後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

曼珠沙華、萩の花、赤い百日紅の花の写真をお送り致します

2014年09月22日 | 写真
昨日、お墓詣りに行った日野市の大昌寺で撮りました。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味です。葉が無くていきなり地面から幹が出て幻想的な花を咲かせます。不思議に秋のお彼岸になると一斉に咲き出します。
仏教の経典から来ています。サンスクリット語ではmanjusakaと書きます。
最後の写真は鐘楼の前に咲いていた萩の花と紅い百日紅(サルスベリ)の花のです。


米と日本人にまつわる話(4)縄文時代の稲作と美味しいご飯

2014年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日いろいろな記事を書いていますので、そのための下調べをしています。

今回は日本における稲作の始まりとその発展の歴史について書こうと思って、数日前から調べていました。
しかし、そんな古い話よりも、現在の私たちが美味しいご飯を毎日食べられる話のほうが良いと思いました。古代の話よりも美味しいものの話の方が重要です。

しかし折角調べたのですから、下にごく一節だけ示します。

稲作は弥生時代に始まり、縄文時代には米は日本に無かったと学校で教わったのを現在まで記憶し、信じていました。それがまったくのウソだったのです。

下の引用文をお読み下さい。実に稲作は5500年や6000年前の縄文時代の中期から始まっていたのです。石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、などという時代区分は日本の地方地方によって全く異なるのです。深く考えさせる問題です。
======Wikipedea「稲作」よりの抜粋=========
・・・日本列島における稲作の歴史は長きに亘って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から5500年前イネのプラント・オパールが発見されたことや、朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代中期以前まで遡って陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となっている。稲作が生業であったかどうかは別にしても、縄文時代後期・末期頃に陸稲(熱帯ジャポニカ)が栽培されていたことは確実になった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C  より抜粋。)
===============================

ところで縄文時代の稲作の問題から離れます。
実は昨日、Face Book のページに、「美味しいが栽培が難しい武川米の栄枯盛衰」という記事を掲載しました。すると小林邦夫さんと坂本勝男さんから以下のようなコメントを頂きました。美味しいご飯を食べる方法に関して非常に重要なヒントになると思いましたので、以下にご紹介いたします。

小林 邦夫 さんからのコメント:
こんばんは。お米は栽培方法、刈入れ後の乾燥方法、ご飯の炊き方によって、同じ品種でも美味しさが違ってくると言われています。
植物には、窒素、リン酸、カリの三大肥料が必要とされていますが、亡くなった兄は、この配合を品種に合わせて自分で行っていました。
ところが現在は事前に配合された化成肥料が売られるようになってきて、これが利用されているようです。
又、昔は、はざ架け(ハザカケ)と言って、はざ木に刈り取った稲を架け,天日干しをしてましたが、今は機械で乾燥するようになりました。
勿論、天日干しの方が美味しいのは言うまでもありません。
最後に同じ「コシヒカリ」でも、魚沼産コシヒカリと新潟県にある実家で作ったコシヒカリでは、ご飯を炊く時、家内は水の量を加減しているようです。(https://www.facebook.com/kazu.s.goto より抜粋。)

坂本 勝男  さんからのコメント:
自家用は、米に限った事ではありませんよ。
農家では出荷用とは別に自家用の低農薬、もっと新鮮で美味しいのを作ってるらしいですよ。
それは、農家が故意にしてるのでは無く、消費者・青果店・市場の要求する物を提供しないと売れないですからね。(^o^)
でも、農家は、良いものは分かってるんですよ。
これは、農家に限ったことではありません。
肉、魚、その他生産物など全てです。(https://www.facebook.com/kazu.s.goto    より抜粋。)=========================

小林さんのコメントにあるはざ架け(ハザカケ)は農村に行くと時々見かけます。それは自家用の米だったのですね。そして農家では米をモミ殻のついたまま保存し、食べる直前い精米するそうです。農協やコイン式自動精米機で精米するそうです。

