エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。
彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。
その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。
その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。
このブログではその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつ5回の連載としてご紹介してきました。
1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いです。
今日は明治20年代の北海道のアイヌの写真をお送りします。明治時代のアイヌは伝統的な服装と家に住み純然たるアイヌ文化を維持していたのです。一緒に写っている白人はクラーク博士でアイヌにも興味があったそうです。これらの写真は彼がアイヌ人を集めて撮影したと思われます。
エドワード・モース氏とジョージ・ピーボディー氏、そして小学館へ深い感謝と敬意を表します。
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北海道のアイヌ人は明治以後は日本の小学校に行くようになり次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。
しかし、第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。
そして、昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。
アイヌ村落を復元した展示もあります。
北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。しかし現在はアイヌ人だけの村落は消えて無くなってしまったのです。
北海道に行くと、私は復元した村や博物館を見て回ります。
私には、少年の頃、一人のアイヌ人の友人がいたのです。
アイヌ人の写真を見るとそのアイヌの友人のことを思い出すのです。そして悲しい思いを心に抱きながら見るのです。
終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が北海道から私の住んでいた仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開く人もいました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。77歳になっても、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいました。その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいました。同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。60年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。
以前、北海道・日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。敗戦後の仙台の郊外で付き合ってアイヌ人一家のことを懐かしく思いながら感慨深く見て回りました。茫々、あれから60年、あの一家の運命はどうなったのでしょう。
ウィッキペデアのアイヌ民族の項目には1904年、北海道で撮影したアイヌでの集合写真があります。どう見ても日本人とは全く違う民族です。この民族が消えてしまったのです。明治以後の日本人が消してしまったのです。
私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。妻は右端の女性のように見えました。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない人々でした。いつもニコニコしていましたが何かもの悲しく、消えゆく民族の運命を悲しんでいたようです。皆様でアイヌの人々と直接交わったご経験がおありでしたなら是非体験談をお聞かせ下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
上の写真のように、明治時代まではアイヌは誇り高い民族だったのです。その民族の名誉を後世に伝えた4人の人を以下に示します。
民族の名誉を守ったアイヌ人、知里幸恵さん、知里真志保さん、川村カネトさん、萱野茂さん
民族の豊かな文化を日本人へ伝え、アイヌ民族の名誉を守ったアイヌ人を4人上げれば幸恵さん、弟の真志保さん、カネトさん、そして萱野さんと私個人は思っています。幸恵さんの事は有名ですが、弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道大学教授になった人です。金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。
この中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。(終り)