1981年、北京へ始めて行った時、万里の長城、明の13稜、天壇、紫禁城、など色々見物した。しかし中国へ行く前に本や写真集でよく見ていた建造物なので余り感激しない。成る程、紫禁城はベルサイユ宮殿より壮大な規模だな、などとは感心したが。
ある時、案内してくれた北京鋼鉄学院の周教授に、農家を見たいと言った。北京の郊外の農村地帯で。
気軽に訪問した農家に衝撃を受けた。余りにも小さくて、貧しい。下半分は粗末なレンガ積みで、上の方は土壁である。小さなガラス窓が付いている。屋根は木の骨組みに土壁状に塗り、上にトタンで葺いてある。南に向いた入り口の戸を入ると右側が土間の台所兼食堂。粗末な木のテーブルと椅子が5脚ある。左は寝る場所で、一段高くなっている。昼間なので家族は皆農作業へ出ていて老婆が独り居るだけである。
案内の周教授が入り口の左下に据え付けた釜戸を指して、「これさえ有れば天国です!」と言う。よく見ると、カマドには大きな中華鍋がかかり、煙突が無くて、煙は寝る床の下を通って、屋外の煙突へ出ている。全ての料理は中華鍋一つで作ってしまう。
どんなに厳寒の冬でも、釜戸に火を炊くと寝る台がポカポカと暖かく、小さな家中が天国のようになると説明してくれた。家族の楽しそうな冬の夜の団欒が目に見えるようだ。
この熱効率の高い合理的構造は朝鮮半島でも広く用いられて居る。朝鮮では温突(おんどる)といい、中国では炕(かん)と言う。上の写真は韓国民族村にある農家と温突の構造を示している。写真では農家の裏側へオンドルの煙突と燃料の柴が写っている。
翻って、冬に日本の農家を訪問した時のことを思い出した。「どうぞ、囲炉裏の側へ寄って温まって下さい」と招じられる。囲炉裏によると成る程暖かい。しかし背中が寒い。煙が目に滲みて目が痛い。体の前が熱く後ろが冷たい。体の調子が悪くなるのか気分が良くない。昼でさえこんなに寒いのだから夜は凄く寒いに違いない。聞くと寝ている顔に雪が迷いこんで来ると言う。朝には睫や鼻毛が凍っていることもあるそうだ。
朝鮮半島の南端の釜山まであるオンドルが、何故日本へ入って来なかったのだろうか?
これこそ日本文化の非合理性の象徴を明解に示しているようで、それ以来忘れられない。外国を旅したとき、ほんのチョットした物を見て日本文化の本質が愕然と分かることがある。
誤解を避けるために付記する。非合理的な文化が悪いと主張しているのではない。それぞれの民族文化の優劣を考えることは無駄である。特徴を理解して楽しめば良いだけですね。(終わり)
2枚の写真の出典は;傍(ばい)亜門さんのHPで「アジアの見聞録」です。URLは、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/ です。
ヨットのキャビンを「男の隠れ家」と粋がって泊まる。夕方、デッキに小テーブルを出して夕空の色の変化を見ながら冷えたビールを飲む。至福の時間が流れる。
でもすっかり暗くなり、岸壁には人の気配がなくなる。あたりは真っ暗だ。遥か対岸のホテルやレストランのネオンだけが華やいでいる。ヨットの中はローソク1本で薄暗い。おまけに小雨がシトシト降ってくる。憂鬱な気分が襲う。独りでウイスキーを飲みながら体が震えるような寂寥感に襲われる。
独り、暗夜の航海を想像して元気を出そうと、船尾、船首、マスト中段の3ケ所にある紅緑の航海灯を点灯してしばし眺める。元気が出たのでキャビンに入り、また飲み始める。さて、寝ようと、布団を敷く。ローソクを消してもよいようにトイレも確認する。すっかり暗くして布団をかぶる。雨足が激しくキャビンの屋根を叩いていて眠れない。寝付かれない辛い一夜が明けると、雨が一層激しくなっている。
キャビンの中が薄暗い。コーヒーを淹れ簡単な朝食。午前中は読書で時間を過ごす。中世歴史家の堀米庸三氏の「ヨーロパひとり旅」だ。暗い感じの筆致だ。中世ヨーロッパの暗黒を暗示するような旅日記である。旅行したのが戦後の影響が残る時代だったので厳しい生活が散見する。
キャビンに泊まるのは辛い。なるべくならしたくない。回りのヨットにも泊まっている人を見たことが無い。でも1年に2回は泊まると決めている。安逸な生活をしていると何か大切なことを忘れるような気がする。今回はアジアの子供の活き活きした表情と同じものが嘗ての日本にも有ったことを思い出した。男の隠れ家は楽しく、でも辛いものだ。山梨の山中の小屋をいろいろ考えながら何時しか眠りに着いた。
