後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

渡来植物と渡り鳥のロマン

2013年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、日本固有の花や日本原産の花に興味を持ち、いろいろと調べました。その結果、次の2つの記事を書きました:日本の渡来植物一覧表 と、日本原産の花の写真

大変吃驚したことは実に数多くの花々は渡来植物だったのです。日本固有の花々はほんの数種類だけでした。

それでは外来植物は誰が持ち込んだのでしょうか?

人間と渡り鳥ではないかと思いました。そこで渡り鳥について環境省の調査結果を下にご報告致します。

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渡り鳥の飛来状況:http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/ap_wr_transit12/index.html

環境省では、全国39カ所の地点で渡り鳥の飛来状況の調査を行っています。
 この調査は、渡りのシーズン中、各月の上旬、中旬、下旬に、国指定鳥獣保護区等にどんな種類の渡り鳥がどのくらい飛来しているかという傾向を把握することが目的であり、各調査地で記録されている渡り鳥等の種類及び個体数は、調査地全体または一定のサンプル区間において調査されたものです。

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渡り鳥の飛来経路:http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/migration_route.html

環境省の調査結果の一例:宮城県伊豆沼のオオハクチョウの場合:

 宮城県で送信機を装着したオオハクチョウ1羽の移動状況を図示しています。
 本個体は3月上旬に越冬地を出発して北海道へ渡りました。道東で1ヶ月ほど過ごした後、サハリンを経由して、アムール川下流域まで北上しました。この地域に短期間滞在したのちオホーツク海を越え、ロシア東部に上陸しました。内陸部を北上して5月中旬にインディギルカ川流域の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。9月下旬から10月上旬の間に秋の渡りを開始し、オホーツク海を縦断後、10月9日にアムール川河口付近に達しました。10月31日の時点で同地に滞在しています。

下の図:宮城県で送信機を装着したオオハクチョウの移動状況(平成23年10月31日現在)

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さて渡り鳥に興味が湧いて来ましたのでこれからいろいろ考えて見たいと思います。

下に渡り鳥の写真をお送りします。

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上と下は2010年の冬に霞ヶ浦湖で撮った写真です。アムール河を越えてシベリアまで往復していると想像しながら写真を撮りました。

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下の2枚は「渡り鳥写真集」からお借りしました。

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渡り鳥の活き活きした姿を見ていると自分も元気になります。

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これから何回か渡り鳥に関する記事を書いて行きたいと存じます。ご意見やご指導を頂ければ感謝いたします。(続く)


対中国戦略はアーミテージさんに聞け・・・その理路整然たる外交姿勢

2013年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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まずこの顔写真をご覧ください。アメリカのリチャード・アーミテージさんです。重量挙げの選手のような感じですが、彼は日米安保体制の実際的問題に一番精通したアメリカの政治家です。非常に知的で、いつも日本の進むべき道を理路整然と教えてくれます。

いやしくも日本の安全保障に関心の強い日本人なら皆が今までの彼の意見に感動しているはずです。

昨日(2月26日 朝刊)の読売新聞の4面に彼の談話が掲載されていました。

去年の秋に、クリントン国務長官の特使のような立場で、北京を訪問し、中国の筆頭副首相の李克強氏と会談し、次のことを言明して来ました。

そして東京では当時の野田首相に会って対中戦略を話し合って帰国しました。

(1)中国側が、「尖閣諸島の領有権に関してアメリカが中立的態度を示していることに感謝する」と言うと、間髪を入れず日米安保がある以上、アメリカは中立ではありえないと言い返したのです。

同盟国の日本が尖閣諸島近辺で攻撃されたら中立的な態度はとれないことを中国側へ伝えたのです。

(2)日本人が学ぶべきもう一つのことを彼が言っています。それは中国人がいろいろな事を言っても否定すべきことは明確に、すぐに否定しないと同意したと思い、後で大きな問題になるという事実です。以心伝心とか腹芸は中国人と交渉するときは絶対に禁じ手なのです。

(3)もう一つ重要なことを日中双方に忠告して帰国したのです。それは実戦配備にある軍隊はとかく中央政府を忘れて偶発的な武力衝突を起こすので、日中の軍隊が直接話の出来るホットラインを構築すべきと忠告したのです。

