フォトアルバム「山林の中の小屋」へ5月21日撮影の小屋の周辺の写真、6枚を追加しました。
昨年11月のブログ開始以来のこのアルバムを見ると、枯れ葉の一面に散り敷く庭、寒そうな蒼穹の高い梢、雪に覆われた小屋、雪の小川、芽生えの季節、新緑、そして深い緑の影と季節の移ろいの早さに驚いています。(終わり)
フォトアルバム「山林の中の小屋」へ5月21日撮影の小屋の周辺の写真、6枚を追加しました。
昨年11月のブログ開始以来のこのアルバムを見ると、枯れ葉の一面に散り敷く庭、寒そうな蒼穹の高い梢、雪に覆われた小屋、雪の小川、芽生えの季節、新緑、そして深い緑の影と季節の移ろいの早さに驚いています。(終わり)
二宮尊徳が薪を背負いながら本を読んでいる姿の像が全国の小学校に建てられた。軍国主義華やかな昭和の時代に。それに、歩きながら本を読んで勉強している。無理しすぎているようで嘘っぽい。そんな姿を創作して全国の小学校へ国費で配る文部省の時流に乗った意図に抵抗を感じる。少なくとも戦後、そう思った日本人は少なくなかったと思う。
しかし二宮金次郎の生涯を少しでも調べると、その人間としての偉さに圧倒される。金次郎は百姓の出身だ。だが武士階級は彼の卓越した農村行政能力を高く評価した。疲弊した農村へ派遣され、豊かな村へと変貌させた。農民の人望を集めたお陰で短い年月で豊かにしたという。
武力を持たぬ1個の農政家が、改革するには人間的魅力以外武器は持たない。
死後、神社に祭られた。出身地の小田原だけではない。豊かにした土地にも神社に祭られた。
========出典はWikipedia==================
二宮尊徳をまつる『二宮神社』が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(今市報徳二宮神社)、農村改革の地・栃木県芳賀郡二宮町(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県芳賀郡二宮町にも二宮尊徳資料館がある。
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上の写真6枚は小田原城の二の丸にある、報徳二宮神社、撮影日時:5月17日午前11時頃
日本の学校で日本の歴史を教える場合、奈良、京都、江戸の中央政権の表面的な全国統治のことを強調して、詳しく教えている。
決して地方、地方の小さな武力政権がどのように領民を統治したかとう視点からは教えていない。
後北条氏5代の墓のある湯本、早雲禅寺の墓地を散策しながら、そんな感慨に捉われた。
例えば1495年に北条早雲が、大森氏の小田原城を陥落させ入城した当時は、関東地方に
小さな武力政権が数多く散在していた。以下の一文はその状況を詳しく示している。
しかし、関東地方を制圧した後北条氏も、1590年の豊臣軍勢による小田原城攻撃により
滅んだ。この間の95年の関東地方の歴史は学校教育では教えない。このような地方の武力政権は諸藩の領民統治として明治維新まで続いた。
早雲寺の緑深い大木の下で、箱根や小田原地方の歴史を想像しながら、写真を撮り続けた。その一部を上に紹介する。
============Wikipediaより引用==============
北条早雲の後、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に五代続き、関東管領の上杉氏や関東公方足利氏を追って関東地方に勢力を振るった。古河城を治めた後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下であった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘に於いては敗退が目立つが、着実に支配を広めた。織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結ぶなど、最大版図は240万石に達したとされる[1]。
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撮影日時:5月17日、午前9時頃。
