後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

滝を見る登山・・・年老いて体力の限界を知る

2010年10月27日 | インポート

長野県、須坂市の東方の山に不動の滝(落差85メートル)と権現の滝(75メートル)の総称『米子大瀑布」がありまます。10月24日午後2時30分、現地の女性の山岳ガイドの宮川さんが東京から行った26名を引率して出発しました。妻は宮川さんと話を聞きながら登ったそうです。11年もガイドをしているベテランです。山の歴史、草木の名前、北信州独特の方言などいろいろ教えてくれました。

30分登って不動の滝が見える所で私は限界です。そこから登山道が急に険しくなります。険しい登りだけでなく、急な下りも随所にあり大変な行程なことが分かります。若い頃、山に登っていたので地形からどの程度険しくなるか理解出来ます。

皆と別れて、独りで紅葉の山を満喫しながら悠々と降りてきました。独りになって急に紅葉が輝き出しました。清流が岩を噛む川原へ降りて、しばし景色を楽しみました。団体で山を歩くのも良いのですが独りになる時間も大切な事が分かりました。

一歳下の妻は毎日ランニングをしているので健脚です。1時間登って米子瀑布の2つの滝の真下へ行ったり、嘗て1600人もの人々が住んでいた米子硫黄鉱山の村落跡地近くまで行って、写真を撮ってきました。

下に家内が撮って来た写真をご紹介致します。始めの写真に宮川さんが写っています。小雨の中の写真ですので、鮮明ではありません。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


ブナ林の破壊的伐採と再生へのみちゆき

2010年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

112 最近、ブナ林、ブナ林と宣伝している観光案内書が多いものです。どうも一時的な流行のようでもあります。しかしその背景には戦後の政府の林野行政の失敗による破壊的な伐採政策の結果を何とかして取り戻そうとする深い目的があったのです。昨日、北信州のカヤの平高原総合案内所の池田敦夫所長からクドクドお聞きして来ました。

まず、私の本音を書きます。ブナ林再生を叫ぶ若者達は捕鯨反対のグリーンピースのように狂信的で好きでありません。世の中へ余計な騒ぎだけを起こしていると思っていました。自然の森林の中に生育している色々な樹木の中で、何故ブナだけを大切にしようとしているのでしょうか?

この質問を池田敦夫さんへ聞きました。どうも2つの深い理由があるらしいです。

第一はブナ林を静かに散策し、一本一本のブナの木と話をすると、近代文明の欠点がいろいろと分かるそうです。過去5000年程の間、ブナ林は全地球を覆っていました。現在でも、沖縄と千葉県を除く全ての都道府県の山々にブナが育っています。過去5000年とは丁度、人類が、そして日本人が文化、文明を発達させてきた歴史と一致します。ですから現代の文化・文明の欠点をブナの木々が静かに見ています。訪ねる人々へその欠点を教えてくれるそうです。池田敦夫さんはブナの木とそのような会話をしているそうです。

第二の理由はブナ林へ対する深い同情をしているからです。1945年から1980年頃まで林野庁は全国のブナ林を徹底的に伐採する政策をとって来ました。

戦後の紙不足で材木から作るパルプの需要が緊急の課題でした。林野庁の役人が建築材料として劣等なランク付けになるブナは役に立たない。パルプにしかならないと短絡的に考え全国の国有林のブナだけを伐採する政策を実に40年近く継続して来たのです。ブナは当時、大量に紙を必要とした大新聞社を支えました。本の出版社を支えました。それは戦争中の紙不足の反動でもあったのです。従ってブナは完全に無駄死にしたわけではありません。

しかし、経済目的だけで一種類の樹木を壊滅させ生態系を破壊する事への反対なのです。政府の愚かさへの警鐘なのです。似たような政策は水田の減反政策もそうです。減反政策も農村の生態系を壊しました。従ってブナ林を復活しようとする運動には経済優先で生態系を破壊されないようにする目的があるのです。

そんなことを静かに話す池田敦夫さんは木島村役場の委嘱で広大なカヤの平高原の主として毎日働いています。木島村の地域振興の努力については別記事でご紹介したいと思います。尚、カヤの平高原のHPは、bunakaya.sakura.ne.jp です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


北信州の米子瀑布と木島平高原や秋山郷の一泊2日の旅から帰りました。

2010年10月25日 | インポート

信州と言えば上高地や志賀高原のような有名な所は知っていました。ところが長野県と新潟県の県境に近い北信州の米子瀑布や木島平高原や、山深い秋山郷はまったく知りませんでした。秘境です。観光開発もあまり無い、手付かずの自然が広がっています。

