後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

賢い国際関係の樹立・・・全ての憎しみや復讐心を捨てる

2012年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

最近このブログで国際関係において、憎しみや復讐心が大きな影響を及ぼしているという趣旨の連載記事を掲載しました。以下の通りです

復讐心は人間の本能(1)解決困難な日中関係、日韓関係、日露関係、そして日米関係の概論

復讐心は人間の本能(2)解決困難な日中関係

復讐心は人間の本能(3)解決困難な日韓関係

復讐心は人間の本能(4)解決困難な日露関係

復讐心は人間の本能(5)解決困難な日米関係

 私の主張したかったことは、まず日本人が近隣国やアメリカへ対してのいろいろいな憎しみや復讐心を捨てれば賢い国際関係が築けるという考えです。

そのためには近隣諸国がどのような原因で日本を憎んでいるのか歴史的に明らかにいたしました。ところが書き方が悪くて、「日本人は近隣諸国を憎め、復讐せよ」と主張していると誤解した方がいらっしゃいます。私が尊敬しているネット上の友人の一人がそのように誤解されたのです。

その誤解はある意味で当然で、私は日本の集団的自衛権を認めようとする政治家を褒めたのです。

集団的自衛権とは分かりやすく言えばアメリカ軍と自衛隊が対等に協力しあって軍事行動をとるという意味です。アメリカ軍が攻撃されても自衛隊は絶対に助けない。これが現在の安保条約なのです。これは日本の国家としての尊厳を傷つけています。

一方、小さな島々の領有権に関して中国やロシアや韓国と感情的な対立と抗争を続けています。これはやめましょうというのが私の主張です。

 この島々が原因で中国やロシアや韓国を憎むのは止めましょうというのが私の主張です。

 憎しみや復讐心があるかぎり賢い国際関係が築けないからです。相互に利益の上がる国際関係が築けないからです。

 もう少し明快に説明するために最近の自民党総裁の安倍さんの提案の各々を取り上げてみたいと思います。

(1)自衛隊を国防軍へ変えよ。

 この安倍さんの主張は背景に軍国主義的な臭いがします。私は反対です。自衛隊は国民に愛され、尊敬されています。それで充分です。その予算をすこし増加するのは良いのかも知れませんが、自衛隊を軍隊にして旧帝国軍のような階級制や運営規則を復活させる必要は絶対にありません。

(2)集団自衛権を認める法律改正をせよ。

この安倍さんの主張には賛成です。日本が独自に勝手に軍事行動を始めるのを禁じるということも含めるべきでしょう。

(3)無制限な金融緩和を実施せよ。

この安倍さんの主張は無責任な票集めのスローガンでいけません。

国民は我慢して野田さんの消費税増額に賛成したのです。その理由を考えれば安倍さんの無制限な金融緩和論は危険すぎます。日本の国家としての財政破綻を招くことは絶対に避けるべきです。

(4)中国や韓国が嫌悪感が持つからといって日本の教科書の記述方法を変える必要が無い。侵略は進出と書いて良いし、大東亜戦争の良い結果もキチンと書くべし。

この安倍さんの主張は私は反対です。相手が嫌がることはあえてしないという度量が重要なのです。その度量は決して日本を辱めません。むしろ尊敬されるのです。

以上のように考えると私は安倍さんに反対する項目が多いのです。原発廃止も含めてどちらかと言うと民主党や公明党の主張の方が良いように思えます。

さて最後に、国際関係にもどってもう一度その建設的な樹立方法を書きます。

それにはまず相手国に対する憎しみを捨てることです。復讐心を捨てることです。その上で、相手国に日本を憎むような心を起こさせない配慮と度量が必要なのです。

相手を感情的に怒らせて溜飲を下げるのは外交の禁じ手です。あってはならいないのです。それをすると結局は日本が大きな損を受けることになるからです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)


日本が再び軍国主義国家にならないためには石破 茂氏の良識が重要です。

2012年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

   最近、石原さんが反米と反中国を旗印に政治活動をしています。日本が右傾化しつつあるのです。石原さんよりもっと扇動的で危険な軍事力強化思想を主張しているのが元航空幕僚長の 田母神俊雄氏です。このような人間が航空幕僚長をしていたのですから厳しいシビリアン・コントロールが必要になるのです。その田母神俊雄氏はブログやツイッターhttps://twitter.com/toshio_tamogamiで日本が核武装して中国へ対抗すべしと大いに宣伝活動を繰り広げています。

現在の日本のように長く経済不況が続き、閉塞感に覆われている時には田母神俊雄氏の明快な軍備拡張論が歓迎されるのです。彼の講演が全国で人気を集め、引っ張りだこのようです。

これは実に危険な傾向です。日本がまた戦争を始めるのです。戦争の惨禍に見舞われるのです。この田母神俊雄氏の思想の危険性を分かりやすく指摘している文章を見つけたので以下にご紹介いたします。

