後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田一族興亡の地をめぐる旅(3)信玄の書かせた83通の起請文の現存する生島足島神社

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

こういう事実は学校教育では教えません。私は信玄が地方の小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。数年前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見ました。起請文の文章が稚拙です。[信玄の悪口を言いません。][命令通り戦に参加します。]などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。

書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地領主達です。国人とか国衆と呼ばれる支配階級で平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した武将です。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。

こうして集めた国衆領主とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。

下に関連の写真と参考資料を示します。

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生島足島神社:http://www.ikushimatarushima.jp/

今から400年以前の古文書が、風化されることなく当神社に保存されてきたことは、不思議でなりません。川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また、真田昌幸、信幸父子の「朱印状」など数多くの文書が残っています。

天文22(1553)、東信濃を攻略した武田信玄はまず当神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2(1559)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。

信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10(1566年~1567)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。

武田信豊起請文 :
武田信玄が支配下の諸将を当神社に集め、改めて忠誠を誓わせた起請文を差し出させた背景には、長子義信との不和が生じたことにより統制の強化を計る必要があったためと思われます。文書は熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん、からすの図柄)の護符に書かれ、文書はいずれも忠誠を誓っている前書きと誓いを破った場合には神仏の罰を被るべき神文とからなっており、各署名下に花押と血判を押したものが多くみられます。起請文差し出しの武将は東・中・南信濃、甲斐上野(現在の群馬県)237名にもおよんでいます。

国人、国衆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA

国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園公領の管理者となった荘官郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府守護荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。

「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。


中国は共産党独裁国家という事を忘れると外交上の大失敗をする

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の尖閣列島問題は日本の外交上での大敗北です。何故失敗したのでしょうか?

日本の政治家が中国も日本と同じような三権分立した民主国家と思い違いをしたために失敗をしたのです。中国海軍の制海権拡大の最中に、いきなり漁船を拿捕して中国のメンツを失墜させてのです。その上、日本の海上保安庁の巡視船の性能が良く、拿捕技術に優れていることに中国は危機感を感じました。そして中国は日本へ実害の起きるような報復をしたのです。日本はそれに屈服したので、私は、「外交上の大敗北」と言います。

中国の共産党は1919年に、日本がつきつけた対華21ケ条の要求のお陰で起きた五四運動の延長として生まれた政党です。中国共産党の正史では五四運動を重要な歴史的成果として明記し、学校で教えています。私を北京へ招待してくれた周栄章教授が何かというと「五四運動」の話をしていました。彼は勿論、共産党員で天津市の解放戦争に参加しました。中国には選挙がありません。共産党の中で目立つ仕事ぶりを示して、人脈の使い方の上手な人だけが偉くなります。胡錦濤国家主席と温家宝首相も例外ではありません。

そして共産党は時々、国民の心の中に巣くっている反日感情を大げさに煽りたてて自分達の権力拡大と維持に利用するのです。毛沢東も江沢民も、そして胡錦濤国家主席と温家宝首相も、自分の権力維持の為に反日政策をとりました。反日感情をあまりあからさまに利用しなかったのは周恩来と鄧小平だけと記憶しています。

日清戦争以来の日本の侵略と残虐行為については、大げさに学校で繰り返し、繰り返し教えます。日本人が南京虐殺30万人はウソだと幾ら言っても馬耳東風です。この結果として、中国人が反日感情を持つのは当然です。これは日本の背負った負の遺産なのです。中国と交渉をする場合は、いつもこの負の遺産を勘定に入れて交渉を進めなければ大失敗をします。

日清戦争に勝った日本が台湾とそれに付属する尖閣列島を手にいれたと中国側は思いこんでいます。ですから第二次大戦で負けた日本が、1945年に台湾返却と共に自働的に中国側へ返したと思い込んでいます。それなのにいきなり漁船を拿捕したのです。日本の巡視艇の拿捕の理由は公務執行妨害です。中国が日本と同様に三権分立の民主国家ならそれだけの問題で済みます。ところが共産党独裁の中国にとっては、拿捕が1919年の屈辱的な対華21ケ条の要求へ直結するのです。それを巧みに利用して自分の権力の強化に使ったのが胡錦濤国家主席と温家宝首相なのです。日本人が4人も捕まり、通関手続きが遅れ高額な経済的損失を被ったのは日本側です。観光客も激減しました。