さて、それでは都会の人はどうすれば良いのでしょうか?
魚沼産コシヒカリとか宮城県ササニシキとか北海道キララ379とか農林48号(武川米)を検索するとネットで販売している米屋さんがあります。そこから取り寄せれば良いわけです。

ネットといえば鹿肉やイノシシの肉もネットで取り寄せることが出来ます。
ネット購入は少し高価ですが美味しいご飯を食べる一つの手軽な方法です。

さて米をどのように炊けば美味しいご飯になるかや、ご飯が冷たくなったらどうするかなどという問題は次回にしたいと思います。

下の一番目の写真は山梨の旧武川村地域での稲刈り風景です。刈り取りと脱穀をする大型コンバインで一挙に収穫している風景です。

二番目の写真は広域農道に軽トラックを停め、田圃の上の稲刈りコンバインから脱穀した米を圧送している風景です。軽トラックの上には農協の大方サイロ式貯蔵塔へそのまま送り込める特別な形をした容器が積んであります。

三番目の写真は稲田の隅で自家用のソバを栽培している様子です。一昨日は丁度ソバの花が満開でした。

四番目の写真は広域農道と田圃の間に植えてあったコスモスの花です。花市場へ出荷すのではなく、自分たちが農作業の合間に楽しむために植えているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





美味しいが栽培が難しい武川米の栄枯盛衰

2014年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和24年に武川米(農林48号)は山梨県の旧武川村で栽培されて美味しい米として有名になりました。
しかし冷害弱く、栽培が難しいので次第に栽培されなくなり消え行く運命にあるように見られていました。

種もみ自体も少なく「幻の米」といわれるようになったのです。山梨県内でもこの武川米(農林48号)を知っている米屋はほとんど無くなったそうです。
しかし数年前から状況は一変しました。

自家用に少量流通していた武川米が、都内の高級寿司店によって食味の良さと香ばしさの故に再評価されるようになったのです。
その高級寿司店がテレビ取材を受けて、武川米が都内でも知られるようになり、徐々に市場評価が上がり始まったのです。
以前は,武川米は検査を受けると二等米、三等米ばかりで, 一等米は無かったそうです。しかし、農家の努力と情熱により、品質も向上し、現在では一等米が70%を超えるようになったそうです。

毎年、秋に新米がとれる頃になると、北杜市の武川町が主催する「武川 米米まつり」が私の山林の中の小屋のすぐ下で開催されます。
その時には、都内から大勢の人々が武川米を買い求めてに来て会場周辺の道路が大渋滞になります。
武川米は寿司には最適ですが、私の家ではご飯を4合炊いて冷凍庫に保存しながら少しずつ食べます。すると武川米は高い値段ほど美味ではないというのが私の個人的な感想です。むしろコシヒカリの方が冷凍後も美味しいようです。

しかし米にこだわる方々はネットで注文してご飯の味を試してみるのも一興でしょう。
取り寄せの仕方は、http://www.eps4.comlink.ne.jp/~mukawa48/007-2.html をご覧下さい。
写真に昨日撮った北杜市武川町の田圃の風景を示します。


