◎ 画家とパトロン
1961年、オハイオ州コロンバス市のデパートで南画の河野秋邨氏の個展が開催された。すべて畳二畳ぐらいの大作で、色彩豊かな南画が数十枚も展示されているのは圧倒的だった。絵画に興味の無かった私でもその展示品を見て、河野氏の絵画が世界中の人々へ感動を与えることを確信した。その河野氏は高齢で体も小さくごく普通の老人であった。その老人が作品を太平洋の彼方から持参したエネルギーは驚きの一語に尽きる。一週間の滞在中、日本食がなくて困っていた河野画伯へ、家内が朝夕、味噌汁、ご飯、和風の総菜を供した。
「数十枚もの大作を京都からどのようにして運んだのですか?」「イエーガーさんという方がすべての手配と費用を出してくれました。よいパトロンに会えたと感謝しています。毎日会場へ行って、アメリカ人が南画を理解し感動する様子を見るのは楽しいです」「イエーガーさんは?」「毎日来られ、会場の面倒をそれとなく見てくれています」
そのイエーガー氏に会場で会った。「なぜこの個展を開催なさったのですか?」「京都で河野氏の南画を見て、アメリカ人にもぜひ見てもらいたいと思ったからです。コロンバスだけでなく、ほかの町へも巡回展示します」「その費用はどこかの美術団体が出すのですか?」「いえ、すべて私が個人的にできる範囲でします。好きな画家を経済的に支援するパトロンシップは欧米の輝かしい伝統だと思います」
日本南画院を検索すると昭和34年に河野氏が他の南画家達と日本南画院を再興したと書いてある。日本が世界に誇れる巨匠の一人である。
この河野氏に会って以来、パトロンシップの重要性をいろいろな視点から考えるようになった。数は少ないが、日本にも画家のパトロンが居いないわけではない。水戸出身の中村つね画伯を支援した新宿中村屋初代当主はその例。傑作「エロシェンコ像」が生まれたのは中村屋のおかげである。千波湖のほとり、県立美術館の一隅に中村つね画伯のアトリエが移設展示されている。結核で夭折した画家とパトロン中村屋との関係が生き生きと見えるようである。中村屋と中村画伯は同姓ながら親類関係はない。まったくの他人同士。また、安曇野にある荻原碌山美術館のブロンズ彫刻の数々も中村屋の支援のお陰で創られた作品である。
@画商の重要性
日本では画家を個人的に支援するパトロンが少ない。その代わり画商が重要な役割を担う。笠間日動画廊美術館の五階にある画家三百三十人のパレット展示がその例である。パレットには安井曽太郎、梅原龍三郎、熊谷守一、中村研一、岡本太郎、藤田嗣治らそうそうたる画伯が網羅されている。しかし、圧巻は無名の画家のパレットが多数展示してあることである。日動画廊初代当主・長谷川仁氏夫妻が若い画家を勇気づけ、支援しようとした情熱が見えるようである。 パレットの収集展示は吉井画廊の初代当主・吉井長三氏が建てた清春白樺美術館(山梨県)のレストランの壁にもある。無名画家のパレットが、白樺派の文人・画家の手紙や出版本、絵画とともに展示してある。広大な敷地には若い画家へ格安で貸しているアトリエの集合体建築物もある。南アルプス連山を前に、何人かの美術を志す若者達が制作に励んでいる様子がうかがえ心楽しい。
茫々50年。1961年にオハイオで個展を開催した河野秋邨画伯へこの一文を捧げ、ご冥福をお祈り申し上げます。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
河野秋邨 [読み] こうの・しゅうそん [始年] 1890- [終年] 1987年
1917年、第11回文展に「夏雨新霽」初入選。1921年、富岡鉄斎、田近竹邨らと日本南画院を結成。 第一回展に「王子猷」を出品。 1927年、第八回帝展に「月下敲門」を出品。1940年、紀元二千六百年、奉祝展に「嶽雪頽轟」を出品。 1960年、松林桂月らと社団法人日本南画院を結成、理事長となる。1974年、勲三等瑞宝章を賜る。 1985年、第二五回日本南画院展に「時空虚実」を発表(終わり)