後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたの子供さんやお孫さんに不登校や引きこもりは居ませんか?

2010年10月02日 | インポート

私が昔働いていた民間の教育組織に通信制の高校をサポートしている代々木高校があります。4年間働いて、10年前に辞めましたが、その校長の一色真司さんとは今で友人としてお付き合いをしています。情熱家です。弱い者の味方です。思慮深く、誰にでも優しいのです。海外に学校を作る計画があり、一色さんと2人で中国やベトナムへ何度も旅をしました。一緒に旅をして気持ちの良い人です。紳士なのです。ですから1993年に始めた代々木高等学院が17年たって、ますます発展し、全国はもちろん海外までに教室を展開するようになりました。

この民間の教育組織の一番の特徴は、不登校や引きこもりの生徒へ暖かい手を伸べていることです。不登校生は一人一人素晴らしい個人です。ただ何故か学校に行かないだけです。個人的に話し合ってみると例外無く優しい性格です。他人の痛みの分かる人なのです。そのような生徒に一番適切な環境を作ってあげて、高校を卒業するように支援しています。文部科学省の定めた通信制の高等学校を卒業出来るようなシステムを作り上げtいます。その教室が全国に用意してあります。海外にもあります。もし貴方の子供さんや、お孫さんに不登校や引きこもりの人が居ましたら、是非ご相談なさってみて下さい。可能なら一色真司さんと直接会って、ご相談なさって下さい。時間さえあれば、気楽に会ってくるます。素晴らしい人です。目の前が明るくなると思います。

以下に代々木高校のHP:http://www.yoyogi.ed.jp/info/policy.html から参考資料を抜粋して添付して置きます。電話:050-3535-2797 FAX:03-5919-0528

=====代々木高校 校長 一色 真司[いっしき しんじ]の紹介=======

Greeting_img021 1960年愛媛県生まれ。
大学在学中より起業家を志し、25歳のときに家庭教師派遣の事業で起業を果たす。
1993
年に始めたオルタナティブスクール「代々木高等学院」の運営を通して、さまざまな苦悩を抱える家族と出会い、社会起業(ソーシャル・ベンチャー)に目覚める。
1994
年には、不登校生や保護者のための相談、紹介のための特定非営利活動法人『21世紀教育研究所』を立ち上げる。
以降、国内から海外までのさまざまな運営や制度の事例や、多様な生き方の紹介・提言活動、ボランティアリーダーの育成、制度改革の推進などを通し、「互いを認め会える社会づくり」をテーマに現在社会を巻き込んだ環境づくりを進めている。

環境が人を育む:

代々木高校は、既存の全日制高校では「居場所を見いだせない」「価値を見いだせない」「物足りない」という生徒のために、その生徒に一番求められる「環境」を多様な人材や団体と一緒に構築しています。
その「環境」では、「全てを一度受容してくれる学校」であったり、「プロを育てる学校」であったり、ときには、「現場で実践する職場」であったりします。
また、企業と連携して学費を企業が肩代わりしてくれる制度を構築しながら、本番である社会へ出たときに「自分の意志と足で歩けるように」なってもらえるような「環境」を考えています。

不登校、引きこもりのみなさんへ

現在、不登校、引きこもりの人で、 

  • やっぱり高校生活を送りたい

  • 高校卒業資格を意識している

けれど、自信がないという人も多いと思います。

  • 友達とうまくやっていけるだろうか?

  • 学校へ通えるだろうか?

こうした不安を、一つずつ取り除いていきませんか!

代々木高校では、ステップアップ・システム(ステップアップ・システムをご参照下さい)があり、みなさんの状態により大幅に仕組みを変化させることが可能です。従って、その都度転校しなければならないようなことはありません。あなたを理解しているお節介なスタッフが卒業までお手伝いしてくれますから安心ですよ。 

また、みなさんが通信制高校で一番心配している「スクーリング」もメディア学習(学習システムYES参照)と呼ばれる視聴覚授業を受ければ、最大で80%免除することも出来ます。また、教員免許を持った先生が訪問することも出来ますので、プレッシャーを感じずに単位取得をすることが出来ます。 

その他にも、学校だけでなく家庭環境ごと一切を変えて、全く新しい、また違ったカルチャーの中で生活をすることを通し、新しい可能性を見いだすため、「国内留学」「海外留学」というコースも用意しています。 