世界遺産の法隆寺とその仏像群の圧巻

2014年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日です。アットいう間に一週間が過ぎました。

毎週、日曜日は少しだけ宗教に関連したことを書いてからミサに行きます。


カトリックになってから43年たちましたがあまり熱心な信者ではありません。しかし信者になってからいろいろなことが判るようになりました。

その一つは佛教の素晴らしさです。そして日本はまぎれもない仏教国だということも判りました。

多くの日本人は無宗教ですと言います。しかしその考え方や行いはお釈迦様の教えにしたがっていることが多いのです。

美しいお寺が日本には7万以上もあるのです。欧米人が日本はみな仏教徒だと言うのは正しいと思います。カトリックになってみると、その事実が実感できるのです。

そこで今日は日本の仏教の原点のような法隆寺とその仏像群の写真を見てましょう。

飛鳥時代の仏教は朝鮮の高句麗、新羅、百済という国々から伝わって来ました。隋や唐から伝承された奈良時代より100年位古い仏教です。

奈良の法隆寺は修学旅行で行った方々も多いと思います。私も3度ほど訪ねました。お寺の建物の一つ一つは確かに精巧で美しい均整美をたたえています。

しかし建物の配置が百済式で変わっていて、その上観光客が多くて静かに歩くことが出来ません。3度とも人混みの中を歩きました。あまり静かでありませんでした。

しかし東京の上野の国立博物館の隣の法隆寺宝物館にある飛鳥時代の数百体の金銅仏には圧倒されます。数多くの個性的な金銅仏がある間隔をおいて整然と並び、神秘的な照明をしてあるのです。ああ、これが飛鳥佛なのだと訳も無く感動します。

法隆寺の大部分の宝物は明治初年に皇室へ献納され、現在は国宝や重要文化財として国立博物館は管理し、展示しています。

奈良の法隆寺と東京の法隆寺博物館の両方を見ないと、法隆寺の素晴らしさが判りません。

当時の朝鮮仏教の優れた寺院建築や仏像を偲ぶことも出来るのです。

お釈迦様は死ぬときに佛像や偶像を一切作るなと言ったので、不思議なものだと思いながらも飛鳥佛の群像には見とれてしまいます。

下に法隆寺とと飛鳥佛の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

三番目の飛鳥佛の群像の写真の出典:http://ameblo.jp/hirot1976/entry-10527943798.html
他4枚の写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA



甲斐駒岳の麓の小さな、小さな小屋へ行ってきました

2014年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
8月に行ったきりで暫くご無沙汰していた山林の中の小屋に家内と行きました。家の中でオニギリを食べ、庭の小川で遊んだだけです。しかし深い森の中でのんびりしただけでおおいに寛げます。
人のいない山林は不思議な世界です。
その小屋への道の写真を示します。
一番目の写真は小屋に登る道の入り口にある集落に咲いてきたコスモスです。
二番目の写真は小屋へ続く道の傍にあったススキです。
三番目は小屋へ登る山林の中の小道です。
四番目の写真は深い森の中にある本当に小さな、小さな家です。40年前に建てたままです。
五番目の写真は小屋の庭を流れる小川です。一年中、水が涸れません。時々、岩魚が泳いでいます。この小川だけが自慢の山林の中の小屋です。


秋の花々の写真をお送りいたします

2014年09月20日 | 写真
一番目の写真は秋到来を告げる萩の花です。

一番目の写真はオオベンケイソウの花です。

一番目の写真はイヌサフランです。痛風に効く漢方薬に使います。

一番目の写真はツリガネニンジンです。漢方薬になります。

写真の撮影は9月18日で場所は都立薬用植物園です。





今日はお彼岸の入りなので新撰組の土方歳三と井上源三郎のお墓の、、、

2014年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はお彼岸の入りです。そこで、日野市にある大昌寺の墓前の花々と石田寺にある新撰組の土方歳三の墓と宝泉寺にある新撰組の井上源三郎のお墓の写真をお送り致します。

毎年、春と秋のお彼岸には日野市の大昌寺へ家内と墓参りに行きます。
寺の裏の墓地に入って行って、掃除をし花を上げ、お線香に火をつけて先祖の墓にお祈りをします。
周りを見回したところ、活き活きとした花々が沢山あります。あまりりにも美しいので写真を撮りました。その花の写真は下の一番目と二番目の写真です。


ついでに近所の石田寺に行き、土方歳三のお墓にも参りました。
彼は函館で壮烈な戦死をしましたので今でも函館の人々は彼を尊敬し日野市に在住している歳三の親戚を函館に招いて交流を深めています。下の写真の右側の小さ目の墓が歳三のです。

下は墓前にある歳三の 活躍ぶりを紹介している看板です。

さらに同じ日野にある宝泉寺にある井上源三郎のお墓にもお参りしました。
源三郎は心やさしい隊長だったようで多くの人がその優しさを讃え、追悼文を捧げています。
お墓は下の写真の右端に写っている正方形に近い形のものです。