(終わり)
@満州へ追いやられた朝鮮族
1981年、中国の北京と瀋陽へ集中講義のために行った。東北工学院のK教授は朝鮮族で日本語が上手である。自宅へ夕食に招んでくれた。聞くともなく聞いていると朝鮮から中国・満州へ移住した経緯を話してくれた。
日本が朝鮮を武力併合した後で、肥沃な農地を買い上げられて満州へ移住させられたという。新農地の開拓が終わってやっと一息ついたときに日本人がまた農地を売れと言う。作物からの収入もまだ十分でなく困窮していたので、二束三文でも現金が欲しい。苦労して開拓した農地を売って、北満州へと移住する。買った日本人は作物が採れるようになった土地を「満蒙開拓団」へ転売したという。満州開拓を朝鮮族から見るとこのようなものだった。その故で現在の中国東北地方には朝鮮族自治区があちこちに散在している。自治区では朝鮮民族の文化もそのままで、日常は朝鮮語を使っている。
@アジア諸国は1945年まで欧米の植民地だった
日本が朝鮮や満州を植民地にしようとしていた時代は欧米の植民地に取り囲まれていた。インド・パキスタン・バングラデッシュはイギリス植民地、ビルマやマレーシア、ボルネオの一部もイギリス植民地、ラオス、カンボジア、ベトナムはフランス植民地、インドネシアはオランダの植民地、マカオと東チモールはポルトガル植民地、フィリッピンはアメリカ植民地、シンガポールと香港もイギリス植民地であった。下の地図がその様子をしめしている。
独立国は僅かに日本と中国とタイの3国だけである。
このブログで何度も取り上げた話題に、農村の困窮と強大な軍備の関係がある。今にして考えれば狂気の日本であった。でもその狂気の原因の一つはアジアが欧米の手に落ちていた事実を指摘せざるを得ない。下手をすると日本も欧米の植民地になってしまう。考えると物凄い弱肉強食の時代だった。
@日本の敗戦が植民地独立のきっかけを作ったと言うのは禁句
戦後、香港とマカオ以外の植民地は一斉に独立した。よく見識のない日本人がこれらの国々へ行って自慢する。「君たちは日本のお陰で独立できたのだ」、と。しかしこれは言ってはいけない禁句である。日本が占領した諸国で過酷な植民地政策をしいた。従ってアジア諸国は決して日本の悪行を忘れない。
現在、中国、ベトナム、インドネシア、タイなどに日本の会社が工場を作って利潤をあげている。よほど慎重に、そして礼儀正しい会社運営をしないと日本軍占領時代の悪夢を思い出させてしまう。戦後生まれの日本人がアジアで経済活動をする場合は戦前に日本軍のした色々な圧政を忘れてはいけない。先方は礼儀正しくその話題を避けているのだ。老人の我々も忘れかけている。時々このような文章を書いて忘れないようにしているのです。
(写真の出典:http://asiancloth.blog69.fc2.com/ )
何度もご紹介しましたが、カトマンズにお住まいの、ひかるの様の10月6日のブログの記事に「カトマンズの幼い天使たち」という題の写真・文章がありました。
昨夜、ヨットのキャビンでこの記事のことを色々考えて見ました。「日本の子供からこの写真のような表情が消えて無くなった」と、ひかるの さんは書いている。いや、そんな事は無い!近所の公園で遊ぶ子供たちは嬉々として可愛い表情をしているではないか!今日帰宅してカメラを持って公園へ行く。子供たちが騒がしく遊んでいる。ところが、写真を撮ろうとすると、「怪しい小父さんが来た!」と警戒した表情になってしまう。ああダメだ!上のひかるのさんの写真に並べて、日本にも居る「幼い天使」という題で小さな記事を書こうとしたが諦めた。第一、母親が子供へ警戒心を植えつけている。そうしなければならない社会になってしまっている。
是非、http://asiancloth.blog69.fc2.com/ をクリックして、ひかるのさんの写真と文章を丁寧にお読み頂きたいと思います。日本が高度成長と高学歴社会で失ったものがしみじみ分かります。でも覆水盆に帰らずで、手遅れです。ただ失ったものを忘れないようにしたいと思いここに、ひかるのさんの記事をご紹介した次第です。(終わり)
