後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」

2021年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本にキリスト教が初めに入ってきたのは1549年でした。ザビエルが伝えたのです。しかしその後まもなく禁教時代が始まりました。
しかし明治維新の結果、ヨーロッパの文化が大々的に日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日にはミサに出ます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真はマリア様のフレスコ画とそれがある江の島、片瀬教会の外観と内部です。写真の出典は、http://neverslourdes.blog.fc2.com/blog-entry-354.html です。
このフレスコ画を描いたのは、長谷川路可(ろか=ルカ)という日本のクリスチャンです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「貧乏でもヨットの趣味を楽しむ、それは驚異の世界だ!」

2021年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の12月9日に 「貧乏でも趣味を楽しむ、それが人生を輝かす」という記事を掲載して私の山小屋に通う趣味をご紹介致しました。
今日は25年間打ち込んだもう一つのヨットの趣味をご紹介致したいと思います。私の生涯で本気で続けた趣味は山小屋とヨットの2つだけだったのです。
2つの趣味をとうして自然の魅力と恐ろしさを深く体験したのです。
特にヨットの趣味は非日常的な驚異の世界でした。想像もつかない世界でした。
自分で撮った写真に従ってご説明いたします。

1番目の写真は私が琵琶湖から買って来た初めてのヨットです。霞ヶ浦に係留していました。このYAMAHA19には1988年から1998年までの10年間乗りました。
ヨットの趣味の25年間を振り返ってみると、この趣味はいろいろな意味で厳しかったと感じています。75歳で一切止めてホットしている気分なのです。
何が厳しいかというと、強風で横倒しになる恐怖感が常にある趣味なのです。沖でエンジンが始動しなくなる恐怖があります。舵が壊れる恐怖があります。海上ではあらゆる危険があるのです。

2番目の写真はヨットが強風で横倒しになるのを防ぐ船底のキールを示す写真です。キールは重い鉄板で出来ていて横倒しを防ぐのです。
それでは何故こんな趣味を続けたのでしょうか。それは向かい風に対してヨットを登らせる時の快感があるからです。波が船体を叩く音、頬をなでる風の香り、そんなものが官能的な快感として体中に漲るのです。その快感は他のスポーツでは絶対に味わえないのです。
しかし向かい風がもう少し強くなると船体が横倒しになりそうになります。快感と恐怖が混然一体となります。実はこれこそがヨットの趣味の魅力なのです。それは驚異の世界だったのです。
このYAMAHA19の後で大きめのJoyluck26を買いました。

3番目の写真は長さ26フィートのJoyluck26です。シングルハンドで私が静かに乗っています。家内が岸壁から撮った写真です。船名はLUNAII世です。1998年から13年間霞ヶ浦で乗りました。
このヨットには大きなキャビンがあり炊事コーナーがついていました。
4番目の写真はキャビン内の炊事コーナーです。深い流しの右に2口のコンロがついていました。これで簡単な料理なら何でも作れます。キャビンには大人4人が寝れる設計になっています。暖かい夕食を作り家内と何度も泊まりました。湖畔の別荘のように使用したのです。
小型船舶操縦士免許取得のための講習を受け試験に合格しました。、江ノ島のディンギースクールで帆走技術を習いました。
ヨットをしていると自然に仲間が出来ます。ですから仲間のヨットで一緒に外洋でも帆走しました。

5番目の写真は富士山の遠景と駿河湾のヨットの係留地の写真です。

ヨットの趣味は驚異の世界だったのです。そして金持ちでなくても普通の暮らしなら出来る趣味なのです。
写真1のYAMAHA19は中古でした。100万円で買いました。写真3のJoyluck26も中古です。100万円でした。そして霞ヶ浦の県営の岸壁に係留し年間2万円でした。この係留料は湘南海岸なら年間150万円くらいです。
このように中古のヨットを湖に係留すれば貧乏でもヨットの趣味を楽しむことが出来るのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「終戦前後の茶の間の写真と東北本線、東海道本線の旅」