その裏に文章が刻んでありました。


ちなみに井上家の大きな墓石の隣に2番目に大きな墓石が立っています。先の戦争で戦死した家族のお墓です。源三郎の墓石の大きさや位置と比較すると感慨深い思いをいたします。
源三郎のことは検索するといろいろ出て来ますので、ここでは割愛いたします。

春と秋のお彼岸にはいろいろな故人のお墓にお参りするのも良いものです。心が静かになります。季節の節目です。こうして月日がめぐって行くのです。
写真は2010年の秋のお彼岸の9月22日に撮ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

秋は喨喨と空に鳴り

2014年09月19日 | 写真
秋の空はいろいろなことを思い出させます。
秋の詩を謳うような雲のたたずまいの写真をお送りします。

一番目の写真は清瀬市の金山緑地公園の周りに広がる畑の上に出ていた雲です。

二番目の写真と三番目の写真は町田市の小山田緑地公園の上空の空です。秋の鱗雲です。

四番目の写真は小山田緑地公園から帰る途中の多摩センターの上空に突如現れた夏の雲です。僅か30分の間にです。夏と秋とのせめぎあいを感じました。


米と日本人にまつわる話(3)映画、「苦い米」と各国の米の生産量

2014年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
前の2回の連載記事では日本の国内の米の生産に関して書きましたが、今日は世界各国の米の収穫状況を見てみましょう。

ヨーロッパでも米を作っているということを私が知ったのは戦後すぐに上映されたイタリア映画の「苦い米」を通してでした。豊かな肉体の女優が田植え中の水田の前に立っているポスターだったので、まだ子供だった私は敬遠しましたが、大人の男性たちの評判になった映画でした。
一番目の写真にそのポスターを下に示します。


この映画は戦後すぐに流行ったイタリア・ネオリアリズムの一連の名画の一つでした。

その後の「自転車泥棒」や「鉄道員」や「道」は何度も見て感動したことを憶えています。

この映画を抜粋した動画が、http://www.youtube.com/watch?v=QtvTnsABQ4I にありますので、ご覧になれます。

多くの女性が田植えをしている光景は映画用の演出に違いありません。

場所は北イタリア地方で、そこでは現在も水稲栽培をしています。

日本の学校では水稲栽培はエジプトやインド、ビルマ、タイ、インドシナ、フィリッピン、中国、朝鮮、そして日本でなされていると教わりました。そのせいでヨーロッパやアメリカに稲作があるとは知らなかったのです。

そこで、「世界の米(生産量、消費量、輸出量、輸入量、価格の推移: http://nocs.myvnc.com/study/geo/rice.htm 」を開いて、調べてみました。
二番目の写真は各国の米の生産量を示すグラフです。


大雑把に言えば世界の総生産量は4億5千万トンから次第に増加して4億8千万トンになっています。

世界各国の米の生産についてはそれぞれの歴史と経済事情が関係していて一概には議論出来ませんが、注目すべき点を指摘したいと思います。

まずアメリカとブラジルの生産量は以下のように日本の770万トンにほぼ同じです。

一番多いのは中国で1億4400万トンも生産しています。そしてインド、バングラディッシュ、ベトナム、タイ、フィリッピン、ビルマ、などが日本の2倍、3倍も生産しているのです。

これらの国々の米はあまり美味しくないという理由で敬遠されているようですが、実際には日本の農家を保護するために関税などで輸入を制限されているのです。

特に日系人の多いアメリカ西部のカルフォルニア米は、私も何度か食べましたが美味しいのです。アメリカは日本に圧力をかけて米の自由貿易を迫っています。しかし日本のスーパーにはカリフォルニア米が並んでいません。

米を完全に自由貿易にすれば安い中国米が日本に溢れると思います。考えるべき問題です。

どんな分野でも自由貿易か国内産業の保護かを選ぶのは非常に難しい問題です。

それはさておき、米は小麦と並んで人類の繁栄を支えて来たことは誰でもご承知の通うりです。しかしその流通にはいろいろ複雑な問題があって、世界には相変わらず飢餓問題のある国々があるのです。そんな問題を考えさせる世界各国の米の栽培事情です。