写真を300枚近く、例によっておてんばな家内が走りまわり、木の吊り橋を渡ったりして撮ってきました。テーマを考えて、テーマ毎に編集して、楽しい記事にしたいと思います。明日から掲載して行く予定です。

おやすみなさい。藤山杜人


水爆実験の灰を帯びた第五福竜丸の立派な展示場

2010年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

広島、長崎の原爆投下の後、アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリス、インド、パキスタンなどの国々は合計2057回の原爆や水爆の爆発事件を行いました。爆発地の近辺では数百万人の人が被爆したと言われています。

日本のマグロ漁船、第五福竜丸が被爆したのは1954年でした。アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆の実験をしたとき公開上で死の灰を浴びたのです。3月1日に被爆し、すぐに帰りましたが14日後にやっと焼津港へ到着しました。即刻、乗組員23名の全員が放射能を浴びていたので東京の病院へ急送されたのです。無線長だった久保山愛吉さんは9月23日に亡くなりました。取ってきたマグロも全て放射能で汚染されていたので捨てられました。

この大きな木造船は1947年に和歌山県で建造され、太平洋でカツオやマグロを獲っていたのです。1954年の被爆後は国立、東京水産大学が練習船として使用し、1967年に廃船になりました。東京都は原爆の恐ろしさを後世に伝える為に、この船を引き取り、昭和51年6月に、第五福竜丸展示館を開館したのです。

場所は都立公園、夢の島公園内にあります。見学して来ました。展示内容が世界中の原爆実験の被害状況も含めて展示してあります。大変啓蒙的で、内容の充実した展示館です。現在、アメリカやロシアがそれぞれ20000発以上の核弾頭を保有しているといいます。一発の核弾頭の破壊力は広島へ落とされた原爆の数百倍とも推定されています。恐ろしい世界に我々人類は住んで居るのです。そんな事をしみじみと考えさせる展示館です。

もう一つ、全くの余談ですが、大きな木造漁船の構造には感動しました。戦後2年目の建造なので鉄板は入手出来ない上、プラスチックのFRPは未だ存在していなかったのです。巨大な材木は全て日本の山々から切り出したものです。カツオやマグロを獲る事に当時の日本人の傾けた熱情に圧倒されました。船尾に付いている舵さえ大きな材木を組み合わせて作っています。スクリューとその駆動軸だけが金属なのです。

造船技術の博物館としての役目も果たしています。兎に角一度ご覧になる事を心からお薦め申し上げます。下に写真を示します。

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中国の次期国家主席、習近平氏を無理して天皇陛下へ会わせたのは小沢一郎氏のお手柄

2010年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

数か月前に小沢一郎氏がゴリ押しをして習近平氏を天皇陛下に会わせたのです。当時、習近平氏は国家副主席でしたが、まだ軍隊の権力を手中にしていなかったので、誰も次期国家主席になるとは思っていませんでした。従って、評判の悪い小沢さんはマスコミに散々悪口を言われました。

しかし、この10月15日から始まった中国共産党の中央委員会総会で習近平は党中央軍事委員会の副主席に任命されました。その結果、2012年の胡錦涛国家主席の退任の後をついで国家主席に就任することが確実視されるようになったのです。

習近平氏は特に知日派ではありません。しかし日本に来た時、天皇に会えて、日本へ非常に好感を持ったのです。彼自身、記者会見で、「日本では大変良く歓迎された」と言ったのです。

2012年から中国の国家主席になる予定の習近平氏を天皇陛下に会わせ、大歓迎したのは小沢一郎さんです。まだ次期国家主席が確定する以前に、予想し、マスコミに叩かれるのを覚悟の上でこの事を実行した小沢さんを誰も褒めないのは公正を欠く行いです。

誤解を招かない為に明記しますが、私は小沢さんの政治手法は嫌いです。何故か明朗さに欠けた、派閥政治のようで厭なのです。

しかし政治手法と政治的成果や外交的成果は別々に評価すべきと信じています。

中国外交で大きな得点を上げた小沢さんをもっと褒めるべきです。その上でアメリカ外交での大きな失点を評価し、中国外交での得点と比較検討するのが新聞やマスコミの公正さと思います。