2021年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦前後をまたいで私は小学生でした。その頃の思い出は次の2つの記事に書きました。「会ったことの無い祖父と宮戸島のいろいろ」と「山里のお寺の子供僧になった不思議な体験とアイスクリーム」。
今日はまず子供の頃の我が家の茶の間に似た写真を示します。その頃の日本の家の茶の間の様子です。そして仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きます。東北本線の蒸気機関車の旅と東海道本線の特急つばめ号の旅です。写真に従って書き進めたいと思います。
1番目の写真は子供の頃の我が家の茶の間によく似た写真です。当時は日本の家の茶の間はこんな様子でした。茶箪笥の上にはラジオがあり柱には振り子のついた時計が掛かっていました。写真では押し入れが開けてあり上の段に布団が沢山積んであります。夕食が終わり寝る時になったら卓袱台を畳んで布団を敷いて家族みんなで茶の間に寝るのです。もちろん金持ちの家は別に寝る部屋がありました。しかし当時の暮らしは一般に質素なものだったのです。私も茶の間に寝ました。
そして当時は車が現在のように普及していませんでした。ですから旅はもっぱら汽車の旅でした。蒸気機関車や電気機関車に引っ張られた列車に乗って旅をするのです。
2番目の写真は当時よく客車を牽引していたC57という蒸気機関車です。
夏に仙台から兵庫の祖父のお寺へ行くとき東北本線で何度も乗った汽車です。とにかく煤煙が酷いのです。夏なので客車の窓は全て開けてあります。冷房装置など一切無い時代でした。仙台から上野に着く頃は顔やシャツが煤煙で真っ黒になるのです。トンネルに近づくと一斉に窓ガラスを下ろします。
3番目の写真はD51という機関車に牽引された汽車です。当時、東北本線で何度か乗ったのです。C57とD51は同じように見えますが設計が違うのです。C57には日本で最大の直径を持っていた動輪が3つ着いています。D51には小さめの動輪が4つ着いているのです。小学生だった私は汽車の先頭の機関車を興味深く観察しました。現在の子供には興味の無いことかも分かりませんが、忘れられない思い出です。
4番目の写真は東京駅です。
あれは昭和17年の夏の事だったと思います。東京駅の中央通路に白いタイル貼りの円形水槽がありました。百匹くらいの小魚が群れをなして円周に沿って一斉に泳いでいるのです。連戦連勝で日本中が湧いていた頃です。
泳いでいた小魚の群れは鰯だったのか、ハヤなどの淡水魚だったのか分かりませんが、85歳の現在でも鮮明に思い出しています。
翌年、昭和18年夏、魚の群泳を楽しみにして東京駅中央通路へ行くと、無いのです。魚が一匹も居なく、空の白いタイルの水槽があるだけです。戦争が負け始めたので、魚の水槽どころではなくなって来たです。
5番目の写真は東海道本線で時々乗った特急つばめ号です。EF55という電気機関車が牽引していました。当時は昼行特急は「つばめ」が1往復しかない貴重な列車でした。切符の入手が非常に難しく時々しか乗れませんでした。普通は急行でした。ですから幸運にも特急「つばめ」に乗れた時は有頂天になるほど楽しかったのです。

6番目の写真は特急つばめ号の最後尾についている展望車です。展望車は特別で上流階級の社交場のような雰囲気だったそうです。私は入ったことがありません。当時は日本にも階級制度があったのです。今日からはとても想像がつきませんが。

今日はまず子供の頃の我が家の茶の間に似た写真を示しました。そして当時の日本の暮らしの様子を説明しました。その後で仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きました。東北線の蒸気機関車の旅と東海道線の特急つばめ号の旅です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「雪中のクロッカス、ローズマリー、デンドロビウム、カランコエの写真をお贈り致します」

2021年12月09日 | 写真
写真は順々に雪中のクロッカス、ローズマリー、デンドロビウム、カランコエの花です。
写真の出典は、https://garche.jp/cultivation/tlqmz/ です。





