後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

野菜を食べ健康になろう!美人になろう!・・・西洋野菜と日本の野菜

2013年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

この前の記事、里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」 を書いていたら猛然と野菜に関する興味が湧きあがってきました。野菜は健康のもとと言います。生野菜を毎日食べると美人になるとも言います。前者は本当ですが、後者は気休めです。

野菜についていろいろ検索していたら美しい野菜の画像集がありました。その中から西洋の野菜の写真と日本の野菜の写真をお借りして下に示します。1cyoh1351

上が西洋の野菜で、下が日本の野菜です。

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さてここで大きな疑問が出て来ました。西洋の野菜と日本の野菜はどのように分類するのでしょうか?

西洋の野菜の中にはアジアや中国から移植、栽培されているのも多いのです。

いろいろな議論がありました。しかし私は以下の簡単明瞭に分類することにしました。

(1)明治以降に日本へ移植され栽培されている野菜は全て西洋野菜。

例はタマネギ、結球ハクサイ、キャベツ、トマト、ブロッコリ、カリフラワー、レタス、セロリなどなど。

(2)日本原種の野菜と江戸時代以前に渡来した野菜は日本の野菜。

例はネギ、大根、人参、ゴボウ、カブ、胡瓜、水菜などの菜類、大豆、小豆、などなど。

しかし日本原種の野菜は何でしょう?いろいろ検索して調べていたら野菜に関する疑問が氷解するブログを発見しました。掲載されている写真や絵も美しいのです。それは「野菜の来歴」という名前で、URLは、http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/shurui/1raireki.htm です。このブログには下のようにいろいろな野菜の原産地が描かれています。

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さて次に日本原産の野菜を示します。

フキ、ウド、セリ、ジュンサイ、ラッキョウ、クワイ、アシタバ、ニラ、ヒシ、ジネンジョ、ワサビ、などなど。

そしてそれぞれの野菜が日本へ渡来した時代が以下のように示してあります。

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野菜の日本への渡来時期 (推定を含む)
時 代 野 菜 名
太 古 カブ・ハタケナ・オカノリ・シソ・シロウリ・マクワウリ・ユウガオ・ゴボウ・クワイ・ハチク・マダケ・サトイモ・ネギ・ワケギ・ニンニク・ショウガ
奈良時代
前後
カラシナ・ナス・トウガン・キュウリ・食用ギク・カキチシャ
平安時代 フジマメ・ササゲ・ウイキョウ
室町時代

江戸初期
ホウレンソウ・日本カボチャ・ツルムラサキ・ミブナ・キョウナ・フダンソウ・カエンサイ・ナタマメ・リョクトウ・インゲンマメ・エンドウ・ハチショウマメ・ソラマメ・ニンジン・パセリー・サツマイモ・トウガラシ・ジャガイモ・スイカ・ニガウリ・トウモロコシ
江戸中後期 イチゴ・ベニバナインゲン・ライマビーン・セルリー・ヨウサイ・チョロギ・トマト・ヘチマ・クリカボチャ・シュンギク・キクジシャ・チコリー・スイゼンジナ・キクイモ・モウソウチク・アスパラガス・ナガイモ
明治時代 結球ハクサイ・タイサイ・ルバーブ・オクラ・セルリアク・パースニップ・セージ・タイム・食用ホウズキ・ピーマン・アーチチョーク・食用タンポポ・レタス・サルシフィー・タマネギ・リーキ
大正時代 トカドヘチマ・ハヤトウリ

上の表の右欄の野菜の名の所の右端が切れてしまいましたが、是非、http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/shurui/1raireki.htm をクリックしてご覧下さい。

さて今日これでは止めますがこれから野菜についていろいろ面白い事を記事として掲載して行きたいと思います。どうぞご意見をお聞かせ下さい。(続く)


里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」

2013年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

     群馬県の山の中に下仁田という所があります。水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない山郷です。しかし、養蚕業や織物産業もありかなり裕福です。

名産品の下仁田ネギと下仁田コンニャクは全国的に有名です。

この山の里で少年期を過ごした横山美知彦さんの思い出の記をこのブログで何回か掲載いたしました。(末尾参考資料に一覧表があります)。その横山さんから、「名産 下仁田コンニャク」と題する本が先日送られて来ました。里見哲夫氏が書いた本です。そこでこの本を以下の記事でご紹介しました里見哲夫著、「名産 下仁田コンニャク」、そして下仁田ジオパーク