性格が悪い政治家も居ます。人格者の政治家も居ます。しかし政治家は性格とは関係なく政治的成果や外交的成果を上げなければいけません。それが彼等の職務なのです。小沢さんは人間性が悪いから、得点を上げても無視する。これでは有能な政治家は育ちません。

鳩山さんのように人柄が良くても日米外交で大変な失敗をしてすぐに辞任するような総理大臣が出来てしまいます。

政治家の人柄とは関係なく、冷静に、感情抜きで、彼等の職業的成果を客観的に議論する風土を作らないと日本の将来は危ういと思います。

貴方はどのようにお思いでしょうか?お考えを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


戦艦大和、金剛と農村の窮乏、そして中国の覇権主義への心配

2010年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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(戦艦大和;http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/senkan/yamato.php

人間は過去を簡単に忘れます。戦争中の日本は狂気のように戦車、大砲、戦闘機、爆撃機、軍艦、潜水艦を作ったのです。

排水量10万トンの巨大戦艦、大和と武蔵の2艦を作って戦ったのです。

しかしそれは日本の国力以上の破滅的な国家予算だったのです。国民へ軍事国債の購入を強制し、農村は疲弊していました。東北の農村では娘の身売りは普通の事として行われていたのです。兵士も農村の若者が多かったのです。

水田農家でも、戦争中は米を全て供出し、ご飯を食べませんでした。小麦粉を練って作ったスイトンが毎日の夕食でした。

後になってみると狂気の時代としか思えません。でも当時は狂気でもなんでもなく、正しい考えと信じていたのです。

そのようにして日本軍は中国大陸に侵入して満州国を作り、華中、華南まで占領したのです。その中国が現在、軍事大国として世界の覇権を求めているのです。アメリカに対抗して太平洋へ制海権を広げています。

下の写真は戦艦、金剛(出典は大和と同じ)Kongo21

1970年頃までの日本の農村の台所の様子を写真で示しました。水道も冷蔵庫も電気洗濯機も無く、流しは座り流しでした。

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上の写真に有るように、台所の流しは座り流しです。水は甕からヒシャクで汲んでいました。 写真は、都立小金井公園内の江戸東京たてもの園(URL:http://www.tatemonoen.jp)で撮ったものです。

さて、現在の中国は戦争中の日本のように内陸部の農村の苦しい生活を改善するよりも原子爆弾を保有し、長距離核弾頭ミサイルを開発しています。軍事衛星も打ち上げ、ロシアと対抗して太平洋で軍事力を誇示しています。経済成長も速やかでGDPは日本を抜いて世界2位になりつつあります。このような事態にもかかわらず日本の政治家は危機感を持っていません。アメリカの基地を沖縄から追い出すことにこだわっています。

中国が共産党独裁が続くかぎり「反日デモ」は続きます。その度に日中関係が悪くなります。そして中国へ工場を持っている数多くの日本の企業がいろいろな意味で被害をこうむるのです。こういう事態が隣の大国で起きつつある時、我々日本人はどのような国際外交を進めるべきでしょうか?私はとても心配しています。皆様は如何でしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


自己主張の強い花々、そして楚々として静かに咲いている花

2010年10月23日 | 写真

都立夢の島公園は緑豊かです。ユーカリの大木の森の下に色々な花が咲いています。写真を撮りながら花々の個性の違いに驚きました。この頃の若い人は自己主張の強い花が好きなのでしょうか?あるいはは楚々として静かに咲いている花が好きなのでしょうか?そんな詰まらないことを考えながら写真を撮って来ました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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あなたは宗教が戦争を起こすと思っていませんか?

2010年10月23日 | インポート

あなたは宗教が戦争を起こすと思っていませんか?

人類の歴史を見ると、宗教の違いが数多くの戦争の原因であった事実は否定しようがありません。数年前のアメリカのイラク戦争、アフガニスタン戦争はキリスト教的国家とイスラム教国家との戦いでした。従って、多くの日本人は宗教など無い方が良いと思っています。あなたもそのように思っていらっしゃいませんか?

