和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

蝉時雨と人生と。

2006-11-06 | Weblog
日曜日は、コンビニへと毎日新聞を買いに行きます。
ちょうど夏頃でした。西原理恵子の連載「毎日かあさん」が、他の曜日から日曜日へと引越してきていました。内容はというと、どうも、故郷の四国の海岸らしい民宿かどこかにいるようです。子供たちもいっしょで、かあさんが海の見える部屋で宿題をみてあげているのでした。その夏休みの物語が、私は印象深かったのでした。
そんなことを、思い出したキッカケはというと、文春新書「おせい&カモカの昭和愛惜」の言葉を読んだときでした。そこに「一日一日は長かったのに、終ってみれば何とあっけなく短い夏休みだったことだろう。人はその生を終るとき【夏休み】のところを、【人生】におきかえて、同じ感慨をもつのだろうか。」(p169)

ところで、私は気ままに、新聞の俳壇・歌壇を切り抜いています
(というか、1㌻ごとやぶいて、毎回箱に投げ込んでおいてあります)。
夏からはじまって、いまでも蝉をあつかった俳句や短歌が載るのです。
ちょうどいい機会なので
(だいたい、こういう機会がなければ、そのままに死蔵され、次に処分)。
思いついて、今年の蝉の句を選んでみました
(楽しいことに、選ぶほど、多く蝉がうたわれておりました)。


 何にぎる赤子のこぶし蝉時雨     燕 池田勝栄(日経10月1日)

 かなかなや机にむかふ子供たち    東大阪市 高木康 (産経10月1日)

 蝉しぐれまだ寝ていたき子を起す   大阪市 森山久 (産経9月17日)

 蝉とりの逃さぬこつを教へけり    大分市 山村すけお (毎日9月17日)

 朝の蝉種類二つを聞き分けて児童センターの一日始まる
                   御所市 内田正俊 (産経9月3日)

 校庭の碑にかぶさりし蝉しぐれ    周南市 浅田春生 (毎日9月24日)



 ひぐらしや湯疲れ癒す青畳     狭山市 松井史子  (読売10月9日)

 往診の帰りの道の法師蝉      志布志 小村豊一郎 (日経10月15日)

 かなかなの声に下山の歩を早め   小金井市 渡辺英子 (毎日10月15日)

 蜩や最終便のロープウェー     入間市 安達とよ子 (毎日10月22日)

 かなかなや明け方近き夜業の灯   大野城市 井手多佳子(読売9月25日)

 蝉しぐれ夜勤の夫(つま)のいま帰る 高槻市 北田隆子 (毎日9月17日)

 蜩や昼までかかる墓掃除      北九州市 宮上博文 (毎日9月10日)


今年は、蝉の句を捜しておりました。すると
まだ紹介しきれないほどの句があったのです。
それでもって、赤子からお墓まで。蝉の句を並べる楽しみ。
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モラリスト的なもの。

2006-11-04 | Weblog
「谷沢先生はフランスのモラリストのものがお好きでしたね。
モラリスト的なものに興味があるから文科系に来るというのが文科系の人間として正当ではないですか。」(p69)
これは、谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)の対談で、渡部氏の語りかけ。

ところで読書案内というのは、たとえば、地図をひろげて旅への想いを拡げているような楽しみがありますね。
いつか、そこへ行ってみたい。そう思い描く楽しみ。
谷沢永一・山野博史著「知的生活の流儀」(PHP研究所・1998年)に紹介されている本の中に、田辺聖子著「苦味(ビター)を少々」(集英社文庫)が取り上げられておりまして、気になっておりました。といっても、ちっとも田辺聖子さんの本を読んでいないし、読まないだろうなあ。そう思ってもおりました。
そう。忘れておりましたところ、2006年10月の文春新書に「おせい&カモカの昭和愛惜」田辺聖子著が登場したのでした。そのあとがきは、こんな風に始まっておりました。
「私には何冊か、箴言集のたぐいの本がある。私は早くから、その手の本が好きであった。まだ世の中の仕組みも実相もよく知らない年頃、少女といっていい年から、ラ・ロシュフーコーの箴言集などに入れこんで、淫していた。それでいて、書く作品(もの)といえば、市井(しせい)の熊公八公の他愛ないやっさもっさだった。私はそれにユーモア味を添えた。そのユーモアは、ラ・ロシュフーコーの皮肉や諷刺から学んだものもあるが、また、大阪という土地が発する瘴気(しょうき)といってもよかった。かくて、ラ・ロシュフーコーと、大阪文化は、とてもよく適(あ)い、いわば、筍(たけのこ)と若布(わかめ)の如く、はたまた、鴨と葱の如く、【出合いもの】であったのだ。少女の感性がそう、思わせたのだ。
箴言は、意地わるな視線なくして成り立たないが、またそれだけでは、文学性を獲得できない。愛なきところ、佳(よ)き箴言は生れない。人はアフォリズムで、一時、怒気を誘われたり、反撥の誘惑を感じたりするが、しかし、思いがけない【真実】をあばかれ、笑いを誘われてしまう。しかく、真実はつねにおかしいのである。・・・」