日本政府は日本の背負っている負の遺産を相手に利用させないような外交戦略を取らねばならないのです。

私個人は、かつて中国人と交渉をしてこちらの希望通りにして貰った事が多かったのです。こちらの希望を言いだす前に日清戦争や、対華21ケ条の要求や南京虐殺の話をします。別に謝る必要はありません。こちらが知っていますよという事を示せば十分なのです。それからおもむろに交渉を始めると大体うまく行きました。

負の遺産は日中関係にだけあるのではありません。世界中の国々の間に存在しています。アメリカは原爆を落としたことで日本に負の遺産を持っています。その負の遺産が暴れ出さないようにアメリカは注意しています。国際関係というものは綺麗ごとではないと思います。あなたのご意見は如何でしょうか? (終り)


庭木の枝下ろしを格安でしてくれるBenryという会社をご紹介いたします

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

高く繁った庭木の枝下ろしは東京の相場では1本2万円前後と言います。いろいろ検索してBenryという会社を見つけました。電話をしたらベンリー国立府中インター店の店長の武藤謙太さんがすぐ来て、見積書を書いてくれました。6m位の高く繁った庭木3本の枝を下ろして、切った枝を持ちかえって合計25200円という見積もりでした。これは格安です。その上、説明が明快で、2日後の今日、作業に来てくれました。下に武藤さんの写真と枝下ろし前のドッグウッドの木と枝を下ろしたあとの写真を示します。

電話番号は、0120-925-382 携帯:090-4705-5794です。

この会社は株式会社いいとも と言い全国展開をしていますので皆様にもお役に立つと思いご紹介いたします。

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愚かな私はミレーの「落ち穂拾い」の意味を間違えて理解していました!

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

ミレーの落ち穂拾いの絵を見たのは随分昔のことです。ああ、貧しい農民が落ちた穂を拾って食べて、命をつないでいるのだなあ!それにしても一粒も無駄にしない精神は立派なものだ!とも感心していました。

ところが最近それは旧約聖書に書いてあることに気がつきました。麦畑を持っていて、比較的裕福な農民は収穫のとき落ちた穂は土地を持っていない貧しい人や寡婦のために提供すべきと書いてあるのです。

貧しい人や寡婦は落ち穂を拾う権利があったのです。

「落ち穂拾い」の絵は3人の貧しい女の背景をよく見ると、麦穂のついた藁を馬車にうず高く積み上げている人が描いてあります。ですから、この絵には裕福な農民と貧しい3人の女が描かれていたのです。私はその事を知りませんでした。

その上、聖書に書いてあるからといってもミレーの育った土地の痩せた北フランス地方では落ち穂を他人へ上げる余裕がありません。ミレーがパリ近郊のバルビゾン村に移り住んでから始めて見たのです。彼は感動のあまり同じような構図の落ち穂拾いの絵を沢山描いています。ミレーのキリスト教への信仰が描き込んであるのです。勿論、そんな事を知らなくても純粋に絵画としての素晴らしさを楽しむことが出来ます。宗教的興奮を露骨に絵画にしては興ざめです。ミレーの絵ではそのギリギリのところで止めています。日本人に好きな人が多いのはそのせいかも知れません。

下らない独り言を書いて失礼しました。(終り)


ミレー美術館のような山梨県立美術館・・・ますます絵画数を増やしています

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

県立美術館は幾つも見ましたが山梨県のものが一番内容が充実し、敷地や建物が広大で藝術的に設計、配置されています。その上絵画の購入方針がジャン フランソワ・ミレーにこだわり、根気よく収集を続けています。1977年に有名な「種を播く人」の絵を落札して以来、収集の努力を続け、現在は18点を数えるようになりました。

種播く男の絵や落ち穂拾いも傑作ですが、私は、「ポーリーヌ・V・オノの肖像」が大好きです。絵画として圧倒的な印象を受けます。その絵は、若くして貧困の中に死んでしまった最初の妻を描いたものです。ポーリーヌへのミレーの深い愛情が絵筆に乗り移ったような勢いで描いています。しかし最後は、ゆっくり丁寧に仕上げています。

バルビゾン派の説明は省略します。ミレーの絵画をお楽しみ下さい。撮影禁止なのでWikipedeaの「ジャン フランソワ・ミレー」の項目から下の写真をお借りしました。

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種播く男の絵は2枚あり、同じ大きさ、同じ構図だそうです。もう一枚はボストン美術館にあります。落ち穂拾いは数枚ありますが、上の写真はオルセー美術館のものです。山梨のは構図が少し違いますが完成度の良い傑作です。

この美術館のあるところは芸術の森といい、収集・展示方法の優れた文学館もあり、庭園には数々の彫刻もあり、茶室や日本庭園も見事です。天気の良い日は周りの山々の遠景が一層素晴らしい雰囲気を作っています。