三番目の写真に現在の北イタリア地方の稲栽培の風景と、四番目の写真にカルフォルニアの稲栽培の風景写真を示します。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


三番目の写真の北イタリアの水田の写真の出典:http://blog.livedoor.jp/airone0219/archives/51588904.html
・・・ここからアメリカ、ヨーロッパへと輸出されていく何十種類もの種まき用のお米の品種の実験を田んぼの一角で繰り返し冬には、中国まで行き、中国人の研究家のところを訪問する計画があるという ダニエーレは、目を輝かせながらお米のことを語る。・・・


四番目の写真のカルフォルニアの水田の写真の出典:http://blogs.yahoo.co.jp/koyo_9040/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=2
・・・水田地帯は穏やかな起伏が続く広大な平原ですが、年間降雨量はわずか250ミリしかありません。灌漑用の水は北部の山脈地帯から700キロ(東京・函館間の距離)の幹線水路で引いているのです。・・・・・・

今日の都立薬草植物園の花々の写真をお楽しみ下さい

2014年09月18日 | 写真
一番目はシオンの花です。根が漢方薬に用いられます。鎮咳や去痰に効果があります
二番目は紅い曼珠沙華です。お彼岸が近くなると必ず咲きますので不思議です。
三番目はクリーム色の曼珠沙華です。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味です。おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。サンスクリット語ではmanjusakaと書きます。
四番目はジンジャーの一種でヘディキューム・コロナリュームです。
五番目は蛇ウリです。蛇ウリは中国ではスープや炒め物にして食べます。若い時期の方が柔らかで美味しいそうです。





米と日本人にまつわる話(2)宮沢賢治と米の驚異的な品種改良

2014年09月18日 | 本と雑誌
戦前、戦後の東北地方、とくに岩手県は夏に三陸沖から吹き付ける冷たい風で農作物が全滅することが度々ありました。

このような冷害が起きる度に、娘の身売りが多くなります。身売りの悲しい話が私の住んでいた宮城県にも伝わって来ました。それは暗い悲しい岩手県の宿命だったのです。

特にお米は冷害に弱く、三陸沖から風で全滅してしまうのです。

これをひどく悲しんで、何とかしようとしたのが宮澤賢治でした。

羅須地人協会を作って農地改良を指導したのです。そして下のように・・・寒さの夏はオロオロ歩き・・・という言葉を詠み込んだ詩を作ったのです。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテ

コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラ
ヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

(一番目の写真と詩の出典:http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/karuta/amenimomakezu.htm )

宮澤賢治は岩手県の貧しい農民に寄り添い、すこしでも農作物の収穫を増やそうとして二番目の写真のような羅須地人協会を作って農地改良の普及を進めたのです。

(二番目の写真の出典:  http://www.hakusensha.co.jp/moe-blog/2011/09/post_154.php)
彼は後に石灰肥料を作るために鉱山会社に就職もしたのです。
しかし土壌改良だけでは岩手県の冷害がほとんど防止出来なかったのです。
それを一挙に解決したのが東京オリンピックの頃から始まった稲の品種改良でした。
お米の味が良くて、冷害に強くて、一反の田圃からの収穫量が多くて、病虫害にも強い稲の新しい品種がつぎつぎに開発されたのです。
コシヒカリ、ササニシキ、ヒトメボレ、アキタコマチなど有名な品種が200銘柄以上も開発されたのです。

特に驚異的な品種はキララ397です。北海道のような寒冷な土地でも短期間の夏に美味しい米をたわわに実らせるのです。
そうして都道府県別米の生産量は北海道が新潟県についで全国2位になったのです。東北地方の青森、岩手、秋田、山形、宮城、福島の各県は米の生産量のランキングですべて上位に入っているのです。

宮澤賢治が岩手県の冷害に悩み、農業改革運動をしたのは1930年前後の頃です。当時は気候も現在より寒かったのも事実でしたが、土壌改良だけでは冷害をどうすることも出来なかったのです。彼は以下のような祈りの言葉を「雨にも負けず」の詩の下に書いいたという話もあります。

