和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

レトリックを、煎じ詰め。

2022-04-10 | 本棚並べ
柳田国男の指摘される俳諧を知らずに、
今まで、俳句など読んでいたのでした。
何周も遅れ、それにやっと気がついた。

そんなことを思うのですが、これって、
いつものことで、失敗は限りなくある。
失敗を書きこむブログネタは尽きない。
そんなことを思うと気が楽になります。

それでは、今まで私が触れていた俳句とは、
どの程度の理解だったのかと改めてひらく。

寺田寅彦に『夏目漱石先生の追憶』があります。

熊本第五高等学校在学中に、親類つづきの男が
夏目先生の英語をしくじり、『点をもらう』委員に
選ばれた寅彦の話からはじまります。
はい。俳句の話になる前が面白いので、
少し遠回りして引用してみます。

「初めてたずねた先生の家は白川の河畔で、
 藤崎神社の近くの閑静な町であった。
 『点をもらいに』来る生徒には断然玄関払いを
 食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で
 快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の
 陳述を黙って聴いてくれたが、もちろん点を
 くれるともくれないとも言われるはずはなかった。

 とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとで
 の雑談の末に、自分は『俳句とは一体どんなものですか』
 という・・・質問を持ち出した。それは、かねてから
 先生が俳人として有名なことを承知していたのと、
 そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ
 発酵しかけていたからである。
 その時に先生の答えたことの要領が
 今でもはっきりと印象に残っている。

 『俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。』

 『扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、
  それから放散する連想の世界を暗示するものである。』

 『花が散って雪のようだといったような
  常套(じょうとう)な描写を月並(つきなみ)という。』

 『 ≪ 秋風や白木の弓につる張らん ≫
    といったような句は佳い句である。 』

  ・・・・                    」
  ( p142~143 岩波少年文庫「科学と科学者のはなし」 )

最近になって本棚から
丸谷才一著「思考のレッスン」(文春文庫)をもってきてあったので、
身近な本棚においております。「思考のレッスン」は質問に答えて
ゆくような形式をとっているので何よりも読みやすい。
そこに、こんな箇所があったりする。

丸谷】 自分が読んだ本で、『これは大事だ』という本がありますね。
   あるいは、一冊の本の中で、『ここは大事だ』という章がある。
   そういうものは、何度も読むことが大切ですね。繰り返して
   読んだり、あるいは何年か間隔をおいて読む。( p132文春文庫 )


『思考のレッスン』が、私に『大事だ』と思うので、何年かして、
間隔をおいて、読むことがあります。今回身近にありましたので、
パラパラとひらいていると『レトリック』という言葉が目につく。

それは『思考のレッスン』のレッスン①にでてきておりました。
吉田秀和さんの話に出てきておりました。その近辺から引用。

「・・そうしたら吉田さんが、とても面白がってね。

 『丸谷さん、それはなぜそういうことになるかわかる?』
 『どういうことですか。わかりません』
 『それは、現代日本文明が、レトリックを捨てた文明だからなんですよ』

これには、教えられたと思いました。
つまり、かつては日本にもレトリックというものがあったのに、
明治維新でそれを捨て去ってしまった。

なにしろ江戸後期はレトリックの飽和状態みたいなものだから、
明治の人は江戸のレトリックを捨てたくて仕方がなかった。

ついでにレトリックそのものを全部捨ててしまった。・・・・  」
              ( p53 文春文庫 )

はい。このあとに『白玉クリームあんみつ』の話になってゆきます。
それはそうと、レトリックがなくなった先の日本はどうなっていたか?
『思考レッスン』を端折って、レッスン⑤「考えるコツ」へと飛ぶと、
そこには、こんな箇所がありました。

「・・詩情、詩的感覚が、ものを考えるときに大切だと僕は思う。
 ・・・・・・・・・

 人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。
 ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに
 極端に言えば、滑稽感さえ付きまとう。

 そういう風情を見落としてしまったとき、
 人間の考え方は型苦しく重苦しくなって、
 運動神経の楽しさを失い、ぎこちなくなるんですね。
  ・・・・                    」
           ( p219 文春文庫 )


