家人が黙ってこの本をキーボードの側に置いておいた。今時のおかしな日本語で書かれた小説は読まないことにしている。見ると短編。日本語も老人にすらすら読める。面白い小説だ。ストリーの展開が興味をそそる。ミステリアスでもある。人間が描いてある。登場人物が3人しかいないので名前を覚える苦労が無い。安心して読める。竹西寛子の「五十鈴川の鴨」である。
ある会社で働いているの中年の主人公が社外研修会で同年輩の男と知り合う。他の会社の男だが、偶然に何度か社外研修で一緒になる。その岸部という男の寡黙で控えめな人柄に引かれ、その後も時々食事をともにした。間遠うな交際が続く。
・・・・・強いて言えば、彼に見た、あの一瞬のものがなしさに引き摺られていた。虚しさといってもあまり違わないようなものがなしさであった。・・・・・・・・
岸部は独身のようだ。しかし話題が親兄弟、家族のことに及びそうになると、いつの間にか話がそれている。礼儀正しくそらしている。出身地も分からない。
ある時、2人は伊勢の五十鈴川の側の茶店に憩う。眼前を鴨の親子が泳いでいる。岸部が鴨の家族を見て、しみじみと、「いいなあ」と言う。
そして交際が途切れている間に岸部は死んでいる。岸部と交際のあった女が突然、主人公に会い来る。神宮散策へ誘ってくれ、五十鈴川の鴨を見たあの日のことを忘れない。死の病床で、死んだら主人公へお礼を伝えてくれと頼んだという。
そして岸部の家族の悲劇を教えてくれる。広島の原爆で全員死んだ。一人残った岸部は後遺症を背負いながら、控えめな生き方に時を過ごす。そして原爆症の遺伝で子供が不幸になるのを恐れ、独身を通うしている。主人公を訪ねて来た女が何度結婚しましょうと言っても。そして岸部は原爆症で死んで行く。
鴨の親子をうらやむ・・・一人の岸部は生きたということは、十人の岸部が、いや百人の岸部が生きているということでもある。・・・・・・
此処で小説が終わっている。岸部は作者であり、女性も作者の投影であろうか。
このようにひっそりと控えめに生きている人々が多いのではないか?(続く)
出典:日本文藝家協会編、「文学20007」講談社刊、2007年5月18日刊、239ページから247ページまで。
アメリカ中部オハイオの夏、雑木林の中の河をアルミ製のカヌーで流れ下る。ちょっとした料金を支払って、上流で借り、10kmほど下流に舟をつける。出発場所に駐車した車のところへはシャトルバスで送ってくれる。
緩やかな流れなので鼻歌まじりで出発。ところがしばらくすると急に流れが速くなる。怖い!と思った瞬間、見事に転覆する。転覆すると思っていなかったのであわてて泳ぐ。と、手足が川底を叩く。膝くらいしかない浅瀬であった。独り苦笑いをしてカヌーをひっくり返し、水を出し、正常な状態に浮かべる。余裕がでて周りを見ると、後から来るカヌーが皆転覆している。悲鳴を上げて泳いで、立って、大笑いしている。
此処は急に流れが渦巻いて例外なく転覆するところである。すぐ浅瀬になるので危険は無い。一度ずぶ濡れになると怖い物が無い。しばらく下ると、岸の樹の幹に「乾いたタバコ有ります!」という看板がある。周りにはなにも無い。1990年当時は嫌煙運動もあまり盛んでなく男女を問わずよくタバコを吸っていた。つい乾いたタバコが欲しくなる。でも店など見えない。そんな看板がとぎれ、とぎれに3枚続いて、やっと岸辺に小さなコーヒーショップが見えてきた。ずぶ濡れのお客がカヌーを着けて、タバコをふかしながら、コーヒーを飲んでいる。
熱いコーヒーで元気が出る。また河下り。ところが今度は座礁する。櫂で河底を突いてもビクともしない。また河に降りて、舟を押して浅瀬を通過する。と、すぐに流れが2股に分かれている。さあ、どっちの流れに入れば下流の船着場へ行けるか? 皆目検討がつかない。周囲は雑木林で見通しが利かない。道案内の看板など一切無い。
間違った流れに入ると滝にでも行き着くのかもしれない。恐怖で顔が青くなるのが自分で分かる。舟は無常にも頓着なく流れて下る。ままよ、どうにでもなれ!と左の流れに入る。でも恐怖で顔がこわばる。1km位我慢して櫂を操っていた。なんとそこで2つの川が合流しているではないか!つまり、どちらでも良かったのだ。
船着場にカヌーを着けると、若い男がニヤニヤしながら手を引っ張ってくれる。「スリル満点で面白かったでしょう!」と言う。
出発する時、コースの説明書などは一切くれない。ただ、「アメリカ合衆国の憲法によると必ず救命ジャケットを着ること」、と冗談を言いながら着せて、紐が解けないように堅結びをしてくれる。
