1990年までの日本では終生同じ会社へ忠誠をつくし、停年まで働き通すことが美徳とされて来た。ところがバブル経済の崩壊の後はその美徳へ疑問を持つ人々が多くなって来た。特に最近は就職した新卒者の3分の一が5年以内に転職するという。
一生の間、2、3回転職するのが普通ともいう。ところが、アメリカでは昔から転職は当たり前であった。アメリカの転職はプロとしての手腕をドンドン身につけて、階段を登って行く趣がある。しかし、日本の若者の一部には根気が無くて仕事場を変えて行くようにみえる。いささか寒心に耐えないが、まずアメリカの様子を見てみよう。
○アメリカでは幹部社員を広告で集める
オハイオ・ホンダ工場の周りには日本の部品納入企業が多い。1990年のころ、よく遊びに行った会社は社長だけが単身赴任の日本人である。その社長がしみじみと言う。「幹部社員も工員も広告で全て簡単にそろう。経理課長は着任日から帳簿を完璧に記入し報告してくれる。人材採用広告を出すときに職種と担当する仕事をはっきり書けば全てが順調に進む。日本では想像も出来ない」。
「それならば社長もアメリカ人にして、貴方は家族のいる日本へ帰れば?」「そうするつもりです。しかし、日本にある本社の経営陣がアメリカ人を信用しないので延期しています」「社員の首を切ったことがありすか?」「何度かあります。首を切ってもアメリカ人は未練なく素直に辞めて行きますね」
アメリカの資本主義は転職の自由によって支えられている。そうである以上、雇用契約には会社の事情で1ケ月の予告で首を切る自由もある。転職の自由は個人の尊厳を守るための重要な条件である。首を切られたくらいで大騒ぎすることは、個人の尊厳を大いに傷つけることになる。
欧米には個人の尊厳はキリストから与えられているという暗黙の合意がある。この暗黙の合意が無いうえ、個人の尊厳という考えが弱いわが国には深い意味での転職の自由が発達しにくいと言えば言い過ぎであろうか?
○米国の悪い上司とは
いろいろな性格の人間で構成される会社では、原則論では済まない場合もある。これは洋の東西を問わない。特に悪い上司が部下の首を切る時は騒動になる。悪い上司とは部下の個人的尊厳を尊重しない上司を意味する。人間が権力を持つと性格まで変わる。上司としての権限を振り回し、部下の尊厳を傷つけるアメリカ人も多い。
日本にあるアメリカの会社で働いていた時、そんな上司を見たことがある。この上司は相当有能なアメリカ人を雇った。雇う際に約束した数々の優遇条件を雇用後に反故にした。この新任のアメリカ人は、「アメリカ人は約束を守ると外国で自慢してきた。こんなアメリカ人もいるのか」と嘆き、自分が落ち込んでしまっていた。
この様子を見て、若いころの怒り癖が出てしまいアメリカ人上司と一戦を交えてしまった。勿論、自分も辞表を出す決心で。云いたいことを云ったあとで新任のアメリカ人と小生は晴れ晴れした気分で辞めた。彼はその後パリで働いているという。一別以来会っていない。もう会うことも無いだろう。漱石の「坊ちゃん」と山嵐が赤シャツへ生卵をぶつけてた気分である。
○二社に属する米人
ある時、アメリカ人をニッサン、トヨタ、ホンダなどの工場見学へ案内した。道々話をしたところ、彼は二つの会社に所属していて、半分半分の勤務時間という契約で働いているという。担当している技術的な仕事が二社で全く異なるので、両方の会社も賛成してくれているそうである。日本では社会保険料の半分を会社で支払うので無理と言うと、彼は「そうではないです。日本では会社が個人の尊厳を認めないからです」と断言する。いろいろな日本人と議論した結論であると主張する。
さて、本当に個人の尊厳だけの問題であろうか?日本にはもっと奥深い仏教の教えも関係しているのではないか?彼に説明を試みたが、あまり成功はしなかった。
それにしても最近の日本における転職の流行は色々な原因が有るのだろう。
引退した老人にはどうにも出来ないが、いささか心配な社会現象である。
最後に目を休めるために、ゴッホの絵を一枚掲載します。引退後、独りで趣味を楽しむ老人の絵でしょうが、なにか淋しげな絵ですね。淋しげといえばゴッホの絵はみな深い寂寥感が漂っていませんか?絵の出典はシカゴ美術館のカタログから転写しました。そのURLは小生の5月9日の「ゴッホの絵をもう少し・・・」の記事へのコメントで高山さんが教えて下さっています。(続く)
Vincent Van Gogh,"Fishing in Spring" (1987)