後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦没画学生の絵画(4)片桐 彰さんの「街」

2010年11月26日 | 写真

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大正11年、長野県生まれ、昭和17年に京都高等工芸学校卒業後すぐに入隊。昭和19年7月28日、マリアナ諸島にて戦死。享年21歳。

残された妹の思い出:「私をよく映画に連れていってくれました。戦地へゆく直前、{オーケストラの少女}という映画を見に行ったことがありました。映画の筋書きはとうに忘れてしまったけれど、戦争のことを考えながら二人で歩いた夜のまっすぐな兄さんの背中が忘れられません。」

絵と文章の内容の出典は以下の通りですNHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、58ぺージです。


江戸時代に日本海の北前船が何故栄えたか?(1)江戸時代の大型帆船の苦難のセイリングの実態

2010年11月26日 | インポート

以前から何故、北前船が栄え、一方太平洋航路の江戸ー大阪間の航路が北前船ほど重用されていなかったか不思議に思っていました。越前、越後、酒田などの日本海側の町々が裕福になっていた時代が続いたのか不思議に思っていました。

それを考える手がかりとして、江戸時代の帆船の操船技術の実態を調べてみました。初めに江戸から太平洋を渡って八丈島へ帆走した記録があるので、ご紹介いたします。日本海を北上して松前に帆走する場合と比較したいと思います。

伊豆諸島の順察をして「南汎日録」を書いた代官、羽倉簡堂の海上の苦難ぶりを、「八丈るんるんガイド」2008Vol.14秋号から抜粋して紹介します。

使用した船は八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船であった。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船であった。

1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来た。

しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなる。簡略に書く。

5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着する。

6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。

6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。

6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。

6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。

7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。

三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日であった。実に1ケ月以上行ったり来たりの苦難なセイリングであった。

三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ難所である。

それにしても現在の外洋帆走洋用の長さ12メートル位のクルーザーは三宅島と八丈島の間は10時間位のセイリングという。

GPSや天気予報の有無もあるが、決定的な違いは風に向かって登れるか否かの性能の違いと思う。帆船の設計の進歩の大きさに感慨無量です。(続く)


悲劇の八王子城と東京都内の鎌倉、室町、戦国時代の城跡の多さ

2010年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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人間は優しさと残忍さを持つ。洋の東西を問わない。人間の殺戮の歴史を忘れないために、今回は戦国時代末期の八王子城の悲劇と、関東地方の鎌倉、室町、戦国時代の数多くの城跡をご紹介したいと思う。

 小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主は北条氏政。関東中央部を支配ししていたのがその弟の氏照。武田信玄に攻められ苦戦した滝山城から山中の八王子城へ移ったのが1586年。しかしその4年後の天正18年、1590年6月23日に落城。秀吉に忠誠を約束した前田、上杉、真田の軍勢によって滅びされただ。

八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍である。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させた。生き残った家臣、婦女子は主殿裏の滝の上で自害し滝壺へ飛び込んだという。滝壺から続く谷川は血で三日三晩赤く染まったと言い伝えられている。

八王子城が落ちた6月23日は城主の氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因という。

生き残った捕虜は小田原の秀吉のもとへ送られ、7月7日の小田原城の開城後、7月11日の氏政と氏照の切腹と前後して極刑に処せらた。

天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年である。八王子城のような悲劇は関東全域の各地で起きた。

日本人と日本人が殺しあう。そんな時代がつい明治維新後の西南戦争まで当たり前であった。歴史を忘れる者は同じ過ちを繰り返すという。住んでいる場所の近くで起きた悲劇なら忘れ難いと思い、八王子城跡を静かに歩いてきた。針葉樹に囲まれた暗い谷間に雪道が寂寥として続いていた。上に示す写真はその折に撮ったものである。

八王子城の他にも城跡は実に数多く存在している。しかし東京都区内にあった城や館の大部分は市街地に呑み込まれ記念碑や説明板だけになっている。

一方、東京の郊外の多摩地方の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれる。

八王子城の他、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡などは当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されている。発掘調査も行き届き、説明板も明快である。

これらは車で行くと便利が良いが、滝山城だけ駐車場が無い。壮大な規模の城跡がそのまま残っているだけに残念である。

その他、現在の東京の地名に関係したものだけを以下に記す。

江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどである。東京だけでこれだけあるのだ。関東地方一円にはもっともっと数多くの城跡が存在している。

それにしても城の数の多いのに驚かされる。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深い。なお高幡不動の裏山にも高幡城跡があり、上記のものの他にも城があったのでは無いかと思われる。

現在住んでいる多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多い。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来つつある。皆様の住んでいる地域の城跡や館跡についてお教え頂きれば嬉しく思います。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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撮影日時;2008年2月19日午前11時ー12時、

撮影場所、八王子市城山東斜面の八王子城主殿跡付近(尚、本丸は主殿うしろの城山山頂にあり、徒歩40分かかる)

東京都内から車で行く場合;中央高速道、八王子ICを出て16号線を甲州街道20号線まで行き右折し20号線をJR高尾駅手前の町田街道を右折。間もなく八王子霊園方面へ左折し中央高速道の下をくぐればすぐ左折。案内板にしたがって800メートル上ると八王子城跡入口がある。JR中央線で行く場合は終点の高尾駅下車、北口からバスがあるが、よく調べてから行く必要がある。