遊びにには多少危険が伴った方が面白い。リスクは自分の責任で回避する。遊びを提供している業者には責任が無い。
銃を持つ自由と、その危険の回避は個人の責任という文化をカヌー遊びで実感した。ささやかなエピソードだが、自分にとっては衝撃的なアメリカ文化の体験だった。(終わり)
小生のブログでは異なる意見を尊重し、意義深い意見なら公平にご紹介します。
どの意見が正しいか?結論が出せるようなテーマであるか否か?などは読者の皆様がお考え頂ければ幸いです。
昨日は、ゆき氏のご意見を紹介しました。今日は高山氏のご意見を紹介します。
どちらもご自分の体験、家族の幸不幸にもとづいて長年考えてきたことを書いていますので、読んで「美しい内容だなあ!」と感じました。読者の多くの皆様もそのように感じて頂ければ嬉しく思います。
=======高山さんの二つのコメント===========
小生は、「愛国心」と聞くと、その名のもとに日本国民と他国の民を地獄に叩き込んだ先の戦争を思い出します。それは仕方ないことです。(そんな思いを持つ日本人は多いと思うーー藤山の追記)
日本の文化の優れた部分を尊重する為政者なら、そして善政を敷いてくれるなら、どこの国の人が日本を統治してもかまいません。郷土愛を強いる政治家へは、偏差なナショナリズム、おらが村さ一番の、阿呆らしさを感じてしまいます。
しかし、紛争を武力で解決する国々があり、アメリカの植民地である日本は、軍を持たざるを得ません。
そして、軍人である、ゆき氏は愛国心の名の下、命令されれば、どのような行為もとるよう教育されます。(ゆき 氏の場合は内発的に国を思い、自衛隊へ志願しました。――藤山の追記)
なぜ、世界愛・人類愛をうたわないのですか? 二度と「愛国心」が戦争に利用されることがありませんように!
(上記は7月10日のコメント)
個人的感情でとげのあるコメントになってしまい済みませんでした。「お国のために」が呪文のようにすべてを奪っていきました。母は、指輪や銀器を供出させられ、ピアノを敵製品として没収されました(ドイツ製で無くアメリカ製だった)。 これが勝ち戦だったら、まだ、その呪文は続いていたでしょう。
「党のため」「革命のため」、本当にきな臭いですね。「自由よ、汝の名において、いかほどの悪行がなされてきただろうか」(ロラン夫人)
平和憲法、といったって、現実にどこかへ敵が上陸してきたとき、自衛隊は戦うでしょう。しかし、どれだけ持ちこたえられるのでしょうか。海外派兵の際、同じ「愛国心」を持つその国の過激分子を殺さねばならなくなったら、不幸のきわみです。
ゆき氏を誹謗する気はまったくありません。誰かがやらねばならない仕事です。(この部分は7月11日のコメント)
以上の二つのコメントでは、一部語句の訂正・省略を致しましたが論旨は変わらないように致しました。高山さんへ感謝して、ご了解を頂ければ幸いです。
尚、上記の二つの高山氏のコメントの間に以下の小生のコメントを投稿しました。あわせてお読み頂ければ幸いです。
===========藤山から高山氏へ対するコメント===========
高山さん、
貴重なご意見を頂きまして有難う御座います。ゆき さんの文章を注意深く見ると、「愛国心」だけが独走していません。いつも「思いやりの心と愛国心」という対句を用いています。他人を思いやる心が本物なら他国の人々も思いやれます。この歯止めがあった上で、自分の国をいつくしむ心を「新しい愛国心」と小生は定義します。それは軍事優先の戦前の愛国心とは本質的に違います。使用することばが同じでは誤解を招くので別な漢字を考えてみます。それまでは新しい愛国心のことを「自国を慈しむ心」と表現します。
この心は学校で教えてはいけません。内発的に育つことが重要と思います。ゆき さんは学校では教わらなかった。内発的に「思いやりの心と愛国心」を育てて行った。この対句は ゆき さんが考え出した言葉です。そのことが重要と思います。 若い人々には昔の日本人とは違う意味で「日本を慈しむ心」があると思います。日本を破滅へ導くような愛国心と日本が外国から尊敬されるようにする新しい愛国心とは本質的に違うと思います。 ついでに言えば、「特攻隊のお陰で現在の日本がある」、とい表現は曖昧すぎて議論が分かれると存知ます。 しかし権力を持っていない若者が先人への感謝の気持ちで心情的に言う場合は美しい響きをもちます。 同じことを中央官庁のお役人や政治家が言えば、きなくさい言葉になります。言う人は自分の立場を考えて発言しないと大変ネガテブな意味になってしまいます。
