埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしています。
そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。
1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。
石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。
深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。
しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。
江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。
上の写真にある白い天守閣のような建物は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。
全く根拠意の無い想像です。「江戸幕府へ遠慮して天守閣を作らないーでも天守閣のように見える立派な三階櫓を作ろう!」、こんな気持ちがあったのかも知れません。江戸時代は常に徳川幕府の意向を伺いながら生きて行かねばならない時代でした。
幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。(終わり)
撮影日時:2008年6月7日午後1時頃。 撮影者:Mrs.藤山