後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

130年前の日本の風景(5)明治20年頃の働く日本人の写真

2013年02月19日 | 写真

エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。

彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。

その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。

その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。

このブログではその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつを5回の連載としてご紹介いたします。

1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いようです。

その写真を見ると明治時代は江戸時代とあまり変わっていない事に吃驚します。

今日は、明治20年頃の働く日本人の写真をお送りいたします。撮影時期は正確に記録されていませんが、1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。

エドワード・モース氏とジョージ・ピーボディー氏、そして小学館へ深い感謝と敬意を表します。

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上と下の写真は明治時代の漁師の写真です。藁製の腰蓑が古風です。担いでいるすくい網も無骨な作りです。

下の舟は五丁櫓の快速舟です。

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下は遠い海を渡る運送用の和船です。江戸時代そのままの構造です。

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下は駕籠を担ぐ人の休みどころです。現在ならタクシーの車庫のようなものです。庶民が乗る駕籠は簡素な造りで、簾などついていません。

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下は裕福そうな家庭の夫人が着物の洗い張りをしている様子です。こんな光景は第二次大戦頃まで見られました。私の家でも祖母が洗い張りをよくしていました。その時使っていた洗い張り用の長い板がその後何十年もあったものです。

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それにしても現在、絹織物の和服の洗濯はどうするのでしょうか?不思議です。

この連載記事の「130年前の日本の風景」はこの5回目で4一応終了致します。ご覧頂きまして有難う御座いました。(終わり)


汪兆銘南京政府と玄奘三蔵法師の遺骨・・・戦争と宗教遺産の関係

2013年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦は2000万人のロシア人がドイツ兵に殺され、400万人のドイツ人も死にました。

アジアでは1000万人の中国人が日本兵に殺され、300万人の日本人も死にました。人類の歴史に未曾有の大戦争だったのです。

ドイツが占領したフランスにはヴィシー政府が出来、ドイツに協力します。

同じように中国の南京には1940年に汪兆銘南京政府が成立し1945年まで日本へ協力しました。

下の写真は南京政府主席の汪兆銘が自分の軍隊を閲兵している場面です。

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この様な社会の大激動の中で、汪兆銘南京政府が玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨を日本へ寄贈したのです。

その遺骨は日本の軍隊が発見し、汪兆銘南京政府へ届け出たものでした。日本人が玄奘三蔵法師を尊敬していることを知っていた南京政府が日本側へ寄贈したのです。

この様に南京政府は日本側へ協力し、日本軍の武力を背景にして重慶の蒋介石政権に対抗したのです。

戦争になれば文化遺産でも宗教遺産でも、なんでも利用出来るものは利用するのです。

さてこの玄奘三蔵法師の遺骨が本物であるかという大問題があります。

以下にその真贋の検討をしたいと思います。

この遺骨は第二次大戦中に日本軍が南京を占領したとき発見したものです。遺骨の届け出を受けた南京政府が日本へ寄贈したものです。

この前後のいきさつを軽く見過ごしてしまうと真贋の検討は間違うと思います。

いろいろ考えてみると、これが三蔵法師の遺骨であるという科学的根拠が無いのです。全然無いのです。

ですから偽物と思うほうが無難だという結論に到達します。

勿論本物である可能性はゼロではないかも知れません。

しかしその可能性が非常に小さいのに本物だと主張する態度は科学的に間違っているのです。

しかし一方この遺骨の一部を宗教的記念物として大切にするのは個人の自由です。

そこで信仰の立場からもう少し詳しく記述してみます。

三蔵法師の遺骨の一部である頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。

この刻文が正しくても遺骨が三蔵法師のものだという科学的根拠にはなりません。他人の遺骨かも分からないからです。

この頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。

その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。

私は2009年9月14日にお参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が、慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。

見順住職はこの遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為のものとして公開することにしたのです。

そこで見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。

慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。家内と一緒に行きました。

13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけでした。

下の写真が玄奘塔の入口の門です。中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心が感じられるようです。

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下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあるそうです。

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下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。

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下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。

場所は、http://www.jionji.com/に御座います。

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広い敷地には参詣人は誰も居ませんでした。

玄奘三蔵法師の遺骨と南京政府の関係を思うと、どうしても日本軍の中国大陸への侵略のことを連想します。

残念でなりません。平和な時に玄奘三蔵法師の遺骨が日本へ来ていればもっと参詣人も増えたと思います。

複雑な思いで埼玉県の岩槻の慈恩寺を後にしました。

残暑の厳しい4年前の9月14日の午後でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)