学校で強制すると戦前のような権力欲で世界が見えなくなった軍人に利用されやすくなります。現在は多くの若い人々が外国に住んで活躍しています。こいう人々には内発的な愛国心ー日本を慈しむ心ーが起きてきます。すくなくとも小生は外国に住んでいる間に新しい愛国心を持つようになりました。
そういう微妙な言葉、暗い歴史を背負った言葉は、まず明快な定義をしてから議論すべきと存知ます。
高山さんのコメントで少し整理がつきました。また書きます。
貴重な、そしてより深く考えさせるコメントを頂き、有難う御座いました。
敬具、藤山杜人
====================================
他人が嫌がる言葉は使わない。満州は中国人が嫌がるから東北地区と言う。アメリカインディアンは本人たちが嫌がるからアメリカ原住民と言う。
それと同様に「愛国心」と言うと戦前の軍人優先の暗い社会や敗戦後の殺伐たる社会を思い出して暗澹たる気持ちになる人々が多いから使うのは控えよう。同じことを「自分の国を大切にする心や考え方」と表現すれば嫌なことを連想する人も少ない。建設的な響きを持った言葉ではないか。
高山さんのコメントへのお答えで、「自分の国を慈しむ心」という表現を用いたが、その意味が明確でなく抽象的過ぎる嫌いがある。そこで長々しいが、「自分の国を大切にする心」としたい。
そうすると前回の記事の題目、「若い人々の強い愛国心」は「若い人々の自国を大切にする強い心、考え」という表現になる。その延長には自国を大切にしている外国の人々も尊敬することも当然含まれる。自国を戦禍に巻き込まないように平和維持に努力する。経済、外交、文化、、あらゆる分野を通じて戦争にならない様に努力する。武力は最後の手段にする。これが「自国を大切にする心」の具体的な内容の私的な定義である。前回の記事へ高山さんから頂いたコメントに従って前回の記事の題目や語句を訂正した。
コメントを下さった高山さんへ感謝する次第です。
しかし、ゆき さんが使っている場合は原文通り「愛国心」を使わざるを得ない。原文を勝手に変えることは許されない。ご寛容頂きたい。(終わり)
いろいろ行事が重なって6月中に、山林の中の小屋へ泊まりへ行けませんでした。小屋の魅力は敷地内を流れている小川です。毎年、5月になり水温が上がってくると岩魚が2、3匹登って来て産卵します。
上の左の写真は魚道の写真で、そこを上がったところが右の写真のようになっています。此処が岩魚の産卵場所のようです。
昨年、6月に岸辺にテーブル・椅子を置いて夕方から夜まで、岩魚の産卵を見ようと、ゆっくりビールを飲んでいました。
午後8時頃、水面の波音で岩魚が来たと思い、電灯をつけました。2匹の岩魚がもつれるように泳いでいます。流れの底へ1匹が腹をこすりつけています。そこへもう一匹が体当たりしています。20分くらいして、2匹とも何処かへ消えてしまいました。
昨年は、昼間に魚道の下で大きな虹鱒を2匹見ました。多分、養殖していたものが迷い込んだものでしょう。
毎年、6月から9月にわたって岩魚を1匹だけ見ますが、年によっては横腹に楕円形の斑点が数個ついている山女を一匹だけ見ることもあります。縄張りがあるらしく、みるのは決まって一匹だけです。産卵の時以外は。
小川の様子は、フォトアルバム「山林の中の小屋」に多数ありますのでご笑覧下さい。(終わり)
ブログをしている方々との交流を広げてみました。若い人々のブログも少し読みました。今日はその中から「自分の国を大切にする心」に関する文章を転載します。書いた方の筆名は「ゆき」、自衛隊へ入隊した経験の持ち主です。
老人は、この頃の若者は自分の国を大切に思わないで、お金にしか興味が無いと言います。大学の昔の同級会へ出ると、しきりにそういった若者非難をする仲間がいます。あまり本気で言っている様子でもないのでニヤニヤして聞き流しています。そんな”憂国”の老人へ贈る文章です。
=========ゆき さんの文章の抜粋============
自分の叔父さんは元海軍の神風特攻隊の生き残りでした。特攻機で飛び立ち天候が悪く島へ不時着したそうです。そこで終戦になったそうです。
自分は叔父さんに特攻に行く前はどんな気持ちだったか聞いた事があります。叔父さんは 自分の家族を守る為に国の為 と言いました。当時18歳だったそうです。
・・・中略・・・
叔父さんは先に行った仲間を忘れない為に腕に海軍の刺青を入れていました
エンジン関係の上場企業に就職し最終的には部長までなります
何時も言われたそうです 夏なのに何故長袖着ているの?