ちなみに、レッスン⑥になると、
「歌仙的な論理のつなぎ方を参考にして書いて行くと具合がいいんです。」
として『猿蓑』の発句から四句目までを引用している箇所がありました。




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芭蕉の命名。柳田国男の題名。

2022-04-09 | 柳田国男を読む
岩波文庫の柳田国男。
「遠野物語・山の人生」の最後には、
桑原武夫氏の文が2つ。
「『遠野物語』から」(「文学界」1937年7月号)からの再録と、
それからそのあとに、桑原武夫による文庫解説(1976年3月)。

はい。何だか、本文が絵画だとすると、
桑原武夫の2つが、りっぱな額縁に見えてきます。

さてっと、それなら岩波文庫の『木綿以前の事』は
どなたが、解説を書いているかというと益田勝実氏。
うん。この益田氏の解説を、改めて読めてよかった。
まるで、この本のねらいを柳田国男の晩年までをも視野に置き、
人生の全体を、掬い取ってゆくそんな胸のすくような解説です。

ここでは、題名の『木綿以前の事』にかかわる箇所だけを引用。
うん。これだけでいたれりつくせりの内容。私はもう満腹です。

「・・・考えてみると、いまはもう化繊・混紡の時代で、
 木綿の時代でもなくなっている。一時代かわったのだ。

 木綿の時代からは前代であった麻の時代が、
 いまからは前々代ということになる。


 そのこととかかわってくるが、≪ 木綿以前 ≫といえば
 麻のことのはずなのに、『木綿以前の事』は、
 麻の着物のことを書いたものではない。書いてあるのは、

  はんなりと細工(さいく)に染まる紅(べに)うこん 桃隣

 という、上方特有のことば『はんなりと』をうまく生かした句に
 託された、木綿への心情を堀り起こすところからはじまる、
 麻から木綿への過渡期における木綿を求めるこころのことである。

 ≪ 木綿以前 ≫という、麻でもなく木綿でもない言い方を登用し、
 ≪ 木綿以前の時代 ≫などとせず、『木綿以前の事』というのは、

 歴史を動かすものがなにか、木綿へおもむく人びとの心のなかで
 作り出されていく新しい営みが、しだいに波及することを、
 つかみとりたかったからだろう。

 柳田国男の民俗学では、≪ 木綿以前の事 ≫という用語・命名があり、
 麻の時代でなく、木綿の時代でもなく、その過渡期を相手どる
 ということが、ごくあたりまえに感じられるが、

 今日の民俗学一般の研究のあり方からすれば、
 それは異例、特異の現象である。

 日本民俗学は柳田国男がきりひらいた。
 しかし、今日の日本民俗学の一般状況を基準にしていえば、
  『木綿以前の事』は、
 さまざまな点で民俗学になじまない(法曹界の言い方を借りていうと)、
 そういうことになりそうである。   」( p298~299 )


はい。これを引用すると思い浮かぶのは、
柴田宵曲さんの芭蕉に関する文でした。

「芭蕉は自ら俳諧撰集を企てたことは無かったが、
 俳書といふものに就ては或意見を持ってゐた。

 例へば俳書の名の如きも。
 『和歌、詩文、史録、物語等とちがひ俳言有べし』
 といふので、『虚栗』以下、芭蕉の名づけたものは
 皆さういふ特色を具へてゐる。・・・・」
            ( p57「柴田宵曲文集」第一巻 )


う~ん。益田氏の解説をさらに引用したくなりました。
この単行本(文庫)のことを語ります。

「『木綿以前の事』に関していうと、
 「木綿以前の事」から「生活の俳諧」までの諸章のいたるところで、
 『芭蕉七部集』が縦横に使われて、俳諧だけが教えてくれる近世の
 常民のたたずまい、心づかいの動き方を追っているのも、
〈 あまりに詩人的な 〉ことと受けとった民俗学徒があったかもしれない。
  ・・・・・・・・

 他の伝承資料ではつきとめえない、前代の人びとの心のふるまいが
 わかる、かけがえのない前代への通路という民俗学的な接近が中心で、
 単なる好みからの俳諧との交わりではない。・・・・・・