小説にも出来の良いものと悪いものがある。出来の良いものは3つの条件を満たしている。反対される方も多いかも知れない。でも、これが自分の尺度である。1)分かり易い言葉と文章で書いてある、2)ストーリーの展開が面白くドラマチックである、3)人間への洞察が深く、人間とはどういうものかが描いてある。最近の色々な文学賞の受賞作はまず文章が分かり難い。それにストーリーの展開がない。これを冷静に考えると最近の小説の優劣の基準は異なって来たと理解できる。
まあ、時代が変われば価値観も変わる。それも良い。
昔から文学好きの家人は現在の小説も読んでいる。議論はしない。しかし旅に出れば色々な文学館に寄る。山中湖へ遊びに行くと三島由紀夫文学館へ行く。「山中湖文学の森」の中に三島由紀夫文学館と徳富蘇峰記念館が並んで建っている。こいう組み合わせは合点が行かぬので蘇峰さんの方は失礼することが多い。
三島由紀夫こそノーベル文学賞を貰うべきだったと、小生は今でも残念に思う。上の3条件を満たしているのは当然だが、国際的に比較してもその芸術的香りの高さは抜群ではないかと感じている。彼の文学館の中庭にあるギリシャの彫刻が普遍的な価値があるように、三島文学にも普遍的な価値が高い。
家人のお付き合いで訪問した文学館で忘れがたい印象があったのは以下の通りである:
世田谷区の芦花公園にある徳富蘆花記念館、加賀様の元別荘にある鎌倉文学館、横浜、港の見える公園にある神奈川近代文学館、小諸市の藤村記念館、花巻市にある宮沢賢治記念館、岡山文学館の中の内田百閒記念室、石川四高記念文化交流館と泉鏡花文学館、松江市の小泉八雲記念館などなど。作品と作家の生活は別もので、混同してはいけないと言うが、作家の生活の様子を知ると作品に親近感が湧くのも事実だ。(終わり)
写真説明:上の大きな写真と続く3枚は三島由紀夫文学館の内外であり、最後の写真は徳富蘇峰記念館の建物である。
撮影日時:5月16日午後2時頃 撮影場所:山中湖南岸にある「山中湖文学の森」にて
1973年に山梨の山林の中に小屋を作ったとき大変お世話になったHさんの家に寄ってみた。花々が好きで冬以外は庭の花々を絶やさない小母さんが居た。ご主人は種卵専門の養鶏をしていた。普通の卵の2、3倍大きい種卵を何度も貰い、山小屋の朝食が豊かになり楽しかった。満州からの引き上げの苦労にも拘わらず明るく親切な夫婦である。それから、しばらくして訪ねると、小母さんが独りいて、「主人はこんなふうになりました」と新しい仏壇を指さした。あんなに明るくて元気な彼が死んでしまうとは。言葉に詰まった。息子が1人いて当時は東京で建設重機の運転をしているという。あれから茫々35年。昨日、久しぶりに寄って見た。当時、重機の運転をしていて、会ったことの無い息子が出てくる。小母さんは元気だが、定期検査で留守だという。昔話をしてから写真を撮らせてもらう。
相変わらず庭には花が絶えない。梅も櫻も、そして棚の藤も散った後だが、オオデマリ、ジャーマンアイリス、デージー、ボタンなどが咲き誇っていた。
「小母さんが居るとき、又来ます」と言って帰る。(終わり)
撮影日時:5月21日午前11時頃。
鬼家雅雄さんからシイタケ菌を植えつけた雑木丸太5本とナメコ菌植え付けの丸太1本を貰って来た。太く重い丸太6本を車まで運ぶのに往生した。伐採、丸太作り、キノコ菌植え付けをした鬼家さんの数ケ月にわたる、ご苦労へ頭が下がる。
聞けばシイタケは簡単で秋になると食べ切れないほど出て来るという。
我が家の裏庭に丸太を並べ。さて水かけはどうしようか?と、迷う。教わった(株)秋山種菌研究所へ電話する。営業担当の秋山直司さんが親切に色々教えてくれた。「種菌のついた小さな木栓や種菌混合オガクズは通信販売しています」「だれでも雑木丸太への埋め込みまでは丁寧にします」「素人さんは、その後、毎日見て乾燥したら水を如雨露でかけるのを忘れて枯らしてしまいますね」「梅雨明けに丸太の切り口を注意深く見ると白い菌粉が出ていればキノコ菌が丸太内部にシッカリ繁殖したという証拠です」、「そしたら、水掛けを忘れなければ必ずシイタケが秋にいっぱい出てきますよ」「プロの農家は他の作物を毎日観察するついでにシイタケ丸太も観察します。水を切らせません。素人はそれが出来ないのです」
シイタケ種菌を雑木原木へ植え付ける作業は簡単だそうだ。電動ドリルが使えて、直径9ミリくらいで深さ20ミリの穴を多数開けられる人なら誰でも出来る。
