映画「銀座化粧」は昭和26年(1951年)の成瀬巳喜男監督作品
先日映画「銀座二十四帖」で昭和30年の銀座の風景を堪能した。もう少し前だったらどうなるんだろう、ロケ嫌いという噂のある成瀬巳喜男監督作品だけど、少しくらいは昭和26年の銀座を映し出していると思い「銀座化粧」をみる。ストーリー自体はたいした話ではない。田中絹代演じる銀座の女給と店の後輩香川京子の日常を映し出すだけだ。高速道路になり埋め立てられた川が全面に映し出され「銀座二十四帖」でも感じたが、東京がいかに水の都だったというのが「銀座化粧」でもよくわかる。
雪子(田中絹代)は銀座のバー・ベラミで女給をしている。長唄の師匠の二階を借りて、小学生の息子春雄と暮らしている。戦前、妻と別れると言い張る藤村(三島雅夫)と子供をつくったが、結局藤村は別れず母子家庭となってしまう。その藤村は戦後落ちぶれて、雪子に金を無心に来ていた。友人たちからは金になる旦那をもてとすすめられてもその気にはなれなかった。
雪子は、勤めるバーのママから20万円金策出来なければ店を手放さなければならないと相談をもちかけられた。成金の社長(東野英治郞)にたのんで借りようと相談したが、倉庫で体の関係を迫られ逃げていく始末である。仲間の静江(花井蘭子)が疎開していた先の素封家の息子石川京助(堀雄二)が上京したとき、案内役を雪子にたのんだ。雪子は京助と意気投合して心が動いたが、春雄が朝から行方不明になっているという知らせが入り、芝居見物の案内は、妹分の京子(香川京子)にたのんだ。幸い春雄は帰って来たが、気がつくと京子が京助といい仲になってしまうのであるが。。
1.昭和26年の銀座界隈
母子家庭で水商売に入って子どもを養うなんて構図は70年近く前も今も同じにはある。たいして広くもない店に大勢女給がいてこれじゃ儲からないでしょと感じるが、案の定火の車のようだ。貸せば客は払わないしなんてセリフもある。
店を閉めようとしたらなかなか帰らない客がいる。雪子(田中絹代)がついていたお客は、友人が来るはずだったけど、自分は持っていないと言い張る。次の店に来るはずだといわれ雪子はついて行くが、ちょっとした隙に逃げられる。3000円踏み倒した分は雪子が責任もって処理する必要がある。そんなこんなでこの稼業もなかなかたいへんだ。
今は見かけなくなった流しもバーに来る。3人のトリオの伴奏で歌う客がいる。花売りの少女たちもバー巡りをしているし、まだ8歳という女の子もバイオリン伴奏引き連れバーで流しをしている。美空ひばりのようなものだ。
服部時計店の時計は同じように映るが、森永キャラメルの電飾塔はない。銀座周辺に二階建ての建物が多い。ライオンもその一つだ。東京駅の地下にもあった「東京温泉」が銀座で建築中である。家の近くにはチンドン屋や紙芝居のお兄さんがきており、麻雀が1時間10円だ。小唄の師匠に間借りしているせいもあるが、町に三味線が鳴り響く。田中絹代に元情夫が無心に来て渡すのが200円、踏みたおした勘定が3000円、バーが生き延びるためのお金が20万円。最初10倍かなと思ったけど、違うかな?それぞれ何倍したらいいのだろう。単位の違いに少し戸惑う。
2.田中絹代
田中絹代のキャリアを追うと、昭和23年の「夜の女たち(記事)」という大阪の街娼を映した映画がある。ここでは夫を亡くして中小企業の社長にお世話になる役柄であった。でも、この映画では二号になることは拒否している。戦後まだ6年では、母子家庭になった女は水商売、妾しか生きる道がなかったのかもしれない。そのせつなさがよくわかる。
田中絹代は昭和24年に日米親善使節で渡米した帰国後、アメリカかぶれしたとマスコミに大きくたたかれたことがある。想像もつかないがかなりパッシングをうけたらしい。そのスランプを乗り越えているころである。小津安二郎「宗方姉妹」、溝口健二「お遊さま」「武蔵野夫人」といった作品に出ている頃で、今となってみればそんなに悪い時期でもない気もする。
3.香川京子と成瀬巳喜男監督
小学生の頃、こどものくせして香川京子さんって本当にきれいな人だ思っていた。ちょうどアメリカに行っていらっしゃって、時折TVで見る姿がまぶしかった。日本経済新聞連載の「私の履歴書」を書いたのがもう11年の前のことになる。これはおもしろかった。
黒澤明監督作品では常連だったけど、「赤ひげ(記事)」で新任医師加山雄三が頭が少し狂っている香川京子演じる患者を診るシーンはなかなか狂気に迫る素晴らしいシーンだ。そんな香川京子の若き日を映す貴重な映像だ。美人でバーに来る男連中からちやほやされているが、先輩の田中絹代にしっかりガードされているという役柄だ。清楚な美しさが光る。
その香川京子が「私の履歴書」で成瀬巳喜男監督は9時にはじまり、17時に終わる撮影ローテーションだったと書いている。やりすぎの演技を嫌い脚本でも余計なセリフはカットして絵で見せることにこだわったという。これは貴重なコメントで、さすが巨匠と言うべきだ。