「貧乏でも趣味を楽しむ、それが人生を輝かす」

2021年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム
自分は金持ちでないが持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信しています。
今日は私の山小屋へ通う趣味のことを書いてみたいと思います。
お金持ちになろうと考えないで下さい。あるお金だけで趣味を持つことで幸せな人生になるのです。その為の最小の出費を惜しんではいけません。
私は中年の頃に山林の中に小屋を作りました。甲府盆地の西端の甲斐駒の麓の山林です。私は自然へ対する憧憬が強かったのです。

1番目の写真は甲斐駒とその麓の山林の中の小屋に上がる道です。ここから2Kmほど登ると私の小屋があります。

2番目の写真は私の趣味の小屋です。6畳と4畳半の2間の小屋です。1975年に建て増築もせず通っています。
山林の中の小屋の周囲2Kmは人家がありません。何をしようが全く自由です。そこで自分でいろいろなものを作りました。手製の木造の風呂場と大きな焚火小屋やお客がとまれるようなバンガローなどを自分で作りました。
東京では見っとも無いものを作ると近所へ恥ずかしいので勝手なことは出来ません。
一つの例として自分で作ったバーベキュー用の炉を示します。小屋の庭の小川のそばに2つ作りました。
3番目の写真は手製のバーベキュー用の炉です。
まだ完成していません。形をもう少し綺麗に仕上げて、来春水が氷らないようになったらコンクリートで固めようと思います。
以前は焚火が禁止されていなかったのでこの炉で焚火をして残った炭火でバーベキューをしたのです。近所に鱒の養殖場があったので肉類だけでなく鱒もバーベキューにしました。そして小屋の中では薪ストーブを楽しみました。

4番目の写真は薪ストーブが燃えている光景です。この薪ストーブは札幌から買って来ました。こんな汚いストーブでも外が零下10度以下になる寒い冬の夜は絶大な威力を発揮します。まったく見かけのよらない頼もしい存在なのです。
そして小屋の庭では電気釜で美味しいご飯を炊いたこともあります。

5番目の写真はご飯が炊き上がった電気釜をテーブルの上に乗せている場面です。それまでは電気釜という文明の利器を小屋で使ったことがありませんでした。
山の友人の木内さんを招んで、青空の下で家内と3人で昼食を楽しんだこともあります。

6番目の写真は野外の食卓です。家内と昼食をした時の写真です。
その時は初冬だったので丘の稜線に立つ雑木林が落葉し、向こう側の青い空が見えていました。
テーブルの足元には清らかな水音をたてて小川が流れています。昼食は炊き上がったばかりの鶏飯だけです。お茶と漬物だけの質素な食事です。
鶏ご飯の準備は前日に自宅で丁寧にしました。鶏肉、ゴボウ、シイタケ、ニンジン、油揚げを刻み濃い味で煮て持って行きます。茶飯が出来たら混ぜるのです。鶏ご飯を丼に盛り、上に卵焼き、サヤエンドウ、紅ショウガ、刻み海苔をかけて出来上がりです。

山林の中の小屋を通うのが私の長年の趣味でした。そう人に言うと、「私には別荘を持つ余裕が有りません」と答える人が多いのに吃驚します。
それは好奇心の欠如です。そのような発想方法では趣味で人生を輝かせることが難しいと思います。
ある時、筆と墨だけで古新聞紙に見事な書を書く人を見たことがあります。子供へ書道を教えている人でした。子供の持ってきた粗末な筆を取り、墨汁をたっぷり浸けて、一気に書いた文字の躍動感に吃驚したことを思い出しています。書の趣味はごくささやかな出費で楽しめるのです。
趣味はお金をかけだしたらキリが有りません。どんな趣味でもお金をかけだしたらキリが有りません。
自分が貧乏であるとしっかり認識する。賢い工夫と想像力で趣味の世界を豊かにする。出費は最小限にする。
貴方自身の想像力と何かへ対する憧憬の心があれば人生が輝きだすのです。

