和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

年経(へ)にし後は。

2012-04-29 | 短文紹介
外岡秀俊著「3・11複合被災」(岩波新書)について、
著者は、VOICE5月号で、こう語っておりました。
まず、インタビューでこう質問されたのでした。
「・・『震災本』は山ほど出ましたが、全体像を的確にまとめた本は案外ありませんね。」
これにたいして質問に答えるかたちで外岡氏が語っております。
「・・阪神・淡路大震災のときに、関東大震災について一般向けに平易に書かれた本を探したんですが、吉村昭さんの『関東大震災』が文庫になっていたぐらいで、あとは専門家や調査報告書ばかり。70年も経つというのに、なぜこんなに本がないのかと驚きました。過去を参考にしようにも、比較しようがなかったんです。あれから十七年経って、去年の3月にまた大きな震災が起きたときも、これを読めば阪神・淡路のときのことがだいたい伝わる、という本はなかった気がします。だから今回こそ記録として残さなければ、と思ったのが、この本を書いた動機です。人間の記憶はほんとうに頼りないもので、残したいと思っても、なかなか残らない。・・・」(p91)

思い浮かぶのは、方丈記のこの箇所。

「昔斉衡(さいかう)のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍(はべ)りけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなわち、人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。すべて世中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし。」(岩波文庫p24)

現代語訳

「昔、斉衡のころとかに、大地震が揺れて、東大寺の大仏のお首が落ちたりなどして、たいへんなことがいろいろありましたけれど、それでもやはり今度の地震には及ばないということである。その当座は、だれもかれも、この世が無常であり、この世の生活も無意味でつまらないものだと、述べて、いくらかは欲望や邪念にとりつかれた心の濁りも弱まったように思われたが、やがて月日がたち、幾年かが経過した後は、もうそんなことを言葉に出して言い出す人さえいないありさまだった。」
(三省堂・新明解古典シリーズ8 大鏡・方丈記 監修桑原博史。p241)

うん。大越健介著「ニュースキャスター」(文春新書)のあとがきにあるところの
高村薫さんの言葉「私たちに必要なのは、東日本大震災についてきちんと言葉にしていくことだと思います。」(p235)

うん。指摘することは簡単なのだけれども。
まあ。これからなんだ。と、いうことなんでしょう。

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