南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如來
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

1930年頃から現在は80年。彼岸に居る宮沢賢治は深く満足していると私は確しています。三番目の写真は現在の岩手県の収穫の終わった稲むらの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


(三番目の写真の出典:http://blog.goo.ne.jp/tanadameguri/e/a58123426e82878d894e85bc112f0986 )

====参考資料==================
(1)宮沢賢治とは
明治二十九年(1896年)岩手県花巻市出身。盛岡高等農林学校に進む。日蓮宗に帰依し、熱心な信者となる。文芸によって布教活動をすることを考え、童話を書く。大正十年、妹の病気のため帰郷。稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。翌年より作品がが盛んに作られる。大正十五年退職し、農業啓発活動を始める。昭和八年、三十七歳で病死。

主な作品
「月夜のでんしんばしら」「どんぐりと山猫」「無声慟哭」「岩手山」「原体剣舞連」「春と修羅」「注文の多い料理店」「稲作挿話」「銀河鉄道の夜」など

「雨ニモマケズ手帳」とは
賢治は、1933年に亡くなりますが、死後、弟によって、手帳に書かれたこの詩が発見された。賢治研究者の間ではこの手帳 を「雨ニモマケズ手帳」と呼んでいる。

(2)岩手県の米:
あきたこまち、おきにいり、いわてっこ、岩手68号、かけはし、コシヒカリ、ササニシキ、たかねみのり、トヨニシキ、どんぴしゃり、ひとめぼれ、

(3)日本全国で作られているお米の品種:http://www.iy-place.net/nihon-no-kome/

米の品種の作付け
面積別ランキング(2006年)

順位と米の種類(品種)と主な地域

1 コシヒカリ 日本全国
2 ヒノヒカリ 西日本
3 ひとめぼれ 東北
4 あきたこまち 東北
5 キヌヒカリ 東日本
6 はえぬき 山形
7 きらら397 北海道
8 ほしのゆめ 北海道
9 つがるロマン 青森
10 ななつぼし 北海道

日本では、たくさんの品種のお米が作られています。
その地域の気候や風土に合わせて常に品種改良が行なわれており、今では300以上もの品種の米が作られるようになりました。米の品種改良にはこれで終わりというところがなく、更により良いお米を作るための品種改良の研究が続けられています。
米の品種改良は、味を良くすることを目的としているだけでなく、寒さや病気に強いものやもっとたくさんの量のお米ができるものを作ることを目的にして行われています。ですから、これからまた何年後、何十年後には、今食べられているお米とは違う別の新しい品種のお米が出てくる可能性も十分にあるという訳です。
・・・・中略・・・・

特にきらら397(きららさんきゅうなな)は北海道産のイネの品種の1つ。1990年品種登録、登録番号 第2151号。それまでのあまり美味しくない北海道米のイメージを一新した品種である。

(4)お米の家系図:
http://www.tanaka-nc.co.jp/kome/bn/kome43.html より。

米の家系図
 ユニークなネーミングのお米をよくみかけるようになりましたが、実は現在作られているお米は、明治時代に作られていたおいしいお米の代表、「旭」と「亀の尾」の2品種から改良されたものです。

最近のお米は、”コシヒカリ”のおいしさをさらにおいしく、また病気にも強いものが開発されているのです!
九州全県で栽培されている「ヒノヒカリ」をはじめ、「はえぬき」や「どまんなか」といった品種は平成になってから開発されたお米です。

これらは、"コシヒカリ"の血を引くものです。「あきたこまち」「ひとめぼれ」などは異母兄弟になり、北海道の「きらら397」などは、ひ孫になります。

北海道の水田の風景をお楽しみ下さい

2014年09月17日 | 写真
サトウビンさんの「見て知って北海道」という感動的なHPから、北海道の稲作地の秋の水田の風景をお送りいたします。
一番目と二番目の写真の出典は、「見て知って北海道」http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。
三番目の写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/kuraido-nyan-nyan/e/b91b467f70b0518123155bc6129de7b1 です。


