後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

自己主張の強い花々、そして楚々として静かに咲いている花

2010年10月23日 | 写真

都立夢の島公園は緑豊かです。ユーカリの大木の森の下に色々な花が咲いています。写真を撮りながら花々の個性の違いに驚きました。この頃の若い人は自己主張の強い花が好きなのでしょうか?あるいはは楚々として静かに咲いている花が好きなのでしょうか?そんな詰まらないことを考えながら写真を撮って来ました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

058 059 056_2 006


あなたは宗教が戦争を起こすと思っていませんか?

2010年10月23日 | インポート

あなたは宗教が戦争を起こすと思っていませんか?

人類の歴史を見ると、宗教の違いが数多くの戦争の原因であった事実は否定しようがありません。数年前のアメリカのイラク戦争、アフガニスタン戦争はキリスト教的国家とイスラム教国家との戦いでした。従って、多くの日本人は宗教など無い方が良いと思っています。あなたもそのように思っていらっしゃいませんか?

大変残念ながら宗教の一面には戦争を起こす原因に利用されやすい部分を含んでいます。しかし、宗教には、もっと、もっと深い意味があると思います。下手な文章で私がクドクド説明するよりも、下に示す二つの文章をお読み頂き、深くお考え頂きたいと思います。

(1)日中戦争中、反戦を説き、禁固刑になった和尚さん・・・竹中彰元和尚のこと

趣味人倶楽部というSNSのマイフレンドの伊吹山さんが、反戦を貫いた仏教僧、竹中彰元和尚のことをお教え下さいました。真宗大谷派の高僧で日中戦争の始まった昭和12年に捕まり、岐阜地裁の判決で禁固刑の判決を受け、後、保釈され敗戦後の2ケ月後に78歳で亡くなります。仏に仕える者として言うべきことを、軍部も恐れずに言い続けた崇高な精神の持ち主です。私はこのような日本人が居たことに安堵し、そして彰元和尚さまのことを日本はもっともっと誇りにしたら良いと信じています。

以下に岐阜地裁で禁固刑の判決を受ける理由になった2つの起訴理由を示します。(出典:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/takenakasyougenn.htm )

日中戦争開始2ヶ月後の1937年9月15日、出征軍人の見送りに村人500人と垂井駅へ向かう途中、ある村民に『昨日千人、今日三千人と沢山な死傷者が出て悲惨なことだ。一体戦争は罪悪である。国家は莫大な費用を空費し、損である。戦争はもうこの辺で止めた方が、国家として賢明である』と語ったこと、及び

同10月10日、同村不退寺で開かれた7人の僧侶の会合の席上で、『今度の事変について、各自の決心を定めねばならないが、自分は戦争は沢山な彼我の人命を損し悲惨の極みであり、罪悪であると思う。今度の予算も厖大なものである。保定や天津を奪ってどれだけの利益があるか。戦争はもうここらで止めた方がよい。これ以上の戦争は、侵略だ』と説いたことであった。(伊吹山さん、貴重な情報をお送り下さいまして有難う御座いました。)

(2)宗教団体が何故反戦運動を組織的に行わないのか?

日中戦争から始まった大東亜戦争が悲惨な敗戦で終わるまで、400万人の日本人と数千万人のアジア人が戦争のために死んだのです。この間、日本の仏教やキリスト教の緒集団は大政翼賛会へ入会し、協力宣言をして軍部を支援したのです。仏教の和尚さんであった竹中彰元 師は個人として反戦を貫いて7年も刑務所に入れられたのです。しかし竹中師の属する真宗大谷派は大政翼賛会へ協力していたので竹中師から布教師の資格をはく奪します。

一旦戦争が始まると、何故宗教団体は戦争反対の政治運動をしないのでしょうか?

その理由は明白です。宗教集団の維持と拡大には政治権力へ協力しなければ、その宗教集団は組織として存続が難しくなります。従って政治権力へ反対する「反戦運動」をしないのが当然です。それが組織の持つ宿命的な欠陥です。その態度はその宗教の教えている教義へも矛盾しているのです。

話は飛びますが、考えさせるある事件をご紹介いたします。貧困層の多いある中南米の国で共産主義者とカトリックの神父が協力して革命を起こし貧富の差を無くそうとしました。革命は成功して、共産党政権が出来、その大臣として数名の司祭が任命されました。「(貧者の)解放の神学」にもとづく政治運動でした。これに対してバチカン本部は大臣になったカトリック神父の司祭職をはく奪したのです。バチカン本部の神学と解放の神学は相入れることが出来ないからです。

一般的には組織の団結と維持のために処罰したと理解されています。表面的に見ると,ローマ法王の横暴と考えられる事件でした。

しかし仏教側にもキリスト教側にも「組織維持」の理由の他にもう一つの基本的な理由が厳然として存在しているのです。

「人間の真の救済は政治権力を利用したり、近づいたりすると不可能になる」という理由です。宗教的真の救済は政治とは全く別問題で、人間のこの世の問題である政治とは断絶した世界にあるのです。イエス キリストの弟子たちはイエスがローマ軍を追い出してイスラエルをもう一度ユダヤの王国にしてくれると大変な誤解をします。それに対してイエスは、「私はこの世の政治的な闘争に来たのではない。皆様が永遠の命を得るための方法を教えに来たのです」と訓えます。ここが無宗教の方々にはなかなかご理解して頂けないポイントです。

私は平和を祈りますが、反戦デモには参加しません。(感情的には参加したいのですが)

大東亜戦争の間、大政翼賛会へ協力するのは、教義上ではとんでもなく間違った行動です。

全ての宗派は平和を静かに祈るのが良く、反戦運動をしたら、それは政治運動になる危険性があるのです。その事を軽く考えたとしたら、それは正しい宗教の理解ではないのです。

全ての宗教団体は反戦も戦争協力もしないで別世界にとどまるべきだったのでしょう。

しかし、竹中和尚や解放の神学のカトリク神父たちは善人です。尊敬すべきです。宗派の維持・拡大の理由で弾圧すべきではありません。寛大な精神で放任するのが良かったと、私は信じています。

皆様は宗教と戦争の関係を如何お考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人