後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

転職と宗教的訓練

2008年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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1988年から1990年までアメリカで働いていた。転職が普通な社会だ。時々転職の話になる。履歴書の書き方が非常に重要なのは日本と同じ。ある人が強調するには、宗教的訓練を受けたと書くと転職に有利になると言っていたのを、今朝思い出した。今日は日曜日、白内障の手術後の妻は留守番なので独りでミサへ行く予定。何しにミサへ行くのか?自分でも疑問である。強いて言えば「宗教的訓練」を受けに行くとしか言えない。

履歴書に、幼児のころから高校生まで教会へ通っていたと書くと、それが宗教的訓練を受けたと理解され採用されやすいそうだ。信仰の有無は問わない。訓練を根気よく受けられる人間は企業に入っても会社の方針に合わせて行動をしてくれると考えるそうだ。

イスラム教徒や仏教の人はどのように履歴書に書くか?この問いへ対して、アメリカ人が気楽に書けば良いという。イスラムなら毎日の礼拝を時間通うりに行っているとか、断食はちゃんとしていると書く。日本の仏教徒は?毎年お彼岸に墓掃除をして花と線香を上げる。お寺のお葬式に平均1年に一回出る。毎年元旦には神社にお参りに行く。そうのように書けば転職が有利になるそうだ。仏教徒であるか否かは問題外である。

アメリカの実利主義やプラグマティズムの側面を明解に示すような考え方である。

ミサに出席してキリストの言葉を聴こうとするのも、実社会では転職の役に立つというアメリカ的考えには恐れ入るだけである。信仰の有無は始めから度外視している。

そうとなれば気楽に教会のミサへ行ける。洗礼を受けているか否かは問題でない。いつも行く教会では洗礼を受けないで出席している人々も多い。まあそれだけの話です。(終わり)


壮快なヨットの風景

2008年10月04日 | 写真

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今日は快晴のヨット日和。霞ヶ浦の係留地へ、10時ヨットの前に着く。月末のパーテイのため、デッキを洗い、キャビンを掃除し、テーブルを出す。11時30分出港、すぐメインセールを港内で上げる。向かい風を上る。4.0ノット。沖で風が止まる。エンジンと帆走を組み合わせて帰る。14時30分帰港。

6枚の写真に、青空を背景にしたメインセールの写真が2枚もあります。ヨット乗りならこのセールの形に、ご興味があるかと思い掲載しました。4本のバテンで9メートルのマストへ大きすぎるほどの特注のメインが上がっています。UKは香港製のセールです。前のオーナーがレース専門のヨットマンでセールが7枚も有りました。

抜けるような青空で秋風が涼しく吹いていた。帰りに昔、20年前に琵琶湖で購入し、その後10年間乗っていた、ヤマハ19に会う。彼は土浦の花火大会を湖上から楽しんでヨットに泊まると言う。15時に係留地を出て帰路につく。家には17時丁度に着く。

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外国体験のいろいろ(70)若い方々へのベトナム報告

2008年10月04日 | 旅行記

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(写真はハノイのあるホテル。第二次大戦まではフランスの植民地だったベトナムにはフランス風の建物が残っている。写真の出典:http://dsurpass.blog123.fc2.com/blog-entry-143.html )

                

◎ホンダバイクの奔流―サイゴン

 1994年、サイゴン、夏の夜のこと。目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに2,3人の家族を乗せて大河の奔流のように流れて行く。ベトナム人家族の夜の娯楽である。1979年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから15年。思い返すとベトナムでは1945年の太平洋戦争の終結から30年ほど戦争が続いている。

1940年、フランス植民地だったベトナムへの日本軍の無血占領、戦後のフランスからの独立戦争、続いて中国・ソ連共産勢力とアメリカ軍との戦いと戦乱が続いた。最後はアメリカの敗北で終わった。バイクの流れの前に立ち尽くす私の脳裏を、ベトナムの過酷な歴史がかすめる。