 そのへんも、民族の暮らしのなかの心づかいを、
 歴史を動かしていくいちばん大きな力、と見ている柳田と、

 眼に見えず、探りようのない心づかいは、
 なんとも相手どりにくいと考えている側との、
 〈 民俗 〉というものに対する了解のちがいが、
 眼につくことがある。・・・   」( p394 )


うん。ということで、柳田国男著『木綿以前の事』をよみながら、
芭蕉の『俳諧』をも、同時に読みすすめないといけなさそうです。
そうでないと、いきなり題名でつまづいてしまうかもしれません。



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自分の思いつきのもとになる。

2022-04-06 | 柳田国男を読む
谷沢永一著「いつ、何を読むか」のなかに

『 俳諧表現の陰影(ニュアンス)を解き明かすのに・・ 』

ということで、指摘された言葉が印象に残ります。

『 句から句への移りに込められた連想の感得力 』(p222)

そこから、私に思い浮かぶのは、
鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社。ちくま学芸文庫)でした。
ここに、

『 一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか・・・
  この文間文法の技巧は、ぜひおぼえてほしい。     』

『 一つの文と文との間は、気にすればいくらでも文章を
  押し込めるものなのです。だから、Aという文章とB
  という文章の間に、いくつも文章を押し込めていくと、
  書けなくなってしまう。とまってしまって、完結できなくなる。
  そこで一挙に飛ばなくてはならない。・・・』(単行本p46)


うん。この鶴見さんの文は以前に読み気になっていました。
でも、『この文間文法の技法は、ぜひ覚えてほしい』と
いわれましても、さてどうすればと思っておりました。

それが、俳諧のなかにヒントがありそうな気がしてきました。
はい。『 句から句への移りに込められた連想の感得力 』。
こちらからなら、俳諧から『文間文法の技法』が学べるかも。

鶴見俊輔氏は『文章心得帖』のはじめのほうに
『 自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を・・・ 』
という指摘をされております。
うん。こちらも肝心なことなので、丁寧に引用しておきます。

『 文章が自分の考え方をつくる。自分の考えを可能にする。
  だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書く
  とすれば、それがいい文章です。

  自分の文章は、自分の思いつきを可能にする。
  それは自分の文章でなくても、人の書いた文章でも、
  それを読んでいると思いつき、はずみがついてくる
  というのはいい文章でしょう。

  自分の思いつきのもとになる、
  それが文章の役割だと思います。     』(p26)


はい。このテーマは興味深くって、
井上ひさし著「自家製文章読本」(新潮文庫)には、
わざわざ、『文間の問題』という章を、こしらえて、
鶴見俊輔氏の『文章心得帖』からの引用をしながら、
柳田国男の『遠野物語』からの引用をまじえながら、
文章にはずみがついてくる『自分の思いつきのもと』
が味わえるようになっております。


はい。このような視点から柳田国男の俳諧評釈を
読んでゆけば、私にも楽しめる気がしてきました。



 
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今年は、俳諧記念日。

2022-04-05 | 柳田国男を読む
及び腰で、象の鼻をさすっていた。いままで
そんな感じで、俳句を読んでいた気がします。

ところで、柳田国男の『生活の俳諧』に、
『七部集は私がことに愛読しているので・・』とある。

ちなみに、『生活と俳諧』は昭和12年12月第一高等学校講演とある。
そうして、『生活と俳諧』が入っている単行本『木綿以前の事』の
自序には、『七部集は三十何年来の私の愛読書であります。』とある。
この自序、昭和14年4月と日付があります。
年譜では、昭和14 (1939 )年は、柳田国男65歳。

『三十何年』というのが、かりに35年とするなら、
柳田国男が、30歳頃からの、愛読書に芭蕉七部集があった。
ということになる。

うん。こういうことに私は興味を持ちます。
『生活の俳諧』のなかに

「もう一つ考えてみるべき点は、
 この俳諧というものの入用な時勢、境涯年齢のあることである。
 諸君も多分年を取るにつれて、この説に同感せられることが
 多くなって来るだろう。」(新編第9巻・p209)

はい。このブログを読む方は詰らないかもしれないけれど、
わたしには、この箇所がおもしろい。
いったい『時勢、境涯年齢』ってなんだい?