群馬のカヤシマさんのヨットを見ましたので写真を撮らせて貰いました。20年前に琵琶湖で買って霞ヶ浦へ陸送したヨットです。1988年から1998年までの10年間乗りました。その後、群馬のカヤシマさんが、ご自分で船底からキールまですっかり塗り直し、新品同様の状態にして乗っていらっしゃいます。
カヤシマさんを沖で見かけましたのでラクス・マリーナへ行って帰港をお待ちしていました。
昔、あまり手入れもしないで乗っていた艇を大切に使っているカヤシマさんへ敬意を表したくて突堤の上で待っていました。Yamaha19という名前のヨットです。個人的な興味だけの写真を掲載して恐縮です。(終わり)撮影日時:10月7日夕方、
キャビンのついた中古ヨットを買うことを想像して頂きたい。何故買うのでしょうか?使用目的は何でしょうか?実際に買わないでも想像して楽しんで見ましょう。
(1)男の隠れ家として使用することを想定する
ヨットやモーターボートのキャビンを「男の隠れ家」にしている人々が意外に多い。船を沖に出さないで、キャビンの中で男が独りで長時間、何やら楽しそうに仕事をしている。夕方から夜にかけて波に揺れるヨットのデッキでビールを独り飲む時間は至福の時。
岸壁には誰も居ない。街灯も無いので月や星が鮮明に見える。
夜が更ければキャビンに入り、スコッチへ切り替える。キャンドルの光では読書も出来ないのでクラシック音楽を聞いて時を過ごす。
(2)昼間だけの帆走を楽しむために買う
昼間だけゆっくり巡航し、風でヨットを悠然と走らせることを楽しむ。夜はキャビンで静かに隠れ家として楽しむ。
以上のような「隠れ家」を使用目的で中古ヨットを買う場合にはキャビンの内部が木造で炊事道具や戸棚が完備していることが重要になります。
昼間の帆走を主な目的に購入する場合には帆走に必要な部品は揃っていて、即港出来ることが重要ですね。詳しくはフォトアルバム「中古ヨットの見分け方の写真集」にチェックすべき項目や備品が説明してあります。ご参照ください。
以下にキャビン内部の写真2枚と、主帆だけを上げてゆっくり港内を走っている写真を掲載しました。
キャビンは冬でもすぐに暖房が効き快適です。雨や雪で出港出来ないときは快適な小部屋として小さな別荘のように使えます。泊まることも自由です。中古ヨットを買う場合には、始めからキャビンの内装の良いものを選びましょう。(続く)
尚、中古ヨットの買い方、改訂版(1)は2008年9月1日から始まっています。
昔の農家を見るのは楽しい。農村風景は詩的な趣もあり、日本人の原風景として何故か懐かしい。しかし何度も見に行き、いろいろな考えをもってしまった。例えばこれらの農家は何時ごろまで実際に使われていたのか? 金持ちの農家だったのか?小作人の農家はどういうものか?などと考えだした。
川崎市の日本古民家園、小金井公園内の江戸東京建物園、小平市の小平ふるさと村などに展示されている農家が昭和40年代まで実際使用されていたのを知って愕然とした。しかも展示されている農家は裕福な大型農家である。上の始めの2枚の写真のような小作人や貧農の農家は小平市以外では展示されていない。右側3枚は裕福な農家とその台所の様子を写した写真である。1970年頃までは電灯とラジオがある以外江戸時代と変わらぬ生活水準であった。いや、もう少し正確に言えば、雨戸の内側にガラス戸が付いたこと、脱穀機などに電気モーターなどが使用されたことなど部分的には随分便利になった。それに義務教育が普及し誰でも小学校を卒業するようになった。しかし地主と小作人の関係はマッカーサーによる農地解放まで江戸時代とあまり変わっていない。農地解放前は地主だった老人のところへ、昔の小作人が野菜を持って来て、庭の地面に座って話していた。元地主は縁側の上に座って、元小作人を見下ろしながら談笑している。そんな光景を1962年の冬から元地主が死ぬまで何回か見た。元小作人は玄関からは入らない。縁側には座らない。住んでいた家は上の写真の左2枚と大同小異であった。それが終戦までの多くの農民の実態だった。筆者の疎開先の農家は全ての煮炊きを囲炉裏で行っていた。流石に囲炉裏の回りは土間でなく高い板敷きになっていて、奥には畳敷の部屋が2つあったが。電灯とラジオだけは有った。
稲の品種改良も進んでいなかったので冷害や旱魃の被害が大きく、特に東北地方では娘が身売りしたり女中奉公へ出たものである。