それは現在、自民党の幹事長をしている石破 茂氏が自分のブログで公開している文章です。

===== 田母神・前空幕長の論文から思うこと・・・石破 茂=====

 石破 茂 です。 http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8451.html

田母神(前)航空幕僚長の論文についてあちこちからコメントを求められますが、正直、「文民統制の無理解によるものであり、解任は当然。しかし、このような論文を書いたことは極めて残念」の一言に尽きます。
 同氏とは随分以前からのお付き合いで、明るい人柄と歯に衣着せぬ発言には好感を持っており、航空幕僚長として大臣の私をよくサポートしてくれていただけに、一層その感を深くします。 日中戦争から先の大戦、そして東京裁判へと続く歴史についての私なりの考えは、数年前から雑誌「論座」などにおいて公にしており、これは田母神氏の説とは真っ向から異なるもので、所謂「民族派」の方々からは強いご批判を頂いております(その典型は今回の論文の審査委員長でもあった渡部昇一上智大学名誉教授が雑誌「WILL」6月号に掲載された「石破防衛大臣の国賊行為を叱る」と題する論文です。それに対する私の反論は対談形式で「正論」9月号に、渡部先生の再反論は「正論」11月号に掲載されています。ご関心のある方はそちらをご覧下さい)。
  田母神氏がそれを読んでいたかどうか、知る由もありませんが、「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
 在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
 加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。
 「東京裁判は誤りだ!国際法でもそう認められている!」確かに事後法で裁くことは誤りですが、では今から「やりなおし」ができるのか。賠償も一からやり直すのか。
 「日本は侵略国家ではない!」それは違うでしょう。西欧列強も侵略国家ではありましたが、だからといって日本は違う、との論拠にはなりません。「遅れて来た侵略国家」というべきでしょう。<o:p></o:p>
 

=====以下省略===================

上の文章にある「民族派」というのを右翼と書き直せば一層分かりやすくなります。

そうすると以下の石破さんの文章は問題の核心をついていると思います。実に明快な真理です。

ーー前略ーーーーー、「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
 在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
 加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。ーーーーーーー以下略ーーーーーーーー

どうでしょうか?反米や反中国を叫ぶのは簡単なことです。しかし具体的に何を、どのような順序で日本政府が実行すべきか誰も明確な考えを言っていません。そのような主張は日本を危険な立場へ追いやるだけで、何にも建設的な結果にはならないのです。
選挙の際にはこのような視点で慎重に考えるべきではないでしょうか?


雨の暗い日なので明るい伊豆の海の写真をお送りします

2012年11月23日 | 写真

今日の天気予報によると日本海側と東北地方や北海道は雪や一日曇り、雨の暗い日のようです。

関東地方でも午後に雨は止みますが、どんよりした曇り日になるようです。

そこで皆様のご気分が少しでも晴れるようにと伊豆の明るい海の写真をお送りいたします。

11月18、19、20日に伊東から石廊崎へドライブしながら撮った写真です。

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・石廊崎方面へ向かって伊豆半島の東海岸沿いに車を走らせると次から次にとこのような海の光景が見えます。ドライブが楽しいのです。車は伊東駅前で借りたトヨタのレンタカーでした。

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・下の写真は伊東の海です、沖に初島が見えています。

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・下は小室山から見下ろした川奈のゴルフコースです。

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・下は伊東市にあるマリンタウンです。大きな売店がありいろいろな海産物を売っています。

海鮮料理店やラーメン店もあります。広い無料駐車場もあります。

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復讐心は人間の本能(4)解決困難な日露関係

2012年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシアは第二次世界大戦の末期に満州を蹂躙し、日本人へ残虐行為を加えました。その上、56万人以上の日本の将兵をシベリヤへ抑留し、過酷な労働を強制し6万人ほどを餓死させたのです。私は決してロシアを許しません。良い機会があれば必ず復讐したいと思っています。この人間の復讐心と国際関係について以下のような連載記事を書いてきました。

復讐心は人間の本能(1)解決困難な日中関係、日韓関係、日露関係、そして日米関係の概論

復讐心は人間の本能(2)解決困難な日中関係

復讐心は人間の本能(3)解決困難な日韓関係

復讐心は人間の本能(4)解決困難な日露関係(これが今日のこの記事です。)

復讐心は人間の本能(5)解決困難な日米関係

ロシアは絶対に許せません。しかし何故ロシアが満州で非道な残虐行為を行なったのかを少し冷静に考えたいと思います。

結論を先に書いてしまえば、それはロシアが日本へ対して行った過剰復讐戦だったのです。 明治維新以来、大日本帝国軍がロシアの作ったハルピン市を事実上占領し、満州からロシア権益を追い出したのです。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を全滅させ、203高地を占領し日本が勝ったのです。ロシア領だった樺太の南半分と千島列島を日本の領土にしたのです。ロシア人が復讐心に燃えるのは人間の本能としてごく自然なことです。