@ホーチーミン記念館になびく吹き流し

記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を壊滅させたグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあった。記念館の屋根には、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいている。

案内人の説明によると、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と書いてあるそうだ。

@残留日本兵の活躍と帰国後の話

第二次大戦の終戦後、日本に帰らず、ベトナムに残留した日本兵が多くいた。残留してホーチーミンの部下としてフランス軍と戦った。その後帰国した残留日本兵の話を聞いたことがある。

元日本兵が言う、 「作戦の最中、川を渡る時は、兵隊は下半身裸になり、将校を背負って渡る。残留日本人は皆将校になったので、ベトナム兵の肩に載って渡る」、「ところが、老人のホーチーミンは絶対に兵の背にのらない。ズボンをたくし上げて自分で歩いて渡って行く。背負われて渡る他の将校へ、歩いて渡れと命令しない。自分は自分で、他人へは命令しない。ホーチーミンはそのような男だった」

元日本兵はホーチーミンの部下として戦った六年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言う。尊敬できる総司令官、言葉をかけてくれる、親切な総司令官の下で働いたことを楽しく思い返しているようだ。

1951年になり、朝鮮戦争が始まる。ホーチーミンは残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返した。

元横浜正金銀行の幹部であったHさんも残留した。ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったという。Hさんが言う、「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まった。彼は一般民衆の幸福を第一に考えいつもベトナム共産党の官僚主義と闘っていた」と語った。

日本人の若い人々が観光でベトナムを訪れることも多くなった。ベトナムが仏領インドシナというフランスの植民地だったこと、日本軍の無血占領、それから独立するまでの歴史を知っていたほうが良い。その間に日本人がどのように係わったかも知るほうが良い。(続く)


現在も役に立っている旧甲州街道、小仏峠道

2008年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム

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江戸と甲府を結ぶ旧甲州街道は小仏峠の前後が昔のままに残り、ハイキングコースとして現在も多くの人々の為に役に立っている。現在の甲州街道は八王子の西から旧街道から大きく外れて、大垂水峠(おおたるみとうげ)を通っている。従って、駒野木宿、小仏宿、峠を越えた小原宿までは昔の古い山道がそのまま残っている。明治天皇が甲州へ行幸したときも小仏峠を越えていて、頂上に休憩を記念した石碑がある。また寛政7年(1795年)と刻み込んだ石の案内碑も峠の上にある。昨日は晴天。小仏宿の少し上にある駐車場まで車で行き、小仏峠まで40分で登ってきた。

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上の左の写真は小仏宿のあった付近。現在もなんとなく宿場風の家が少し残っている。

真中の写真は駐車場から旧甲州街道の山道へ入った所。昼なお暗い木立の中である。

右端の写真は、えんえんと続く急坂の様子を示している。

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左端の写真は峠の頂上より八王子方面を望んだ風景です。峠は鬱蒼たる樹海の中にあります。

真中の写真は明治天皇が一休みして抹茶を飲んだところの記念碑です。

最後の写真は旧甲州街道の歴史案内で、駒木野宿、小仏宿、峠、小原宿、与瀬宿、吉野宿の配置が明解に描いてあります。なお、小原宿と吉野宿には記念展示館があり、このブログの6月11日掲載記事で詳しく紹介しました。JR高尾駅から小仏宿付近まではバスがあり、バスを利用した老人が多く散策していました。峠までは最後のバス停から50分ほどなので老人向けに丁度良いハイキングコースです。(終わり)


ヨハネ・パウロ二世の謝罪(補遺)

2008年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム

9月30日掲載記事「ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世の謝罪」の内容に対してmugiさんから、本格的な評論がコメントとして投稿されました。大変誠実な反論で、考えるべき要素が多々ありますので、是非、コメント覧をお読み頂きたいと思います。