辞書をひけば『境涯』は、
「人がこの世に生きていくうえで置かれている・・境遇。身の上。」

う~ん。何だか承認しかねるのだけれども、この一高生への講演で、
『諸君も多分年を取るにつれ・・同感せられることが・・』が
気になるじゃありませんか。

谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)は、
各年齢で読む本が並んでいるのですが、その70歳の箇所に、
安東次男著「定本狂風始末芭蕉連句評釈」がありました。
この本のあとがきで、谷沢さんは痛快に指摘しています。

「私は他人(ひと)から勧められて、言われるままにほいほいと
 本を読みにかかった経験がない。他人に指図されるのを好まない
 我侭(わがまま)者である。

 或る書物と自分との出会いは、
 私の身の上にだけ起こる事件である。
 一冊の本を誰もが同じ気持ちで読むことはできない。・・」(p239)

それますが、その前のページで、谷沢さんは書いてます。

「私は生まれてから77歳の今まで、勉強という姿勢をとったことがない。
 しようと思ってもできないのである。・・・・
 
 もし私にも私なりの読書法があるとすれば、
 それは、劣等生の読書法である。劣等生には
 自分の生き方を世間の人様に向かって説く資格がない。
 ・・・・・

 また、年齢別に整えた各章のはじめに、15歳なら15歳前後の
 若い人たちに、なぜ以下の書物を勧めるのか、その理由を
 簡単に記してはどうか、という(編集者の)御提案もあった。

 けれどもこれまた私は辞退した。
 説明する手立てが見出せないゆえである。」(p238)

この谷沢永一氏が、この本で指摘している箇所に

「俳諧の評釈として読むに足るのは、
 柳田国男『俳諧評釈』(昭和22年、のち全集17)・・」

をはじめに、以下に数冊の題名を列挙しております(p223)。

柳田国男の『俳諧評釈』。その内容細目をみると、
戦後すぐの昭和21年より、芭蕉俳諧鑑賞と題して、
本格的に俳諧評釈とむきあっているようです。

ちなみに、昭和21年は、柳田国男72歳。
さいごに、柳田国男の『俳諧評釈』。そのはしがきから引用。

「俳諧が第二芸術であるかどうかといふことは、
 すこぶる面白い問題のやうに考へられるが、
 是を作者自身に問ひただして見ても、
 芸術といふ語さへ無かった時代の人なのだから、
 答へが得られないことは先づ確かである。

 ただあの人たちはちゃんと心得て居て、
 今の人に忘れられさうになって居ることは、
 
 俳諧は作者に最も楽しいもの、
 読者はせいぜいそれと同じ楽しさを味はふのが先途で、
 それも人が変り世の中が推し移れば、次第にわからぬ
 ことの多くなるものだといふことである。・・・」

 このはしがきには、昭和22年春と日付がありました。

さあ、今年は私の俳諧記念日。
俳句だけだった世界から、あたらしく拓けますように。
俳句が象の鼻の先ならその次へたどる俳諧のたのしみ。

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震災後。終戦後。著作と年代。

2022-04-04 | 柳田国男を読む
はい。『定本柳田国男集』をひらくと、各巻の巻末には、
内容細目として、雑誌などに掲載された年月が記してあります。

定本柳田国男集の第14巻は、『木綿以前の事』からはじまります。
あとがきに、単行本『木綿以前の事』が昭和14年5月創元社刊行とある。
内容細目には、単行本に収まる各文章の題名と掲載年月が記されている。

それを見れば『木綿以前の事』は、大正13年10月に雑誌掲載されている。
同じ本の中の、『生活の俳諧』は、昭和12年12月の、第一高等学校講演。

そうか。『木綿以前の事』は、関東大震災の一年後に雑誌「女性」掲載。
それで、ひとつ気になるのは、終戦直後に出版された単行本は何だった?