しかしここで冷静に幕末から明治維新、そして日露戦争にかけての日露両国の関係を振り返ってみましょう。

1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。

このニコライが作った函館のロシア正教の教会の写真を示します。

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上下の写真は6月18日に私が撮りました。

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日露関係を考える時、このニコライの行った偉大な功績を無視するわけにはいきません。

彼は函館の人々を深く愛し、キリストの教えを根づかせたのです。下の写真は函館湾を見下ろす丘に現在もあるロシア正教の日本人信徒の墓地です。

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ニコライはその後、東京に出て、神田にニコライ堂を建てました。

明治天皇を尊敬しその健康を毎週の礼拝で祈ったそうです。日露戦争が勃発してもニコライは帰国しません。「私は神のものです。ロシアのものではありません」と言ってロシア人へ対する迫害の激しかった日本に踏みとどまったのです。

ニコライは長寿を全うし谷中の墓地の土に還ったのです。葬列の沿道には10万人の日本人が見送り、明治天皇が花輪を送ったのです。外国人宣教師でこのような盛大なお葬式を日本人にしてもらったのはニコライだけです。

それはそれとして、第二次大戦直後にロシア軍が満州で行った残虐行為は過剰復讐戦だと私は書きました。過剰なのです。度が過ぎているのです。

いろいろな解釈があるでしょう。しかし私はドイツ軍がモスクワ近郊まで侵攻し、1000万人以上のロシアの若者を殺戮したのが影響していると思います。この1000万人は戦後、ドイツも認めている正確な数字なのです。どこかの国の「白髪三千丈」とは違うのです。

大日本帝国はこのドイツと軍事同盟を結んで第二次対戦を戦ったのです。復讐心に狂ったロシア軍がドイツへの意趣返しに満州で過剰復讐戦をしたとしたら、その悪魔のような気持ちを私は分かります。私自身も悪魔のような心を持っているから分かるのです。

戦争になると人間は悪魔になるのです。ですからこそ平和を守らなければなりません。

今日は皆様の心にいつも、いつも平和がみなぎっていますようにお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====ニコライに関する参考資料==========

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。1861年から51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索するとその生涯の紹介があります。

「山林、杜の人のブログ」の下記のようなニコライに関連する記事があります。
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)


初冬の伊豆に咲く花々

2012年11月22日 | 写真

11月18日から20日までウエルネスの森・伊東に2泊して石廊崎や小室山へ行きました。

石廊崎まではレンタカーで走りました。Img_0345

このツワブキは石廊崎のそばの海鮮料理屋さんの裏庭に咲いていました。
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下のサザンカは小室山の麓の公園に咲いていました。

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日本式旅館はつぶれる・・・残念です、悲しいです

2012年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

伊東駅の前の観光案内所でいろいろ聞くと市内には昔栄えた温泉旅館がありますと教えてくれました。昭和3年、1928年創業で平成年9、1997年で廃業した木造3階建の美しい旅館です。伊東市が保存し、一般に公開しているのです。

駅から海岸の渚でしばらく遊んだ後に松川沿いの昔の温泉街へまわりました。

下にその東海館という旅館の写真を示します。

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大正時代、昭和初期の情緒あふれるロマンチックな日本旅館が消えて行くのは悲しいものです。淋しいものです。そこで伊東市は保存管理し、入場料200円をとって公開しています。

中を見て回りながら何故つぶれしまうのか考えてみました。

1、まず玄関前に車を停めるスペースがありません。

2、部屋は趣向を凝らした木造の内装ですが狭いのです。

3、その上、トイレと洗面所がありません。

4、暖房は火鉢が一つあるだけです。

5、料理が豪華で美味しい高級旅館なので一泊料金が高額になっしまいます。

このような昔風の旅館に一体誰が泊まるのでしょうか?

勿論、つぶれない素晴らしい旅館も沢山あります。上の悪条件をすべて解決し繁盛しているのです。日本式のきめ細かなサービスも魅力のひとつです。

下の写真は今回2泊したウエルネスの森・伊東の室内風景です。この写真の右側に床面積40畳くらいのリビングルームがあり他にベッドルーム、トイレ、風呂場、洗面室、それにキッチンがついていました。

コンドミニアム・ホテルと呼ぶそうです。

これが一泊2食つきで10000円以下なのです。夕食はいろいろ努力してあって美味でした。

私どもはコンドミニアム・ホテルは好きではありません。クラシックなヨーロッパ風のホテルが好きです。

時代の変化に深い感慨を覚える旅でした。

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復讐心は人間の本能(5)解決困難な日米関係

2012年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

国際関係は複雑で奥深い問題を抱えているのが普通です。どの部分を強調して理解するか人々の個人的な立場や人生観によって変わります。ですから選挙の時、国際問題は票につながらないと言います。