そうしたら今度は横山さんが、同じ著者の「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」という本を送って下さいました。

一読したら大変興味深い本でした。内容の概略をご紹介すると以下のようになります。

ネギは渡来植物として非常に古くから日本人が栽培し、食べてきた野菜です。

ネギの古い名前は葱と書いて「キ」と読んでいました。キの一字なので「ひともじ」という名前も使われてきました。

原産地は中央アジアや中国西部と言われています。日本には縄文時代晩期の焼き畑農業の始まる頃に渡来したと想像されます。

の後ネギは日本各地で栽培されるようになり地方、地方の風土に適した品種が出来たそうです。

西日本ではネギの葉を柔らかく大きく育てた「葉ネギ」が主流で、東日本では白い根を長く育てた根深ネギが主流です。

日本のネギの品種群は加賀、千住、九条の3群に分類されます。加賀群には下仁田ネギ、松本一本ネギ、秋田太ネギ、青森地ネギ、などなどがあります。

この「里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」の29ページには実に30種ものネギの一覧表があります。

東京で有名な深谷ネギは千住ネギの一種で、下仁田ネギとは素性が違います。

関東地方では九条ネギ群はあまり流通していないようで主に西日本で栽培されています。

この様にネギは各地で昔から改良が進んだ伝統野菜の一種なのです。

それはそれとして、この本の特徴はネギが何時の時代から文献に出て来るかを探求しています。一番古い記録は「日本書紀」の493年の記述にネギが秋葱(あきぎ)と記されています。その後、他の文献にも葱(き)の名前がいろいろ出ています。

それでは下仁田ネギはいつ時代から有名になったのでしょうか?

作者は地元の高崎藩の文献を探し、丁寧に調べ上げました。また下仁田の古い家々の倉に埋もれている昔の手紙や注文書などの古文書を根気よく探しています。

そして下仁田ネギの名前が書いてある幾つかの文書を発見したのです。

それらを総合して里見哲夫氏は「下仁田ネギ」は江戸時代中期以後に有名になったことを証明しました。大変美味しいネギなので大名や武士の間のお歳暮などの贈答品として珍重されたのです。

明治になって鉄道貨物輸送が始まると下仁田ネギの出荷が急に増加し、多くの人々によって美味しさが認められ有名な特産品になったのです。

この本の感動的な部分はこのような歴史的経過を根気よく調べ上げたことにあります。

この本を読んで私は知的な刺激を受けました。いろいろな野菜の渡来の歴史を調べたくなりました。西洋野菜と日本の伝統野菜の違いを調べたくなりました。

野菜の面白い話を書いて見たくなりました。

それらについてはいずれ別の記事として掲載したいと考えています。

下に下仁田ネギに関する写真をお送りします。出典はWikipedeaの「下仁田ネギ」です。

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下仁田ネギは冬に種を蒔きます。上は2月ごろの生育状況です。

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上は晩秋の収穫時期の様子です。201112131

上のように畝を高く盛り上げて根の部分を白く柔らかにしあげます。

=====参考資料======================

横山美知彦著「戦中・戦後の山里の生活の思い出」(3)電気スタンド

横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(2)落し物

横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(1)夜網(よあみ)

山里のコンニャクつくりの様子・・・失われた日本の原風景

横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景

横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出」と

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)


中国が日本を憎む3つの理由(1)日中戦争の間の汪兆銘南京政府への支援と1000万人の戦没者数

2013年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新から日中間の関係は悲劇的な戦争と抗争の連続でした。日本は中国を蔑視し侵略し、中国を分断し、支配しようとしました。

客観的に観察すると中国は日本を深く憎む理由があるのです。大変大雑把に言っても以下の3つ程の理由があると思います。

(1)第一次大戦中の1915年1月に大隈重信内閣が袁世凱政権につきつけた「対華21ケ條要求」と五四運動の永続性。

(2)辛亥革命でやっと清朝を倒した中国人の感情に反して、清朝の旧皇帝の溥儀を満州帝国の皇帝として清朝を事実上復活させた。

(3)日中戦争中に日本は汪兆銘南京政府を支援し、蒋介石の中国を分断した。日本の侵略によって戦死、戦病死、餓死した「戦没中国人」が2000万人出た。

(2000万人は大げさ過ぎ1000万以下、400万人など諸説があるが、中国人はよく2000万人という表現を使っています。)

今回の「中国が日本を憎む3つの理由」という連載では以上3つの理由について私自身の個人的な感想を述べて見たいと思います。

現在、中国は何故、共産党独裁国家になったのでしょうか?