上の大きな写真の丸太にポツポツと丸いものが見える。シイタケ種菌オガクズを詰めて、蝋で封したものである。写真は鬼家さんが植えつけた丸太を2ケ月ほど日陰に寝かせたものである。この中から6本の原木を頂いてきた。
種菌の植付け方法の詳細は鬼家さんおブログの2008年4月1日、2日、4日に掲載された3回の記事で説明してある。鬼家さんのブログのURLは左外欄の一番上にあります。
秋山種菌研究所のURLは、http://www.mushroom.co.jp/index.htm です。
電話して秋山直司さんと直接話せると勘所を明快に教えてくれます。我々素人の失敗する原因を良くご存知です。秋になってシイタケが出ても、失敗しても、ご報告します。(終わり)
懐かしい蒸気機関車の写真につられて、鉄道マニアが書いた本をつい購入し、読み始めた。
なんと退屈な、つまらない本。始めの数ページで投げ出した。
小生も反省。「ヨーロッパ風ホテル」のマニアが書く回想文など、皆様にとってはさぞ退屈なものに違いない。それで今回限りで古いホテルの話をおしまいにしたい。(でもコメント次第では続けるかもしれない。)
書きたいホテルは宮ノ下の富士屋ホテル、日光の金谷ホテル、軽井沢の万平ホテル、上高地の帝国ホテル、白馬東急ホテルなどについて。
今回は明治11年創業の箱根、宮ノ下の富士屋ホテルのこと。訪問した5月16日は曇天で写真映りが悪い。でも、明治期の木造洋風建築のシェルエットが浮かび上がる。誰も実物を見たことの無い、「竜宮城」を連想させる。これを作った明治の人々も設計・建築の過程を楽しんだに違いない。夢多い人々。
中へ入れば薄暗い。蛍光灯を使わないで昔風の暗い照明。以前に泊まった時と何も変わっていない。ロビーのフロントの机が高くて首近くまである。西洋人の身長にあわせた家具調度。
天井は格天井。とくにメインダイニングの格天井には一枚一枚、花の絵が描いてある。
以前に泊まった時の、夕食のコースは昔の通りに丁寧に料理した西洋料理。定石通り、スープ、パン、フィッシュ、サラダ、ミート(メインディッシュ)、デザート、コーヒーで終わり。アメリカ流にサラダの大盛りが最初にいきなり出てこない! サービスの良さについてはもう繰り返さない。
昔のホテルのサービスは良かったとよく老人が言う。本でも読んだし、老人から直接聞いたこともある。しかし昔のホテルの料金と毎月の生活費を比べてみるが良い。ホテルのお客と従業員の数の比の今昔をくらべてみるが良い。その様な背景を考えずに昔のサービスが良かったと主張するのは公平さに欠けている。
現在の宮ノ下の富士屋ホテルに平日、2名で泊まった場合の一室料金は18780円(本館)である。現在の大学卒の初任給月給がおおよそ20万円とすると、その十分の一以下である。
大都会のビジネスホテルでも食事無しで1人6000円は取る。富士屋ホテルは2人の料金で18780円だから1人あたり9390円になり決して法外な料金では無い。
明治期の人の作った洋風ホテルの雰囲気を楽しむために泊まる人々にとって決して高い料金とは言えない。それにサービスが良い。格安と言えば言いすぎだが適正な料金だ。
泊まる人々の目的に合わせて料金が設定されているのもサービスの良さの一つ。
宿泊料が建築時期によって違う。明治24年建築の本館、明治39年建築の西洋館、昭和11年建築の花御殿、昭和35年建築のフォレストロッジ、そして天皇の御用邸だった別館の菊花荘(明治28年築)と料金が区別してある。フロントへ頼んで見学・下見をしてから、宿泊の決定をするのが良い。部屋は同じ構造でも眺望が違うし、古いだけに建具の様子を見て、部屋の感じを掴んでおくほうが良い。
最後に最近のホテルのサービスについて一言。平均すれば決して悪くは無い。しかしサービスの仕方に今昔がある。
最近はケンタッキーフライドチキンやマグドナルドハンバーガーなどのチェン店が全国にあり、所謂アメリカ流のマニュアルサービス方法が浸透している。
マニュアルに従ってサービスをすれば素人でもあるレベル以上のサービスが提供出来る。アメリカ資本主義のビジネスでは「マニュアル化」が非常に重要である。職人でなく素人を使える。人件費が格安で事業展開が出来る。職種別の職人の集団である労働組合を牽制できる。利潤増大のためには全ての場面でマニュアル化が要求される。