その上人間は矛盾した理解の仕方を同時に心にかかえているものです。

例えば私は若いときアメリカに留学し、アメリカ人に大変お世話になっています。アメリカが大好きです。しかしその一方日本中にアメリカ軍の基地がいつまでも存在している事実を不愉快に思っています。そして広島や長崎へ原爆を落として平気なアメリカ人達を憎んでいます。

アメリカと日本の関係は1852年のペリー提督の来日以来日本の宿命なのです。そこにはいろいろな人々の情念が横たわりますます複雑にしています。

「復讐心は人間の本能」という連載記事を以下のように書き進んできましたが、アメリカのことを考えると筆が止まってしまいました。

復讐心は人間の本能(1)解決困難な日中関係、日韓関係、日露関係、そして日米関係の概論

復讐心は人間の本能(2)解決困難な日中関係

復讐心は人間の本能(3)解決困難な日韓関係

復讐心は人間の本能(4)解決困難な日露関係(この記事はアメリカの記事の後に書きます)

日米関係は複雑で総合的な書き方ができません。そこで以下に思いついたことを書くことにしました。

(1)東京裁判とBC級裁判は人間の復讐心

太平洋戦争で勝利をおさめたアメリカは戦後すぐに東京裁判を行いA級戦争犯罪人として東條元総理大臣など多数の戦争指導者を絞首刑にしました。

その上、フィリッピン、などの太平洋地区の国々で残虐行為をしたというB、C級の戦争犯罪の罪で数千人の元日本帝国軍人を処刑したのです。裁判は拙速をきわめ、無実の罪で処刑された人が多かったのです。復讐心で処刑するのですから日本の軍人なら誰でもよかったのです。

(2)広島と長崎への原爆投下は真珠湾攻撃の復讐

宣戦布告しないで真珠湾に停泊中のアメリカの太平洋艦隊を攻撃し、壊滅した日本へ対しての復讐心をアメリカ政府が、「リメンバー パールハーバー!」というスローガンで国民を扇動したのです。

その復讐心のとどめの一撃が広島、長崎への原爆投下だったのです。これでアメリカ国民の心がスッキリしたのです。

(3)沖縄に米軍基地が集結しているのは血みどろの沖縄戦の復讐心による

あなたは日本に何故いつまでも米軍基地があるかその理由をご存じでしょうか?

私は日本が戦争に負けたのだから当然と思っています。人類の歴史をみると戦争とは所詮そういうものなのです。

戦勝国のアメリカが日本を領有し、飛び地にある一つの州にしてもおかしくは無いのです。アメリカ英語を公用語にしドルの使用を強制するのも自由だったのです。日本が朝鮮半島を併呑したときはそのようにしたのです。

とくに沖縄はアメリカ軍が3ケ月にわたる血みどろの地上戦で勝ち取った土地です。日本人に殺されたアメリカ将兵も多数いるのです。その復讐心で広大な基地を作ったとしたらその気持ちは理解に苦しみません。

そしてアメリカ以上の犠牲者を出した沖縄県は日本の軍隊や中央政府を憎むのは当然ではないでしょうか?普天間基地移転に関して鳩山元首相は県外移転と言ったり、やっぱり沖縄以外は駄目だと言ったりして沖縄県の人々を傷つけました。琉球王朝に続く沖縄県の人々の心をもっと深く理解し賢い政策を進めるべきと思います。

(4)復讐心を脱却し日米相互防衛体制を強化し、中国、ロシアに対すべし

日本中にアメリカの軍事基地が存在する理由は戦後のソ連との厳しい冷戦構造にあったのです。

1991年にソ連が解体し、冷戦構造が解消し、ウラジオストック軍港の多数の原子力潜水艦が日本人技術者の支援を受けて解体されました。

しばらくは平穏でした。しかしここ20年間で国力を急に増進した中国が尖閣諸島をおびやかし、太平洋に軍事力を展開しています。ロシアも北方四島を軍事的に利用しようとしています。

このような情勢では日米の安保体制をより強固にすべき時代と思います。

自民党の安倍総裁はアメリカとの軍事行動を共同で行えるように法改正を提案しています。自衛隊を軍隊にして海外派遣も自由にしようとしています。憲法の9条も変えます。日本の軍事力を強化する予算を考えています。

人間の平和に対する理解の仕方には2通りあります。

軍備を撤廃すれば平和になる。

軍備を強化すれば戦争を抑止し、平和が続く。

人類の歴史をみると非常に残念至極ではありますが、強い軍事力を持つほうが平和が持続するのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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伊豆半島、川奈の小室山の絶景

2012年11月21日 | 写真

多くの観光客はサボテン公園や一碧湖や城が崎や大室山へ行きます。伊東駅からバスも頻繁に出ている有名な観光地です。しかし大室山の子供のような小室山には伊東市の市民だけが行くような市民の憩の公園になっています。伊東駅からのバスの便も一日3回しかありません。

