後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本丸は何故横に倒れないか?

2008年05月15日 | うんちく・小ネタ

電柱のように太いマストが4本。それに取り付けてある横桁、ヤードが18本。そんなに重いものが甲板の上にあってよく横倒しにならないものだ。そう御考えになりませんか?

日本丸には前回記事のクルーザーのようなキールが船底からぶら下っていない。その代わり姿勢を安全に保持させるための重し、「バラスト」が船底に入れてある。バラストは石、コンクリート、鉄屑、など、比重の大きいもの。それがビッシリと船底に敷き詰めてある。船の全重量が2279トンなのでバラスとの重量はその三分の一以上必要。コンクリートや鉄屑の総重量が600トンとそれにバラストとの役目も兼ねた清水タンクの水が463トン。合計1063トンのバラストが船底に固定してある。さらに重量の大きなジーゼルエンジンが船底部に固定してある。

これでは船が横倒しになる筈がない。15世紀、16世紀の大型帆船も全重量の三分の一以上の丸石を船底に積んでいたという。(宮城県にあるサンファン号の建造中にバラストの鉄球を船底へ積んでいる場面が見られる)

日本丸は定員196人で毎日3度の食事に合計3トンの清水を使う。その他の生活用水に毎日2トン必要である。従って毎日合計5トンの水を清水タンクから消費する。しかし水タンクは船のバラストの役目もしているので、使える限界は200トン。残りの263トンはバラストとして残さなければならない。

200トンを5トンで割れば40日になり、日本丸の寄港なしの航海は40日が限度である。

横浜を出港し、訓練航海で太平洋を渡るとき、シアトルやロサンジェレスへ40日以内に到着しないと大変なことになる。従って悪天候でも低気圧の側について行って、追い風走法を続行しなければならない。(これが氷川丸のようなエンジンのみで走る船なら、清水タンク内の463トン全てを使っても安全に航行出来る。)

江戸時代の末期にアメリカからペリー提督が来て日本の港を開港し、帆走商船や帆走捕鯨船の水の補給を迫った。その理由が小生は始めて理解出来ました。皆様は、そんなことは既にご承知とは存知ますが。

日本丸の甲板の上で大西船長が深刻な表情で清水の重要性を説明してくれたお陰と感謝しています。

尚、下記のURLにはサンファン号の建造中の記録が動画で紹介してあります。ご覧になると昔のガレオン型帆船の構造がよく分かります。

http://bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=181

(終わり)


帆船の秘密兵器は?

2008年05月15日 | うんちく・小ネタ

Dscn0233 クルーザーヨットの横から見たこの写真をご覧下さい。船底から白い板がぶら下っています。この板は分厚い鋼鉄製で、ヨット全重量の三分の一以上あります。この板のことをキールと呼びます。

例えば全重量が1500kgの船なら500kgがキールでマストや全ての金具類、そして船体そのものの合計重量が1000kgくらいに配分されています。

これがクルーザーヨットの秘密兵器のようなものです。高いマストに横風が当たっても船が転覆しないように「重し」の役目をします。釣りの時に使う、「浮き」のように、ヨットの姿勢をいつも立てようとします。このキールのお陰でヨットは絶対に横倒しや転覆しない設計になっています。

そればかりでは有りません。進行方向へ板状のキールが固定してあるので、船がクローズホルドで、風へ向かって45度で登っているとき、船体の横流れを防いでいます。このキールのお陰で45度ギリギリに登れるのです。ヨットを走らせて楽しんでいる時、よくこのキールへ感謝しながら帆走します。そしてこんな形の鋼鉄製キールを作ったヨーロッパ人を尊敬してしまいます。ヨットを陸揚げしない限り見えないのでキールの重要性を忘れがちです。でもヨットの安全性と風上へ登る性能を保証する重要な部分です。ご興味を持って頂ければ嬉しいです。(終わり)


自適の境地へ達するには、

2008年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

Cafeterrace

出典:http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/CafeTerrace.html

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ゆっくりと、心静かに自分の心のままに楽しむこと、これが「悠々自適」の意味。