大変残念ながら宗教の一面には戦争を起こす原因に利用されやすい部分を含んでいます。しかし、宗教には、もっと、もっと深い意味があると思います。下手な文章で私がクドクド説明するよりも、下に示す二つの文章をお読み頂き、深くお考え頂きたいと思います。

(1)日中戦争中、反戦を説き、禁固刑になった和尚さん・・・竹中彰元和尚のこと

趣味人倶楽部というSNSのマイフレンドの伊吹山さんが、反戦を貫いた仏教僧、竹中彰元和尚のことをお教え下さいました。真宗大谷派の高僧で日中戦争の始まった昭和12年に捕まり、岐阜地裁の判決で禁固刑の判決を受け、後、保釈され敗戦後の2ケ月後に78歳で亡くなります。仏に仕える者として言うべきことを、軍部も恐れずに言い続けた崇高な精神の持ち主です。私はこのような日本人が居たことに安堵し、そして彰元和尚さまのことを日本はもっともっと誇りにしたら良いと信じています。

以下に岐阜地裁で禁固刑の判決を受ける理由になった2つの起訴理由を示します。(出典:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/takenakasyougenn.htm )

日中戦争開始2ヶ月後の1937年9月15日、出征軍人の見送りに村人500人と垂井駅へ向かう途中、ある村民に『昨日千人、今日三千人と沢山な死傷者が出て悲惨なことだ。一体戦争は罪悪である。国家は莫大な費用を空費し、損である。戦争はもうこの辺で止めた方が、国家として賢明である』と語ったこと、及び

同10月10日、同村不退寺で開かれた7人の僧侶の会合の席上で、『今度の事変について、各自の決心を定めねばならないが、自分は戦争は沢山な彼我の人命を損し悲惨の極みであり、罪悪であると思う。今度の予算も厖大なものである。保定や天津を奪ってどれだけの利益があるか。戦争はもうここらで止めた方がよい。これ以上の戦争は、侵略だ』と説いたことであった。(伊吹山さん、貴重な情報をお送り下さいまして有難う御座いました。)

(2)宗教団体が何故反戦運動を組織的に行わないのか?

日中戦争から始まった大東亜戦争が悲惨な敗戦で終わるまで、400万人の日本人と数千万人のアジア人が戦争のために死んだのです。この間、日本の仏教やキリスト教の緒集団は大政翼賛会へ入会し、協力宣言をして軍部を支援したのです。仏教の和尚さんであった竹中彰元 師は個人として反戦を貫いて7年も刑務所に入れられたのです。しかし竹中師の属する真宗大谷派は大政翼賛会へ協力していたので竹中師から布教師の資格をはく奪します。

一旦戦争が始まると、何故宗教団体は戦争反対の政治運動をしないのでしょうか?

その理由は明白です。宗教集団の維持と拡大には政治権力へ協力しなければ、その宗教集団は組織として存続が難しくなります。従って政治権力へ反対する「反戦運動」をしないのが当然です。それが組織の持つ宿命的な欠陥です。その態度はその宗教の教えている教義へも矛盾しているのです。

話は飛びますが、考えさせるある事件をご紹介いたします。貧困層の多いある中南米の国で共産主義者とカトリックの神父が協力して革命を起こし貧富の差を無くそうとしました。革命は成功して、共産党政権が出来、その大臣として数名の司祭が任命されました。「(貧者の)解放の神学」にもとづく政治運動でした。これに対してバチカン本部は大臣になったカトリック神父の司祭職をはく奪したのです。バチカン本部の神学と解放の神学は相入れることが出来ないからです。

一般的には組織の団結と維持のために処罰したと理解されています。表面的に見ると,ローマ法王の横暴と考えられる事件でした。

しかし仏教側にもキリスト教側にも「組織維持」の理由の他にもう一つの基本的な理由が厳然として存在しているのです。

「人間の真の救済は政治権力を利用したり、近づいたりすると不可能になる」という理由です。宗教的真の救済は政治とは全く別問題で、人間のこの世の問題である政治とは断絶した世界にあるのです。イエス キリストの弟子たちはイエスがローマ軍を追い出してイスラエルをもう一度ユダヤの王国にしてくれると大変な誤解をします。それに対してイエスは、「私はこの世の政治的な闘争に来たのではない。皆様が永遠の命を得るための方法を教えに来たのです」と訓えます。ここが無宗教の方々にはなかなかご理解して頂けないポイントです。

私は平和を祈りますが、反戦デモには参加しません。(感情的には参加したいのですが)

大東亜戦争の間、大政翼賛会へ協力するのは、教義上ではとんでもなく間違った行動です。

全ての宗派は平和を静かに祈るのが良く、反戦運動をしたら、それは政治運動になる危険性があるのです。その事を軽く考えたとしたら、それは正しい宗教の理解ではないのです。

全ての宗教団体は反戦も戦争協力もしないで別世界にとどまるべきだったのでしょう。

しかし、竹中和尚や解放の神学のカトリク神父たちは善人です。尊敬すべきです。宗派の維持・拡大の理由で弾圧すべきではありません。寛大な精神で放任するのが良かったと、私は信じています。