また最初の本にもどりますが、
「人生後半に読むべき本」で、谷沢さんは
「ちなみに、ラ・ロシュフーコーの『箴言集』は七、八種類の翻訳があるのですが、新しいものほど訳が悪い。なぜかというと、高橋五郎の本邦初訳に続いて出された斎藤磯雄の訳が一番の出来栄えだったから、あとから訳する人は齋藤磯雄の訳語を使わないようにして無理をした。いわば脇道を行った。だから、新しいものほど訳が悪くなる・・」(p63)残念その齋藤さんの本は手に入らないらしい。あきらめておりますが、いつかひょっとして読めるかもしれない。
そこで脇道にそれるのですが、内藤濯は「星の王子さま」の訳者とともに、ラ・ロシュフーコーの訳者としても以前は知られておりました。その内藤さんには「ルナアル詞華集」(グラフ社・平成15)というのがあり、それについては、内藤初穂著「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房)が、和歌との関係を解き明かして興味深いのでした。

内藤濯氏は警句を和歌に移し変えて、独特の味をだしております。
ちょいと、そこを少し引用しておきます。

吹く風は わが読みさせる ひとまきの ページくれども 読むすべ知らず

この元のルナアルの警句は、「風がページをめくる。しかし、読めはしない」。


われひとり いとけざやかに 人生の すがた見たりと おもふ日もあり
   「自分こそ、誰よりもさきに、人生を見た人間だと思う日がある」。


うらうらと 春日照れるを けふもまた 花にそむきて 逝きし人あり
   「いい天気だなあ! しかし、今日も何人か、人が死んだのだ」。


そうだ。「おせい&カモカの昭和愛惜」でした。
ここには、うれしいことに附録として
「私家版 おせいの中年いろはかるた」と
「私家版 昭和歌謡集 田辺聖子編」とのリストが載っているのでした。

ちょいと、一冊でも田辺聖子への本の旅を、してみたくなってくるのでした。
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司馬葬儀委員長の弔辞。

2006-11-02 | Weblog
足立巻一は、昭和60年8月14日朝、神戸市内の病院で急性心筋梗塞のため亡くなりました。その足立氏の葬儀・告別式の際に、司馬遼太郎は葬儀委員長をかって出ております。
その時の弔辞は、どのような内容だったのか?
ちょうど山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)に、その様子を知る手がかりが引用されておりました。その引用の孫引き。

「司馬氏の弔辞は原稿なし、ぶっつけ本番という破格の形式で行われ・・・」

久米勲氏がその弔辞を、書きとめていたようで、それを引用しております。

「足立ツァン(司馬氏はこう呼びます)は、自己のない人だった。人のことを考える人だった。だから足立ツァンと会っていると、自分も足立ツァンになりたいと思うようになり、そうしようとする。しかし、やはり足立ツァンにはなれないことがあとでわかる。―――文学は自己を語るものだが、自己のない足立ツァンの作品が文学になりえたのは、己を無にし、昇華したところで書いたからだ」司馬氏の弔辞は五分以上つづき・・

このあとに山野博史さんは「虹滅の文学―――足立巻一氏を悼む」と題した、司馬遼太郎の新聞に掲載された文を引用して終っておりました。
その掲載の文から引用します。

「これは私一個の好悪(こうお)だが、どうにも自己愛の臭気にだけは耐えがたい。また自己の身体や精神に快感をもつ自己色情(ナルシシズム)にはやりきれなぬおもいがする。でありつつも、文学や絵画は、そういうものが醗酵の種子になっているのである。おそらくすぐれた作品は、いい蒸留酒がもとの植物の香気だけをのこすように、自己愛が変質しきって昇華してしまったものにちがいない。しかしその前に、人間そのものが自己愛離れしなければならないだろう。この点、三十余年のつきあいの中での足立巻一はみごとなものであった。一瞬もかれからその種の臭気を嗅いだことがない。そのくせ、若いころ国文法に熱中した自己を種子にして『やちまた』という評伝文学の新境地をひらき、さらには自分が属した小さな夕刊紙の生涯を『夕刊流星号』として長詩にした。」


以上が山野博史著「発掘 司馬遼太郎」から引用しました。
ちなみに、この本で取り上げられている顔ぶれは

 海音寺潮五郎
 源氏鶏太
 今東光
 藤沢桓夫
『近代説話』のひとびと
 富士正晴
 吉田健一
 大岡昇平
 桑原武夫
 足立巻一
 田辺聖子

と並びます。その田辺聖子さんのところでも足立さんが登場します。
それは司馬さんと田辺さんの会話を引用した箇所でした。

「田辺『いつまでもヘタやったらどうしょう・・・』
司馬『あンたは物書くのん、ほんまに好きな子ォや、いうて足立サンいうてはったデ。好きで書いとったら読者がついてくるわ』
足立サンといいうのは詩人の足立巻一氏である。私は三十年代のはじめに労働組合を母胎として出来た、労働者のための『大阪文学学校』へ半年、通ったことがある。足立サンは小説クラスの先生であったが、文学学校以外の場でも後進指導に熱心で、駿足を輩出せしめるというので『足立牧場』というアダナがあり、大阪の若い文学志望者たちはみな『足立サン』を慕っていた。・・・」