米と日本人にまつわる話(1)東京都内の水田風景を探して

2014年09月17日 | 社会・経済
老人は若者に昔話をするものです。そこで私は今の若い日本人へ、「あなたたちは銀シャリという言葉を知っていますか?」とか「その言葉の流行った時代を知っていますか?」と自慢げに質問したいのです。
高齢者はご存じです。戦前、戦後の食糧難の時代です。白米を炊いたご飯は、銀の粒のように光りかがやいていたからです。それは胸を締め付けられるような輝きでした。あれから茫々数十年。しかし真っ白いご飯を見るたびに、時々、この銀シャリという言葉を思い出します。

シャリとは舎利に由来するといいます。お釈迦様の遺骨が白いと思い、白い粒をそう呼んだに違いありません。
ですから銀シャリという言葉を聞くとお釈迦様の慈悲の心を連想します。そして同時にアイヌ神謡集の詩を思い出します。アイヌの神の梟が飛びながら唄うのです。

銀の滴 ふるふる まわりに、

金の滴 ふるふる まわりに

という歌を 静かにうたいながら

この家の 左の座へ 右の座へ

美しい音をたてて 飛びました

私が羽ばたきをすると、 私のまわりに

美しい宝物、 神の宝物が 美しい音をたてて

落ち散りました

このようにお米は私にとって銀の粒々のように貴重な存在に思えるのです。そこで昨日から日本人とお米との関係をいろいろ考え込んでいます。
なにせ2000年前の弥生時代からお米は日本人の主食であり、現在でも家庭で炊いたご飯の他、寿司、天丼、うな丼、牛丼、カレーライスそしてコンビニのお握りという具合に日本人にとっては大切な食べ物です。

日本国内の生産量は減少していますが、その分、輸入するので日本人の米の消費量は変化していないのです。
それにしても、最近、東京の郊外では水田が無くなりました。50年ほど前に、ここ小金井市に引っ越して来たころは崖下の野川沿いには水田が広がっていたものです。府中から多摩川の上流日野あたりの両岸には豊かな水田風景が広がっていました。
それが高度成長の時代から宅地になってしまって水田風景が消えてしまったのです。かつては小金井、府中、小平、立川、日野の何処にでも稲の実る風景が見られたものです。

しかし私は水田のある秘密の場所を知っているのです。半信半疑の家内にカメラマンをお願いして車で1時間ほどのその場所に行きました。安心しました。そこには昔と変わらない水田が広がっていたのです。
一番目と二番目の写真です。
三番目の写真は水田のそばにあったサトイモ畑の様子です。


この場所は東京都町田市の都立小山田緑地公園へ入る道の両側です。
水田は地方に行けば珍しくありません。近年は北海道に稲作が拡大して、現在は北海道の米の生産量が新潟県に次いで国内で第二位になっているのです。

北海道といえば知床や、富良野の花畑が有名です。そして屈斜路湖や阿寒湖や洞爺湖が有名です。ですから多くの人は北海道が第二位の米の生産地と聞くと驚きます。
それはさておき、水田は1世紀ころの登呂遺跡でも発見されています。8ヘクタールの水田が広がっていたことが発掘調査で分かっています。
四番目の写真に復元された弥生時代の水田の写真を示します。

日本人は2000年も前から米を大切に育て稲作を伝承して来たのです。これからも1000年、2000年と長い年月、この稲作は続くと私は信じています。米こそ日本文化のいしずえなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

秋になりましたので箱根の仙石原のススキの写真をお送りします

2014年09月16日 | 写真
箱根の仙石原のススキの写真の出典は、 http://jere.blog1.fc2.com/blog-entry-628.html です。

この写真は古い写真なのでお出掛けの折りには、仙石原の「ススキの見ごろ情報、
http://www.hakonenavi.jp/season_special_contents/index/4 を確かめてください。
今日の9月16日は少し早過ぎるように見えますが、人それぞれお好みが違うので何時が良いか一概には言えません。
ススキだけではなく秋には美しい風景がいろいろあり楽しい季節ですね。