70歳になって全ての仕事をやめた。悠々自適の境地ですね、と人は言ってくれる。しかし始めの一年は遊びが面白くない。平日遊びに出ると長年の習慣で罪悪感に捉われる。通勤者へ悪いような気分になる。週末しか遊びに出られない。平日は家で読書ばかり。庭の草取りは拷問のよう。仕事の出来ない自分が惨めだ。

ところが2年目に急展開する。平日の遊び歩きが楽しくなる。通勤時間に電車に乗るときは働いている人々へ「ご苦労様です!」という目で周りを見る。

すると若い女や中年の男性が席を譲ってくれる。遠慮しないで「ありがとう!」と座る。どういう訳か中年の働き盛りの男性が席を譲ってくれる。平日にヨットや山小屋へ行くのが俄然楽しくなる。すると庭の草取りや花々の手入れが楽しくなる。仕事のことも遠い昔のことですっかり忘れる。

すると心静かに自分の心のままに楽しむ毎日が続く。気分が向けばブログの取材の為に車を走らせる。訪問先では、だれかれ差別なく話しかけて色々教えて貰う。

自分でもこれが「悠々自適」の境地と悟る。自分の人生で一番楽しい期間である。なんの恐れも不安も無い。

さて、上に示したゴッホの「夜のカフェ・テラス」を見ると魂が揺さぶられる。絵には批評も説明も要らない。それにしても、ゴッホは悠々自適の境地を知っていただろうか?死ぬまで命を賭けて絵を描いた。天才には自適の境地は無縁のものと断定したくなる。しかし、絵を描いているときが彼にとっては至福の時間。37歳の短命でも案外、自適の境地を生きたのかもしれない。余人にはうかがい知れない。

他人の魂を揺さぶるような作品を創造するには平凡な人生は望めない。

一方、下の絵はセザンヌの風景画である。小生の現在の気持ちのように静かな時がゆっくり流れて行く。セザンヌも天才だがゴッホとは生き方が違うのだろう。

出典:シカゴ美術館案内タカログより、

Cezane


昭和の終焉ー美空ひばりと石川島播磨重工と、

2008年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

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平成元年(昭和64年)6月24日、天才、美空ひばりが死んだ。

その頃、オハイオ州で、日本人の男性とゴルフをした。18ホールを回りながら、彼が言う、「美空ひばり の死で、目の前が真っ暗です。迷っていましたが、仕事からも引退する決心がつきました」「何故そんなに落胆されすのですか?」「私は仕事が上手くいっても、失敗しても毎晩のように、ひばりさんのレコードを聴いていました。明日への元気がでました」、そして続ける、「私の昭和はこれで本当に終わりました」。 聞くと彼は55歳だった。

1年後彼に連絡してみる。本当に仕事を止めて趣味の生活をしている。そして言う、「昭和は美空ひばり と一緒に去っていきました」と、ーーひとつの時代の終焉である。

一方、筆者はまだフルに働き続けていた。時代が変わった実感がせず、何時も昭和70年、75年、83年(今年)と昭和の年号をそのまま使っていた。

ところが最近、石川島播磨重工業の田無工場のあった所を通りかかった。あんなに広大な工場群が魔法にかかったように影も形も無くなっている。上の3枚の写真のように暗い曇天の下でなにも無い土地がえんえんと広がっている。事業内容を書いた看板によると宅地にするという。

この田無工場では、敗戦直前に日本で最初のジェット戦闘機、桜花のエンジンを作り、その実物が飾ってあった。

戦後はアメリカのジェット戦闘機のエンジンを組み立てていた。輝かしい技術力を誇っていた。工学部の学生を連れて何度も工場見学へ行った工場である。

昔の同級生もジェットエンジン材料の専門技術者としてその業界で有名であった。そんな立派な工場が撤去され宅地になるという。ああ、昭和の終焉だ。私にとっての昭和の終焉だ。

最近は悠々自適の境地にも達することが出来たので昭和の年号を使うのは止めよう。私にとって昭和は83年で終焉した。そんな話を石川播磨重工で働いていた昔の同級生へ言う。「ご心配なく。桜花のジェットエンジンは福島の相馬工場で展示していますよ」、と教えてくれた。

皆様にとって昭和の終焉は何時でしょうか? (終わり)


