平成24年3月31日
仙台空港、名取市閖上を視察後、高速を使わずに海沿いの道を北上して塩釜、松島を経て石巻に入る。石巻市立病院に行くはずだったが、道を誤って石巻湾に架かる大橋を渡って対岸に行ってしまった。そこには、先日テレビで見たばかりの大きな缶詰めタンクが道の中央分離帯に横たわっていた。
道路の中央分離帯に横たわっている缶詰めのタンク。撤去か、大津波の記憶を風化させないために保存か、議論されていることがテレビで取り上げられていた。
大橋を戻らずに川の脇ある住宅街を通って上流の橋を渡ることにしたが、その途中で見る住宅街の景色は悲惨だった。壊れてもう使い物になりそうもない家がたくさん、その向こうはがれき置き場になっていて、山のように積まれたがれき、さらに水はけが悪く、潮の腐った悪臭が漂っていた。1年以上経ってもまだこういうところがたくさんあるのだろう。
今にも倒れそうな家。その向こうはがれき置き場。
水(潮)のたまった空き地と壊れた家々
こちらの水たまりは相当酷い悪臭が漂っていた。
石巻市立病院。相変わらず周辺は水に浸かっている。
潮の満ち干で水位が変わるようだ。前回は道も水に浸かっていた。
石巻市立病院玄関。以前は近くまで行けたが、現在は1階部分にベニヤ板が張られ、立ち入り禁止になっている。
火災にあった学校周辺はだいぶきれいに片付けられたが、建物はまだそのまま。
再び海沿いの道を北上して女川に向かう。女川は海が急峻に深くなっており、高い津波に襲われ、かつ強烈な引き波に引かれて甚大な被害を受けた場所だ。牡鹿半島を短絡すると早く到着できるのだが、半島の様子を見てみたかったので大回りして女川に向かった。牡鹿半島の道路は高い位置に通っており、見下ろす海際の集落はほぼ壊滅しているように見えた。1時間ほど牡鹿半島を走り、女川に到着したころ、雨足が強くなってきた。
一見何事も無かったかのように静かな女川の海。海鳥が泳ぐ。
漁船が停泊し、漁業が再開されているようだが、港の岸壁は壊れてヒビだらけ。
まだ壊れた車やがれきが散乱しているところがある。
港沿いの壊れた建物は現在撤去作業がすすめられている。
津波で倒れてしまった鉄筋の建物。3棟が倒れて横たわっている。
この建物を保存するか、撤去するか、現在議論されているらしい。
港の道路脇に「おかせい」という魚屋さん、兼食堂があった。夕食にはまだ早かったが、コンビニのパンやおにぎりばかりだったのでちょっと立ち寄ってみることにした。地元でとれたドンコや黒鯛、毛ガニなどが並んでおり、漁業は再開されていると言っていた。にぎりを注文したが、どれもおいしい魚ばかりで、しかも格安だった。食事を終えたころにお店のおばさんに津波の話を聞くと、やはり相当大変だったようだ。家も店もすべて津波で流されてしまった、しかし、請求書だけは来た。それどころではないと思ったがなんとか支払った。雇っている男性は息子さんとおばあさんが流されてまだ見つかっていない、女川町内だけでまだ320人が行方不明だ。あの倒れているビルを見ると思い出してしまうから早く撤去してほしい。高台に家を移す計画があるが、整地して家が建つまでまだ2~3年はかかる、仮設住宅の生活は厳しい・・・などなど、淡々と話す姿を見て、思わず涙がこぼれてしまった。信玄餅をおみやげにあげた代わりに、毛ガニをごちそうになってしまい、また来ることを約束した。
もう時間は5時を過ぎてしまい、南三陸町志津川はあきらめて仙台のホテルに戻ることにした。帰りは海沿いではなく、高速道路に沿った国道を走ったが、途中で気が変わり東松島町の仙石線を見て行くことにした。もう日が暮れて暗くなってしまっていたが、5月に視察した野蒜駅周辺は片付いてはいるものの、鉄道の復旧はほぼ困難であろうと感じた。この地区は津波後の復旧活動が大幅に遅れ、孤立していた地域だと聞いている。残った家の電気がちらほらと点いており、修理して住んでいる人もいるようだ。
仙石線野蒜(のびる)駅。横倒しになっていた電車は撤去されているが、まだ倒れた電柱などが散乱している。
昨年5月に見たこのあたりの景色はまさに惨劇だった。粉々になった家とがれき、倒れた電車、壊れた線路。死者も多数いたのだろう、花束が手向けられていたのが印象的だった。