ケンタキーチキン店で、中年の男性が、「チキン20個!」と注文した。瞬間的に、女店員が、「お店で召し上がりますか?お持ち帰りですか?」と聞く。客がア然として呟く、「チキン20個を店で食べる奴がいるのかよ!」
マニュアル式サービスの限界を示す話。(終わり)
撮影日時:5月16日午後3時頃。箱根、宮下、富士屋ホテルのURLは、
http://www.fujiyahotel.jp です。(紛らわしいが、富士屋ホテルは同じ経営者で彼方此方にある。要注意)
山中湖、富士の眺望の良いホテル、Hotel Mt.Fuji 関連の写真4枚。
ホテルの前に湖が広がり、その向こうに富士山が聳えている。そんなホテルを探し回り、泊まったところを2ケ所ご紹介する。
河口湖の旅館やお土産屋が集中している観光中心地から西の方へ旧道を2kmくらい回りこんだ湖岸からは富士山が真近に見える。その辺にあるのがホテル美富士園。ホテルと言っても、一泊二食付きで受ける日本式旅館である。晴天で風が無ければ河口湖に映る逆さ富士が見られる。設備やサービスは悪くない。何年か前に泊まったときは晴天で逆さ富士が見えて興奮した。広い駐車場も湖岸にあり、その下の水際に散歩用の遊歩道が出来ている。夕焼けの富士も美しい。
もう一つのホテルは山中湖の西の小山の頂上にあるHotel Mt.Fuji である。東側の眼下には外輪山に囲まれた山中湖が広がっている。反対側の西側には忍野八海のある盆地が見える。富士山は南側にあるのでテラスや庭に出ると見える。晴天である限り、時々刻々、色合いを変化させる富士の姿を楽しむことが出来る。今回は曇りで富士は姿を現さなかった。
このホテルでは昔、ある分野の国際学会を開催したこともあり、懐かしいところである。施設とサービスは申し分が無い。
以上の2ケ所の他にも富士の眺望の良い旅館もあるが、泊まる前に実地を見て泊まる部屋の窓の向きと湖、そして富士山の位置関係をよく調べる必要がある。勿論、西湖、本栖湖、精進湖の周辺にも富士の眺望の良い宿はある。(終わり)
写真説明:上の大きな写真は河口湖北岸で富士の眺望の良いところのホテル群。
下の5枚のうちの左2枚はホテル美富士園の写真。3枚目は部屋からの眺望で写真の左の雲の中に富士山がある。あとの2枚はホームページから転載です。
最下列の4枚の写真はHotel Mt.Fuji 関連の写真。左端はホテル棟の写真、
その右はホテルの東側の庭の写真、その右の写真は山中湖の写真で右手方向に富士山が見える。最後の右端の写真は西方向に広がる忍野八海のある盆地で、左方角に富士山がある。曇りの悪天候だったので写真が暗い。
Hotel Mt.Fuji のURLは、http://www.mtfuji-hotel.com です。
ホテル美富士園のURLは、 http://www.mifujien.co.jp/ です。
撮影日時:5月16日午後2時頃。
ホテルの良さは泊まって見なければ分からない。でも昼食だけで足しげく通うホテルがある。河口湖のハイランドレゾートホテルである。メインダイニング、中華レストラン、和食亭、イタリアンと4つあるが、一番気に入っているのはイタリアンのカフェレストラン、アンジェロ ミオである。ウェイターとウェイトレスのサービス、挙措が洗練された文化を感じさせ、必要なときに必ず寄ってくる。建物がメリ-ゴーランのように八角形で内装の色彩も楽しい。
パスタもピラフも丁寧な料理ぶりで味のバランスも良い。先日食したのはイベリコ豚の網焼きが数切れ乗ったピラフであった。イベリコ豚の生ハムは食べたことがあるが、網焼きは始めて。歯応えがあり、肉の滋味が深い味わいを出している。ピラフも美味しい。良質な材料を繊細に調理したサラダバーも付いている。それで1600円とは感心である。
マニュアル化されたアメリカ式サービスであるが日本人らしいきめ細かな優しさがある。寛いだ気分で食事が楽しめる。黒服の男性マスターがいつも客の食事の進行の様子を見ている。料理を運ぶ人へ指示していないが、ウェイターもウェイトレスも時々マスターの目を見ている。
天気がよければ目の前に富士山が見える。パラソルの下で外の木製デッキで食べるのも気分が良い。
ここで昼食をすると、もう一つの楽しみがある。外へ出て、白樺、芝生の道を行くと富士山の絵を展示している美術館がある。レストランの会計をすると1000円の入場料が半分になる券をくれる。