直観的に、「隠れた素晴らしい場所」と思いました。駅から9:50時発の路線バスに乗り、20分後に着きました。リフトで頂上に上り、絶景を楽しみました。

帰りはリフトに乗らないで家内と話しながら歩いて降りて来ました。眼下に川奈のゴルフコースの芝生が広がり、その向うに、あくまでもに青い海が輝いています。近くに初島が見え、遠方に大島が横たわっています。西の方には雪を頂いた富士山がそびえています。

南方には大室山が見えます。

この小室山の絶景を見ないで帰ってしまった方々のために写真をお送りいたします。

まず麓の公園から見た小室山です。大室山とともに火山です。

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写真の真ん中に見える縦の白い筋が頂上へ上がるリフトです。3分で頂上へ着きます。

頂上からはいきなり富士山がまじかに見えます。

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眼下には川奈ホテル・ゴルフコースが見えます。

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そして南方に目を転ずると兄貴分の大室山が見えます。これも火山で出来た山です。

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小室山の頂上にはかつての火口湖だったのか小さな池がありました。いかにも「ミニ火山」のようで可笑しかったので撮りました。

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帰りは必ず歩いて降りると景色がどんどん変化して楽しいです。

麓にある公園も規模が大きくて池もあり散策に時を忘れさせます。

12時18分リフト下駅出発の路線バスで伊東駅に帰りました。


パソコンが壊れて失ったもの、得たもの・・・「北越雪譜」などなど

2012年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

古いパソコンが寿命のようなので11月1日に富士通の新品を買いました。専門家に家に来てもらい前のパソコンにある情報をすべて取り出して新品のパソコンへ入れて貰いました。そしてインターネットに繋いでブログも書けるようにしてもらいました。それからがいけません。何度か故障してインターネットが切れてしまいます。パソコンの中身を完全に綺麗にして再度立ち上げて貰いました。この作業が数日かかり昨夕やっと調整しなおしたパソコンが我が家へ戻って来ました。息子のパソコンを借りてなんとかブログ記事だけは毎日更新しました。

しかし自分のパソコンが壊れているのでネット社会とは断絶したような気分です。

そこで暇にまかせてパソコンの功罪をいろいろ考えています。

パソコンが壊れて失ったものはネット社会で出来た人々との絆でした。本気で考えて作り上げた絆でしたので大きな喪失感が襲って来ました。それは暗い毎日でした。

しかし時間が過ぎるに従って諦めの境地に変わって行きます。

もともとネット社会はヴァーチャルな世界なのです。仏教で言う「空」なのです。それにこだわり過ぎた私が間違っていたのです。

ネット社会とは縁を切ろうと思いました。しかし「空」と知った上でネット社会を大切に思い、本気で付き合うことも大切だと信じるように考えが変わってきました。それこそがお釈迦様の教えのような気がいたします。

この境地こそパソコンが壊れて得た最大なものと思っています。

一方毎日する事も少なくなり本を読む時間が増えました。

この秋に長野と新潟の県境の秘境、「秋山郷」の旅に行ったのでそれに関する記述のある「北越雪譜」を丁寧に読み直してみました。

「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。雪深い魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を子細に書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝しています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出るとコメのお粥を作って薬として食べさせるのです。

飢饉で一村が全滅した時もあったのです。その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。

そのほか苗場山への登山の記録、クマ狩りの仕方、栃餅の作り方などなど興味深い記録にあふれています。その上、彼は絵も本格的に習ったので挿絵が重要な役割をしています。

例えば虫眼鏡で観察した雪の結晶の図は正確で現代科学の専門書のようです。

江戸時代の農民の生活の実記録として貴重な資料です。その上、不思議な話が散りばめてあり気楽に楽しめるような編集になっているのです。

現在、鈴木牧之は塩沢町の誇りとして下の写真のような記念館も出来ています。

パソコンが壊れて暇になり、読書の時間が増えるのも得たものの一つです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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伊豆の海とヨットの見える風景

2012年11月20日 | インポート

11月18日19日、20日と伊東市に2泊して伊豆の国を旅して来ました。

幸い晴天続きで海が綺麗でした。ヨットの見える風景が心に響きました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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やっとパソコンの故障が治りました!

