先日掲載した記事へ「カトリック初心者」さんからいろいろな質問を頂きました。
先日の記事は、淡いまじわりが良い人間関係を長続きさせる! です。
質問へ対して確信をもってお答え出来ませんが、私の感想をお送りして答えにかえさせて頂きたいと思います。
====「カトリック初心者」さんからのコメント===========
こんばんは。カトリックにおいて、いくつか質問があり投稿させていただきます。
①「主の平和」は、どう解釈したらいいですか。
②小さい頃、祖母からご先祖様を供養し敬うよう言われましたが、
キリスト教では先祖については、どのような教えですか。
③因果応報、自業自得、のような教えはありますか。
④なぜ同性愛を認めないのですか。
以上です。もしよろしければ、ご回答をお願いします。
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まず一般的なことを書きます。キリスト教にはいろいろな宗派があり、それぞれが異なった「信者が守るべき規則」や「信仰の仕方」を定めています。
その違いはイエス様の教えを書いた福音書のどの部分を重要と信じるかによって生じる相違なのです。
この様子は仏教でも全く同じです。
ですから変な規則や信仰の形式にぶつかったら、それは本当にイエス様のお心なのか、後の人間の教えなのかを自分で深く考えることが重要になって来ます。
頂いたご質問を実例にしてもう少し私個人の感想を申し上げます。
①「主の平和」は、どう解釈したらいいですか。
分かり難い言葉ですね。しかし簡単に言ってしまえば神様が与えてくれる平和という意味です。
世界には戦争の無い平和な国がかなりあります。しかしそれは軍事的なバランスによって出来ている「はかない平和」です。バランスが崩れると一瞬にして戦争が起きそうになります。この軍事的なバランスによる平和は人間が作った「かりそめの平和」です。
それに対して神様の与える平和は人間の心の中へ頂ける絶対的な平和です。それはその人が戦場にあっても心で体験出来る平和です。その平和は牢獄の中にでもあるのです。私はそれを100%確信してはいませんが、時々確信する時があります。そんな瞬間はとても心が休まります。信者が「神父さまの上にも主の平和」と祈るのは神父さまの為でもあり、自分の為にもなっています。そんな感じがします。
②小さい頃、祖母からご先祖様を供養し敬うよう言われましたが、
キリスト教では先祖については、どのような教えですか。
まずとても良い祖母へ私も敬意を感じます。そして幸せな祖母との日常が目に見えるようです。幸福な幼少時代です。
キリスト教では露骨に先祖様を敬えとは教えていません。しかしカトリックでは11月に死者の日があり、その折りに墓掃除と花々を供えて墓参りをします。ヨーロッパでそんな光景をたびたび見ました。
全ての死者へ尊敬の念を持つことは人間として大切なことです。私は春と秋のお彼岸の折りに必ず父母や親類の墓参りを家内と一緒にします。
その折り、家内の直系の先祖だけでなく親類の墓にも線香を上げます。すると次第に心が大きくなり、その墓地にある全てのお墓の主の冥福を祈りたくなります。
まあ、そこまで広げなくても墓参りをすれば自分の気持ちがよくなるから行くのです。それで良いではありませんか?お葬式も同じことです。
③因果応報、自業自得、のような教えはありますか。
あります。それはおもにキリスト教の旧約聖書に丁寧に書いてあります。
しかしイエス様は人間が考える因果応報や自業自得の理解にこだわらないことを教えたのです。それよりも神様を大切にして愛して、そして隣人を愛することの重要性を強調して教えているのです。
この延長に復讐はするな、それは神のことと教えたのです。
私は、因果応報、自業自得にこだわると心が暗くなります。だからそんな感じ方をしないようにしています。それは個人、個人の感じ方の問題のように思っています。
④なぜ同性愛を認めないのですか。
これはカトリックでは何故離婚を認めないのかという問題と関連が深いと感じています。
聖書には結婚は神が与えた奇跡だという意味の言葉があるようです。
ですから奇跡ではない離婚や同性愛は神様はあまりお好きではないようです。私はそんな感じて受け止めています。
しかし人間社会はそんな綺麗ごとですみません。離婚も起きますし。同性愛もあります。私のまわりに もしそのようなカトリック信者がいても 私は絶対にその人を非難しません。いや非難してはいけないものと信じています。
ですからそのことを洗礼を受けるか否かの条件にしないほうが良いと感じています。洗礼を受けてからゆっくり考えるほうが良いと感じています。
さてカトリックの良さの一つを書いてお終いにしたいと思っています。
このブログはカトリックの神父様も時々ご覧になっています。
私が勝手なことや間違ったことを書いても神父様は絶対に非難しません。破門されることもありません。そこがカトリックの良いことだと嬉しく思っています。(終わり)
======参考資料===============
キリシタン禁教時代の隠れ信者の恐怖を示している教会堂建築
長崎の港の外に伊王島という島があり、その大明寺に聖パウロ教会堂がありました。明治12年に建造され、昭和48年まで100年間も使用されていた木造建築です。外見は普通の和風の建物に見えますが、内部はフランスのカトリック教会のように出来ています。
この上下の写真は2010年4月に愛知県の明治村で小生が撮影いたしました。
===以下は「カトリック初心者」さんからこの記事へ対するコメントです===
早々にご回答くださいまして、ありがとうございます。
真摯にお答えくださったことに感謝いたします。
また、祖母をお褒めいただいたことも重ねてお礼申します。
今まで疑問に思っていたことが、すーっと解けました。
宗教に多くの宗派があるのも、それだけ奥深いからなのだろうと
漠然と思っていましたが、『どの部分を重要と信じるかによって
生じる相違なのです。』に、得心が行きました。
そして、『それは本当にイエス様のお心なのか、後の人間の教えなのかを
自分で深く考えることが重要になって来ます。』の一文は、
後々の自分のために心に留めておこうと思います。
明晰なお返事をありがとうございました。
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