皆様は趣味をお持ちでしょうか?どの様な境地で楽しんでいらっしゃいますか?毎日が輝いていますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「東京都の八丈島に冬でも咲く花」

2021年12月08日 | 写真
2009年の冬に八丈島を訪れました。
真冬でも緑溢れている島を車でゆっくり回りながら道端の花の写真をとりました。鶯や奇麗な声の鳥がしきりに啼いていました。
強風で黒雲の流れる毎日でしたが汗ばむような気温です。そんな旅を懐かしく思い出しながら八丈島に冬でも咲く花の写真をお送りいたします。真紅のアロエとハイビスカスです。




「曹洞宗のお経の大悲心陀羅尼の意味」

2021年12月08日 | うんちく・小ネタ
仏法僧の三宝に帰依し奉る。
大悲者なる聖観自在菩薩に帰依し奉る。
おお、一切の恐怖を除去し給う者に帰依し奉る。
已に聖観自在菩薩に帰依し終わり、
私はまさにこの光輝ある観音の真言を宣説す。
この真言は、一切の願いを満足させ、
一切の鬼神も打ち勝つことが出来ない。
迷える衆生が清浄になる真言である。・・・

以下は、【現代語訳】大悲心陀羅尼、https://sousei.gr.jp/8617/ に続きます。

読経の映像は、https://www.youtube.com/watch?v=gbxgY8BquHY にあります。


「冬でも咲く温室の中の熱帯植物の花々」

2021年12月08日 | 写真
最近は寒い冬の日が続いています。あちこちの植物園は寒風の中で冬枯れの景色です。花もありません。
しかし植物園の温室の中には熱帯植物の花々が咲いているのです。
日本には植物園と名のつく施設は300以上存在するのです。「日本の植物園」で検索すると沢山出て来ます。
そこで温室の中に咲く熱帯植物の花々の写真をお送りします。

1番目の写真は神秘的な色合いのヒスイカズラです。

2番目の写真はエクメア・ファッシアータです。ピンクの苞は長く美しさを保ちます。

3番目の写真はグレビレア‘ムーンライトです。開花するとこんなブラシのような姿が見られます。

4番目の写真はデンファレです。ランの一種で温室でカトレアや胡蝶蘭やオンシジウムなどと共に咲きます。

写真の出典は、https://gardenstory.jp/gardens-shops/21949 です。

「山里のお寺の子供僧になった不思議な体験とアイスクリーム」

2021年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは小学生の4,5年の頃、終戦直後のことでした。父方の祖父が住職をしていたお寺の小僧になったのです。夏の1ケ月の間だけ毎日意味も分からないお経を本堂で唱えるのが日課でした。誰もお経の意味を説明しないのでチンプンカンプンの呪文のようでした。大人になってから思い出して調べました。般若心経と観音経と大悲心陀羅尼 の3つを唱えていたのです。特に大悲心陀羅尼 はインドの古語の音を漢字で表現したものなので今でも意味が分かりません。
そのお寺は曹洞宗で兵庫県の山がちな小さな集落にありました。小高い場所に建っていたので集落の農家や水田が箱庭のように見下せました。集落の農家は全てお寺の檀家です。家々には金色に輝く立派な仏壇があります。写真を示します。
1番目の写真は私が夏の間だけ子供僧になった田舎のお寺によく似た寺の写真です。正面の石段を登ると本堂があり右に庫裏がありました。左には鐘楼があり朝夕鐘の音を下の集落へ送っていました。この写真は「山里のお寺の写真」を検索して多くの写真から選びました。非常によく似ている寺の写真を選んだのです。
2番目の写真はお寺から見下ろした集落の風景に似た写真です。この写真は「山里の風景写真」を検索して多くの写真から選びました。集落の家は全て祖父のお寺の檀家でした。米や野菜を寄進してお寺の一家の暮らしを支えているのです。日本の伝統文化です。
3番目の写真は寺の本堂での法要の様子です。私も小坊主として後ろの方に座り知っているお経を一緒に唱えました。この写真は「お寺の法要の風景写真」を検索して多くの写真から似ているものを選びました。