イスラム国を含む混沌とした乱戦は17世紀のヨーロッパにも、、、

2014年09月16日 | 国際・政治
「イスラム国を含む混沌とした乱戦は17世紀のヨーロッパにもありました・・・これを知れば中東の乱戦が分かる」
イスラム教スンニ派の過激武力集団がシリア北部とイラク北部を広範に占領して、そこに「イスラム国」という国の独立を宣言しました。

このように勢力を拡大しているイスラム国を壊滅させようとして、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアとアラブ諸国の連合戦線が結成されつつあります。

例によって欧米諸国は協力しあってシリアとイラクに広がるイスラム国を本格的に空爆するための偵察飛行を続行しています。アメリカは既に単独で何度も空爆しています。トルコ、エジプト、サウジアラビアなどのアラブ諸国はこの欧米の攻撃には参加しないが、可能な限りの支援はすると決めています。

このような情勢ではイスラム国はいずれ消滅するでしょう。しかしそのためには数年にわたる戦争が中近東で行われるでしょう。

そこで問題は日本がこの戦争に巻き込まれないようにすることです。

イスラム国が消滅しても第二、第三のイスラム国が現れるのです。中東では宗教を利用した部族戦争がいつまでも続くのです。

欧米ではこの中東の乱戦を17世紀のヨーロッパ諸国を巻き込んだ三十年戦争の乱戦と同じようだと言われているそうです。先日の読売新聞の一面で、あるアメリカ人が中東の戦争は三十年戦争と同じだという長文の解説を書いていました。

そこで日本人が中東での戦乱を正しく理解し、その戦争に巻き込まれないようにするために「三十年戦争」の概略を以下にご紹介いたします。

簡単に言ってしまえばその戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。

それでは誰が誰と戦ったのでしょうか?それが判然としないのです。
勇気を出して簡略化して書けば以下のようになります。

ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。

しかしこれはこの戦争のほんの一面に過ぎません。実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。

この戦争は、道義もルールも皆無な傭兵が主体で行われました。
この傭兵たちがドイツの農民を殺し、略奪をしつくしたのです。ドイツ全土が傭兵たちによって荒廃させられたのです。
そして戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったのです。
人間の領土欲、権力欲、殺戮欲などの低次元な欲望が恥も外聞もなく発揮された戦争でした。ですからこの戦争は「ヨーロッパの闇」の一つなのです。

こんな戦争が1618年から1648年まで30年も続いたのです。
現在、中東で起きている乱戦はまさしく人間の領土欲、権力欲、殺戮欲による恥ずべき戦争なのです。

日本は絶対に参加してはいけません。安倍総理が集団自衛権を持ち出して後方支援として自衛隊を派遣すると言い出すでしょう。
しかしこのような馬鹿馬鹿しい戦争で日本人の血を流す必要などないのです。

それよりも中東に展開している日本人のボランティア達の安全を確保するのが急務です。イスラム国で殺されたイギリス人はNGOのメンバーだったと伝えられているのです。

30年戦争のことを知れば中東の戦争の本質が理解出来ます。その上で日本が参加しないようにしましょう。

写真にはこの三十年戦争に巻き込まれたローテンブルグの風景写真2枚と戦争で一部破壊されたハイデルベルク城の写真1枚をしめします。
写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/charomo/e/2c42d6c042d6fe6f8429fcc07bd93bac です。
民族衣装をまとった市民によるダンス :写真の出典は、http://allabout.co.jp/gm/gc/45500/ です。
三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城:写真の出典は、 http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg です。

末尾に少しだけ参考資料を付けました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

参考資料:
(1)世界史講義録( http://www.geocities.jp/timeway/kougi-65.html )「ドイツの混迷」
イギリスやフランスが絶対主義国家として中央集権化を図っているときに、ドイツでは内乱が起きていました。これが三十年戦争(1618~48)です。

(2)30年戦争の実態:( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 )

版画は、三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』(1632年)です。
十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いた。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからである。・・・・以下省略・・・・・