皆様は宗教と戦争の関係を如何お考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


初めて買ったダッジ・コルネットの事など・・・そして今日は高齢者免許更新の為の予備講習

2010年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日は、高齢者の免許更新のための予備講習です。これから受講と実地試験のために小金井自働車教習所へ行きます。

私は、1961年春に初めて車を買いました。1956年型ダッジ・コルネットでした。留学先のオハイオ州のコロンバス市で買いました。

外国で中古車を買うときは現地の職人の判断を信用して任せるのが良いと思い、アメリカ人の自働車修理の職人へまかせました。

新婚の妻は色合いを最重要視します。クリーム色と水色のツートンカラーの車を中古車店から借り出して近所の修理専門の職人の裏庭へ持ち込みました。噛みタバコをいつも口に入れている老人のピートが自宅で個人経営の修理屋をしていました。仰向けになり車の下へもぐり込み、あちこちをハンマーで叩きながら丁寧に見てくれました。「この車は買って良いよ」、結論を一言いいます。謝礼を支払おうとしても受け取りません。その後色々小さな故障が起きましたが、そのつどピートに直して貰いました。

最初に買った車なので嬉しく、暇さえあればオハイオ州のあちこちへドライブしました。

ある時、オハイオ キャバーンという大鍾乳洞を見に行きました。帰りの田舎道で突然エンジンが止まったのです。周りには人家が無く、一面のトウモロコシ畑。家内が心細そうにしているが、どうしようもありません。30分程途方にくれて居た時、一台の車が通りがかり、止まってくれたのです。子供連れの若い家族が乗っています。夫がこちらの車のボンネットを開け、「ディステュリビューターが壊れている。町まで引っ張って行って上げるよ」と言います。30kmくらい離れた小さな町の修理屋へ着くと、すぐに直してくれました。牽引してくれた人に、お礼のお金を上げようとしましたが受け取りません。無事、帰宅後に妻が先方の子供の喜びそうな玩具とお菓子を送りました。ダッジ・コルネットにまつわる思い出は沢山ありますが、このアメリカ人の親切は忘れられません。

車そのものは中古のせいで小さな故障をよくしました。しかし大型乗用車なので乗り心地は抜群です。帰国後12台以上の車に乗りましたがダッジ・コルネットほど乗り心地の良い車には乗ったことがありません。

下の小さな車は1962年の帰国後、初めて日本で買ったマツダ・クーペです。アメリカの大型車に比較すると落差が大きすぎて同じ車とは思えません。しかし楽しい車でした。富士五湖や山梨の芦安温泉や夜叉神峠まで走らせても故障をしませんでした。ただ空冷エンジンなので、夏は焼け上がるので、時々道傍に止めて後部エンジンルームの蓋を開けて冷ましたものでした。こんな小さな軽自動車(360cc)でも4人乗りであったのです。下に1961年、62年のアメリカのナンバープレートと1969年のドイツのローテンブルグのナンバープレートを示します。ドイツで乗っていた車はオペル・レコルドでした。

皆様の車ライフは如何でしたでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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ジャンさんから、仙台が何故、杜の都へ復興したかの投書がありました

2010年10月21日 | うんちく・小ネタ

2010/10/21ブログ【完全に消えてしまった追憶の中のふるさと、仙台】へ関しての、、、、

仙台のゆかりは義父一族4人は仙台2高、親族の岡崎 栄松(ウィキペディア)ですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E6%A0%84%E6%9D%BE
は後藤新平さんのご指導の下、戦災復興の為、苦労して変人扱いされながらも1 本の植樹から仙台を杜の都にしました。
いまや青葉茂るなつかしき杜は故郷として「こころ」の中にだけ存在するので しょうか?
私の仙台への思いは仙台三越、のデザインに携わりました。
このたび久しぶりに、八ヶ岳の山荘に清泉尞のカンティフェアー目的で昨日まで 行ってました。
賑わった清里、そして仙台も含めかっての 慣れ親しんだ場所は現在急速に過疎 化して、記憶の色は褪せてフードデザート、シャッター通りが競売通りになっても、商業化できず荒廃して 佇んで景観は心の棘になります。
観光バスが来ても、人々はかっての様に物産を購入しません。購買力有ってこそ、地域活性化に繋がりますが、 解決策はラビリンスのま ま...
最近全国的なB級グルメランキングが盛んで町村お興しをしてます。カンティフェアーでも食の人気は高いです。1に肉類(山梨のもつ煮)、2野菜の力(地域の古代野菜有機野菜、珍野菜)、 3(ハレノヒ)の様な誇れるスィーツの開発。
「何かヒントは無いものでしょうか?」文殊の知恵でお聞きしたいです。
「寂寥感が秋の夜風で身に沁みます」これは身に詰まされるコメントです。ジャン========================================================

