この写真のような白帆を漠然と見ていると、これからの日本はどのように変わるのだろうか?変わらないものは何か有るのだろうか?
未来のことは想像もつかいと言う人々が多い。しかし、5年後から10年後の社会の変化や、家庭生活の変化を考えることは出来るような気がする。生活をとりまく社会が変化すれば趣味も変わる。
日本の高齢化が進めば若者の負担が増え、老後の生活も現在より苦しくなるとマスコミが伝えている。でも本当だろうか?
仕事をしない老人が増えれば、現在より多様な趣味の世界が広がる。趣味の重要性が増す。自然に若者の世界にも老人とは違う新しい趣味の世界が広がる。
人生で結婚や子育てが重要だと思う人々が少なくなりつつある。そのことの善悪を考えるのは無駄なこと。ある現象が起きるには複雑な原因が有るものだ。
あるいは一生ある会社で働いて、その会社へ忠誠を誓うことが重要という考えが弱くなっている。
このように個人の生活を縛ってきた観念が消えつつある。その結果、個人が生活の仕方を自分で考える時代へ変って行く。
束縛がなくなれば個人的な趣味が重要になる。
旅行の趣味も新しい展開が想像できる。例えば北朝鮮が開放経済体制へ移行するとする。東京から下関、釜山、ソウル、北朝鮮、北京などを経由して上海まで、快適な車両の高速列車の旅が出来るようになるだろう。さらに南下してベトナムのハノイやホーチーミン市まで列車の旅が出来るだろう。各地の良質なホテルへ泊まりながらローカル文化を楽しみながらユッタリと旅をする。これはある程度現在でも出来るだろう。北朝鮮を省略すれば。
これから数回にわたって、近い将来、趣味の世界がどのように変るかというテーマで書いて行きたいと思う。(続く)
広い湖水の側に行くと、「青い惑星に住んでいる」という実感を覚える。富士山の五合目で見上げた空の青さ、紅葉の鮮やかさ。そしてこの山中湖で見上げた白い雲。
心が雲に吸い上げらてしまう。空の青さや水面の輝きが、宇宙から地球を見た青い惑星のイメージを与えているようだ。魂が空に舞い上がり、水面を滑るように飛んでいる。30分も湖畔に座っているとそのような心地が体験できる。
暗い真夜中に古刹の堂で座禅をしていると同じような境地になるのだろうか?
(終わり)
撮影場所:山梨県山中湖、山中湖ヨットハーバーにて;http://www.alpha-net.ne.jp/users2/sailboat/ 、撮影日時:10月13日午後2時頃
東京都日の出町の山中に1983年、中曽根首相とレーガン大統領が会談した田舎家がある。日の出山荘などと風流な名前をつけているが、どちらかと言うと、貧農に近い農家を改装した粗末な家である。江戸時代末期か明治時代に立てられたような農家で、材木があまり良くないようだ。昔はガラス戸の代わりに雨戸が付いていて、左奥の座敷だけ畳で、真ん中の部屋は板敷き、右手入り口を入ると土間で土間の左手に囲炉裏があったと推定出来る。古い農家を数多く見てきたので当時の構造が想像出来る。
1983年に日米会談をここで開催することになり、外務省あたりの役人が慌てて内装を作りなおしたような建物で、現在見ると「貧弱な昔の小さな農家」という感じがする。
中曽根さんは、よくぞこんな山中の粗末な農家へレーガンさんを連れてきたものだ。と、感心する。堂々とした態度で抹茶をたて大統領夫妻を迎えている。昼食も幕の内弁当のようなものを食べている。そして長時間2人で会談をしたという。
敷地内に急ごしらえの茶室がある。それだけの古い農家であった。現在は日の出町が管理して公開している。公開にあたって「書院」と称する大きな建物を作り、中曽根首相の一生の間の華々しい政治活動の様子の写真が多数展示してある。
抜群にエネルギッシュな活動家で、国際感覚に高い見識があり昔から好きな政治家であった。展示してある写真を見て廻ると元気が乗り移ってくる。見ながら、それぞれの時代の日本の社会の雰囲気を思い出した。高度成長期で騒然とはしていたが、皆が活き活きとしていた時代であった。強烈な自由競争の時代でもあった。