『笑の本願』が、昭和21年1月養徳社から発行。
『先祖の話』が、昭和21年4月筑摩書房から。

『不幸なる芸術』は、昭和28年6月筑摩書房から。
昨日とりあげた、『涕泣史談』は、単行本『不幸なる芸術』に
おさめられていたのですが、内容細目を見ると『涕泣史談』は
昭和16年6月の国民学術協会公開講座で発表されておりました。

はい。ついつい、私などは現代の事として読んでしまがちですが、
それが発表された際の、時代背景までは気にかけずにおりました。
こうして気になるのは、ひとえに年を取ったお蔭かもしれません。
いたずらに年齢を重ねる癖して、けれども見えてくるものがある。

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ともかくも五十年を単位として

2022-04-03 | 柳田国男を読む
柳田国男の『涕泣史談』は、泣くことがテーマのお話です。
そのはじまりは

「いささか気まぐれな演題を掲げたが・・・・
 今まで諸君の考えられなかった問題の中から択び出し、
 印象を深めたいのが底意である。
 歴史の学問は、常に『時のある長さ』を出発点とする。
 ・・・」(新編第8巻 p104)

私が気になったのは年齢のことでした。
それに近い箇所を並べてみます。

「古人はこの『時の長さ』の単位を普通には
    百年とし、モモトセの後と語っていた。」(p106)

「・・・ともかくも五十年を単位として、その前と後とを
  比べるということになると、話がずっとしやすくなる。

 何より都合のよいことは、前の事を知っている者、
 直接自身で見聞しているいわゆる故老の数が相当多く、
 いい加減な自説に有利なことを言おうとしても、
 周囲にそんなことはないと批評する者がいくらもいる
 ということである。また怪しい節があれば
 別の人に聴いて確かめることもできる。
 すなわち我々は安心して、故老の知識を
 利用することができるのである。
 
 ところが現在はむしろそういう便宜が多いために、
 かえってこれを粗末にするという状態である。・・・」(~p107)

日本の田舎のオールドマンへの言及や、

「日本の田舎には、そういう人が元は必ず若干はいた。
 概していうとやや無口な、相手の人柄を見究めないと、
 うかとはしゃべるまいとするような人にこれが多かった。

 それが人生の終りに近づくと、
 どうか早く適当な人をつかまえて、
 語り伝えておきたいとアセリ出すのである。
 ・・・・
 どちらかといえば老女の中に、多く見出される
 ようにも言われている。・・・」(p108)

切り返すように、柳田さんは若い人への願望もかたります。

「翻(ひるがえ)ってこれからさきの五十年ないし百年のために、
 もう少し多く良い『故老』を作ること、すなわちそういう心持をもって、
 この眼前の人生を観察しておいてくれるような若い人を、
 今から養成して行くということの必要が認められる点も大切である。

 書物は今日ほど容易に作られる時代はないのであるが、
 さりとて仮に現代人の全力を集めても、果して今日
 我々の楽しみ悦び、または苦しみ悩んでいる生活の実状を、
 さながらに後世に伝えて行く見込みがあるかというと、
 それはまだ然りとは答え得られない。

 未来から今日を回顧して、子孫後裔に誤らざる判断を下させ、
 同情を起させるためには、今からこの現実の生活をよく
 感銘しかつ記憶して、老いて後銘々の愛する人々のために、
 詳しく語り得る者を作っておかなければならぬ。・・・」(p109)


うん。長いのですが、これがはじまりの箇所でした。
ここから、泣くというテーマにはいってゆくのですが、
そこにも、『五十年』という箇所がでてきます。

「・・・旅は一人になって心淋しく、
 始終他人の言動に注意することが多いからであろう。
 
 私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら
 五十年来の変遷を、人に説いてもよい資格ができた。

 大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いているのを
 聴くほど、いやなものは他にはない。

 一つには何で泣いているのかという見当が、付かぬ場合が
 多いからだろうと思うが、旅では夜半などはとても睡ることが
 できないものであった。

 それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
 大人の泣かなくなったのはもちろん、
 子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。」


こうして、泣くことの流行をさぐって、あちらへいったり、
こちらへいったりするのですが、やはり具体的な箇所は印象に残ります。
最後に2つを引用しておくことに。

『私の旧友国木田独歩などは、
 あまりに下劣な人間の偽善を罵る場合などに、 
 よく口癖のように『泣きたくなっちまう』と言った。

 今でも私たちは折々その真似をするが、その癖お互いに
 一度だって、声を放って泣いてみたことはないのである。

 すなわち泣かずにすませようとする趣味に、
 現在はよほど世の中が傾いていると思われるが、
 以前はあるいはこれと正反対の流行もあったらしいのである。』

こうして、柳田さんは、五十年を振り返っております。
そこにでてくるのが

「・・・二十歳の夏、友人と二人で、
 渥美半島の和地(わじ)の大山へ登ろうとして、
 麓の村の民家でワラジをはきかえていたら、
 二三十人の村の者が前に立った。その中から婆さんが一人、
 近くよって来ていろいろの事を尋ねる。どこの者だ、
 飯は食ったかだの、親はあるかだのといっているうちに、