叔父さんは何時もごまかしていたそうです。消そうと思ったら消せたけど死ぬまで消さなかった。
自分が航空自衛隊に入隊した時はパイロットになれると喜んでいました。しかし入ったからには命を捨てもこの国を守れとキツク言われました。
・・・略・・・叔父の葬儀では日本の国旗を棺にかけました・・・・・・
皆が出来る事は簡単です。「思いやりの心と愛国心」
学校は道徳の授業に一番力を入れるべきです。・・・・
自分も戦争を知らない。しかし18歳で国の為に亡くなった方がたくさんいる。
その屍の上に私達は生活している。この事を忘れてはいけない。馬鹿な僕でも解かります。
自分も実戦は経験が有りませんが、銃弾が飛び散る世界は想像がつきます。訓練だけはやりましたので、
自分が小学校の時、余り悪さするので、校長先生から、お前みたいにしてたら、
頭に鉄砲の弾があたるぞと殴られた事があります。
・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし 入隊二年目に帰省し偶然 寿司屋で制服姿で食べていたら校長先生がいました。
「ゆき君かい?」
自分を見て泣いていました。あの悪ガキが立派に国を守っているって頭をなでてくれました。
校長先生が褒めてくれました。
今のお年寄りのおかげで平和な社会があるのです。
この実際にあった60年前の話はフィクションでは無いのです。
私達は平和な社会を与えて貰った。
命がけで日本の為に尽くした方を忘れてはいけない。
そしてこの平和な国を次の世代に渡さないといけない。
皆が平和な日本を維持する事は簡単です。思いやりの心と愛国心を持つ事です。
私はこの事だけは何処の職場に行っても話します。若い方はここまでの事を教育されていないです。話したら皆真剣に聞いてくれます。
=============以下略=====================
この文章へ対して17人の若い人々から投書がありました。投書の内容も素晴らしいです。
是非、全部をお読み下さい、
http://fanblogs.jp/dryuki/archive/157/0#comments
ゆき様への感謝とお詫び:
転載させて頂きましたことに衷心より感謝します。また一部省略したことをお詫び申し上げます。(終わり)
「60の手習いとは、・・・手がけてきたことを・・・やり直すことをいうのだ」とか「・・・一々歌の意味や心を味わっていて、かるたがとれる道理はない」というような寸鉄人を刺すような名句が次々と出てくる本である。歌あわせかるたは多くあったが、何故小倉百人一首だけが残ったのか?百首の内容が深く響きあって一つの壮大な文学的作品になっているから、という興味をそそる導入がある。
現代人の通弊は古今・新古今の歌はつまらないと思っている。万葉集のほうが良いという。そんなことは正岡子規に教わらなくとも分かる。でも年老いてくると平安朝文化の奥の深さに魅力を感じてくる。こんな名調子の文が並んでいる。
百人一首の選者は定家で、嵯峨の山荘で、宇都宮頼綱のためにみずから書いて贈ったという。そこで白州正子さんは嵯峨野を歩いて、その後で一首、一首説明してくれる。
検証は精密を極め、学問的ですらある。しかし読んでみると流れるような文章力のお陰で「検証」とか「学問的」というような無粋な言葉を連想させない。
全てのことをインターネットで検索している自分が恥ずかしい。一冊の本全体の香りや完成度を楽しむことはインターネットとは別世界の楽しみと思う。