先日映画「銀座二十四帖」で昭和30年の銀座の風景を堪能した。もう少し前だったらどうなるんだろう、ロケ嫌いという噂のある成瀬巳喜男監督作品だけど、少しくらいは昭和26年の銀座を映し出していると思い「銀座化粧」をみる。ストーリー自体はたいした話ではない。田中絹代演じる銀座の女給と店の後輩香川京子の日常を映し出すだけだ。高速道路になり埋め立てられた川が全面に映し出され「銀座二十四帖」でも感じたが、東京がいかに水の都だったというのが「銀座化粧」でもよくわかる。
雪子(田中絹代)は銀座のバー・ベラミで女給をしている。長唄の師匠の二階を借りて、小学生の息子春雄と暮らしている。戦前、妻と別れると言い張る藤村(三島雅夫)と子供をつくったが、結局藤村は別れず母子家庭となってしまう。その藤村は戦後落ちぶれて、雪子に金を無心に来ていた。友人たちからは金になる旦那をもてとすすめられてもその気にはなれなかった。
雪子は、勤めるバーのママから20万円金策出来なければ店を手放さなければならないと相談をもちかけられた。成金の社長(東野英治郞)にたのんで借りようと相談したが、倉庫で体の関係を迫られ逃げていく始末である。仲間の静江(花井蘭子)が疎開していた先の素封家の息子石川京助(堀雄二)が上京したとき、案内役を雪子にたのんだ。雪子は京助と意気投合して心が動いたが、春雄が朝から行方不明になっているという知らせが入り、芝居見物の案内は、妹分の京子(香川京子)にたのんだ。幸い春雄は帰って来たが、気がつくと京子が京助といい仲になってしまうのであるが。。
1.昭和26年の銀座界隈
母子家庭で水商売に入って子どもを養うなんて構図は70年近く前も今も同じにはある。たいして広くもない店に大勢女給がいてこれじゃ儲からないでしょと感じるが、案の定火の車のようだ。貸せば客は払わないしなんてセリフもある。
店を閉めようとしたらなかなか帰らない客がいる。雪子(田中絹代)がついていたお客は、友人が来るはずだったけど、自分は持っていないと言い張る。次の店に来るはずだといわれ雪子はついて行くが、ちょっとした隙に逃げられる。3000円踏み倒した分は雪子が責任もって処理する必要がある。そんなこんなでこの稼業もなかなかたいへんだ。
今は見かけなくなった流しもバーに来る。3人のトリオの伴奏で歌う客がいる。花売りの少女たちもバー巡りをしているし、まだ8歳という女の子もバイオリン伴奏引き連れバーで流しをしている。美空ひばりのようなものだ。
服部時計店の時計は同じように映るが、森永キャラメルの電飾塔はない。銀座周辺に二階建ての建物が多い。ライオンもその一つだ。東京駅の地下にもあった「東京温泉」が銀座で建築中である。家の近くにはチンドン屋や紙芝居のお兄さんがきており、麻雀が1時間10円だ。小唄の師匠に間借りしているせいもあるが、町に三味線が鳴り響く。田中絹代に元情夫が無心に来て渡すのが200円、踏みたおした勘定が3000円、バーが生き延びるためのお金が20万円。最初10倍かなと思ったけど、違うかな?それぞれ何倍したらいいのだろう。単位の違いに少し戸惑う。
2.田中絹代
田中絹代のキャリアを追うと、昭和23年の「夜の女たち(記事)」という大阪の街娼を映した映画がある。ここでは夫を亡くして中小企業の社長にお世話になる役柄であった。でも、この映画では二号になることは拒否している。戦後まだ6年では、母子家庭になった女は水商売、妾しか生きる道がなかったのかもしれない。そのせつなさがよくわかる。
田中絹代は昭和24年に日米親善使節で渡米した帰国後、アメリカかぶれしたとマスコミに大きくたたかれたことがある。想像もつかないがかなりパッシングをうけたらしい。そのスランプを乗り越えているころである。小津安二郎「宗方姉妹」、溝口健二「お遊さま」「武蔵野夫人」といった作品に出ている頃で、今となってみればそんなに悪い時期でもない気もする。
3.香川京子と成瀬巳喜男監督
小学生の頃、こどものくせして香川京子さんって本当にきれいな人だ思っていた。ちょうどアメリカに行っていらっしゃって、時折TVで見る姿がまぶしかった。日本経済新聞連載の「私の履歴書」を書いたのがもう11年の前のことになる。これはおもしろかった。
黒澤明監督作品では常連だったけど、「赤ひげ(記事)」で新任医師加山雄三が頭が少し狂っている香川京子演じる患者を診るシーンはなかなか狂気に迫る素晴らしいシーンだ。そんな香川京子の若き日を映す貴重な映像だ。美人でバーに来る男連中からちやほやされているが、先輩の田中絹代にしっかりガードされているという役柄だ。清楚な美しさが光る。
その香川京子が「私の履歴書」で成瀬巳喜男監督は9時にはじまり、17時に終わる撮影ローテーションだったと書いている。やりすぎの演技を嫌い脚本でも余計なセリフはカットして絵で見せることにこだわったという。これは貴重なコメントで、さすが巨匠と言うべきだ。