下に9月28日に訪問したときの写真を掲載します。

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少しくどいようですが、更にこの美術館が常設展示している絵画の一覧表をご参考までにつけます。この記事をお読み頂きましたことを感謝申し上げます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                         藤山杜人

===山梨県立美術館の常設展示絵画目録=========

(出典は、http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=com_content&task=view&id=336&Itemid=155 です。)

ミレー

ジャン=フランソワ・ミレーポーリーヌ・V・オノの肖像1841-42油彩・麻布73.0×63.0

ジャン=フランソワ・ミレー眠れるお針子 ★ 1844-45 油彩・麻布45.7×38.1

ジャン=フランソワ・ミレーダフニスとクロエ1845油彩・麻布82.5×65.0

ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い、夏1853 油彩・麻布38.3×29.3

ジャン=フランソワ・ミレー冬(凍えたキューピッド) 1864-65 油彩・麻布205.0×112.0

ジャン=フランソワ・ミレー鶏に餌をやる女1853-56油彩・板73.0×53.5

ジャン=フランソワ・ミレー夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い1857-60 油彩・板53.5×71.0

ジャン=フランソワ・ミレー種をまく人1850 油彩・麻布99.7×80.0

ジャン=フランソワ・ミレー無原罪の聖母1858 油彩・麻布77.7×44.8 ㈱相川プレス工業寄贈

ジャン=フランソワ・ミレーヴォージュ山中の牧場風景1868 パステル・紙70.0×95.0

ジャン=フランソワ・ミレー習作3(オーヴェルニュの風景Ⅲ) c.1866-67 鉛筆、黒インク・紙11.7×17.2

ジャン=フランソワ・ミレー習作4(オーヴェルニュの風景Ⅳ) c.1866-67 鉛筆、黒インク、パステル・紙12.1×17.0

ナダールミレーの肖像1868 銀塩写真29.0×22.0

エミール・ロワゾーアトリエでのJ.F.ミレー1855黒鉛筆・紙15.8×21.5 飯田祐三氏寄贈

ジャン=フランソワ・ミレー「二人の農婦」の習作c.1853 インク・紙19.6×15.0 田村幸子氏寄贈

ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い(第1版) 1855-56 エッチング19.0×25.2 飯田祐三氏寄贈

ジャン=フランソワ・ミレー

(ジャン=バティスト・ミレー版刻)

ランプの下で縫物をする女たち(夜なべ) 1855-56 エッチング15.1×11.0 飯田祐三氏寄贈

風景画の系譜 (クロード・ロラン~バルビゾン派)

クロード・ロラン木を伐り出す人々(川のある風景) 1637油彩・麻布79.4×115.6

ヤーコプ・ファン・ライスダールベントハイム城の見える風景1655油彩・麻布63.5×68.0

ジョルジュ・ミシェル風車のある風景1820-40油彩・麻布60.4×86.5

ジュール・デュプレ森の中-夏の朝1840油彩・麻布95.5×76.0

ジュール・デュプレ海景 ★ 1870油彩・麻布51.0×63.5

ディアズ・ド・ラ・ペーニャフォンテーヌブローの樫の木(怒れる者) 1862 油彩・麻布71.4×93.5

シャルル=エミール・ジャック森の中の羊の群れ1860油彩・板49.0×118.0

コンスタン・トロワイヨン近づく嵐1859 油彩・麻布133.0×145.0

コンスタン・トロワイヨン市日1859 油彩・麻布115.4×175.5

テオドール・ルソーフォンテーヌブローの森のはずれ1866 油彩・麻布76.0×95.0 三枝守雄・佐枝子氏寄贈

テオドール・ルソー樫のある風景不詳油彩・麻布75.0×95.0

ジャン=バティスト=カミーユ・コロー大農園1860-65油彩・麻布55.2×80.8

ギュスターヴ・クールベ嵐の海1865 油彩・麻布54.0×73.0

ギュスターヴ・クールベ川辺の鹿1864油彩・麻布73.0×92.0

シャルル=フランソワ・ドービニーオワーズ河の夏の朝1869 油彩・麻布68.6×100.3

アンリ=ジョセフ・アルピニー陽のあたる道 ★ 1875 油彩・麻布49.3×76.2

ヨハン・バルトールト・ヨンキントドルトレヒトの月明かり1872油彩・麻布59.5×102.0

ジュリアン・デュプレ牧草の取り入れ1890-95油彩・麻布65.1×81.0

ジュール・ブルトン朝 ★ 1888 油彩・麻布