和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

若き杉本秀太郎と、小林秀雄。

2021-05-03 | 枝葉末節
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に「年中行事」を
とりあげた1ページがあるのでした。そこを引用。

「京都の生活はじつにたくさんの年中行事でかためられている。たとえば8月。
8月はお盆である。上(かみ)は閻魔堂、下(しも)は六道さんへ
お精霊(しょうらい)をむかえにいく。16日は大文字。
地蔵盆に六地蔵まわりに六斎(ろくさい)念仏とくる。
すべて、いつ、どこで、なにをするかがきちんときまっている。
お上りさん用の観光地はしらんでも、こんなことならみなしっている。

いちいち何百年の伝統をもつ。おそろしい文化である。
わかい世代は、こういうものに反発して、一時とおざかるが、
やがてまたもどってくる。そして伝統の継承者となる。」(p80)

はい。この最後の2行は、気になる箇所でした。
そこで思い浮かんできたのは、
若い頃の杉本秀太郎と、小林秀雄。
杉本氏の数冊の本で、その道筋をたどれそうです。

①杉本秀太郎編「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・1996年)
②杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)
③杉本秀太郎著「パリの電球」(岩波書店・1990年)
④杉本秀太郎著「青い兎」(岩波書店・2004年)

まず①から、この本は桑原武夫七回忌の集まりの記録で、
いろいろな方に混じって、杉本氏の話しも活字になっておりました。
そこでの杉本氏は、大学に入った頃を語って
『当時、僕は小林秀雄という人に夢中になっていた・・』(p76)とある。

②には、「柘榴(ざくろ)塾瑣事」という文がありました。
綾傘繕太郎という名からはじまっている文なのですが、
読みすすむと、七回忌での杉本秀太郎氏の回想と重なり、
この綾傘というのが、杉本氏なのだとわかります。
大学にはいった頃の場面からはじまります。
出町大橋を歩いていた時に、不意に語りかけられます。

「ね、君、どうして日本にあんなえらい男があらわれたんだろう。
じつにふしぎだな。ああいうふうに批評を書ける男が、
突然あらわれたのはなぜか。いまぼくのもっとも知りたいのは、
そのことだ。君は『Xへの手紙』を読んだろ。あれはすごいもんだぜ」

「読んだ。小林秀雄の文章はええな。こう、きゅうとしてて、鋼みたいで」

繕太郎は、そう応酬しながら「鋼みたいで」といったのにこだわった。
 ・・・・・鉈川はすぐに応じた。
「まったくだな、ランボー論、ああ、どうしてあんなすごいものが
書けたんだろうな」・・・・

東京弁の鉈川と京都弁の綾傘は、こうしてお互いが小林秀雄に
心酔し、ひとつの世界のこまかい地図に通じていることを確認しあうと、
急速にしたしくなった。・・・」(p210~211)

つぎは④です。この本に2001年4月『新潮』臨時増刊
『小林秀雄 百年のヒント』に掲載された杉本秀太郎の追悼文が
載っておりました。題して「小林秀雄 架空の古手紙」(p136~141)
手紙の形式となっているので、最後に日付と署名がありました。
「 1984年3月10日 綾取思庵拝書」。ここからも引用。

「17歳のとき、創元選書に収められたばかりの『ランボー詩集』を
読んで、それから21歳までの5年間、私はあなた様の忠実な僕でありました。
・・・・・文章というものは気合で書くものだと・・教え込まれ・・・

当時、私は父に反抗し、脛かじりの身で父の一切を嫌っていました。
父と同じ明治35年生れだったあなた様(小林秀雄のこと)・・・

折しも・・・文章は気合の前に学問がなくては書けたものではない
ことに気付いて、私はどうやらあなた様の桎梏を脱するを得たのでした。
25歳に達した私には、父に対する無理な反抗心は消えておりました。
小林秀雄は私の父に代ることができなかった。
当り前の話でした。どうかご安心下さい。

文章は気合で書くものだというあなた様の文章から
まなんだ教えは、それとして生き延びておりますから、
これもご安心下さい。・・・・

いま読み返しても愛着あるいは愛惜をみずから禁じがたいだろうと
いま想像しておりますご本は『真贋』と、それより前の『無常といふ事』
の二冊です。・・・『真贋』に収められた十数篇を
創刊から連載した『芸術新潮』は毎月待ち兼ねたものでした。・・・・
小林秀雄という一精神がいわば日本列島の近代形成期に働いた地殻変動を
みずから断層と化して目に見えるものにして示した作品群のように思います。

・・・・『無常といふ事』は、あそこで扱われている日本の古い書物に
あなた様とは別様の読み解きを試みたいという欲望をかき立ててくれました。
・・・・」

最後は③を紹介。ここに「土蜘蛛」(p96~99)があり、
正味3ページの文です。初出一覧には
「保田與重郎全集第21巻」の月報(1987年7月)とあります。

「壬生狂言の『土蜘蛛』は、今も毎年の番組にかならず再三にわたって
組み込まれ、能にも歌舞伎にもそれが大いによろこばれるあの糸吐きの
芸によって、見物衆の喝采を博している。けれども、本来が土くさい
民衆的な芸能である壬生狂言の『土蜘蛛』が、お面の風情と言い、
装束の渋い色と言い、無言の仕草と言い、いちばん土蜘蛛らしくて
私にはおもしろい。」

うん。保田與重郎全集の月報なので、この土蜘蛛と保田與重郎とを
最後にむすびつけているらしいのですが、よく私にはわからないのでした。
けれども、この文のとっぱなに、小林秀雄が登場しておりました。
そのはじまりの2行はというと

「小林秀雄は晩年のある日、訪ねてきた一青年が
フランス語を勉強したいというと突然、甲高い声で
『バカ。フランス語なんてやる必要はない。漢文を勉強しろ』
と叱責したそうである。」

う~ん。杉本秀太郎氏は、この短文を
気合のエピソードではじめるのでした。


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