まったくどうでも良いことですが、

2008年05月14日 | うんちく・小ネタ

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全ての帆船を帆の組み合わせ方のみで分類してみようとしても、精密な分類は困難である。特に大型帆船の帆の上げ方は複雑でとても簡単には分類できない。しかし帆の上げ方によって2種類に大分することは出来る。

(1)マストと平行に縦型の帆を何枚も上げる形式。(縦帆タイプ)

(2)マストに直交する帆桁(ヤード)をとりつけ、横型の帆を何枚も上げる形式。(横帆タイプ)

勿論(1)と(2)のどちらかを重視して折衷したものが実用の大型帆船であるが、分類を簡単化するために縦帆タイプと横帆タイプの2種類に大別してみよう。

すると上の3枚の写真の左2枚は縦帆タイプで右端の日本丸は横帆タイプである。

名前で呼べば順にスループ型、スクーナー型、バーク型という。

縦帆は風上へ(45度まで)登れるが、横帆は登れない(風と直角方向へ走るのがやっとだ)。従って横帆の総面積が縦帆のそれより非常に少ない日本丸は貿易風を追い風にして太平洋を渡るための設計になっている。縦帆は船首の3枚のジブセールと最後のマストのトップスルとスパンカーが主なもの。

一方AKOGARE号の方は縦帆が主で、写真には写っていないが3枚の横帆が上げられる。

縦帆の総面積は圧倒的に横帆の面積より大きい。大阪港を母港として風向きの一定しない、狭い紀伊海峡や瀬戸内海を通行出来るような設計になっている。

左端の遊び用のクルーザーヨットの醍醐味は風上に上るクロ-ズホールド走法が第一である。それに横帆は上げ下ろしに人手が要る。遊びに徹するなら縦帆にかぎる。小回りも効く。(人手が余っているときは船首から追い風用の巨大な横帆のスピネーカー帆を上げることが出来る)

以上のように西洋で発達した大型帆船は航海する海域と風の状態によって、縦帆重視か横帆重視かの設計に分かれる。多数の縦、横の帆の複雑な組み合わせも出来る。さらに帆走中に縦帆と横帆を取り替えることも出来る。

一方、日本の北前船はこれが出来なかった。明治になって北前船の船首にジブセールと船尾にスパンカーを取り付けた和洋折衷の船も出来たが、洋風帆船の優秀性には勝てなかった。

なお補助機関の出力も重要な要素なので記す。日本丸は2278トンの排水量で600馬力2基、合計1200馬力のジーゼル機関、AKOGARE号は浦賀の住重製であるが、排水量362トンで320馬力1基である。排水量とエンジン出力の比ではAKOGARE号の方が良い。

エンジン出力が大きければ逆風のときのエンジンによる機走能力が高く、操船がし易くなる。

蛇足ながらサンファン号は船尾楼が高く上がっているのでガレオン船というそうだが、帆の様子を見ると横帆を重視し、追い風で大洋横断用に向いている。支倉常長がこれで太平洋を往復したことが納得できる。

尚、西洋大型帆船の優れている設備に深いキールと船底の重し、バラストがあるがいずれ続編で記す(続く)


外国体験のいろいろ(43)転職の自由といささかの心配

2008年05月14日 | 旅行記

1990年までの日本では終生同じ会社へ忠誠をつくし、停年まで働き通すことが美徳とされて来た。ところがバブル経済の崩壊の後はその美徳へ疑問を持つ人々が多くなって来た。特に最近は就職した新卒者の3分の一が5年以内に転職するという。

一生の間、2、3回転職するのが普通ともいう。ところが、アメリカでは昔から転職は当たり前であった。アメリカの転職はプロとしての手腕をドンドン身につけて、階段を登って行く趣がある。しかし、日本の若者の一部には根気が無くて仕事場を変えて行くようにみえる。いささか寒心に耐えないが、まずアメリカの様子を見てみよう。

○アメリカでは幹部社員を広告で集める

オハイオ・ホンダ工場の周りには日本の部品納入企業が多い。1990年のころ、よく遊びに行った会社は社長だけが単身赴任の日本人である。その社長がしみじみと言う。「幹部社員も工員も広告で全て簡単にそろう。経理課長は着任日から帳簿を完璧に記入し報告してくれる。人材採用広告を出すときに職種と担当する仕事をはっきり書けば全てが順調に進む。日本では想像も出来ない」。