(4月1日に続く)
仙台空港、名取市閖上を視察後、高速を使わずに海沿いの道を北上して塩釜、松島を経て石巻に入る。石巻市立病院に行くはずだったが、道を誤って石巻湾に架かる大橋を渡って対岸に行ってしまった。そこには、先日テレビで見たばかりの大きな缶詰めタンクが道の中央分離帯に横たわっていた。
道路の中央分離帯に横たわっている缶詰めのタンク。撤去か、大津波の記憶を風化させないために保存か、議論されていることがテレビで取り上げられていた。
大橋を戻らずに川の脇ある住宅街を通って上流の橋を渡ることにしたが、その途中で見る住宅街の景色は悲惨だった。壊れてもう使い物になりそうもない家がたくさん、その向こうはがれき置き場になっていて、山のように積まれたがれき、さらに水はけが悪く、潮の腐った悪臭が漂っていた。1年以上経ってもまだこういうところがたくさんあるのだろう。
今にも倒れそうな家。その向こうはがれき置き場。
水(潮)のたまった空き地と壊れた家々
こちらの水たまりは相当酷い悪臭が漂っていた。
石巻市立病院。相変わらず周辺は水に浸かっている。
潮の満ち干で水位が変わるようだ。前回は道も水に浸かっていた。
石巻市立病院玄関。以前は近くまで行けたが、現在は1階部分にベニヤ板が張られ、立ち入り禁止になっている。
火災にあった学校周辺はだいぶきれいに片付けられたが、建物はまだそのまま。
再び海沿いの道を北上して女川に向かう。女川は海が急峻に深くなっており、高い津波に襲われ、かつ強烈な引き波に引かれて甚大な被害を受けた場所だ。牡鹿半島を短絡すると早く到着できるのだが、半島の様子を見てみたかったので大回りして女川に向かった。牡鹿半島の道路は高い位置に通っており、見下ろす海際の集落はほぼ壊滅しているように見えた。1時間ほど牡鹿半島を走り、女川に到着したころ、雨足が強くなってきた。
一見何事も無かったかのように静かな女川の海。海鳥が泳ぐ。
漁船が停泊し、漁業が再開されているようだが、港の岸壁は壊れてヒビだらけ。
まだ壊れた車やがれきが散乱しているところがある。
港沿いの壊れた建物は現在撤去作業がすすめられている。
津波で倒れてしまった鉄筋の建物。3棟が倒れて横たわっている。
この建物を保存するか、撤去するか、現在議論されているらしい。
港の道路脇に「おかせい」という魚屋さん、兼食堂があった。夕食にはまだ早かったが、コンビニのパンやおにぎりばかりだったのでちょっと立ち寄ってみることにした。地元でとれたドンコや黒鯛、毛ガニなどが並んでおり、漁業は再開されていると言っていた。にぎりを注文したが、どれもおいしい魚ばかりで、しかも格安だった。食事を終えたころにお店のおばさんに津波の話を聞くと、やはり相当大変だったようだ。家も店もすべて津波で流されてしまった、しかし、請求書だけは来た。それどころではないと思ったがなんとか支払った。雇っている男性は息子さんとおばあさんが流されてまだ見つかっていない、女川町内だけでまだ320人が行方不明だ。あの倒れているビルを見ると思い出してしまうから早く撤去してほしい。高台に家を移す計画があるが、整地して家が建つまでまだ2~3年はかかる、仮設住宅の生活は厳しい・・・などなど、淡々と話す姿を見て、思わず涙がこぼれてしまった。信玄餅をおみやげにあげた代わりに、毛ガニをごちそうになってしまい、また来ることを約束した。
もう時間は5時を過ぎてしまい、南三陸町志津川はあきらめて仙台のホテルに戻ることにした。帰りは海沿いではなく、高速道路に沿った国道を走ったが、途中で気が変わり東松島町の仙石線を見て行くことにした。もう日が暮れて暗くなってしまっていたが、5月に視察した野蒜駅周辺は片付いてはいるものの、鉄道の復旧はほぼ困難であろうと感じた。この地区は津波後の復旧活動が大幅に遅れ、孤立していた地域だと聞いている。残った家の電気がちらほらと点いており、修理して住んでいる人もいるようだ。
仙石線野蒜(のびる)駅。横倒しになっていた電車は撤去されているが、まだ倒れた電柱などが散乱している。
昨年5月に見たこのあたりの景色はまさに惨劇だった。粉々になった家とがれき、倒れた電車、壊れた線路。死者も多数いたのだろう、花束が手向けられていたのが印象的だった。
(4月1日に続く)