宗教に関することは個人的な自由が重要なので公平にいろいろな意見をご紹介すべきと信じここに再録いたします。書き出し部分のみ、以下に転載します。

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大変申し訳ありませんが、私はあの謝罪への見方は異なっています。
ヨハネ・パウロ2世が十字軍を「謝罪」した後、「天国にいけるのは正しきキリスト教徒のみである」と言っています。要するに天国にいけるのはカトリックだけということであり、これぞローマ法王の本音だったのでしょう。
また、「神の啓示がない仏教は宗教とは言えない」と発言し、スリランカの僧侶が激しい抗議をしています。それに対し法王の側近が弁明めいたことを言ってますが、当人はダンマリ。このニュースを地元紙ではベタ記事で扱いましたが、私は忘れていません。
高山右近も領土の仏教徒を弾圧をしていますが、何故かこの史実は知られていない。

以下省略、、、、、

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反論でなく感想を書きます。ローマ法王は人間ですから100%謝罪の目的のみで行動を起こしたわけではないと理解するのが普通です。どちらか一方のみに行動の動機を決め付けるのは事実から離れると感じます。mugiさんのコメントのなかで筆者自分の感じ方と同じ部分があります。お釈迦さまは神に関してコメントしていませんから、仏教からはキリスト教へ入るのに心理的抵抗感が無いのだと、かねがね考えていました。それを補強するような記述がありました。

それからガンジーの言葉、「私はキリストは好きだが、キリスト教徒は嫌いだ」は同感ですね。ただし、「キリストの教えを自己の利己心に合わせて曲解して平気な、キリスト教徒は」と限定したいですね。

高山右近の仏教徒の弾圧も参考になります。武力や暴力を宗教問題へ持ち込むのはキリストの教えでは有りません。

いろいろ考えさせるコメントをお送り下さいました、mugi さんへ感謝します。(終わり)

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夫婦の義理(5)着物の着付けを47年

2008年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム

051010tajima21 嫁入りのとき和服を幾つも持って来た。ところが女の和服は一人で着るのが難しい。オハイオまで単身来てくれた義理でつい着付けを手伝ってしまった。それ以来、延々47年、和服の着付け係りをする。

手伝ってみて和服の不合理な構造に目の先が真っ暗になる。一番の難点は分厚い絹織り物の帯で着物を巻きつけて、その余った部分で太鼓型の飾りを作り、背中に固定することにある。これは何十回しても太鼓型が綺麗に仕上がらない。

第一、堅い、分厚い、長い帯で着物を締め付けて、一日、着物が崩れないようにしなければいけない。きつすぎても、ゆるすぎてもいけない。

余った帯を、帯揚げで太鼓を作る。このとき綺麗な模様が表面に正しく来なければいけない。左の写真のように、細かな模様の帯は位置を気にしなくくてもよく、楽である。太鼓型が出来たら帯止めで固定するのだが、その時、太鼓が崩れて、最初からやり直り。これを3回くらい繰り返す。何度しても上達しない。

着物が崩れないように締める目的と、太鼓型の飾りを作る目的という2つの目的を堅い1本の帯で達成しようとする「不合理な発想」が基本的に間違っている。「ああこんな不合理な文化を背負っているので、日本はアメリカに戦争で負けたのだ!!!」といつも心の中で叫ぶ。

でも妻にはこのことは言わないで、「ウン、やっぱり和服姿は綺麗だね」と軽い風を送ってやる。

もう一つの難しさは衣紋を抜く程度だ。写真のように首の後ろの襟を少し引っ張って、美しいうなじを見せなければいけない。見せる程度が和服を着る目的によって微妙に変わる。

中高年が多く出る茶会には控えめにし、若者も多数見にくる生け花の展覧会では襟を大胆に抜く。でもこれは太鼓を作るよりはやさしい。後で、帯の下から、後ろ襟の真下を引っ張ればもっと抜ける。

