後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界遺産、ドイツ騎士団修道院と航空母艦の艦隊の写真をお楽しみ下さい!

2010年10月09日 | 写真

今日は一日雨なので暇にまかせてWikipedea を、いろいろな項目で開いて遊んでいました。「ドイツ騎士団」の項目に現在ポーランドに残っている世界遺産のマリエンブルグ修道院の写真がありました。

一方、「アフガニスタン戦争」の項目ではアフガニスタン沖の洋上を航海中の航空母艦とその護衛艦からなる大きな艦隊の写真がありました。NATO軍事同盟の5つの国の艦艇で編成された艦隊です。2001年9月11日の同時多発テロの直後にアメリカとNATO軍がアフガニスタンへ侵攻したときの支援艦隊です。

ドイツ騎士団は13世紀に始まった武力集団でカトリックを異教徒から守り、バルト海沿岸の異教徒の土地を占領して後のプロイセンやケーニッヒベルグ、そして現在のカリングラードと呼ばれるキリスト教の国を作ったのです。

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一方、航空母艦艦隊は自由と民主主義陣営をイスラムのテロ攻撃から守る正義の戦なのです。どちらも正義の戦いという意味で似ています。800年たっても人間はあまり変わりません。そんな事を考えながら写真の美しさを楽しみました。皆様もお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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山里に自生するコスモスの花々の写真をお楽しみ下さい!

2010年10月09日 | 写真

山梨県の甲斐駒や八ヶ岳の麓を車で散策しながら、自然に生えて花を咲かせているコスモスの写真を撮ってきました。9月27日の曇り日でした。秋の淋しさが漂っていました。そんな風情をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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武田一族興亡の地をめぐる旅(6)武田勝頼の敗北、武田家の断絶

2010年10月09日 | インポート

武田信玄は徳川家康や織田信長と覇を競う大型戦国大名でした。しかし、1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。

しかし、徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。次から次へと部下の武将の謀反にあい失意のうちに悲しい最後を遂げたのです。武田家450年の歴史の終焉でした。享年37歳でした。そのお墓は天目山の麓の景徳院という山寺にあります。侘びしい粗末な墓石です。しかし悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。先月の28日に撮った写真を示します。写真の下にはWikipedeaの「武田勝頼」の項目の一部を参考資料として付け加えておきます。勝頼の悲しい運命が書いてあります。(この記事をもって、「武田一族興亡の地をめぐる旅」シリーズを終了致します。有難う御座いました。)

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====武田家滅亡のいきさつ・・・Wikipedeaの武田勝頼から抜粋=====

天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、もはや勝頼には後詰することが出来なかった。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げることとなり、国人衆は大きく動揺した。これを境に織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。

勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にも却って国人衆の造反を招く結果となった。なお国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もある。

天正10年(1582年)2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る。勝頼は外戚の義昌の反逆に激怒し、即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、地理に詳しい木曽軍に翻弄された。その間に織田信忠が伊奈方面から、金森長近飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻してくる(武田征伐)。

これに対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て甲斐に敗走し、信濃伊那城においては織田軍が迫ってくると城主・下条信氏が家老によって追放され、織田軍を自ら迎え入れてしまった。信濃松尾城主の小笠原信嶺、駿河田中城主の依田信蕃らも織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏する。さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った。これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する。

この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのである。唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。また母の実家である諏訪家の一門諏訪頼豊は「勝頼から冷遇されていた」と言われているにも関わらず、武田征伐に乗じて諏訪家再興をしようとする家臣の意見を聞かずに鳥居峠の戦いで戦死している。

同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。甲斐国の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。勝頼が選んだのは武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城であった(注:小山田氏の居城は谷村城で、岩殿城は小山田領内の武田家直轄の城であるという説もある)。しかし、信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。

しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡。勝頼父子の首級は京都に送られ一条大路の辻で梟首された。

後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。

江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。


人々へ感謝しつつ死んで行く(1)妻への感謝

2010年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム

70歳を過ぎてから私は自分の死に方を考えるようになりました。病気は天命なので神様へお任せです。しかし死に至るまでの精神状態は自分で作りあげる事が出来ます。

4年間考えてこうして書いて公表できる境地にいたりました。それは私にかかわって下さった人々へ感謝し、その事を時々文章に書くことです。それは楽しい作業です。感謝しながら死んで行くのが最良の精神状態という確信にいたったのです。この世に し残したことも 恨みに思うことも一切ありません。ですから死んでも幽霊にならないのです。恨みをもって死ぬと幽霊になるらしいです。

現在、74歳ですが、もし20歳代で死ぬような運命に見舞われたとしてもこの境地になれれれば幸せに死んで行けたと思います。今回から数回にわたっていろいろな人への感謝の文章を書く予定です。

始めに妻への感謝を書くのはあまりにも月並です。随分躊躇しましたが、素直な気持ちになるとこれが一番始めになります。両親や祖父母への感謝もいずれ書きますが、一緒に住んだ年数が妻のほうが圧倒的に長いのです。もう50年になります。

良い家庭を作ってくれた。子供を育ててくれた。料理が上手だった。いつも夫へ優しく接してくれた。などなどをクドクド書き出していたら皆様に笑われてしまいます。

そこでたった一つだけ感謝の理由を書いて終りに致します。それは言葉が綺麗なことです。敬語と丁寧語を使い分け、何時も優雅に話します。声が特に良い訳ではありませんが、東京流のアクセントで歌うように話します。私が感心するだけでなく多くの人がそのことを褒めるのです。

歳老いて、容姿は衰えましたが、声と言葉だけは昔のままです。私は脳溢血になったわけでもないのですが、最近、ろれつが回らなくなり言語不明瞭です。それに比較すると老妻の発音の美しさには毎日感心しています。

それを褒めると源氏物語の一節を原文のまま朗読してくれます。これは勘弁です。意味が解らない上に、私には興味の無い講釈のおまけが付くのです。困ったものです。

それにしても下らない妻の自慢話は止めにします。しかし妻に感謝しつつ死ねる自分の幸運に深く感動しています。このような精神状態を臨終の時まで持ちたいと願っています。下は妻が大好きだった桜の花の写真です。春になると、毎年数回も見に行った小金井公園の桜です。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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