともと小さい時に失明しそうになって、一生を暗闇に過すかと悲しんだことがあったから、何かと気をつけて大切にしていたが、何分仕事がら、細かい字を見たり終日筆を持つ無理を重ね、白内障が進行して、お月様は何時も欠けて見えるし、小さい虫が目の前を飛んで邪魔だと言っていた。こういう、大事にはならないが日々の生活に不自由なことは、年寄りじみて、当人にとっては不機嫌の種になった。
大曲に下る安藤坂の途中に、萱沼さんという眼科の先生があった。何かの折に母が相談に行って、当時にしては眼科の往診は滅多に無いことであったが、先生と奥様が時々みえて見舞って下さった。大そう穏やかな方で、人肌に温めたお薬で目を洗って頂くと、気持ちがよくて、祖父は菅沼先生の往診を心待ちにしていた。殊に奥様が色白でふっくりした愛嬌のあるお顔立ちで、口元にえくぼを見せてにこにこ介添えして下さると、吉祥天女か薬師如来のようだと、祖父は柄にもなく、よい子になっていた。」(p123)
これは、戦争が拡大する前のころの回想として出てきます。
目ということで、最近読んだ
徳岡孝夫・幸田文・幸田露伴の3人に登場していただきました。
そういえば、私は徳岡氏の文を読んでいない。
私が知っている徳岡氏というのは、ドナルド・キーン氏の訳者としてでした。
まあ、そういうわけで、何冊か古本屋へと徳岡孝夫氏の本を注文しております。
とりあえず、「妻の肖像」という本が手元に届いております。
そこに掲載されている「喪妻記」の雑誌掲載年は2001年4月とあります。
そこからの引用。
「十五年前の脳下垂体腫瘍のため右眼失明、左眼は視野きわめて狭く、矯正視力0・2しかない薄明である。前方にファインダーミラーを認め、よく見ると車だったという危険なこともたびたびある。外出時には杖をひくが、大きい横断歩道を渡るときには先に『これが人生の見納めの景色かなあ』と思ってから渡るようにしている。」と徳岡氏ご自身のことに触れておられました。
そういえば、話題がそれてゆきますが、2001年(平成13年)9月17日の一枚の写真がありました。小泉総理に招かれた、山本夏彦・徳岡孝夫・石井英夫・川上信定の諸氏。それを石井英夫氏が撮った写真があります。
「諸君!」2009年6月最終号。
そこに石井英夫氏が、その写真について言及しております。
山本夏彦ファンには、先刻ご承知の写真一枚であります。
「その翌平成十四年二月、八十七歳の山本さんはガンで胃の全摘出手術を受け、そのガンの転移で十月二十三日、世を去った。直前まで原稿を書き続け、利き腕の右手には最後まで点滴の針を打たせなかった。絶筆は写真コラム『遠きみやこにかへらばや』である。」と、その一枚の写真のあとを石井英夫氏は書いております。
その写真、そういえば、山本夏彦氏の顔がすぐれない。
もうひとつ、徳岡孝夫氏の顔も写っております。
写真といえば、幸田文の一枚の写真があります。
昭和28年頃の木村伊兵衛撮影の一枚。その幸田文の目が、どうもピントがあっていないような感じを受けておりました。よくテレビで拝見するようなテリー伊藤氏の目みたいな感じに、私には思えるのでした。
青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店)に、こんな箇所があります。
「机の上に二つの地図を置いて、ホログラフィみたいなもので覗くと立体的に見えるんです。母は片目が悪くて、まあ見えるという程度なので、なかなかうまく立体的に見えないと騒いでいました。」(p34)という箇所があります。
次にいきましょう。
幸田露伴の眼は、どうなっていたか。
青木玉著「小石川の家」(講談社・単行本)に、こんな箇所。
「目はもともと小さい時に失明しそうになって、一生を暗闇に過すかと悲しんだことがあったから、何かと気をつけて大切にしていたが、何分仕事がら、細かい字を見たり終日筆を持つ無理を重ね、白内障が進行して、お月様は何時も欠けて見えるし、小さい虫が目の前を飛んで邪魔だと言っていた。こういう、大事にはならないが日々の生活に不自由なことは、年寄りじみて、当人にとっては不機嫌の種になった。
大曲に下る安藤坂の途中に、萱沼さんという眼科の先生があった。何かの折に母が相談に行って、当時にしては眼科の往診は滅多に無いことであったが、先生と奥様が時々みえて見舞って下さった。大そう穏やかな方で、人肌に温めたお薬で目を洗って頂くと、気持ちがよくて、祖父は菅沼先生の往診を心待ちにしていた。殊に奥様が色白でふっくりした愛嬌のあるお顔立ちで、口元にえくぼを見せてにこにこ介添えして下さると、吉祥天女か薬師如来のようだと、祖父は柄にもなく、よい子になっていた。」(p123)
これは、戦争が拡大する前のころの回想として出てきます。
目ということで、最近読んだ
徳岡孝夫・幸田文・幸田露伴の3人に登場していただきました。
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