農村の窮乏の一方では軍需産業は隆盛を極め、国民の税金の多くは軍備へと費えた。
下のような写真にある軍艦や戦闘機、爆撃機の費用は想像を絶するような多額である。日本は何故このような酷い時代を通ったのか? 欧米との愚かな武力競争に邁進してしまったからである。このような軍隊の費用は農村を犠牲にして成り立っていたことを忘れてはならない。
古い農家、しかも裕福な立派な農家だけを展示してある展示場の欺瞞性を考えて観賞したほうが良いのではなかろうか。そんな思いをしたので上と下の写真を対比的に掲載して見ました。
日本は1867年、近代化革命でもあった明治維新が起き、欧米型の政府が出来た。その後、日清戦争、日露戦争に勝ち、日支事変、満州事変に続き太平洋戦争と突入して行った。1945年の敗戦で欧米との国力の差の大きさに目が覚める経験をした。そして戦争で疲弊した経済力は1970年ころから始まる高度成長まで立ち直らなかった。と、いうような通りいっぺんの歴史は学校で誰でも習う。しかし、1867年から1970年頃まで約100年間の農村の生活状態は、江戸時代とほとんど変わっていなかった。この事実は学校では強調されない。皆なが忘れつつある事実であろう。(終わり)
戦艦大和、金剛の写真の出典:http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/senkan/yamato.php
下列右3枚の写真の出典:http://www.naxnet.or.jp/~m-o/
日本のカトリックの歴史は1549年にザビエルの来日から始まります。今年は2008年なので459年の歴史があります。その間、26人の殉教者がローマ法王によって福者として認められ、のちに聖人の位に上げられました。
今年の11月24日には長崎のビックNスタジアムで日本のペトロ岐部を含む188人の殉教者を福者としてローマ法王が認める式典が行われます。
ローマのバチカンからは法王の代理の方が出席し式典を執り行います。
いつも、いい加減なカトリックの話を書いていますので、この際、正確な情報が詳細に出ているHPをご紹介いたします。
女子パウロ会のHPです。カトリックの教義から歴史まで実に明解に、そして良く整理分類されて公開してあります。部分的に拾い読みをしてもよく理解できます。
URLは:http://www.pauline.or.jp/historyofchurches/ です。
上の写真は長崎にある26聖人像の写真です。出典は、http://www004.upp.so-net.ne.jp/SPAT/nagasaki/KIKO-nag9-Photo-01-26Saints/KIKO-nag-Photo-26Saints.htm です。
日本のカトリック信者にとっては江戸時代260年の間の「隠れキリシタン」の時代が特に重要な意味を持っています。信仰のよりどころになっています。
女子パウロ会のHPには26聖人の詳しい説明もあります。今度、福者になる188人についてもいずれ詳しい説明が出ると思います。簡単に言えば188人の中で神父さんは数人だけで、あとは皆普通の信者です。ほぼ400年前に、棄教しないで処刑された人々です。
いつもの脱線を反省して、ここに正確な情報を提供しているホームページをご紹介致します。
(終わり)
傍(ばい)亜門さんのHPで「アジアの見聞録」というのを発見しました。URLは、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/ です。昭和48年生まれですから現在35歳。
若々しい感性で写真を撮っています。以前、バンコックやカトマンズに25年住み着いている「ひかるの」さんのブログをご紹介しましたが、合わせてご覧になるとアジアの奥深い楽しさが理解出来そうです。ひかるの さんのブログは、( http://asiancloth.blog69.fc2.com ) です。
下に傍さんのHPから、韓国の農家の写真を3枚転載します。(メールを傍さんへ送りご了解を頂いています)。日本の農家や韓国の農家の写真を掲載するのは、日本の陸軍や海軍の軍備とのアンバランンスについて一文を書く予定があるからです。(終わり)