「それならば社長もアメリカ人にして、貴方は家族のいる日本へ帰れば?」「そうするつもりです。しかし、日本にある本社の経営陣がアメリカ人を信用しないので延期しています」「社員の首を切ったことがありすか?」「何度かあります。首を切ってもアメリカ人は未練なく素直に辞めて行きますね」

アメリカの資本主義は転職の自由によって支えられている。そうである以上、雇用契約には会社の事情で1ケ月の予告で首を切る自由もある。転職の自由は個人の尊厳を守るための重要な条件である。首を切られたくらいで大騒ぎすることは、個人の尊厳を大いに傷つけることになる。

欧米には個人の尊厳はキリストから与えられているという暗黙の合意がある。この暗黙の合意が無いうえ、個人の尊厳という考えが弱いわが国には深い意味での転職の自由が発達しにくいと言えば言い過ぎであろうか?

      ○米国の悪い上司とは

いろいろな性格の人間で構成される会社では、原則論では済まない場合もある。これは洋の東西を問わない。特に悪い上司が部下の首を切る時は騒動になる。悪い上司とは部下の個人的尊厳を尊重しない上司を意味する。人間が権力を持つと性格まで変わる。上司としての権限を振り回し、部下の尊厳を傷つけるアメリカ人も多い。

日本にあるアメリカの会社で働いていた時、そんな上司を見たことがある。この上司は相当有能なアメリカ人を雇った。雇う際に約束した数々の優遇条件を雇用後に反故にした。この新任のアメリカ人は、「アメリカ人は約束を守ると外国で自慢してきた。こんなアメリカ人もいるのか」と嘆き、自分が落ち込んでしまっていた。

この様子を見て、若いころの怒り癖が出てしまいアメリカ人上司と一戦を交えてしまった。勿論、自分も辞表を出す決心で。云いたいことを云ったあとで新任のアメリカ人と小生は晴れ晴れした気分で辞めた。彼はその後パリで働いているという。一別以来会っていない。もう会うことも無いだろう。漱石の「坊ちゃん」と山嵐が赤シャツへ生卵をぶつけてた気分である。

      ○二社に属する米人

ある時、アメリカ人をニッサン、トヨタ、ホンダなどの工場見学へ案内した。道々話をしたところ、彼は二つの会社に所属していて、半分半分の勤務時間という契約で働いているという。担当している技術的な仕事が二社で全く異なるので、両方の会社も賛成してくれているそうである。日本では社会保険料の半分を会社で支払うので無理と言うと、彼は「そうではないです。日本では会社が個人の尊厳を認めないからです」と断言する。いろいろな日本人と議論した結論であると主張する。

さて、本当に個人の尊厳だけの問題であろうか?日本にはもっと奥深い仏教の教えも関係しているのではないか?彼に説明を試みたが、あまり成功はしなかった。

それにしても最近の日本における転職の流行は色々な原因が有るのだろう。

引退した老人にはどうにも出来ないが、いささか心配な社会現象である。

最後に目を休めるために、ゴッホの絵を一枚掲載します。引退後、独りで趣味を楽しむ老人の絵でしょうが、なにか淋しげな絵ですね。淋しげといえばゴッホの絵はみな深い寂寥感が漂っていませんか?絵の出典はシカゴ美術館のカタログから転写しました。そのURLは小生の5月9日の「ゴッホの絵をもう少し・・・」の記事へのコメントで高山さんが教えて下さっています。(続く)

Vincent Van Gogh,"Fishing in Spring" (1987)

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水交会とフカヒレスープ

2008年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、東郷神社の境内にある水交会で同窓会の相談があった。海軍と海上自衛隊関係者の親睦団体のクラブであるが、一般人も利用出来る。

水交会の連想で、遠い昔、海軍の経理学校で教えていた家人の父のことをいろいろ思い出した。軍人精神などとは無縁の栄養学者であった。白の軍服を着せられ、重い軍刀を無理に持たされて南洋の糧秣状況の視察へ送り出された。帝国海軍が勝っていた時期に。