巻末に作者索引、百首索引、そして百人一首参考系図が付いている。とくに参考系図の中の人名には百人一首の歌の番号が順序良く付いている。百人一首の勉強をしたことの無い小生にとってはこれが一番有難い。百人の作者がみな天皇家か藤原家の2つの系図に入っているのもいろいろなことを暗示していると思う。
世の中に百人一首の歌を全て暗記している人々も多いが、この本をどのように評価しているのだろうか?コメントを頂ければ幸いです。
一般論ながら何かを検証した本の場合は、索引のついていない本は完成度が悪いと言われている。そんな本は読む価値が無いとも教わった。蛇足ながら。
最後に奥付を、「私の百人一首」白州正子著、新潮選書、昭和51年12月15日初版発行、発行所:株式会社新潮社、全242ページ
○河北の湖の鵜飼漁師
北京の南、河北省の保定市が技術センターをつくりたいという。出来るだけの協力をしようと、何度か同地に通った。1996年のことである。
休みの日、河北大学の先生が、日帰りの観光旅行へ連れて行ってくれた。広大な湖、縦横ともに約40㌔。近隣の農民の観光地らしく、湖上遊覧の船がビッシリと並んでいる。客を呼び込む声が騒がしい。
岸辺には、質素な魚料理店がいくつもあり、農民が群がっている。外国人観光客は一人もいない。
船に乗ると、水面から3メートルぐらいに伸びた葦が密集して視界がきかない。船の通れる幅だけの迷路のような水路を右左に進む。と、突然視界が開け、一面大輪の白いハスの花になる。
花が散った後の、蜂巣のような形にハスの実がなっている。ハス田に船を押し込み、船頭が実をむしり取る。健康に良いから食べろと言う。おそるおそる食べたが、青臭い味で美味しくない。
さらに密集した葦の中を沖へ沖へと進む。かなり沖に出た所で水路が開け、黒い鵜(う)を20羽くらい乗せた舟が何艘も舫っている。鵜飼漁で生活をしている人々の住んでいる島である。何軒かの粗末な漁師の家が見える。
鵜飼と言えば、長良川の鵜飼をテレビで毎年見ていた。鵜飼の発祥の地へ分け入ったような感じがしたので漁師の話を聞くことにした。黒い鵜が並んでとまっている舟に近付いてもらった。通訳を通して一時間ほど話を聞く。
○鵜に助けられ、日本兵から逃げ切った話
「お邪魔しますが、少しお話をして良いですか?」「いいよ」「鵜飼は日本にもありますが、中国から伝ったようですね。これで生活しているのですか?」「そうです。一年中よく魚が取れるので十分生活出来ます」「鵜飼の難しいところは?」「鵜は一羽一羽、皆気性が違うので、それに合わせ世話をすることです」
「話は変わりますが、前の大戦では日本兵が来ませんでしたか?」「われわれを使役に使うために、よく駆り出しに来ました」「ひどい話ですね」
「いや、私は一回も捕らなかった。日本兵は駆り出しを始める前、湖に向かって威嚇の鉄砲をパパーンと打ち上げます。それを聞くと、舟に鵜を乗せて視界の悪い密集した葦の中に入ってしまうのです。岸から遠く離れ、二、三日、鵜が取った魚を食べて暮らすのです。燃料は枯れた葦の茎、野菜は食用になる水草とハスの実。生活には困りませんね。二、三日して島に帰ると、日本兵は居なくなっている。戦争で日本兵を見たことはありませんでしたね。鉄砲の音だけでしたよ」
「鵜に助けられたのですね」「いや全くそうです」
○日本は中国の一地方?