山野博史氏のこの本を読んだのですが、他では読めない貴重な側面に、丁寧な資料を発掘し、照明をあてております。これは、かけがえのない本なのだなあ、とあらためて思いながら、足立・田辺両氏の箇所を読んだのでした。
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「教養」とは、弧ではない。

2006-11-01 | Weblog
教養の系譜をたどるための雛型。
そんな手ごたえを感じたので(といっても未読)書き込んでおきたいと思います。

まず身近な話題から。最近始まったNHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」は原案が田辺聖子さん。その田辺さんからはじめてみます。
足立巻一著「夕暮れに苺を植えて」(朝日文芸文庫)の巻末エッセイは田辺聖子さんが書いておりました。こんな始まりです
「この本の著者、足立巻一氏は、実をいうと個人的なことで申しわけないが、私の恩師なのである。四十年ほど前、私が在籍した大阪文学学校で、小説二組の担任講師でいられたのだった。そんなわけで氏のことを私は長年、〈 足立センセ 〉と呼び慣れていた。・・・」
そのエッセイの最後にこんな箇所
「〈 足立さん 〉の死は昭和六十年、神戸の須磨寺でのお葬式に、葬儀委員長の司馬遼太郎氏は、足立さんのやさしさを多くの人が享(う)けたことをいわれ、死者正者ともに表現がちがうだけ、足立さんのやさしさはいまも虚空にただよって人々の心をむすびつけている、というような意味の、しみじみした弔辞をのべられた。足立さんの人生をよく把握されたおことばだ、と参列した私は思った」

足立巻一著「虹滅記(こうめつき)(虹の左の虫には上にノが付く)」朝日文芸文庫の巻末エッセイは、ちなみに司馬遼太郎氏が書いておりました。
足立さんと出会った頃のことを、こう書いております。
「むろん、戦後である。敗戦によってひとびとの頭上の掩蓋(えんがい)が砕かれ、上は抜けるような青空だけになった。街は焼け跡で、たれもが平等に貧乏だった。それに大なり小なりアナーキーで、そのくせ陽気で、馬鹿笑いが似合っていた。同時に、あたらしい物事が競って興ろうとしている時代でもあった。経済は壊滅し、闇屋がはびこっていたものの、一方でいずれは足もとの確かな産業がおこることをたれもが信じていた。」

足立巻一著「立川文庫の英雄たち」(中公文庫)の解説は灰谷健次郎で、
そのはじまりはこうでした。
「司馬遼太郎は足立巻一の人と仕事を次のように評した。
ーーー俗世では仙人のように自己愛を捨て、それを芸術へと昇華していった。その生き方は空海の思想に通じる。かれの大作は、すべて六十代からはじまり、歳をかさねて作品に生命力があふれるようになった。明治以後、例のない文学者であった。
 的確にして名言である。・・・」

朝日文芸文庫には足立巻一著「やちまた」が入っているようですが、そこに誰が巻末エッセイを書いているのか未読。ちなみに、新装版「やちまた」(河出書房新社)の解説は鶴見俊輔氏でした。
そのはじまりは
「足立巻一の著作のうち、私の読み得たものの中では、『立川文庫の英雄たち』と『やちまた』とが、二つの高峰であるように思う。・・・
『立川文庫の英雄たち』と『やちまた』とは、ともに学問上の仕事である。しかし、普通に学問として発表される論文とちがって、文章にあつみがあり、その記すことに対して著者自身が責任をもっているという感じがある。そのことが、明治以後の出版物の歴史についての数ある論文の中で、『立川文庫の英雄たち』を特色ある作品としている。
『やちまた』は、学者本居春庭の伝記である。これは二十歳のころから彼が書こうとして来たもので、何度もの試みの後に、四十年の後に初志を実現した。戦中戦後におけるその持続は美しい。その間に彼にはまよいがつきまとってはなれなかった。・・・」

伊藤正雄著「新版忘れ得ぬ国文学者たち」(右文書院)の解説は坪内祐三。
そこに
「例えば私は、この本を通読したあとで足立巻一の名著『やちまた』に初めて目を通した。『やちまた』に登場する足立巻一の神宮皇學館時代の恩師「拝藤教授」のモデルが伊藤正雄であることを、私は、足立巻一の一文「拝藤教授・伊藤正雄先生」(「人の世やちまた」編集工房ノアに収録)で知った。それから『やちまた』に目を通したわけであるが、そのあとでまた『忘れ得ぬ国文学者たち』を開き、皇學館時代の思い出を語った『伊勢に赴任した坊っちゃん』という一文を再読すると、一つの『感慨』がわいてくる。」


以上。
足立巻一をいまだ読んでいないのですが、読まなきゃと
私は思うだけは思うので、その思いをこうして書いておくことにしました。

ああ、私のブログは、こんな書き込みが続くだろうという感じです。
それは、読んでもいないのに、読みたいという思いを書き込むブログ。
うんうん。こういう思いつきなら何とか続きそうです。
コメント (2)
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