河口湖と山中湖には以前からクルーザーヨットが、それぞれ2隻ほど係留されている。調査したわけでは無いが、これらの湖へ中古クルーザーが係留出来れば、それも良いと思う。ご参考にその写真を5枚追加した。撮影日時:5月16日午後1時前後。(終わり)
フォトアルバム「山林の中の小屋」へ5月21日撮影の小屋の周辺の写真、6枚を追加しました。
昨年11月のブログ開始以来のこのアルバムを見ると、枯れ葉の一面に散り敷く庭、寒そうな蒼穹の高い梢、雪に覆われた小屋、雪の小川、芽生えの季節、新緑、そして深い緑の影と季節の移ろいの早さに驚いています。(終わり)
二宮尊徳が薪を背負いながら本を読んでいる姿の像が全国の小学校に建てられた。軍国主義華やかな昭和の時代に。それに、歩きながら本を読んで勉強している。無理しすぎているようで嘘っぽい。そんな姿を創作して全国の小学校へ国費で配る文部省の時流に乗った意図に抵抗を感じる。少なくとも戦後、そう思った日本人は少なくなかったと思う。
しかし二宮金次郎の生涯を少しでも調べると、その人間としての偉さに圧倒される。金次郎は百姓の出身だ。だが武士階級は彼の卓越した農村行政能力を高く評価した。疲弊した農村へ派遣され、豊かな村へと変貌させた。農民の人望を集めたお陰で短い年月で豊かにしたという。
武力を持たぬ1個の農政家が、改革するには人間的魅力以外武器は持たない。
死後、神社に祭られた。出身地の小田原だけではない。豊かにした土地にも神社に祭られた。
========出典はWikipedia==================
二宮尊徳をまつる『二宮神社』が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(今市報徳二宮神社)、農村改革の地・栃木県芳賀郡二宮町(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県芳賀郡二宮町にも二宮尊徳資料館がある。
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上の写真6枚は小田原城の二の丸にある、報徳二宮神社、撮影日時:5月17日午前11時頃
日本の学校で日本の歴史を教える場合、奈良、京都、江戸の中央政権の表面的な全国統治のことを強調して、詳しく教えている。
決して地方、地方の小さな武力政権がどのように領民を統治したかとう視点からは教えていない。
後北条氏5代の墓のある湯本、早雲禅寺の墓地を散策しながら、そんな感慨に捉われた。
例えば1495年に北条早雲が、大森氏の小田原城を陥落させ入城した当時は、関東地方に
小さな武力政権が数多く散在していた。以下の一文はその状況を詳しく示している。
しかし、関東地方を制圧した後北条氏も、1590年の豊臣軍勢による小田原城攻撃により
滅んだ。この間の95年の関東地方の歴史は学校教育では教えない。このような地方の武力政権は諸藩の領民統治として明治維新まで続いた。
早雲寺の緑深い大木の下で、箱根や小田原地方の歴史を想像しながら、写真を撮り続けた。その一部を上に紹介する。
============Wikipediaより引用==============
北条早雲の後、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に五代続き、関東管領の上杉氏や関東公方足利氏を追って関東地方に勢力を振るった。古河城を治めた後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下であった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘に於いては敗退が目立つが、着実に支配を広めた。織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結ぶなど、最大版図は240万石に達したとされる[1]。
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撮影日時:5月17日、午前9時頃。