2012年11月20日 | インポート

11月1日以来さんざんな故障の連続でまともにブログ記事が書けませんでしたが。

ただ今故障したパソコンを届けて貰いました。

今後とも宜しくお願い申し上げます。とり急ぎご挨拶申し上げます。後藤和弘


日本社会に溶け込んだキリスト教の風景と習俗

2012年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は日本の社会にいろいろな形で溶け込んでいてその独特な風景を示しています。そして結婚式は教会でしたりクリスマスは多くの家庭で祝います。丁度、お正月を祝うように社会の習俗になっています。
すなはちキリスト教は、明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と混然一体となり、日本文化の一部として融合しているのです。
しかしその一方で、キリスト教は水と油のように日本文化と溶け合わない部分も持っています。日本人がキリスト教をなんとなく嫌いと思っているのもその部分のせいです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をしてよくします。
しかし日本人の本音は、「私はヤソは嫌いだ!アジヤやアフリカを植民地にしたような欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」 というものでないかと思っています。
私はこの本音へ反論は致しません。
ただ重要な誤解についてのみ明らかにいたいと思います。
それはキリスト教と西洋文化を同じものとして理解していることです。西欧人の悪行を全てキリスト教のせいにしていることです。キリスト教が植民地を持っていう西洋人の手によって日本へ輸入されたので、この誤解は当然な誤解です。
私はある時、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問したことがありました。
その結果、明確に理解した事があります。それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の文化を背負って入ってくるという事実です。一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリーのラテン文化を背負いっています。
私の目から鱗が落ちました。このような国々の固有の文化をそぎ落としてそれぞれのキリスト教のみを比較してみたのです。
そうすると全ての宗派は全く同じように、イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。
ある牧師さんが言いました、「人間が福音書に書いてないことまでイエスの名を使ってするからいけないのです。福音書に書いてないことはしてはいけないのです!」と。
日本人がキリスト教を嫌うのは、ロシア文化や、ラテン文化や、アメリカ文化に違和感を感じているからなのです。それが、「私はヤソが嫌いだ!」という発言になるのです。
最後に日本人の鶴田健次さんという牧師さんがアメリカのラスベガス市に在住日本人の為の教会を作った事実をご紹介しておきます。そのホームページ http://lvjcc.com/index.htm を是非ご覧下さい。
「日本人に福音書は理解できるか?」という問題へあるヒントを与えています。

クリスマスの前夜の24日の夜には教会へ行ってキリストの降誕を感謝して祈ることを日本人の99%はしません。しかし子供の居る家ではサンタクロースが贈り物を持ってくる。そして家族が集まってパーティをする。又会社や色々な職場では親睦をはかるために「クリスマス・パーティ」を開催します。日本全国の商店は売上を上げるために盛んにクリスマスの楽しさを宣伝します。
これは日本の楽しい習俗です。それに対して目くじら立てて非難する必要などありません。
一家の先祖代々のお墓がお寺にあっても、結婚式は白いウエイディングドレスを着て教会で挙げる人々が非常に多いのです。これも楽しい風景です。
このようなクリスマスの過ごし方や教会での結婚式を見て、「キリスト教は日本へ根づいているとはとても思えない」と、若いころの私は感じたものでした。随分と昔の事でした。その時は日本文化の軽薄さを見るようで自己嫌悪になったものです。
しかし老境になった現在は、この社会現象を軽薄だと非難がましく見るのは間違っていると信じるようになりました。若い頃の物の見方が間違っていたと気づいたのです。
一般にある宗教がある国に根付くには2つの並行したことが起きるのが極く自然なことと思います。宗教教義を本質的に変えることなく正しく、論理的に導入され、それが人々の血となり肉となって信じられている。そしてもう一つは導入される宗教に纏わりついているお祭りや、風習が教義とはあまり関係なく入って行く。後者は教義とあまり関係が無いので不要と考える人もいます。しかし所詮人間は論理だけでは満足しないのです。賑やかな祭りやプレゼントや楽しい宴会があったほうがその宗教に親しみを覚えるものです。
日本のミッションスクールの卒業生は何百万人もいるようです。彼らの大部分は洗礼を受けないで卒業し、就職とともにキリスト教から離れてしまいます。しかし毎年クリスマスや復活祭になるとキリスト教のことを思い出して、心の中で祈っている人も居るのです。この時だけ教会に行く人々も多いと聞きます。
このような視点から考えると日本のクリスマスや、教会での結婚式はキリスト教が根づくために大変重要な要素と考えられます。あるがままにクリスマスを楽しみましょう。信心が無くても教会での結婚式も大いに良いではありませんか?イエス様は絶対に怒っていません。楽しげに微笑んでいるに違いありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)01_17