新聞やテレビでは政治家を皆悪者にして批判ばかりしている。政治家の悪口を言えば新聞が売れ、視聴率が上がるという下劣な考えが下にあるようで、尊敬できない。政治家の人間性は別にして、その政策や実行力で賞賛すべき場合があるものだ。そのときは公平に評価して報道すべきである。
政治家とは付き合いが無かったが、1990年頃に額賀福志郎さんと団体を組んで北京やジャカルタへ旅をしたことがある。防衛大臣や財務大臣をした人である。当時は無役で暇が有ったらしい。控え目で自己顕示欲のない素朴な人柄である。
こちらから聞くと外交や防衛はこういう戦略で進めるのが良い、と明解に説明してくれる。頭脳明晰であるのだが、それを感じさせない風貌である。それまで額賀さんのことを知らなかったので、つい「総理大臣になられれば良いと思います」と言った。それまで眠っているような目で説明していた彼が、眼がギラギラ光らせて、「自分もそう思っています」と言下に答えた。その眼光の輝きが忘れられない。
日の出山荘を見て回りながら額賀さんのことも思い出していた。訪問者は高年齢の夫婦が子供や孫と連れだってきている。皆の顔を明るくなり活力を貰っているように見える。場所は五日市市と青梅市を結ぶ秋川街道から山中へ2Kmくらい入ったところで、分かり難い。HPなどで地図を確かめてから行かれますことを是非お勧めしたいです。HP:http://www.town.hinode.tokyo.jp/sansou/index.html (終わり)
@日本とドイツの大戦中の恩義に対する考え方の違い
外国体験のいろいろ(73)でドイツは第二次大戦中に枢軸国側として参戦したブルガリヤやルーマニアへ恩義を感じて、恩返しをしていると書いた。
恩義を忘れないことは東洋思想でも善とされている。ヒットラーの暴虐ぶりは糾弾すべきだが、恩義を忘れないドイツ人は人間として偉い。翻って、戦後の日本ではどういう考え方をしたのであろうか?朝鮮を併合して、人々を使役し、戦争に協力してもらった恩義へ恩返しをしようとする発想は無かったのであろうか?
@朝鮮族で中国共産党員になった金さんから聞いた話
1981年、中国の瀋陽へ行ったとき親しくなった金教授の両親は、日本によって旧満州へ追われ満州開拓へ協力したという。旧満州が中国共産党の支配下になり、共産党員になったという。日本の支配と中国の支配の両方を体験した朝鮮族である。中国国籍もすぐ貰えたという。旧満州には多くの朝鮮人が住んで居たので、朝鮮自治区が数多く存在している。中国政府によって朝鮮語と朝鮮風の生活が認められている。
日本と中国のどちらの支配が住みやすいですか?と金さんへ聞いた。言下に中国です、と言う。日本は朝鮮を武力併合した。多くの朝鮮人を日本本国だけでなく樺太、満州、南洋諸島へ連れていって労働者として使役した。兵隊へも駆り出して使った。戦死者も多かった。1945年8月6日にソ連が樺太や旧満州へ侵入してきた時、日本人は朝鮮人を置き去りにして引き上げて行った。
中国人の他民族の支配は長い歴史があり、賢明な支配の仕方が出来上がっている。食生活、生活習慣、宗教は可能なかぎり自由にするという。金さんの勤めている大学の学生食堂には、回族学生ための料理人が居て食堂も別棟になってるという。
日本の支配の仕方は、創氏改名のように名前から変えさせる。生活へ直接干渉しすぎて反感を誘う。
在日韓国人・朝鮮人に対する差別も細かなことまでに及び過ぎる。永住権だけで良いのか、国籍まで欲しいのか?すべて個人の自由にすれば良い。就職のとき差別されるという話も聞く。個人の能力だけで採否を決めれば良い。差別する人の心が貧しいのだ。日本にはアイヌ人も居るし、琉球民族の子孫も居る。台湾人も中国人も住んでいる。欧米人もアフリカの人々も住んでいる。一切の差別を無くせば、日本人にとっても、もっと住みよい国になると思う。
先日、李朝宮廷芸能を見て、何気なく写真を撮った。下の写真の手前に映っている高齢の男性の横顔を見て何故か胸衝かれる思いがする。何を考えながら太鼓をたたいているのだろうか?