藤山杜人  様
いつも拝読させて頂いてます。ありがとうございます。・・・・中略・・・・私は、この夏、いろいろと忙しく、庭の管理が大変でした。仕事も簡素化、庭も手間ナシでアート感覚で水やり無し、増やして楽しめる多肉植物のバリエーションを制作し 庭づくりを楽にすることにし ました。庭をお持ちでない方にもお勧めです。

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山林、杜の人のブログのフットチッドのミストを浴びて、故郷の家の縁側の心地よい温もりと、安らぎ,活力を頂いてます。
イギリスのTNS市場調査報告書によりますとSNSの友人数は日本が最下位。
新興国ではブログユーザー数が多いですが、World Wide Webは、日本が世界第7
位のFacebookなのでしょうか?けれど日本では英語力や内向的な国民性がTwitterがユザー人気を支え、Facebookの利用率が低いのです。
けれど私のしていたSNSでは鮮烈な心惹かれる友人に恵まれました。現在知る限りでは、三輪さん、サッチ~さん、英香さん等、退会された方が何人かいらして、でも1年すると、様変わりしてジャンの存在した証も薄れやがて忘れさられますが紛れもなく、秋の紅葉の様に輝いた楽しい一時でした。
今でも連絡を取っている友人も出来ました。====終り======


戦後65年、若い日本人は本当に偉くなった!その実例(1)戊辰戦争や西南戦争の敗者を悼む優しい心

2010年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

最近の日本人は本当にいろいろな意味で偉くなったと感心しています。そこでその実例の幾つかを連載記事として書いて行きたいと思います。

先日、仙台の政宗のお墓の瑞鳳殿を見に行った時、坂道の途中で戊辰戦争で死んだ人々を悼む塔を見ました。その下の方には西南戦争で西郷軍に参加して敗れた隊士のその後を説明した看板とお墓を見つけました。最近の若い人々がこの史跡を大切に思い、看板を書いて示しています。参観者へ一緒に冥福を祈って下さいという雰囲気です。

敗者へも同情を、そして尊敬を捧げる人間は偉いと思います。勝った方だけを顕彰するのはいけません。立派な若者が増えて来たのです。下に写真を示します。

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伊達政宗とその跡に藩主になった人の奥さんや子供の墓所があります。そのような家族の墓所への案内板も完備してあります。看板を一生懸命書いた人の家族を大切に思う心が伝わってきます。最近の日本人の心の豊かさの表れと思います。最近の若い人は、何事につけても人間的に素晴らしい感性を持っていると嬉しくなります。そんな気持ちで夭折したような子供達のお墓を一つ一つと見て参りました。下に写真を示します。

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完全に消えてしまった追憶の中のふるさと、仙台

2010年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

@ふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまった

仙台を出て東京に暮らすようになって52年。甘い追憶の中のふるさと、仙台はついに消えて失くなってしまったのです。

数日前、久しぶり仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。もうみんな旅立ったのでしょうか?

繁華街の一番町の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンだけが存続していましたが、後は全て消えてしまったのです。茫々50年。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。

消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が秋の夜風で身に沁みます。

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@子供の頃遊んだ秘密の場所が観光客に奪われてしまった

昔の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。そのうち戦災で廟が焼失しました。その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。

それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。仙台観光の目玉らしく観光客がゾロゾロと歩いています。私は何故か酷い嫌悪感に襲われ中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽ですが、なにか冒涜されたような気分になりました。家内が一人の観光客になって楽しそうに見物しています。

仙台へ観光客が沢山来てくれることに感謝しています。でも何故か私の心は紫色の悲しみが広がっています。帰京した今も。054

@しかし、自然の景色だけは変わらない

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か心が暗くなります。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに腹を立てているのです。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。それで地域輿しが出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし仙台の牛タンだけは許せないのです。理不尽を字で書いたような老人の私です。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消失してしまったのです。

しかし。しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

下に仙台城から見た正宗の廟所のある経ケ峯の写真と評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します。

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皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人