 わしの孫もおまえさんのような息子があった、
 東京へ行って死んでしまったというかと思うと、

 びっくりするような声を揚げて、真正面で泣き出した。
 あの皺だらけの顔だけは、永遠に記憶から消え去らない。

 それからまた中風に罹って急に口が不自由になった親爺が、
 訪ねて来てたちまち大声に泣いたことも忘れられない。

 日頃は鬼みたような気の強い男だったから、
 かなしいというよりは口惜しいという感じであったが、
 それがまたこの上もなくあわれに思われ、
 愚痴を聴くよりもずっと身にこたえたものであった。
 ・・・・・」(~p119)

こうして、まだまだ『泣く』歴史が語られてゆきます。 






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染めた木綿の初袷(はつあわせ)。

2022-04-02 | 柳田国男を読む
柳田国男の『木綿以前の事』には、木綿以後の事を語るのに、
それ以前の事が、語られる必要がありました。

そういう語りのなかで、木綿の登場を語るのに、瀬戸物が出てきます。

「ただし日本では今一つ、同じ変化を助け促した
 瀬戸物というものの力があった。

 白木の碗(わん)はひずみゆがみ、使い初めた日から
 もう汚れていて、水ですすぐのも気安めに過ぎなかった。
  ・・・・・

 その中へ・・・白くして静かなる光ある物が入って来た。
 前には宗教の領分に属していた真実の円相を、
 茶碗というものによって朝夕手の裡(うち)に
 取って見ることができたのである。

 これが平民の文化に貢献せずして止む道理はない。
 昔の貴人公人が佩玉(はいぎょく)の音を楽しんだように、
 かちりと前歯に当る陶器の幽(かす)かな響には、
  鶴や若松を画いた美しい塗盃の歓びも、忘れしむるものがあった。

 それが貧しい煤けた家の奥までも、ほとんど何の代償もなしに、
 容易に配給せられる新たな幸福となったのも時勢であって、

 この点においては木綿のために麻布を見棄てたよりも、
 もっと無条件な利益を我々は得ている。

 しかもこれが何人(なんびと)の恩恵でもなかったがゆえに、
 我々はもうその嬉しさを記憶していない。」( p12 新編の9巻 )

はい。このあと柳田さんは薩摩芋を語ります。
うん。はじまりだけ。

「 木綿の威力の抵抗しがたかったことは、
  ある意味においては薩摩芋の恩沢とよく似ている。・・ 」(p13)


「新編 柳田国男集」第九巻(1979年・筑摩書房)で
 8ページの文です。この短文のはじまりは七部集から
 引用されているのですが、最初の引用は眩しすぎるので
 私は2番目の引用をとりあげてみます。

「  薄曇る日はどんみりと霜をれて   乙州
   鉢いひ習ふ声の出かぬる      珍碩
   そめてうき木綿袷のねずみ色    里東
    ・・・・

 この一聯(いちれん)の前の二句は、
 初心の新発意(しんぼち)が冬の日に町に出て托鉢をするのに、
 まだ馴れないので『はちはち』の声が思い切って出ない。
 何か仔細のありそうな、もとは良家の青年らしく、
 せっかく染めた木綿の初袷(はつあわせ)を、
 色もあろうに鼠色に染めたと、若い身空で仏門に入った
 あじきなさを歎じている・・・・           」(p9~10)

はい。最初の引用は、どのようなものだったのか?
うん。井上ひさしさんの言葉が思い浮かびます。

「柳田国男の遺産を受け継ぐ方法はただひとつしかない。
 彼の文章を読むことである。」
   ( p272・岩波文庫「不幸なる芸術・笑の本願」 )

はい。この遺産を受け継ぐ人のために、
最初の七部集の引用はとっておきます。

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