中国に残留し、共産党員になった金さんの屈託の無い表情とあまりにも違う。日本と中国の他民族支配の違いを見るようで、心が暗くなる。しかし若い在日韓国人の司会ぶりには微塵の暗さが無い。時代の流れなのか。(続く)
写真の出典:http://www9.ocn.ne.jp/~galaxyz/Rothenburg2.htm
ドイツのローカル文化を楽しむための簡単な方法がある。その地方だけの言葉を用いることだ。それと古い地名を使うのも重要だ。こんにちは!、はグーテンタークであるとNHKドイツ語講座が教えている。間違いではないが、南ドイツでは言わない。グリュースゴットと挨拶する。神のお加護を!という意味だが、それ程立派な信仰生活をしているわけではない。それから地名は昔風に、フランクフルト・アム・マインとかローテンブルグ・オプ・デア・タウバーという具合に呼ぶ。マイン河のほとりのフランクフルトとかタウバー河のほとりのローテンブルグという意味である。ドイツの町が、河による運送が重要だった時代からの古い呼び方である。こういう言葉を使うと南ドイツ人は途端に相好を崩し、いろいろ面白いローカル文化を教えてくれる。1969年8月から10月までドイツ語の集中研修のためにローテンブルグのある古風な家に下宿した。朝食は自炊、昼食は語学学校で給付する食券で町のレストランで食べる。夕食は自費で昔風のレストランで地元のワインを飲みながらユッタリと時間を過ごす。いささか酔うので地元の常連客と仲良くなる。下宿の部屋には簡単なキッチンとシャワーが付いている。毎日シャワーでは味気ない。ゆったりお風呂につかりたい。レストランでの夕食のあと地元の人に聞くと銭湯があると教えてくれた。早速、次の日の夕方行ってみる。入り口を入ると切符売り場のような窓がある。お金を払うと石鹸、小さなタオルとバスタオルを渡してくれて、「奥の廊下の左右、空いている部屋のお風呂へ入りなさい」と教えてくれる。廊下を歩いて行くと3畳間くらの小部屋が左右に10個くらいずつ並んでいる。空いている部屋に入り、鍵をかける。見ると猫足の格好をした古風な脚が4本ついた大きなバスタブが置いてある。蛇口から湯がほとばしる。ゆったり浸かり、温泉気分になった。それ以来、毎週2回くらいずつ銭湯の世話になる。あとからよく聞くと、ドイツの田舎町には、旅をする人々のためのホテルがある。しかしシャワーが付いてないのが普通だったそうだ。そこでこの様な銭湯が必要になる。現在のホテルでも、城壁の内部では建物の改造が禁止されているので寝るだけの部屋が多いそうだ。このような安いホテルに泊まるのは若い人々が多く、そのような人が銭湯を使用するという。それ以来、ドイツの古い町に行ったときは何となく銭湯を探す癖がついてしまった。ホテルの壁に大きな字で、「Fliessender Wasser」(美味しい泉の水が豊富に流れてるよ!ーというような意味)と書いてある古い町では銭湯がある。銭湯は長く浸かっていても誰にも邪魔されない。旅の疲れをとるのに具合が良い。ドイツではバーデン・バーデンのように温泉もある。但し日本の温泉とは雰囲気が全然違う。清潔な湯船に決まった時間だけ繰り返し浸かる「温泉療法の湯」が多い。こちらは落ち着かなくていけない。お勧め出来ない。話は飛ぶが、中国の東北地方の湯崗子という温泉に入ったが、その内容はローテンブルグの銭湯と同じ構造であった。ただし蛇口をひねると硫黄臭のある温泉の湯がほとばしった。これはどうもヨーロッパ人が持ち込んだ構造らしい。
日本の東北地方では、木の湯船に混浴で入るので、大らかな寛いだ気分にはなれる。温泉だけは日本が世界一と信じています。(続く)
第二次大戦で日本がドイツ、イタリア、ルーマニア王国、独立スロバキア、ブルガリア王国、ハンガリー、フィンランドなどのヨーロッパ枢軸国陣営に入り参戦し、敗れたことの歴史的評価は色々ある。しかしドイツ人は同盟国から受けた恩義は決して忘れない。
