北海道の富良野に住んで、ノルディック・ウオーーキングの指導をしている あとみんさんという方がいらっしゃいます。「富良野健康生活」(http://furano2008.blog95.fc2.com/)というブログを書いていらっしゃいます。北海道の悠然たる自然の美しさに溢れた写真を掲載しているので、時々お願いしてご紹介しています。今回は秋の空知川の風景がいかにも秋深しという風情なので2枚お借りしました。皆様にもお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
武田信玄は長野を占領するとすぐにその善光寺を甲府へ持ち帰ったのです。
お寺を武力で持ちかえるのは感心しませんが、戦国時代はそんな時代だったのです。
それにしても善光寺には面白い歴史があるので、簡略に書いてみます。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいました。 ある時、善光さんが都へ帰る国司について難波へ行ったそうです。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけました。それを拾い上げ、飯田へ持ち帰ったのです。 自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝きます。それで座光寺(善光寺)を作ったという伝説が残っています。推古天皇10年(603年)の事です。
それから41年ほどして皇極天皇元年(644年)に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来ました。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると現在でも信じられています。
さて現在、甲府市にも立派な本堂を誇る3つ目の善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約900年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返しました。
ご本尊は返しましたが、甲府の善光寺も現在に至るまで立派に存続しています。
三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。 善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そのような経緯で出来た甲府の善光寺の写真を示します。9月28日に撮影しました。(続く)
ネットで知り合った方に盛田常夫さんという人が居ます。ハンガリーに何十年も住んでいます。東京で2度お会いし、ハンガリーが共産主義から資本主義に転換する苦しみの歴史を詳しくお聞きしました。それは何か地獄絵の様な感じを受けます。我々日本人の想像を絶する混乱と不幸な出来事が起きます。そのようなハンガリーの体制変換を理論的に考察し歴史学的な専門書にまとめ上げ一冊の本を出版しました。昨年の12月に日本評論社より出版された「ポスト社会主義の政治経済学」という題目の専門書です。
盛田さんはそのかたわらハンガリー在住の日本人のお世話もしながら「ドナウの四季」という季刊誌も出しています。その2010年秋季号に明るい記事が出ていました。ハンガリーで熱気球の世界大会が開催されるという記事です。日本から参加している加藤詩乃さんが書いている記事です。熱気球はロマンチックな夢の世界です。社会的な苦しみが続くハンガリーで開催されると知って何故かホッとしました。ああ、ハンガリーの人々にも夢を追うゆとりが出て来たと安堵しました。嬉しくなりました。そこで加藤さんの記事の冒頭部分を転載いたします。写真は「佐賀バルーンフェスタ」のWikipedeaの記事からお借りしました。「佐賀バルーンフェスタ」で検索すると熱気球の情報が詳しく出ています。熱気球、その夢の世界をお楽しみ下さい。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
ドナウの四季、2010年秋季号、No.8、「大空への挑戦」(準備編)加藤 詩乃
みなさん、こんにちは。ただいま、9月25日。名古屋からヘルシンキへ向かうフィンランド航空の機中です。これからヘルシンキを経由しブダペストへ向かいます。ハンガリー・デブレツェンで開催される熱気球世界選手権(10月2日~10日)に参加します。 今回、『ドナウの四季』にスペースをいただける事になり、スカイスポーツの一つである「熱気球競技」とその世界選手権について、「どぶ板」活動をご報告したいと思います。
~競 技~
熱気球を実際にご覧になったことはなくても、映像や歌や写真などに「風まかせ」のロマンティックな乗り物として登場するので、皆さんご存知かと思います。空を風に乗って飛ぶ事を楽しむファンフライトや、長距離や山岳フライトなどのアドベンチャーフライト、そしてターゲットにいかに近づけるかを競う競技フライトなど、熱気球のフライトにも様々な種類があります。
熱気球の大会は、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなど世界各地で開催され、日本でも佐賀をはじめ各地で行われています。これらのレースに出場している選手にとっては「競技」ですが、一般のお客さんからみると、季節の風物詩。色とりどりの熱気球が、空にふわりと浮かんでいる、鮮やかな美しい世界です。
ここに紹介する写真は2006年にドバイで開催されたバルーンフェスティバル。そして、アジア最大規模(観客動員数では世界最大)の熱気球大会「佐賀バルーンフィエスタ」の写真です。今回、ハンガリー・デブレツェンには、120機もの熱気球が集まります。世界各地の国内予選を勝ち抜いてきたトップレベルのテクニックを持つパイロットが集まります。
世界選手権では、「いかに正確に飛ぶか」を競います。熱気球のフライトは風まかせです。しかし、風は高さや時間の経過によって異なる方向に吹いています。その見えない風を各種データと経験から予想し風をとらえます。たとえば5キロ離れた距離から目標となる地点までフライトし、数センチメートルの単位まで寄せるといった、高い精度を競います。
熱気球競技は、気球に乗るパイロットと、地上で支えるクルーのチームプレーです。ただ「スポーツ」というよりは、近年では各種計器や測定器・パソコン操作なども絡み、かなり複雑な頭脳プレーも混在したゲーム性の高い競技です。目標地点に向かって正確に飛ぶといった面ではゴルフを三次元競技にしたようなイメージ。そこにF1のようなチームでの役割分担が必要となる競技。そんなイメージでしょうか。
日本選手はまだ世界選手権で優勝したことがありません。
~熱気球の歴史~1783年フランス・リヨン近郊で「モンゴルフィエ兄弟」による熱気球フライトが人類初となります。国土の広いヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアはじめ、各国で熱気球愛好家が活動しています。特に、ヨーロッパでは「貴族の遊び」として定着してきたとも聞いています。
日本の熱気球の歴史は、1969年にはじまりました。第二次世界大戦が終わり、日本が経済成長に突入した1960年代、日本でもスカイスポーツへの関心が高まってきました。当時京都の学生だった「島本伸雄」、「梅棹エリオ」によって製作された手作り気球「イカロス5号」が日本初の熱気球として飛行に成功し、日本中を沸かせました。
梅棹エリオさんは今年ご逝去された梅棹忠夫先生のご子息です。当時の国内に熱気球のノウハウは皆無。暗中模索で熱気球の技術を探り、資金繰りに東奔西走しながら、1969年9月27日「イカロス5号」の飛行を実現させました。このように日本の熱気球スポーツは、どちらかというと学生の活動からスタートし、やる気と情熱さえあれば誰でも参加できる世界です。
それから40年。ヨーロッパなど各国からは大きく遅れをとったスタートでしたが、日本の熱気球の競技レベルもぐんぐん上がり、今回の世界選手権には日本人パイロットは7人と世界各国の中でも最多のレベルとなりました。天才的なフライトテクニックを持つ2世パイロットも誕生し、今回こそ日本選手の優勝をと意気込んでいる。・・・・以下省略