海軍機であちこちの島々を視察をして回る。行く先々で、重い軍刀を忘れて来る。次の飛行便で軍刀が追いかけて来た。バリ島の女性のダンスが印象深かったという。その話だけで、勇ましい帝国海軍のことについては語ってない。

昭和20年に、都内の水交会(当時は水交社と言った)で中華料理のディナーに出た。コースに鱶鰭スープがある。期待していたところ、出てきたスープには鱶鰭(フカヒレ)の代わりに牛蒡(ゴボー)の細切れが浮かんでいた。「ああ、水交社で鱶鰭の代わりに牛蒡の千切りが出るようじゃ、日本は負ける!」

愕然と悟った後、鎌倉に住んでいた女ばかり4人の家族を群馬県の山奥の下仁田へ疎開させる。鎌倉の由比ガ浜や七里ガ浜はアメリカ上陸用舟艇が、ならず者の海兵隊を満載して上陸してくるには格好な砂浜である。

敗戦後、マッカーサーはいきなり厚木飛行場に降り立ち、全国を占領してしまった。鎌倉の海岸へ、海兵隊満載の上陸用舟艇は来なかった。

下仁田へ疎開した家族はなかなか東京へ戻れなかったという。下仁田は土地の水捌けが良すぎて米が作れない。コンニャクと下仁田ネギしか取れない山村である。しかし、家内はの桑畑や川で遊び回り元気に育った。今でも少々元気すぎるが。

こんなことを、とりとめも無く思い出しながら東郷神社へお参りする。

境内は静かで人が居ない。暗い曇り日で、一陣の冷たい風が吹く。神秘的な雰囲気が漂う。

太平洋戦争の間、軍艦や潜水艦と運命を共にした人々のために、そして海軍特攻機で散華した人々のために冥福を祈る。

敗戦から、もう63年もたつが 戦争のことは忘れられない。(終わり)


朝の食卓から見える花々

2008年05月12日 | 写真

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Dscn3856 隣の姪の家のバラ。夏の終わりまで咲き続きます。

Dscn3866ジャーマンアイリス。毎日咲き変わります。2週間位で終わりますが。

Dscn3865 クリンソウ。山梨の鬼家雅雄さんから貰ったもの。次々に咲きます。

Dscn3867 テイカカズラ。

小さく質素なダイニングルームですが、見える花々を楽しみながら朝食をとります。

家人と鬼家山荘の花々の話をしながら、朝のひと時が過ぎて行きます。

現役の頃は、仕事の段取りを考えながら忙しく食べました。引退後、初めて朝食が楽しめるようになりました。ジャーマンアイリスとテイカカズラの香りをお送り出来ないのが残念です。(終わり)


絵の世界と、学問の世界、

2008年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

Danna Nanda さんがご自分のブログで贋作の喜びを書いています。

なんだっ亭の、< 館 主 独 白 >
私、体験的に思いますに、贋作の喜びは以下の3点です。
1. 贋作をしていると、その絵を少しずつ食べている
   ような気分になれます。
2. 贋作しなければとても見つけられないような
   小さな物を発見できます。
3. 贋作ではありますが、何か美の創造に関わって
   いるような気分を味わえます。
以下は、生来不精な私が本業の合間を縫って描いてきたいくつかの贋作品でございます。しかしこの程度で贋作と称するなど、その道の本職の方に大変失礼かなとふと思い、以下は「模写」という、素直な表現に変えさせていただきます。

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以上の文章のあとで、ゴッホやモネーの、あるいは藤島武二の絵まで模写し、その作品を数多く展示しています。そして、「ゴッホは芋虫くらいのタッチを複雑に絡み合わせながら凄いスピードで描きあげている。しかもゴッホの絵は細かいところまで神経が行き届いいて、デッサンが非常に上手だ。色の組み合わせも良い。真似が出来ない。ああ、ゴッホの絵は模写してはいけない。」と反省しています。全ての模写にこのような反省の文が付いています。それで我々は「絵を描くスピードが大切なんだ。ゴッホは下手のように見えるがデッサンが上手なんだな、、」と理解できるわけです。ゴッホ独特の絶妙な色の組合わせは誰でも感心するでしょうが、描くスピードやデッサンの上手さは普通は気がつかないでしょう。