着物の着付けの難しさは、その日に着る和服の材質と柄模様によって着付けの様子が変わってくる点にもある。一般に堅めの絹織物はやさしいが、薄くて柔らかい生地には泣かされる。形が決まらず、着付けをしている最中に崩れはじめる。全く泣きたくなる。

しかし悪戦苦闘の結果出来上がり、妻がにっこりすると終わりになる。

夫婦の義理と諦めて47年。結婚とは大変なものだとしみじみ思う。(終わり)

(写真の出典:  http://www.cs-j.bias.ne.jp/~sakura/kituke05.html )


水彩画ふうに宗教のある風景を描く(2)お寺さんの裏側は?

2008年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

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お寺の裏側には、普通、墓地が広がっている。お寺の住職一家の生活や、檀家の墓地などについて少し書いて見たいと思う。写真は大阪の能勢電鉄の写真と東京都下、旧日野村の石田寺の墓地の写真である。

筆者の祖父は兵庫県の田舎の曹同宗のお寺の住職であった。

仙台の大学に勤めていた父がお盆になると一家を連れて里帰りする。東北本線、東海道本線の長旅の後、大阪・梅田から阪急電車、能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅であった。生まれた昭和11年から毎年行っていたが、記憶に残っているのは4,5歳の頃からと思う。里帰りは戦後の昭和26年、中学校3年の夏まで続いたので10年間くらいの記憶である。

お寺は山合いのの端にあった。高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っていた。石垣の上の白壁のところから全体が見下ろせた。箱庭のような眺めだった。

里帰りした一家は本堂の左奥にある離れに寝ていた。

お寺の生活は子供心に珍しく、いろいろ思い出がある。

お盆には近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻る。曹同宗がこのように派手な儀式をするのは、その後も見たことがない。の人々の先祖の供養と施餓鬼供養をしているのだ。本堂の左右の客間にはの人が合掌して座っている。人々は供える野菜や果物を祭壇に溢れるほど持ってくる。

お盆の間に、住職は、筆者と弟に子供用の墨染めの衣を着せてへ降りて行く。一軒一軒全ての家を廻って、仏壇へ向かって、一緒にお経を唱える。お経が終わると、どの家でも冷やしソーメンと果物を出してくれる。少し食べて帰ろうとすると、お布施の袋を3つ出してくれる。小坊主には小さな袋でくれる。これが子供にとって一番嬉しい。夏の小遣いが溜まるだけでなく、小さなお布施袋を貰うのが嬉しいのだ。

祖父母が死に、叔父が住職になってからは里帰りはしなくなった。

大学を卒業し、結婚し、生活の苦労をするようになって、能勢電鉄の奥にあった祖父母の暮らし考えるようになった。とにかく貧乏なお寺で、後に叔父に聞いたが現金収入が一切無かったという。

お寺の裏側は山が迫っていて墓地を作れない。の端の山裾の彼方此方に墓があった。お寺には位牌だけがあり、墓地の面倒を見ていない。毎年、檀家の人々が米を一年分寄進して蔵の中に蓄える。戦争中でそれも十分ではない。

檀家は農家なので現金収入が無い。それでも野菜が出来れば、毎日のように少しずつ寺へ持ってくる。田舎のお寺は、家族の生活を檀家だけに頼るわけには行かない。寺には昔から畑や田があり自給自足が出来るようになっている。従って住職の仕事は読経と、田畑の世話の両方をすることになる。

田舎のお寺の裏側にはいつも生活の苦労がつきまとっていた。しかし、それこそが、お釈迦様が住職へ期待している生活なのだ。

上の石田寺の墓地は広くて裕福な檀徒が多いように見える。住職一家の生活はそんなには困窮しないと思う。この寺の写真を掲げたのは理由がある。普通のお寺では墓地が本堂の裏にある。しかしこの石田寺では本堂の前の南側にある。