「私は日本から来た者ですが、日本はどこにあるかご存知ですか?」「知っているよ。いまは東北地方と呼んでいる辺りにあったよ。清朝があった満州というところらしいね」「そうでなく、その東の東海の上にある細長い国です」「ああ、そう言えば朝鮮とか言ったね。まあどちらにしても中国の一つの地方にあるんだ」
この老人にとって満州も朝鮮も日本も大差無く、そのいずれも中国の一地方と思っているらしい。
「ところで、1949年に中国の共産党が国民党に勝って全中国を統一し、独立させたことは知っていますか?」「ああ知っているよ。中国を植民地にしていた外国どもを追い出した。でも何百年と続く鵜飼漁のこの島の生活はなんにも変わり無いよ」「丈の高い葦が密集。そして、この沖の島まで迷路のような水路しか無いからですね」
共産党中央の権力闘争も文化革命もはるか別世界のことに違いない。
初夏の風が葦を騒がせ、遠方では一面の白いハスの花が揺れている。保定市の騒がしい経済開発区の傍に、こんなに静かで悠久な生活がある。中国の湖沼地帯の田舎は想像以上に広く草深い。(終わり)
サイドバーに「あし跡@」が出ています。ブログをしている人々の交流の場です。
登録しましたらアクセス数は少し増えましたが、広告や宣伝目的のトラックバックも多数入ってきました。
小生は真面目な内容のブログにしようと努力しています。広告・宣伝は決して悪いのではありませんが、落ち着いた雰囲気が壊れます。そこで一旦脱会して、深く考えて見ました。
今までこのブログを真面目に読み続けて下さった方々は仲間です。その方々に相談無しで、アクセス数をやたらに増やそうとするのは善いことでは有りません。
そこで、ご了解を頂きたいのですが、また試しに入会して見ます。是非お許し下さい。と、言いますのは「あし跡@」は決して不真面目なネットワークではありません。利用する人々の一部のみが少し問題なだけです。
建設的に考えてみることにしました。そうしたらその交流の場で知った、pan さんという方が「あし跡@」に登録されている4万件のブログを検討し、その結果をご自分のブログで発表されています。詳しくは、http://www.walther-p38.com/blog/ をご覧下さい。
その内容を要約すると、宣伝・広告・ビジネス関係のブログが30%位で、真面目な個人のブログが50%位で、残り20%位は「あし跡@」のシステムが対応していないブログだそうです。この検討結果を見ると50%(約2万件)のブログは真面目な個人が運営しているブログとなります。
話題は子育て日記、旅日記、花々の写真、ペットの写真(とくに猫の写真が多い)、などなどですが、その分析結果はまた調査して、いずれご報告します。
最後に、「あし跡@」へ入会して良かったことを一つご報告します。
今までは他人のブログを訪問する場合、自分へコメントを下さった方々のブログを中心に広げて訪問していました。その結果どうしても高齢者のまじめなブログだけになりがちでした。ところが、「あし跡@」へ入会しているブログを見ると、広範な職種の若い人々のブログを見ることが出来ます。
若い人々の感じかたや考え方が分かって面白いです。いずれ若い人々の考え方も纏めて書いて見たいと考えています。
「あし跡@」の説明をご報告して、皆様のご了解を頂きたいと思います。弊害が起きれば退会しますが。しばらくの間のご寛容をお願いする次第です。敬具、藤山杜人
(この写真は調布飛行場の趣味の軽飛行機の駐機場の様子、以前はもっと多数だったが不況で減ってしまった。6月11日撮影) ○早期退職はアメリカ人の夢 第二次大戦後、日本は「科学技術の分野でアメリカに追いつけ、追い越せ!」と脇目もふらずに努力した。一生同じ会社で仕事に打ち込むことが男の生き甲斐であった。趣味の話などを出すと、軽蔑されるような社会の雰囲気である。そんな生活が1990年代のバブル経済崩壊まで続く。 アメリカへ行き、趣味の話をすると考え方の違いに驚いたものである。仕事は生活費と趣味の費用を得るための手段。余裕が出来たら、早く退職して趣味の生活を楽しみたいと言う。趣味の内容も千差万別。映画を作ったり、絵を描いたり、大工仕事と、とにかく行動的な趣味が多い。 ゴルフはもちろん、ハンティング、パラグライダー、古い戦闘機乗りなど、スポーツ分野のものもある。 もちろん、仕事が趣味で他にすることが無いと広言するアメリカ人もいるが、それは少数派。アメリカ人の早期退職は個人の自由の拡大として社会的に重要視されている。 ○変わる日本人の人生観 アメリカに追いつき追い越せという目標も達成され、日本人の人生観も変わって来た。フリーターの増加などがその一例。人生観が変われはライフスタイルも変わる。 最近の日本人は勤労意欲が無い、礼儀を知らないと、よく老人が言う。 しかし、趣味を通して若い人々と付き合ってみると、彼らは老人より礼儀正しい場合が多い。戦後の苦労を知らないので、性格が素直で明るく育っている。戦後の殺伐とした社会が消え、豊かになれば勤労意欲も少なくなるのは自然な現象である。 インターネットの普及は趣味に関する情報の交換を容易にし、多様な趣味が若い人々の間に広がって来た。高度成長時代の立身出世主義は心を貧しくするが、趣味の世界が広がり日本人の心も豊かになった。どちらが良いかは人々の考え次第。色々な考えを大切にするのが重要と思う。(終わり)