贋作の本質的な面白さを、上記のようなご自分の体験から決定的に書いています。それで分かりました!世の中に贋作的なと言えば言い過ぎですが、模造品が多い理由が。

いきなり学問の世界へ話が飛びますが、研究の仕方や学説には似たようなものが多いのです。昔、小生がある分野の実験科学を研究していたとき、真似のような実験研究があまりにも多いのを不思議に思っていました。欧米の研究者が専門誌に論文を発表すると、日本人は間髪を入れずにその実験方法を真似して、ほんの少し改良した実験結果を日本の学会誌に発表します。欧米の研究者より少し実験の精度が良いだけで、何も新しさが有りません。

欧米の研究者の実験方法を真似ることは、上の3つの贋作の喜びに一脈通じているのでしょう。
「3. 贋作ではありますが、何か美の創造に関わって いるような気分を味わえます。」を少し変えて、「模倣ではありますが、何か学問の創造に関わって いるような気分を味わえます」と書き換えてみると納得がいきます。

日本の大学にはノーベル賞をもらえるくらい独創的で優秀な研究者が沢山います。しかしその一方で、欧米人研究者の模倣をして楽しんでいる研究者も沢山います。そんな現象が起きる原因をDanna Nanda 氏が明快に教えてくれました。贋作は悪ですが、模写や模倣は謙虚さの表れで、善です。少なくとも専門技術を磨く良い方法と言う人もいます。でも、一生それだけで終わるとしたらどうでしょうか? Danna Nanda 氏のブログの感想です。(終わり)


フォトアルバム「中古ヨットの見分け方の写真集」へ5枚の写真を追加しました

2008年05月10日 | 写真

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上の写真は石巻市に係留されているサンファン号です。この写真を含めて5枚の写真を追加しました。出典は、http://homepage1.nifty.com/takumitsu/taiki/santjuan/santjuan.html 

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上の写真は、誰でも帆走体験が出来る、大阪市所有の大型帆船AKOGAREの写真です。

フォトアルバムへ追加しました。

この写真の出典は、http://wind.ap.teacup.com/akogare-parade/ です。

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2007 年の長崎、帆船祭りへ参加して、長崎港から帰ろうとしているAKOGAREです。

所属:セイル大阪(社団法人大阪港振興協会)
全長:52.16m  全幅:8.06m  マスト高:30.00m  喫水:4.50m  総トン数:362t  建造年:1993年

「‘83大阪世界帆船まつり」を機に海洋文化の普及と継承への関心が高まった大阪市で建造された。3本マスト・トップスルスクーナー型の帆船である。大阪市民をはじめ、広く一般の人々を対象にしたセイルトレーニング事業を行っている。2000年には、日本の帆船としては初めて、29,000マイルに及ぶヨーロッパ経由の世界一周航海を達成したとのこと。
写真の出典は、http://homepage2.nifty.com/shirasakisekkei/hansen.akogare.html です。


絵の好きな人が抱腹絶倒するブログ

2008年05月10日 | うんちく・小ネタ

ゴッホの絵を検索していたら、抱腹絶倒する経験をしました。あまりにも可笑しくて、知的で、芸術的な、ブログなので皆様へもお知らせいたします。

有名な油絵を自分で贋作し、掲載している。1枚1枚、その失敗の理由が分かり易い。有名な画は何故名画であるか実に良く理解できる、ユーモアたっぷりの反省文が面白い。

それと田中一村を高く評価して、奄美大島へ行ったときの訪問記もすばらしい。

本人は戦後生まれのサラリーマンだが、父は55歳の退職後、絵を本格的にやりだし、70歳で死ぬまでに6回も日展へ入選してる。芸術的才能は父親ゆずりであろう。

記事はブログらしく種々な話題についてだが、ラバウル訪問記と山本五十六氏や今村均氏の生涯への感想文も秀逸!