帰国後、当時のクリントン国務長官へ報告し、その後クリントン長官が尖閣諸島は日本の施政権のもとにあると言明したのです。

アーミテージさんはベトナム戦争に参戦し、ベトナム語の話せる人です。日本人は彼のことを知日派として大切に思っています。しかし彼はベトナム共産党や中国共産党の建前と本音を深く理解しているのです。ですからこそ中国共産党と対峙する日本がどうするべきかが明快に言えるのです。

靖国神社の参拝についても彼は明確に日本の内政問題だから中国の意見は無視すべきと主意して来ました。

末尾に彼の経歴を紹介したWikipedeaの参考情報をつけました。彼がベトナム戦争で何をしたかご注意ください。その延長上に日米安保の運用にあける彼独特の明快な論理が出来上がっていると思います。このように重要な人との面会を当時の外務大臣の田中真紀子さんがキャンセルしたのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====リチャード・アーミテージさんの人物像============

出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8

アジア通・知日派

ベトナム戦争に従軍し、ベトナム語が堪能。また、レーガン政権の国防次官補代理職にあった時に、東アジアおよび太平洋地域を担当していたこともあり、知日派として知られ、現在は米国内の知日派政策エリートの保護者的立場にある。1980年代の東芝機械ココム違反事件の際には、対日経済制裁に反対した。

日米間の安定的な安全保障システムの確立に貢献してきたほか、椎名素夫・佐々淳行など日本の政治家や官僚らとの繋がりも強い。一方で、日本の核武装には否定的とされる。FSX開発問題では日本側との調整を担当している。

日本や東アジア全般の安全保障に関する発言が常に注目を集める。アーミテージの名が一般に広く知られるようになったきっかけとして、2000年に対日外交の指針としてジョセフ・ナらと超党派で作成した政策提言報告「アーミテージ・レポート」の存在が挙げられる。この報告書では、日本に対して有事法制の整備を期待する内容が盛り込まれた。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、日本側に共闘を求めた。この時にいわゆる「旗幟を明らかにしろ」の発言があったとされる。

イラク戦争開戦時には日本の役割を野球にたとえて「Boots on the ground」と発言したことでも有名になった。また、2004年7月には日本国憲法第9条を日米同盟の障害とする主旨の発言をして物議をかもした。また、北朝鮮による日本人拉致問題においては、北朝鮮に対する圧力路線を主導。2004年4月には北のテロ支援国家指定の根拠に拉致問題を明記させた。

2005年6月6日、『筑紫哲也 NEWS23』に出演した際に、靖国神社参拝について質問され「主権国家である日本の総理大臣が、中国に限らず他の国から靖国神社に参拝してはいけないと指図されるようなことがあれば、逆に参拝すべきだと思います。なぜなら内政干渉を許してはいけないからです。もう一つは、全ての国が戦死者をまつりますが、それぞれのやり方で良いのだと思います」と主張した。2006年7月20日の「産経新聞」(東京版)の取材に対しても同様の認識を示している。

2007年2月には、政策シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)において再度超党派による政策提言報告「第二次アーミテージ・レポート」を作成・発表、日米同盟を英米のような緊密な同盟関係へと変化させ、東アジアの地域秩序の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むインセンティブとすることなどを提言している。

2012年8月には「第三次アーミテージ・レポート」を作成・発表。日本が一流国家であり続けるか、二流国家に甘んじるかの重大な局面を迎えていると指摘し、また日米同盟関係における日本の役割拡大を求めた。

2012年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党候補者であるミット・ロムニーが同年8月28日に行った演説において日本に言及する箇所が1箇所しかなかったことは、アーミテージら知日派の影響力の低下の表れと分析する向きもあった。

ベトナム戦争での彼の行動

海軍兵学校卒業後は、ベトナム戦争に志願した。1973年1月にパリ和平協定が成立すると、戦いを途中でやめるのは嫌だと海軍をやめてしまう。但しサイゴンにある米軍駐在武官本部の民間人顧問としてベトナムに留まり、特殊任務についた。海軍特殊部隊(SEALS)の隊員だったという噂も流れたが米国国務省のウェブサイトで否定している。

いったんワシントンに戻ったが、1975年4月に北ベトナム軍がサイゴンに迫ると、国防省から特定南ベトナム人の救出作戦の実行を頼まれる。ビエンホア空軍基地にヘリコプターで乗り込み、機密保持のため基地内の機器を破壊。そして取り残された南ベトナム空軍の将兵30名とともに砲火の中から脱出。その後南ベトナム海軍艦艇と将兵及びその家族を率いて、8日かけてフィリピンまで脱出した。(本人談)

====以上は抜粋文です。================