八王子城と東京近辺の城

2012年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は優しさと残忍さを持つ。洋の東西を問わない。人間の殺戮の歴史を忘れないために、今回は戦国時代末期の八王子城の悲劇と、関東地方の鎌倉、室町、戦国時代の数多くの城跡をご紹介したいと思う。
 小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主は北条氏政。関東中央部を支配ししていたのがその弟の氏照。武田信玄に攻められ苦戦した滝山城から山中の八王子城へ移ったのが1586年。しかしその4年後の天正18年、1590年6月23日に落城。秀吉に忠誠を約束した前田、上杉、真田の軍勢によって滅びされただ。
八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍である。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させた。生き残った家臣、婦女子は主殿裏の滝の上で自害し滝壺へ飛び込んだという。滝壺から続く谷川は血で三日三晩赤く染まったと言い伝えられている。
八王子城が落ちた6月23日は城主の氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因という。
生き残った捕虜は小田原の秀吉のもとへ送られ、7月7日の小田原城の開城後、7月11日の氏政と氏照の切腹と前後して極刑に処せらた。
天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年である。八王子城のような悲劇は関東全域の各地で起きた。
日本人と日本人が殺しあう。そんな時代がつい明治維新後の西南戦争まで当たり前であった。歴史を忘れる者は同じ過ちを繰り返すという。住んでいる場所の近くで起きた悲劇なら忘れ難いと思い、八王子城跡を静かに歩いてきた。針葉樹に囲まれた暗い谷間に雪道が寂寥として続いていた。上に示す写真はその折に撮ったものである。
八王子城の他にも城跡は実に数多く存在している。しかし東京都区内にあった城や館の大部分は市街地に呑み込まれ記念碑や説明板だけになっている。
一方、東京の郊外の多摩地方の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれる。
八王子城の他、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡などは当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されている。発掘調査も行き届き、説明板も明快である。
これらは車で行くと便利が良いが、滝山城だけ駐車場が無い。壮大な規模の城跡がそのまま残っているだけに残念である。
その他、現在の東京の地名に関係したものだけを以下に記す。
江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどである。東京だけでこれだけあるのだ。関東地方一円にはもっともっと数多くの城跡が存在している。
それにしても城の数の多いのに驚かされる。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深い。なお高幡不動の裏山にも高幡城跡があり、上記のものの他にも城があったのでは無いかと思われる。
現在住んでいる多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多い。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来つつある。皆様の住んでいる地域の城跡や館跡についてお教え頂きれば嬉しく思います。(終わり)
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人
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撮影日時;2008年2月19日午前11時ー12時、
撮影場所、八王子市城山東斜面の八王子城主殿跡付近(尚、本丸は主殿うしろの城山山頂にあり、徒歩40分かかる)
東京都内から車で行く場合;中央高速道、八王子ICを出て16号線を甲州街道20号線まで行き右折し20号線をJR高尾駅手前の町田街道を右折。間もなく八王子霊園方面へ左折し中央高速道の下をくぐればすぐ左折。案内板にしたがって800メートル上ると八王子城跡入口がある。JR中央線で行く場合は終点の高尾駅下車、北口からバスがあるが、よく調べてから行く必要がある。



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ロシアの宗教音楽・・・共産主義国家になる前のロシア文化

2012年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

日本が明治維新をした時代、ロシアはニコライ王朝の文化が輝いていました。

日本人はすぐにロシア文学を翻訳して広く読まれ、日本の文学作品へ大きな影響を与えたのです。

今でもドフトイスキーやツルゲーネフやゴーリキーの作品は若い人にも読まれているのです。

偉大な作曲家、チャイコフスキーの交響楽はその東洋的な哀愁を帯びていて日本人には大好きな人々が多いのです。

ところが1917年に革命が起きロシアがソ連という共産国家になってしまったのです。そして伝統的なロシア文化が破壊され、特にキリスト教は徹底的な弾圧を受けたのです。

これで魅力的なロシア文化が根絶してしまったのです。

ところが明治維新前に函館に出来たロシア領事館とともにロシア正教がやって来たのです。そのロシア正教がやがて東京のニコライ堂になったのです。

ロシア正教は日本正教と名前が変わりましたがロシアの伝統的な宗教を現在へ伝承しているのです。

その儀式で歌われる聖歌は古いロシアの文化の象徴です。

3年前の11月に私はニコライ堂を訪問して、その音楽を聴いてきました。以下はその時の感動を書いた文章です。

それは3時間近い絢爛豪華な音楽ショーでした。

楽器を一切使わない四部合唱が広壮な教会堂に響きわたり、きらびやかな金色の冠と法衣の裾をひいた数多くの聖職者が静かに動きます。

祈りの美しい声が合唱とハーモニーをなして聞こえます。香りの良いキリスト教の薫物の煙りが会堂内に流れています。数百本のローソクの光が幻想的に輝いて、赤緑青など多彩なステンドグラスを美しく見せています。

これは大掛かりなロシアの音楽芸術のページェントなのです。少なくともそのように感じさせる日曜礼拝(聖体礼儀)でした。

東京のお茶ノ水のニコライ堂で毎日曜日の午前10時から13時までの3時間続きます。

本当のことを書くと、自分は退屈するだろうと思っていました。しかし余りの素晴らしさに気がついたら午後1時になっていたので。

日本人の多くは宗教に関心がありません。宗教と聞くと避けて通る人もいます。お寺にはお葬式の時だけ行きます。そのような人でもニコライ堂の素晴らしい合唱藝術には必ず感動すると思います。

ヨーロッパのオペラの起源は、このような礼拝式における聖職者の言葉と合唱隊の歌による対話にあったのではないかと想像できます。納得します。オペラが好きな方々は是非ご覧下さい。

