後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

帆船の欠点を体験する試みをして来ました!

2010年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

下の写真は伊達正宗が支倉常長を太平洋を横断させ、ローマへ派遣したとき用いた帆船を復元した船です。宮城県の石巻の東の方向30Km位の所に係留して公開しています。サンファン号と言います。このような帆船の欠点は向かい風の日には絶対に出港できないということです。昔なのでエンジンが付いて居ません。

今日は自分のクルーザーでエンジンを使わないで出港する実験をして来ました。結果は失敗でした。港の奥へ吹き寄せられ、岸壁と衝突しそうになりました。仕方なくエンジンを始動し、危機を脱しました。やっぱり帆船は完全な追い風の時しか出港してはいけないのです。

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003 もう少し正確に書きます。左のようにすぐに帆を出せるように準備します。風が右から左へ吹いていました。

係留ロープを解き、手の力で後の係留杭に繋がったロープを引きます。船はゆっくり係留杭の後ろの航路にでます。そこで前の帆を出して、船首を右へ向け、風上45度へ登ろうとしました。所が船が動いていないので舵が全然ききません。右からの風で、船は無情にも左の港の奥へ流されて行きます。それなら追い風にして港のおくへ向かって速度を上げて、舵を効せて反転しようとしました。所が航路の幅が30mくらいしかありません。そんな事を繰り返していたら次第に港の奥へ吹き寄せられ、終いには奥の岸壁に衝突しそうになりました。万事休すです。エンジンを始動し、危機を脱しました。エンジンさえ動いていれば実に易々と港の外へ出れました。今日は天気が良くて気持ちの良いセイリングをして帰ってきました。風は弱かったので危険な目には会いませんでした。


人につまづきイエス様が見えなくなる

2010年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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普通の人がキリスト教を少し本気で考えるときは、本を読んだり、信者の話を聞きます。身近に牧師さんや神父さんがいればお話が聴けます。ところが偶然話を聞いた人がとても尊敬できなような場合もあります。するとそんな信者や牧師が居るようではキリスト教は信用出来ないという結論になりがちです。

こういう場合は人につまづいてイエス様が見えなくなった状態です。どんな宗教でも同じようなことが起きます。自分の先祖代々の墓があるお寺の住職さんがお金に慾が強くてとても尊敬できない場合もあります。仏教が信用出来なくなります。このような状態を人につまづいてお釈迦様が見えなくなっている状態と言います。

教会でもお寺でもそこに居る聖職者や住職の人格に躓いて、その上に立っているイエス様やお釈迦様の教えまで信用しないとしたら大変な間違いを犯していることになります。しかし人間は感情の動物ですからそれも仕方がありません。と、書いている私も、こちらの意思の通じない信者や教会関係者に会うと一瞬、イエス様を疑いたくなります。私もしょっちゅう「人に躓いている」のです。そして私も人を躓かせています。

私が人に躓いたと感じた時は、次の瞬間、呪文のように唱えます;「人に躓くな。人に躓くな。イエス様を真っ直ぐ見よ」と。

ネットの上で知り合い、大変尊敬している人生の先輩が居ます。その方は昔はクリスチャンでしたがある事情で棄教しています。棄教していても私はこの方を今でも尊敬しています。彼が戦争中所属していたあるプロテスタント系の教会組織が大政翼賛会と協同して大東亜戦争を推進したのです。イエス様を拝むと同時に昭和天皇を拝むように信者へ強制したのです。組織を温存するためだったのです。

ところが敗戦後この教会組織のとった態度が酷すぎました。戦争に協力したのは間違いだったと謝罪しなかったのです。謝罪してももう組織は安全な時代になっていたにも関わらずでした。やっと謝罪したのは終戦後20年近く経過してからでした。

私が尊敬する先輩がキリスト教を棄教したのは当然です。彼の人間としての誠実さがその教団を許せなかったのです。分かります。ですからこそ現在でも私は彼を尊敬しています。

しかし私は彼が人に躓いているような感じを持っています。皆様はどのようにお考えでしょうか?ご意見を頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人