4番目の写真は毎年夏のお盆に行う施餓鬼供養の写真です。近隣のお寺から僧侶に来てもらい太鼓や銅鑼を打ち鳴らし賑やかな供養でした。この写真は「施餓鬼供養の風景写真」を検索して多くの写真から選びました。

さてこの夏の間だけの小僧体験で一番印象深かったのは檀家一軒一軒を回ってその仏壇にお経を上げたことでした。私とすぐ下の弟が子供用の墨染の衣を着ます。復員してきた叔父が紫色の豪華な衣を着て小坊主二人を従えて檀家回りをするのです。仏壇へお経を唱えると、その後に冷たいソーメンがでます。紫色の豪華な衣を着た叔父が気取って少しだけソーメンを食べます。どの家もソーメンを出すので少しだけ食べます。
そしてお布施をくれるのです。大きな紙包みと小坊主にために小さな紙包みを2つお盆にのせて差し出します。どの家も差出します。叔父は大きな紙包みを取って残りは小坊主が頂きます。
こうして私は人生で初めてお金を稼ぎました。
しかし稼いだお金は大阪からから仙台までの汽車の旅で使いはたしたのです。駅駅で弟とアイスクリームを買って舐めて使い果たしたのです。
自分で稼いだお金だったので一層アイスクリームが美味だったのです。あんなに美味しいアイスクリームはその後二度と会えません。

当時の東海道線で花形だった流線形の特急つばめに乗って食べたアイスクリームは私の邯鄲の夢で忘れられないものになったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「冬に咲く花、3種の貴重な花」

2021年12月07日 | 写真
冬に咲く花、3種の貴重な花です。

1番目の写真はロウバイです。ロウバイはロウ細工のような黄色い花を咲かせる中国原産の落葉低木です。冬に香り高い花を咲かせる貴重な存在です。中国では、ウメ、スイセン、ツバキとともに「雪中の四花」として尊ばれています。

2番目の写真はスノードロップです。スノードロップは雪があるほどの寒い時期から可愛らしい純白の花を咲かせる球根植物です。

3番目の写真はオキザリスです。オキザリスは、夏植えか秋植えにすると秋から冬にかけて花を咲かせます。耐寒性のある品種と弱い品種があります。

「シクラメンが美しく咲く季節になりました」

2021年12月06日 | 写真
毎年今頃になると家内とシクラメンの鉢植えを買いに行きます。つぼみが次々と咲き、来年の4月末まで楽しめます。
栽培農家へ買いに行ったりしましたが、数年前からコーナンの三鷹店へ買いに行くことにしています。品質が良くてみずみずしい花が沢山並んでいます。
今日は先日撮ってきたシクラメンの花々の写真をお送りいたします。お楽しみ下さい。




