老人になって始めて人生の深い喜びが理解出来るのです。
例えば夫婦になって、新婚、中年、そして老年と一緒に時を過ごしてみないと男女の関係の深さが本当に判りません。途中で離婚した人から反対意見が出そうですが、まあ、そういう事にして置きましょう。
自分も充分に老人の年齢を重ねました。すると、その毎日が幸せなことに吃驚しています。
若い時や中年時代より幸せな感じがヒシヒシとするのです。
その心理状態を説明しても若い人には理解して貰えません。
「朝、目が覚めると、生きていることに感動し、幸福感に包まれるのです」。「夜床に入り眠りにつく前に今日一日無事に過ごせたことを感謝します」。と、書いても若い人は笑い飛ばしてしまいます。
若者にとっては、それが何故幸せなのか理解出来ません。老人になるとその幸せが実感出来るのです。毎日、実感するのです。
老人になると人生の厭な事は綺麗に忘れ、楽しかった思い出だけになるから幸せなのです。この境地は若い人には分かりません。
現役の間に、気楽に仕事をしていては、馘首されて、お金を貰えなくなるのが普通です。仕事の現実は厳しいものです。しかし引退してしまえば、そんな苦労は雲散霧消です。
もうう一つ重要なことは仕事の上でお世話になったり、師として指導してくれた恩人たちが皆旅立ってしまいます。
別れは悲しいものです。思いかけない温情を頂いたことに感謝しています。いくら感謝しても感謝しきれません。そのような恩人にも大変お世話になりました。その思い出は老人を幸せにします。
しかしそのような人々の優しさや助けが、現役のあいだの自分にとっては そこはかとない束縛だったのです。重荷だったのです。
そのような方々がみな旅立ってしまった後は、その深い温情だけが思い出として残ります。そしてその束縛から解き放たれるのです。
必ずやあの恩人はあの世で優しく待っていているのです。
子供を育てる苦労もとうの昔に卒業しました。
・・・数え上げればキリがないので止めます。結論は「多くの老人は幸せだ」という事です。もちろん例外もありますが。
私は時々、山林の中の小屋に行き、近所を散歩します。すると老人が一人で住んで居る小屋が5軒もあります。
何時も会うわけではありませんが、時々はそのような孤独な老人に会います。例外なく幸せそうにしています。
家族は都会にいても独りで暮らしている人もいます。老境の幸せを楽しんでいるのです。下にその家の写真を2つだけ例として示します。
この上下2つの小屋の西側は崖になっていて、川が流れています。そして、その向こうに白く雪に覆われた甲斐駒岳が輝いているのです。
そして私は下のような小屋の窓から小さな庭をボンヤリ眺めているだけで幸せなのです。そんな状態は若い時には想像も出来ませんでした。バーベキューをしたりビールを飲んだりする時こそが幸福な時だとばかり信じていたのです。
勿論、老境には老境としての悲しみや苦しみがあります。その内容は若い人の想像どうりです。体力が無くなる。病気と仲良くなる。家族や友人が先に亡くなって行く。みんな淋しい悲しいことです。それはあらためて書くまでも無いことです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)