その経過をを以下の3つに整理してみました。正しくはないかも知れません。皆様への問題提起です。ご意見を頂ければ嬉しく思います。

(1)1912年に辛亥革命が成功し中華民国が南京を首都として発足し、孫文が初代臨時総統になりました。しかし北京を統一するために北京の大軍閥の袁世凱へ総統の席を渡してしまいます。袁世凱は古い軍閥で、その後、国内混乱が続きます。その混乱は蒋介石が政権を取る1928年まで続きます。

袁世凱へ総統の席を渡したのは失敗でした。孫文がそれに気付き、国民党がもう一度政権を取るためにソ連の共産党の強力な支援を受けたのです。そして国民党と中国共産党の協力関係を作ったのです。

1917年に、レーニンは共産革命を起こし、ロマノフ王朝のニコライ皇帝を追放し、全国を統一したのです。孫文がそれを手本にして共産革命へ心が傾いていったのも自然なことです。

分かり易く言えば孫文は国民党の生みの親ですが、同時に中国共産党の創立の貢献者でもあったのです。ですから孫文は台湾の国民党からも北京の共産党からも最大の英雄として現在も崇められているのです。

(2)第二次大戦末期と戦後の1949年までは中国国民党共産党は国内で戦争を繰り広げ、政権を武力で奪取しようとします。

その間、ソ連は中国の共産党側へ膨大な武器援助をしました。一方のアメリカは日本占領ととヨーロッパの経済復興に全力をあげていて、中国の国民党を見殺しにしてしまったのです。アメリカの中国大陸政策の失敗が、その後の沖縄基地の強化へと連続するのです。

(3)1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が共産党独裁から議会制民主主義の導入をしました。

しかし中国では1989年に北京で起きた天安門事件のとき鄧小平は戦車を繰りだして弾圧し、共産党独裁を確立します。鄧小平がソ連の崩壊でポーランドやバルチック3国が独立したのを知って、チベットやウイグル族や内モンゴルが独立するのを恐れたのです。経済活動だけは資本主義に変え、政治はあくまでも共産党独裁の国作りを完成したのが鄧小平です。

上の記述を正しいと主張するつもりは毛頭ありません。問題提起としてご紹介して見ました。

さて上に書いたような中国国内の内部抗争の混乱に乗じて日本は山東出兵や第一次上海事変、満州事変などの戦争を繰り返し、ついに1937年(昭和12年)に北支での盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入したのです。

この戦争は1945年まで続き、日本兵の戦死者は47万人ほどでした。(他に満州で25万人が死にました)。

戦争が原因で死んだ中国側の戦没者が国際的に約1000万人と言われています。この数の根拠は薄弱ですがロシア人が2000万人死んだことと比較して不可能な数字でないという人もいます。(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

日本人はこの数字だけにこだわって、中国人が日本を憎む原因はこの膨大な戦没者数だと理解しています。

しかし私は日本が汪兆銘南京政府を支援して混乱の続く中国を分断したことも大きな憎しみの原因になっていると信じています。この日本の策略は中国の弱みに付け込んだ卑怯なやりかたです。心ある中国人を深く傷つけてに違いありません。

その上、日中戦争拡大の発端の一つになった1932年の第一次上海事件は日本軍が金で雇った中国人に日本人僧侶を襲わせたことが原因になって起きたのです。こういうやり方は謀略と言います。

日本軍は中国でいろいろな謀略を用いたのです。その事が中国人の日本へ対する憎しみを一層深くしてきたと思います。

中国が日本を憎むには深い、深い原因があると理解すると、対中外交戦略を間違わないと信じています。それが日本の国益を守るのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

下に孫文と蒋介石の写真をWikipedeaからお借りして掲載します。

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