さて毎週日曜日に気軽に楽しめると言っても少しのルールがあります。

まずキチンとした服装で午前9時40分には入場しておいて下さい。信者でない人々が座ってよい席は決まっています。会堂の一番後ろにある木のベンチだけです。その前に太い4本の柱が有りますが、そこから内側へは入ってはいけません。

受け付けで信者でないと言うと、100円でローソクを1本わけてくれます。3,4本買います。それをベンチの前のマリア様の絵(イコン)の前のローソク台に火をつけて立てます。そしたらベンチに座って自分の席を確保します。後は音楽を楽しめば良いのです。10時になると数多くの鐘が鳴りわたり、着飾った聖職者の行列が入ってきます。

礼拝ですから途中で、祈りの言葉を印刷したカードを持ってくる人がいます。二コリと微笑んで断っても結構です。その後しばらくして、大きく平らな献金籠を持った人もベンチの席まで回ってきます。一切無視しても良く、感動した分を入れるのも自由です。

3時間の間、立って見たり、座って見たりします。しかし立ったり座ったりは他の信者のタイミングに合わせるのもエチケットです。ベンチ席にもロシア人らしき本物の信者が混じって座っています。彼らの祈りの邪魔をしないようにしましょう。

3時間と長いので事前にお手洗いの場所を受付で聞いて確認しておきます。会堂内には無くて、向かいの建物の中にあります。

音楽の発展の歴史だけでなく、宗教儀式の歴史に興味のある方々にとっても非常に参考になる礼拝式です。尚、正教会では日曜礼拝を「聖体礼儀」とよびます。

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佛教でもキリスト教でも、とにかく宗教というものに少しでも関心のある方はお茶の水のニコライ堂の日曜礼拝を一度はご覧下さい。本を幾ら読んでも分からない宗教の本質的な部分が簡単に理解できます。

日曜礼拝のことを日本正教会では「聖体礼儀」と言います。きらびやかな聖職者の行列と美しい宗教音楽の極致のような混声合唱で神への崇拝を示しています。人間の神を敬う深さを儀式で示すとこのようになるのです。宗教の全てに普遍的な神への憐れみを願う儀式です。キリストの聖なる体の一部を(聖体)を頂くという儀式です。

日本正教の聖体礼儀は2000年前のキリストの生きていた頃のユダヤ教の礼拝式の形式を墨守してきたのです。新約聖書は始めはギリシャ語で書かれたのです。そのギリシャ語の原典に書いてある内容を忠実に教えています。キリスト教の正統的な宗派なので正教と言います。

この宗派はギリシャからビザンチンへそしてロシアへ伝わって、1855年函館へ上陸しました。

日露戦争の時、ロシア本部から独立し、日本に根付いて日本正教会という宗教法人になりました。しかし教義と礼拝形式は2000年前の通り、一切の変更無しで、まったく同じなのです。宗教の本質の一つは「永遠に変わらない」という性質を含んでいます。そのことを礼拝式を実見して体験できるのです。

しかし、少しでも宗教に関心のある人はヨーロッパで起きた宗教改革のことを知っています。各国の近代化革命も共産主義革命も知っています。アメリカ流の自由と平等な民主主義も知っています。そのような極く普通の常識人がニコライ堂の日曜礼拝を見ると非常に大きなショックを受けるかも知れません。そこには聖職者と合唱隊と平信徒の恐ろしい差別があります。神に祈る儀式の大部分は聖職者だけがします。合唱がそれを助けます。平信徒は黙って祈るだけです。

昔、ロシアには貴族と農奴しか居ませんでしたとよくと聞きます。農奴は文盲でしたから祈祷書は読めません。代わりに聖職者が全て読みます。そんな封建時代の圧政を連想させるのです。正直に言えば、見てはいけないものを見てしまったような暗然とした気分になりました。でも次の瞬間、気が付きました。それは自分の勘違いで、会堂全体にイエス様の笑顔が見えるようです。マリア様の優しい眼差しが見えます。壁に掛けた無数のイコンのマリア様は微笑んでいるのです。

儀式の見かけ上の荘厳さは人間の弱さの表れなのかも知れません。しかし堅苦しい儀式が、実は自分の郷里の実家に帰った時のように寛いだものに感じられるのです。

普通の日本人がニコライ堂の日曜礼拝をみるとき一番重要なことは、儀式の豪華さや厳粛さの中に漂う「マリア様の優しさ」や「イエス様の慈しみ」を想像しながら見ることと思います。場違いな所に来たという感じや違和感が消えてなくなり、心から楽しめます。宗教というものに少しでも関心のある方は是非一度、ニコライ堂の日曜の聖体礼儀をご覧下さい。本には書いてない色々なことをご発見出来ると思います。

今日は日曜日なので宗教音楽について書きました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)