「老境になると蕎麦の味と、種々の宗教の違いが分かる」

2021年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
蕎麦の美味しさがわかる人は粋な人という考え方もあります。種々の宗教の奥深さがわかる人は知恵のある人です。若い人でもどちらも分かる人もいます。しかし人間は老境になるとどちらも自然に分かるようになります。私も特に勉強しませんでしたが年老いると自然にそうなったのです。運良く長生き出来たことに感謝しています。
そんな事なので今日は蕎麦の美味しさと宗教の違いや奥深さについて書いてみます。宗教の奥深さとはあまり抽象的過ぎますので、一例として妙見信仰だけを取り上げて書き進めて行きます。
私は若い頃は蕎麦やうどんはお米のご飯の代用食という固定観念を持っていたのでなるべく敬遠していました。戦中、戦後の食料難の時代を経験しているので、白いご飯にあこがれていたのです。お米の代用食はそば、うどん、じゃがいも、さつまいも、コーリャン、などなどでした。
ところが東京に住みはじてみると蕎麦の味がわかる人を尊敬する文化があるのです。これには少なからず驚きました。江戸時代のなごりでしょうか。
通ぶってつゆを少しだけつけて蕎麦を粋に食べる人もいます。そして美味しい蕎麦の打ち方について薀蓄を披露するのです。
蕎麦の栽培地と天候による味の相違、石臼で挽くときの速度、粉の練り方、打ち方、切り方、ゆで方、などについていろいろ聞きました。ですから美味しい蕎麦のつくりかたの理屈はすっかり暗記しています。
しかしソバは所詮ソバに過ぎません。鰻の蒲焼、黒毛和牛のステーキにはかないません。はっきり言えばまずい食品です。それが証拠には美食趣味の京都、大阪の人々はあまり尊重して食べません。箱根の関から西の方ではソバは主流でないのです。
ところが70歳を過ぎた頃から蕎麦が美味しいと感じるようになってきたのです。美味しいと言われている蕎麦屋を訪ねたり、現在は一週間に一度は信州の生蕎麦を買ってきて、ザルソバで食べています。
深大寺の門前には美味しい蕎麦屋があります。相模湖のそばにも「喜庵」という美味しい蕎麦屋があります。よく行った店なので「喜庵」の3枚の写真を示します。以前家内が撮った写真です。主人が箱根駅伝に4回出場した駒澤大学の選手だったと聞いて、ランニングが趣味の彼女はたいそう喜んでいました。
1番目の写真は「喜庵」の主人が蕎麦をを茹でている場面です。
2番目の写真は「喜庵」の店内風景です。

3番目の写真は「喜庵」のザル蕎麦とモリ蕎麦です。
老境にいたると好みの料理も変化しますが、ものの見方や考え方も変わります。
特に宗教の奥深さが少しずつわかってきます。宗教を信じればご利益があり、幸せになれるという段階の奥に、自己中心の世界ではなく神中心の宇宙が広がっていることが分かるようになってきます。
人間の小さい存在が感じられます。そして自分の人生は一朝邯鄲の夢に過ぎないと実感できるのです。

宗教の奥深さの一例として次に妙見信仰をご紹介したいと思います。
この信仰は道教の北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰であり、日本では仏教と混淆し、北辰妙見菩薩に対する信仰に変化したのです。
この北極星信仰は、その動かない星が北の空にあって宇宙の全てを支配する最高神すなわち天帝として崇める宗教なのです。そして北斗七星は天帝の依頼を受けて人間の行状を監視し、その生死や禍福を支配しているのです。
下の写真に北極星の写真と北斗七星とカシオペア座と北極星の位置関係を示しています。

4番目の写真は北極星と北斗七星の位置を示す図です。
この妙見信仰は推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われています。
奈良の明日香にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入ってきた証拠と言われています。
正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代には北辰信仰が入っていたと考えられています。
この北辰信仰が時代とともに仏教と混淆して、妙見信仰へと変化していったのです。
私的なことで恐縮ですが、私の祖父が住職をしていた兵庫県の曹洞宗の正林寺に行くために何度も乗った能勢電鉄の終点が能勢の妙見さんでした。本尊さんは北辰妙見菩薩なのです。
その関係で能勢の妙見さんのことは昔から知っていた懐かしい場所なのです。
この妙見信仰のお寺は能勢氏が1600年頃に建立したものです。そして能勢氏は日蓮宗の信者だったので法華経の守護神の北辰妙見菩薩をご本尊にしたのです。
私の住んでいる小金井市の近所の稲城市にこの妙見信仰の寺があります。
私が撮って来た写真を2枚示します。

5番目の写真は北辰妙見尊を祀る神社の鳥居と北辰妙見寺の山門の写真です。

6番目の写真は本堂です。この北辰妙見寺は天台宗のお寺になっています。

今日は老境になると蕎麦の味が分るようになり、宗教のことも深く理解出来ることを書きました。宗教の一例として妙見信仰を説明いたしました。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