先祖の墓の全てを、いつも本尊様が、本堂の中から見守っているような設計になっている。お釈迦さまの慈悲の心が感じられます。

この石田寺の墓地の配置を考えた昔の住職さんへ敬意をささげたいと思いました。お寺の佇まいで、住職さんの考えが分かります。観光客から入場料をとったり駐車場を経営するのを釈迦様はお喜びでしょうか?非難は出来ませんが、いろいろなお寺があるものだと考えさせられます。

(終わり)


水彩画ふうに宗教のある風景を描く(1)無宗教の方々へ

2008年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

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(小金井市、東京サレジオ学園にて、10月1日午後4時20分、写す)

宗教は他人へ勧めるものでは無い。しかし宗教のある風景を軽い水彩画風に描いて見ようと思う。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

筆者の祖父と叔父は曹同宗のお寺の住職で、父は現役引退後、草深い田舎に、小さな寺を再建し住職になった。

しかし、誰も仏教のことを強要しなかった。

成人するにしたがって、なんとなく仏教のことを考えるようになった。その延長で1972年、36歳の時、カトリックの洗礼を受けた。仏教とカトリックが心の中で自然に繋がってきたと言える。いい加減といえばいい加減である。

南米大陸のカトリック教徒がマヤ文化などの土着信仰とカトリックを合わせて信仰しているように、筆者の宗教は仏教的なカトリックである。

そんな訳で親しい友人、知人と酒を交わすときは宗教の話題をよく出す。親しい人々なので本音を言い合う。そこで分かったが、多くの人が誇らしげに無宗教であると広言する。必要以上の大きな声で。お葬式もお墓もいらないと言う。それもサッパリして良いと思う。

でも、そのような人々は自覚はしていないが、皆な仏教徒のような気がする。お釈迦さまは、人間も全ての物体も空(くう)であると教えている。死は空(くう)に帰ることだから、お葬式やお墓にこだるのはいけない。無宗教だと言う人々は社会生活にも節度があり、善良な人々が多い。つい尊敬してしまう。ついでに三蔵法師は好きですか?弘法大師は好きですか?と聞いてみる。大部分の人は目を輝かして好きだと答える。

外国から日本の風景を想像してみるとお寺や神社のある風景が多く想像できる。人々は何時も墓を綺麗にし、花々を供えている。本人が不要だといっても、死んだら遺族がお寺で葬式をしている。家々には仏壇があり、盆には僧侶が読経に来てくれる。

外国から見れば日本は素晴らしい仏教国である。本人達が、いや日本は無宗教国ですと主張しても、誰も信じない。

水彩画風に描けば、無宗教の青い色も、仏教の赤い色も、キリスト教の黄色の色も抽象画を構成しながらその境界は混じりあって判然としない。水彩画の絵の具のように自然に混じり合っている。

筆者の心の中では、無宗教も仏教もキリスト教も行ったり来たりして、その境界が判然としない時がある。宗教とはそのようなものと理解している。

それでは欧米人ではどうなのか?簡単である。キリスト教と無宗教の間を行ったり来たりしている。時々、悪魔へ魂を売り飛ばしている。人間はそのようなものです。

しかし、欧米人とお酒を一緒に飲むときは「私は無宗教です」と言ってはいけない。油絵の絵の具を塗りつけるようにベタベタしたしつっこい議論になります。そうでない時は相手が急に静かになり、深い軽蔑の念を抱いてしまいます。底深い人間的不信感を持たせてしまいます。

以上のようないい加減なことを描いてから、今後、宗教に関するあれこれを軽いタッチの水彩画風に描いて行きたいと思います。無宗教の方々に読んで頂ければ大変嬉しくおもいます。

最後に重要なことを付記します。筆者はイスラム教は立派な高等宗教と信じていますが、その教義を知らなすぎるので書きません。無視しているのでは有りません。イスラム教徒の方々のご寛容を御願いいたします。その他の宗教についても無知すぎるので触れません。お許し下さい。(続く)