油絵がすきな方々は必ず抱腹絶倒することを請け合います! URLは下記:

なんだっ亭のブログのURL、http://wp1.fuchu.jp/~zenshoji/d_main_t.htm


渡り大工の作った山門

2008年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

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Dscn3206 Dscn3811 Dscn3810 武蔵小金井近辺は江戸時代に新田が開かれた。そのせいか、お寺は江戸時代に作られたものが多い。京都や鎌倉の寺のように壮大ではない。小さな寺が多い。

近所で、よく行く海岸禅寺の山門は、何故かいつも見入ってしまう。素朴なたたずまい。作った人の息使いが暖かく感じられるからであろうか。

天明3年(1783年)ころ、鈴木新田の長谷部大工の家に寄寓していた渡り大工が作ったという。渡り大工といっても腕は見事。下列の左端の写真にある軒の木組みを見るがよい。

その右の2枚の写真は府中市の高安寺の山門である。壮大な構造で、威風堂々。

1333年鎌倉幕府を倒した足利尊氏が、全国につくった利生安国寺の一つとして、武蔵野国の国府、府中に作った。尊氏の権力を誇示しているわけでもないだろうが威風あたりを払っている。

お釈迦さまは、色即是空、空即是色と教えた。これら二つの山門のうちどちらがお釈迦さまの教えに近いのだろうか?

京都の寺の壮大華麗な山門をみると、つい心の中で、「お釈迦様とは関係ないものだ」と呟いてしまう。

近所の海岸禅寺の山門を見るときは、そんな呟きが出てこない。お釈迦さまが身近に感じられる。

南ドイツやスイスの山村を車で旅をする。村々にある素朴な教会に入る。農民が手作りしたような素朴な木像や椅子が置かれている。そういう教会にはイエスさまが時々降りてきて村人へ話しかけている。

ケルンの大聖堂やパリのノートルダム寺院を見てもイエスさまが見えない。何故かは知らない。

近所の海岸禅寺の山門を見ながら考える。マルクスの考えた共産主義は一つの学説である。それを借用して共産国家を作るためには、学説と無縁のものを持ち込む必要がある。

権力構造を作り上げなければならない。ソ連帝国の崩壊にはその構造に本質的な欠陥があった。それにしても人命の犠牲が大きすぎた。20世紀最大の悲劇である。そんなことまで考えるゆっくりした時間が流れる。

海岸禅寺は誰でも歓迎す。お庭にも四季折々いつも花々が咲いている。

山門前に広い駐車場がある。参詣者以外駐車禁止などという目障りな看板が一切無い。

それで、ついゆっくり散歩することになる。(無駄話の終わり)


ゴッホの絵とDead Slow

2008年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

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油絵を見て感動する人もいる。シスレーやピサロの静かな風景画は好きだが、ゴッホの絵はどうも、と感ずる人もいる。でも、小生は上のような「星月夜」を見るたびに感動する。シカゴの美術館で思いがけず見たときは、思わず涙が頬をつたわった。何故感動するのか言葉では説明出来ない。1890年自殺する前に描いた「アルルのゴッホの寝室」や歪んだ教会の絵などなど、どの一枚も感動を覚える。理由は分からない。

Dscn3447 Dscn3446 人の連想は不思議だ。先日、氷川丸の5500馬力2基のエンジンルームでこの2枚の写真のような機械を見た時深く感動した。そしてゴッホの絵を見た時の感動を連想した。それだけの話である。これから先は大型船の離岸、着岸に興味のある方にはご理解頂けると思う。興味が無ければ実につまらない話である。

左の円形の機械は「エンジン・テレグラム」というもので、全く同じものが船の最上階にある操舵室にもある。出港しようと舵輪を握った船長がエンジンとスクリュウの回転速度を機関士へ伝達する機械装置である。Aheadは前進、Asternは後進で、Stand by、Dead Slow、 Slow、Half、Full とはエンジンの回転数を、中立、微速、ゆっくり、半分の速度、あるいはフル回転である。それらの船長の指示を示す機械である。機関士はその指示に従って即刻エンジンへ供給する燃料の量を右の写真のようなレバーで調節する。この機械装置はエンジンコントロールが完全電子化されていない全世界の大型船で100年以上にわたって使用されている。

操舵室のあるブリッジと機関室は遠く離れている。おまけに機関室は巨大なエンジンが唸っていて、声による指示は不可能である。離岸や着岸しようとする大型船を岸壁と衝突させてはいけない。岸壁を擦って船腹を傷つけてもいけない。全ては船長の責任である。スクリュウの回転速度を瞬間的に変えたい。また慎重に動かすために「死ぬほどユックリ」回転させたい。そんな船長の悲鳴にも似た指示がDead Slow である。これほど感情のこもった英語を見たことがない。日本語に約して「微速」と書くとなにか間違いのような気がする。