芸術的に富士山を描くと、成る程こういう絵になるんだな、と興趣が尽きない。それに全て撮影可であある。出品者は、小倉遊亀、奥村土牛、林 武、東山魁夷、梅原龍三郎、前田青邨、藤田嗣治、横山大観、鏑木清方、片岡球子など数十名。日本画・洋画家の作品が楽しめる。
(石坂浩二や加山雄三の絵も最後にある。)
写真説明:大きな写真はカフェ・レストランの内部の様子、下列左端から、12階のホテル棟の写真、美術館への道の写真、美術館エントランスの写真、美術館内側から外を見た写真、熊谷守一の絵画、そして最後は石坂浩二の絵画である。撮影日時:5月16日12時頃。
ホテルのURL:http://www.highlandresort.co.jp
美術館のうRL:http://www.fujiyama-museum.com
高級旅館、高級ホテルとは宿泊料金の高さで判断する人々が居る。が、それは大きな間違いである。良質な日本文化が詰まっている旅館を高級旅館という。同じようにヨーロッパ文化の良いところだけが濃縮されているのが高級なホテルという。すくなくとも小生はその様に判断している。
そんな基準で河口湖近辺で良いホテルといえば、かつての富士ビューホテルを上げたい。昭和11年に山口正造が作ったホテルである。戦前は外人の客が絶えなかった。戦争末期にはドイツ大使館が疎開して来た。戦後は占領軍に接収されアメリカの高級軍人専門のホテルとして使用された。接収解除後は昭和11年創業当時の西洋風木造建築のまま営業を再開した。
山口正造の写真の左に営業再会当時の玄関側と庭側の写真がある。小生が家族とともに始めて泊まったのは1975年頃。古い木造西洋館であった。ロビー天井には太い梁が渡っていて格天井である。梁の上に飾ってある動物や猛禽の剥製に子供が怯える。
部屋のドアのノブは外人仕様で高いところについている。ベットもバスタブも長く大きい。椅子もテーブルもヨーロッパ在住の間に泊まった各地のホテルと実に似て重厚である。
何故か旧懐の情が沸き上り、胸が締め付けられるような気分になる。
ホテルの良さとはサービスの質の高さであろう。受付をするホテルマンは見かけは日本人だが何かヨーロッパ人のような対応をする。ダイニングでの夕食の料理の運び方、テーブルでのさし出し方が洗練されていて動きを見ているだけで懐かしい。
最近の所謂高級レストランのウェイターのように、運んだ料理の解説など余計なことは一切しない。マスターは客全員に目を配りそれぞれの客が何かして貰いたいか、即座に判断しボーイへ指示を出す。ボーイが飛んできて客の要求を聞いてサービスをする。全てが静かにすすむ。客同士がかわす静かな話し声だけが楽しげに聞こえている。
富士ビューホテルはそんなホテルだった。河口湖近辺で旅館にも泊まったし、その他のホテルにも泊まったが、改築前の富士ビューホテル以上のサービスを体験したことが無い。
しかし経営者が変わり、鉄筋コンクリート製に改築されてからはサービスの質が変わった。
決して悪くはないがどこか以前のようなサービスではない。
似たようなホテルとして山中湖に横浜グランドホテルが夏場だけ営業していた木造洋館のホテルがあった。これも閉鎖されて久しい。
写真説明:大きな写真はホテル側から河口湖の対岸の外輪山を写す。下列左端から、ホテルの正門、次は昭和11年当時の木造洋館のホテルの表側と庭側と創立者、山口正造の写真、左から3枚目は現在の玄関、4枚目は玄関入り口から外を見た写真。5枚目はロビー外のテラスの様子、最後の1枚は庭の樹木の様子。撮影日時:5月16日午前11時頃
ホテルのURLは、http://www.fujiyahotel.co.jp です。(終わり)
府中市立美術館で5月17日から6月29日まで、竹久夢二、万鉄五郎、恩地孝四郎、武井武雄、川上澄生、鈴木信太郎、初山滋、棟方志功など数十人の創作版画展が開催されている。見に行ったらほのぼの楽しい気分になりましたので、ご案内します。
尚、府中市美術館の常設展示もなかなか充実しています。それに牛島憲之のアトリエ(上の写真)や絵画20点以上展示している特別室も穏やかな雰囲気で良いです。
周りの公園や池、そして付属レストランも静かで心休まるので、それらの写真を示します。
無料駐車場は美術館の東方向約100mくらいのところにあります。美術館の入場料は300円。アクセスなど詳細は、http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/ をご覧下さい。(終わり)
