お寺の裏側には、普通、墓地が広がっている。お寺の住職一家の生活や、檀家の墓地などについて少し書いて見たいと思う。写真は大阪の能勢電鉄の写真と東京都下、旧日野村の石田寺の墓地の写真である。
筆者の祖父は兵庫県の田舎の曹同宗のお寺の住職であった。
仙台の大学に勤めていた父がお盆になると一家を連れて里帰りする。東北本線、東海道本線の長旅の後、大阪・梅田から阪急電車、能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅であった。生まれた昭和11年から毎年行っていたが、記憶に残っているのは4,5歳の頃からと思う。里帰りは戦後の昭和26年、中学校3年の夏まで続いたので10年間くらいの記憶である。
お寺は山合いのの端にあった。高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っていた。石垣の上の白壁のところから全体が見下ろせた。箱庭のような眺めだった。
里帰りした一家は本堂の左奥にある離れに寝ていた。
お寺の生活は子供心に珍しく、いろいろ思い出がある。
お盆には近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻る。曹同宗がこのように派手な儀式をするのは、その後も見たことがない。の人々の先祖の供養と施餓鬼供養をしているのだ。本堂の左右の客間にはの人が合掌して座っている。人々は供える野菜や果物を祭壇に溢れるほど持ってくる。
お盆の間に、住職は、筆者と弟に子供用の墨染めの衣を着せてへ降りて行く。一軒一軒全ての家を廻って、仏壇へ向かって、一緒にお経を唱える。お経が終わると、どの家でも冷やしソーメンと果物を出してくれる。少し食べて帰ろうとすると、お布施の袋を3つ出してくれる。小坊主には小さな袋でくれる。これが子供にとって一番嬉しい。夏の小遣いが溜まるだけでなく、小さなお布施袋を貰うのが嬉しいのだ。
祖父母が死に、叔父が住職になってからは里帰りはしなくなった。
大学を卒業し、結婚し、生活の苦労をするようになって、能勢電鉄の奥にあった祖父母の暮らし考えるようになった。とにかく貧乏なお寺で、後に叔父に聞いたが現金収入が一切無かったという。
お寺の裏側は山が迫っていて墓地を作れない。の端の山裾の彼方此方に墓があった。お寺には位牌だけがあり、墓地の面倒を見ていない。毎年、檀家の人々が米を一年分寄進して蔵の中に蓄える。戦争中でそれも十分ではない。
檀家は農家なので現金収入が無い。それでも野菜が出来れば、毎日のように少しずつ寺へ持ってくる。田舎のお寺は、家族の生活を檀家だけに頼るわけには行かない。寺には昔から畑や田があり自給自足が出来るようになっている。従って住職の仕事は読経と、田畑の世話の両方をすることになる。
田舎のお寺の裏側にはいつも生活の苦労がつきまとっていた。しかし、それこそが、お釈迦様が住職へ期待している生活なのだ。
上の石田寺の墓地は広くて裕福な檀徒が多いように見える。住職一家の生活はそんなには困窮しないと思う。この寺の写真を掲げたのは理由がある。普通のお寺では墓地が本堂の裏にある。しかしこの石田寺では本堂の前の南側にある。
先祖の墓の全てを、いつも本尊様が、本堂の中から見守っているような設計になっている。お釈迦さまの慈悲の心が感じられます。
この石田寺の墓地の配置を考えた昔の住職さんへ敬意をささげたいと思いました。お寺の佇まいで、住職さんの考えが分かります。観光客から入場料をとったり駐車場を経営するのを釈迦様はお喜びでしょうか?非難は出来ませんが、いろいろなお寺があるものだと考えさせられます。
(終わり)