欧米人の知恵の結晶のような機械装置である。舵輪を握った船長と轟音うずまくエンジンルームでアクセル・レバーを握った機関士の瞬時の連係動作が要求される。

ゴッホの絵は彼の感情や情念を伝えている。Dead Slow は船長の感情を伝えてくる。関係ないものだがDead Slow の英語を見て、ゴッホの絵を連想した理由かも知れない。人間の連想には明快な脈略が無いというが、その一例かも知れない(つまらない話の終わり)

上の絵の出展のURLは、

http://www14.plala.or.jp/masatopogigio/page025.html です。


紙上ヨット体験しませんか?(3)ジブとメイン2枚のセイルで走る

2008年05月09日 | うんちく・小ネタ

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5月7日、快晴、東北の風時速20km位、気温24度、暖かい。

今日は快適なセイリングへお誘いします。でもいきなり禁じ手。係留中にジブとメイン・セールの2枚を上げてしまう。風が弱く。船首方向から吹いているのでこんな危険な出港をする。

時々これをするが、沖で風に吹かれながら2枚のセールを上げるよりは楽である。エンジンで港を出るといきなり強い風でヒール(傾く)する。今日は冒険をせず心地よいセーリングだけをする事にしている。そこで、ジブを半分巻き上げてヒールを戻して、エンジンを止め、快調に走り出す。

東北の暖かい風が一定して吹いている。風上45度へのぼるクローズホールドで快走。5.0から6.0ノット(時速9Kmから12.8km)である。波がバウに当たりザワザワと心地よい。

これこそヨットの醍醐味。90分走る。走りながら日本丸のこと、昔の帆船のことをあれこれ考える。大型帆船は戦いをするためか、物資を運ぶために少しずつ発達して来た。でもこのヨットは遊ぶためだけに改良されて来た。一人でセイルを2枚あげ、無理なく、快適に走れるように出来上がっている。大砲も積めないし、荷物を積む船倉がない。無駄と言えばこんな無駄なものがない。遊びに徹底した設計になっている。

90分、風上へ登ったところで何時も引き返す白いビルの前に来た。港から10kmくらいの所である。帰りはメイン1枚でユルユル帰ろうとジブを巻き取ってしまった。ところが風がピタリと止まる。仕方が無いのでキャビンへ入り水を飲んでしばし休憩。コックピットへ上がってみるとヨットが独りで沖の方向へスルスル走っている。そうか、そうか、もっと沖へ出たいのだな。行こう! 風の吹いて来る方向が南東へと、しだいに変わって行く。帰りが楽になる方向だ。

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沖へ30分走り、左に白い大型ポンプ棟が見えたところで船首を180度、上手回しで返す。

風が弱いので2kmしか走っていないが、帰りの時間を考えて戻ることにする。追い風でランニング。波が後ろから来て船体を押しやるように砕ける。大河を流れ下っているような錯覚を覚える。豊かな気分になる。はるか12kmさきには土浦市のビル群がかすんでいる。

岸の出島村(現在は霞ヶ浦市という)の新緑を眺めながら、全身の力を抜いて体を大きく揺れる船へ任せる。ヨットに癒されているようだ。何も心配が無い。恐れることも無い。風が暖かく吹いている。快晴だが暑くは無い。行きは120分、帰路は90分である。

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今日は快適な気温で、風の強さも一定していたので危険な目に会わなかった。鼻歌まじりの

快適なセイリングだったので疲れない。余裕があるので帰りながらヨットマリーナの方へ寄り道をする。なにか珍しい船でも係留していないか?何時もの通りだ。多分40フィート位の大きさの優美なヨットがいる。こんなに大きいとキャビンも広くて泊まるのが楽しそうだ。でも独りでメインセールは上げられないなあ、などどツマラヌことを考えながら帰港する。

係留してメインセールをブームの上にきちんと畳んで、青い香港製のカバーを被せて、お終い。11時出発で、3時間30分のセイリングであった。何時のように常磐高速、三郷で東京外環高速、練馬で降りて保谷、田無を通って、1時間45分で帰宅。