大学時代のクラス会があった。卒業後50周年の会。隣に座ったG君に近況報告の順番が来た。立ち上がった彼が言う、「この会に出るのも今回限りとなります」と。そして持病の進行を淡々と話す。
次の朝、洒落たハンチング帽を被り、明るいグレイのジャケットを粋に着こなしたG君と、ちょっとした旅へ出る。遠方から来たM君を小田原駅へ送るのも兼ねて、小生の車で箱根、奥湯本の宿を出る。
G君の思い出の場所を巡る小旅行。G君は高校卒業以来、小田原には住んだことが無い。
始めに湯本の早雲寺の裏へ行く。大学受験の勉強をした本堂の庫裏の間。後北条氏五代の墓所から見下ろすと、よく手入れされた小堀遠州ふうの裏庭がある。それへ面した庫裏の白い壁が見える。55年前の寒い冬2ケ月籠もったという。すぐ合格して北国の仙台の大学へ行った。母親が先代の住職の大黒さんと女学校の同級生だったので早雲寺へ来ただけです。と言う。
次に行ったのは小田原の三の丸小学校と二宮尊徳神社。車で30分程の所。
戦争中、小田原に住んでいたある宮様の子供が彼の小学校へ入学することになった。建物を新たに立て直す。校長以下教師全員を東京高等師範学校の卒業生と入れ替えた。だから現在も三の丸小学校は全国有数の立派な校舎を持つと言う。なるほど、着いてみると、和風の雰囲気のある鉄筋コンクリートの大きな校舎群が見える。高度成長のころ市役所が建てた校舎である。以前の木造、和風の校舎の趣を残している。目の前には小田原城の箱根口があり、豊かなハスの葉が堀を埋め尽くす。かつて城跡で遊んだG君は小学校や城の話を楽しそうにする。昔は小学校から海が見え、砂浜でよく遊んだという。
二の丸跡に、二宮尊徳神社がある。一般に知られていない尊徳さんの農村活性化の逸話を聞く。G君は尊徳さんを心底尊敬している。多くの年老いた日本人は尊徳像から戦争中の軍事教育を連想して心穏やかではないが。
G君にとって、尊徳さんと第二次大戦とは関係ないようだ。
昼食には間があったので真鶴半島の突端の常緑樹の大木の林へ行く。車で行けば30分の近さ。G君が育った地はなんと自然が豊かな土地なのだろう。
昼食は小田原の青物町にあるウナギ屋の蒲焼。ウナギは色々食したが青物町のウナギは身が厚く、ふっくらと煮含めたように焼き上げてある。味は甘みを控えた昔風のサッパリ味。しかしウナギの脂がのっていて味に奥行きが出ている。
こんなすばらしい「うな重」が非常に低価格である。
小田原高校を卒業するまで此処に住んでいたG君が、クラス会の折々に小田原の自慢をさりげなく話していた。蒲焼を食しながら、その事を思い出し、成る程と納得する。
小田原城の堀を埋め尽くすハスは夏になると一面の白い花を咲かすと言う。
駐車場の案内人は制帽の下に見事な白髪を覗かせている。聞かなくともハスの花の説明してくれる。「是非、夏にまた来てください」と。
堀の周りは城跡の豊かな樹木が緑の炎を上げているよう。風に揺れている。
この駐車場の老案内人も、G君もM君も、そして小生もそのうちこの世を去る。
でも、この堀のハスの白い花々と、取り囲む緑の樹木は十年一日のように訪れる人を憩わせるだろう。上に掲げた写真のように。(終わり)
河口湖、山中湖、西湖、精進湖、本栖湖の富士五湖へ昔から良くドライブに行った。
クルーザーヨットのあるのは昔から河口湖に2隻と山中湖沖に2隻だけであった。富士山を背景にして、透明な湖水に静かに漂うヨットの姿ほど優雅なものは無い。毎回、長時間見とれてしまう。箱根へ行く途中、山中湖マリーナへ寄ってみた。新艇がいるではないか。キャビンの中の人と話し込んでしまう。山中湖で小型ヨットのディンギーを37年間してきて、やっと憧れのクルーザーを買ったという。山中湖は遠浅でキール付きの船は使い難い。代わりに上下自由のセンターボードつきのものをやっと見つけました、と言う。フランス製のジャヌーである。山梨の石和でコンビニを経営していて忙しく、何時も日帰りでセイリングをしているそうだ。やっと夢のクルーザーを得たので一生大切に使いますよ、と顔が輝いている。霞ヶ浦でのセイリングの話をする。別れ際に、今度乗せて上げますよ、と言ってくれた。籠坂峠、乙女峠を越えて箱根へ行く。道中あれこれ思い出しながら、新緑の中のドライブが楽しくなる。(終わり) 撮影日時:5月16日午後1時頃。