和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

利休の茶友。

2023-11-25 | 重ね読み
「利休大事典」(淡交社・平成元年)の古本が安い時に買ってありました。
函入りで2キロ。27×20で厚さ5センチ(いづれも函サイズ)。
余りに安くて、もったいない気持から買っておいたものです。

楽しい絵本の挿画のように、魅力のカラー写真がページを彩り、
せめて、目次だけでも引用しておきたくなります。

   時代   村井康彦 ・・ 1
   生涯   米原正義 ・・ 25
   茶友   熊倉功夫 ・・ 115
   茶事   戸田勝久 ・・ 193
   茶具   林屋晴三 ・・ 255
   茶室   中村昌生 ・・ 347
   書状   村井康彦 ・・ 465
   伝書   筒井紘一 ・・ 575
   遺響   熊倉功夫 ・・ 669
        筒井紘一


まずは、気になった『利休の茶友』(p116)だけでも引用。
こうはじまっておりました。

「千利休がその生涯に出会った人の数はいかほどあったか測り知れない。
 ・・・・
 利休が師事した茶人と禅僧、利休の茶会に招かれた人、
 利休と茶会で同座した人、手紙のやりとりがあった人、
 茶湯や道具に関して利休に師事した人、利休の使用人等々。
 記録に残るだけでも千を超える人々がいただろう。・・・・

 利休の青年時代、すでに堺には茶湯が流行し、名人があらわれ、
 彼らによって東山時代以来の名物道具が集められていた。

 そこで利休は武野紹鷗をはじめとする茶の大先達と出会い、
 さらに南宋寺に来住した大林宗套、笑嶺宗訢といった禅僧
 たちの提唱を聞く機会があった。

 やがて利休と同世代の堺の町衆たちに伍して、利休自身の茶湯が認めれ、     
 遠く奈良や京都にも利休の茶名が聞こえていった。

 今井宗久、津田宗及などは茶の道具の点では利休をはるかに凌ぐが、
 利休にはその茶を慕う山上宗二らの茶の弟子がすでにあって、
 茶匠としての地位が確立してきただろう。

 ・・・一変させたのは、永禄11年(1568)の織田信長の上洛と、
 それに続く元亀元年(1570)の堺での名物狩りである。・・・
 やがて・・利休は天下人の茶の接待を受け持ち、多くの武将と
 の交渉が生じ、そのうちの数十人の人々は利休を茶湯の師と仰いだ。

 なかでも主だった弟子である古田織部・細川三斎・蒲生氏郷らを
 利休七哲の名で後世呼び慣わした。・・・・・

 利休の茶を支えていた職人や使用人たちの存在も大きい。
 残念ながら史料が少ないので詳細は不明である・・・・   」(p116)

はい。次のページから人名と、その人となり解説と、カラー写真。
それがp192までありました。もちろん私はそれを読まないのです。

『職人』といえば、生形貴重著『利休の逸話と徒然草』の
はじまりの箇所が思い浮かんできました。

そこを引用しておわることに

「茶の湯の文化の第一の特徴は、日本の伝統的な
 さまざまな分野の文化が結集している、という点でしょう。

 たとえば、茶碗などの土の文化、
 釜や風炉などの金属の文化、
 茶筅や柄杓などの竹の文化、
 こうした茶道具に留まらず、
 茶室に見られる数寄屋建築の文化、
 茶庭に見られる庭園や石の文化など、

 数えきれないほどの分野の伝統文化が
 茶の湯という空間に結集しています。

 さらに、着物などの和装の文化や、
 床に飾られる書画などの芸術、
 懐石料理や菓子に見受けられる食文化なども、
 茶の湯を構成する大切な要素です。

 ・・・茶の湯を構成するさまざまな文化は、
 多くが『職人』と呼ばれる人たちの技術の文化でもあります。

 ・・・茶の湯の文化の特徴は・・
 技術の文化の結集という点にあると思われます。  」(p4)


はい。こうしてはじまる『利休の逸話と徒然草』は
やっぱりきちんと読んでおかなきゃと思うのでした。


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