私たちは、高校卒業資格を取得して貰うために、もちろん最大限のお手伝いをしますが、代々木高校卒業時点で、「あなたがどうなっていたいか」を一番大切に考えています。そのために、「卒業」「単位」と言ったプレッシャーを取り除き、その人にとって必要と思われる「育む環境」を創ることに時間を費やしています。 

不登校の言葉もない時代から、不登校生対応を行ってきた代々木高等学院では、不登校や思春期問題で、教育委員会や学校へ、助言させていただくこともあります。経験豊富なスタッフやベテラン相談員にお気軽にご相談ください。入学等に関するご相談は、下記までお気軽にご連絡ください。
電話:050-3535-2797
FAX
:03-5919-0528

環境が人を育む:

代々木高校は、既存の全日制高校では「居場所を見いだせない」「価値を見いだせない」「物足りない」という生徒のために、その生徒に一番求められる「環境」を多様な人材や団体と一緒に構築しています。
その「環境」では、「全てを一度受容してくれる学校」であったり、「プロを育てる学校」であったり、ときには、「現場で実践する職場」であったりします。
また、企業と連携して学費を企業が肩代わりしてくれる制度を構築しながら、本番である社会へ出たときに「自分の意志と足で歩けるように」なってもらえるような「環境」を考えています。

サテライト教室の一覧:

代々木高等学校 志摩賢島本校 代々木高等学校 東京本部 代々木高等学校 大阪本部 代々木高等学院

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代々木高等学校 東京本部


武田一族興亡の地をめぐる旅(4)信虎、信玄、勝頼、3代が住んだ躑躅ケ崎館跡

2010年10月02日 | 旅行記

信玄の父、信虎は周囲の国衆・領主と同盟を結び平和的に勢力拡大策をとっていました。信玄はこれに反対し、周囲の諸領主と戦い、実力で領土を拡大する戦いを始めるべきと激しく主張したのです。父子の論争のはてに、信玄は父を駿河へ追放しました。1542年のことでした。

自分が武田家の統領になり、突然周囲の領主を次々と抹殺していったのです。良く言えば勇猛果敢とも言えますが、血に飢えた戦国武将そのものでした。その闘争心は抜群であり、諏訪氏も高遠氏も信濃の緒領主も皆なぎ倒されてしまったのです。

戦いは信玄が1573年に死ぬまで31年間続きました。

最終的に敵対出来たのは上杉謙信、織田信長、徳川家康だけになったのです。その詳しい合戦の経緯は下に付けた参考資料にあります。

武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代が住んだ躑躅ケ崎館の跡地は、現在、武田神社になっています。当時を偲ぶものは館を囲んでいた掘だけです。下にその掘の写真を示します。

躑躅ケ崎館からまっすぐ甲府駅へ向かって、少し坂になった大通りが下っています。その左右が碁盤の目のようになっていて家臣たちが住んだ屋敷町でした。山梨大学もこの大通りを挟んで左右にキャンパスが広がっています。商人町はもっと坂を下ったところにあったようです。坂道の東側には信玄の墓所のある大泉寺や円光寺があります。信玄は甲府の英雄です。甲府駅の南口には巨大な銅像もあります。

当時の甲府の町々の賑わいを偲びながら館跡の掘りのほとりを散策して来ました。館の建物は一切消えて無くなっています。文字通り、つわものどもの夢の跡です。

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武田信玄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

諏訪領、高遠領への侵入と信濃国の緒領主の平定(Wikipedea より)

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信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う[8]

天文11年(15426月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み諏訪領を制圧している[9]。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(15454月、上伊奈郡高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主である藤沢頼親も滅ぼした。天文13年(1544年)には後北条氏と和睦し、今川氏と後北条氏の対立(河東一乱)を仲裁し、甲駿相三国同盟の締結に至る。

三国同盟を背景とした武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原氏、小県領主村上氏らと敵対する。天文16年(1547)には関東管領勢に支援された志賀城笠原清繁を攻め、同年8月6小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[10]。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(15482月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(15507月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

しかし天文20年(15514月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(15534月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。


秋ですね・・・コスモスとススキの写真をお楽しみ下さい

2010年10月02日 | 写真

道端の野原に自然と種がこぼれ、毎年秋になるとコスモスが一面に咲く場所を知っています。日当たりが悪くて田にならない野原にヒッソリと咲いています。甲斐駒岳の麓の山里です。向こう側には八ヶ岳が広がっています。その隣にはススキの群落があります。今年も幸い健康で、家内と一緒に写真を撮りに行けました。曇り日で冷たい秋の風が吹いています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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