1969年にドイツ政府のフンボルト研究費でマックスプランク研究所へ招聘された。
招聘期間中の月給は十分過ぎる位で、ボンに有った大統領官邸で歓迎会を開催してくれたり、国内周遊の観光旅行へも招待してくれた。そのような行事の時に一緒になった招聘研究者はブルガリア、ルーマニア、トルコ、などから来ていた。後に研究所の同僚ドイツ人に聞いたところ、「ドイツは第二次大戦中に受けた恩義を忘れないで恩返しをしているのです」と言う。
またシュツットガルト市に住んでいるとギリシャ人の移民やトルコからの出稼ぎ人が多いのに吃驚する。これも大戦中の恩義を返しているのだという。トルコもギリシャも正式には枢軸国陣営に参加はしなかったが、何か複雑な方法でドイツを支援したらしい。筆者を招聘したのは最後までよく戦った日本へ対する恩返しだという。
ある時、パリーの居酒屋のような飲み屋のカウンターで飲んでいた。隣に座っていたドイツ人の小父さんがいきなりドイツ語で、「フランスでは英語もドイツ語も通じなくていらいらの連続だ」と憤懣やるかたない様子。
ドイツ語で、日本から来て現在ドイツに住んでいると話した。狂喜して肩を抱いてくる。酔いの勢いでフランス人の悪口を始める、「やつらは、英語もドイツ語も分かるんだ。でも、わざとフランス語で返事をして、此方が困るのを楽しんでいるのさ。底意地が悪い!」とも言う。またドイツ語で答えてあげる。すっかり上機嫌になり、「今度戦争をする時は又組んでやろうぜ!イタリアはダメだ。すぐ負けるから」と言う。
こんな経験は一度だけだったが、兎に角ドイツ人は日本人が好きなようす。尊敬している様子もある。ベルリン陥落の後も日本は3ケ月も戦い続けたのだ。その事をドイツ人は決して忘れない。
欧米人は恩義をすぐ忘れる。恩を返さない。という俗説をよく聞くが、それは大きな誤解だ。
ドイツに限らず、欧米人は長期に渡って恩義を感じ、恩返しをしようとする。その裏側には怨みも日本人の想像以上に長期間忘れない。日本人は第二次大戦の間に、他国から受けた恩義を返そうと長期間努力して来ただろうか?
1969年から1970年にドイツに住み、ヨーロッパの国々を旅してみると、「日本人は忘れやす過ぎないだろうか?」と心配になってしまう。あれから38年後の現在も同じ心配をしている。
(続く)
出身地も育ちも違う夫婦は世の中に案外多い。低次元な話で恐縮ながら、味の好みが違うと大小の悲劇が長年起きる。
家内は鎌倉育ちで女3人姉妹なので薄味、それもかなりの薄味が好み。筆者は東北育ちの男3人兄弟で塩味が強いのが好み。これだけは結婚生活47年の間一向に溝が埋まらない。新婚の間は遠慮があるから味のことで争いにならない。しかしその後は食事の度にいきなり争いになったり、愉快な話の種になったりした。後で考えると本気で議論するほどの問題ではないが、深刻な場面も起きる。
朝食はコーヒー、卵料理、ソーセージ、トーストパンが普通なので塩味の問題は無い。食卓の上で自分の好みで振り塩をかければ良い。
昼は引退前は外食なので問題はない。最近は家で天麩羅ソバやうどんを自分で作る。好みの、にんべんの蕎麦つゆの素を加えて微調整をして別々の味で楽しむ。
夕食はかなり本格的な和、洋、中華、のいずれかを作るので大問題に発展する。
料理の味だけでは大問題にはならない。その日に一緒にデパートへ行くというような約束を破った日の夕食は要注意。味の好みの違いが何時の間にか高い洋服やアクセサリーを買わないという話題へ発展する。さらに何年も前の小生の失敗を話題にし始める。こうなったら翌日は超薄味の料理で我慢しなければならない。
上の写真のような懐石料理を食べに行っても、塩味が強いと文句を言うので楽しさが台無しになる。こういう場合は塩味が好きな小生は大満足とくるから一層具合が悪い。
あまり下らない話なので、今回はこれで終わりです。(続く)