後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「真珠湾攻撃の特殊潜航艇の9軍神と生き残った坂巻少尉のその後」

2023年01月18日 | 国際・政治
真珠湾攻撃では、ゼロ戦による空襲を思い浮かべる方は多いと思いますが、海の中からも攻撃が行われていました。

1番目の写真は’海軍特別攻撃隊’’の特殊潜航艇です.。前方から見た特殊潜航艇です.。「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカ・コネチカット州)にて展示。

この’’海軍特別攻撃隊’’は特殊潜航艇(別名甲標的)という小型の潜水艦に乗り込み真珠湾に出発します。

5隻特殊潜航艇に2人ずつ乗組み、未帰還となった海軍中佐、岩佐直治ら以下の9名が「特別攻撃隊の偉勳」として9軍神とされたのです。

9軍神は以下のとおりです。
岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

2番目の写真は9軍神です。

潜航艇は1隻2人乗りで、生存者の酒巻和男少尉は捕虜となったのだが、大本営発表ではこの事実は伏せられました。

しかしVOAの報道により実態は日本では密かに流布されていました。

100隻の特殊潜航艇を作り、訓練が行われた愛媛県伊方町の三机湾には慰霊碑が設置されています。

以下は青木弘亘のプロジェクトページ、https://otsucle.jp/cf/project/3419.html から抜粋です。

「真珠湾奇襲攻撃 酒巻和男の手記」(増補復刻合本改訂版)

酒巻和男さんは、徳島県阿波町馬場の生まれ。

脇町中学校を卒業後、海軍兵学校に入学。

昭和15年に海軍兵学校を卒業。

少尉任官と同時に水上機母艦「千代田」に配属される。

昭和16年の4月から三机湾で特殊潜航艇の訓練を開始。

1945年12月の真珠湾攻撃の際に米軍の捕虜となり、4年間の捕虜生活を送る。

昭和21年に帰国後はトヨタ自動車工業に入社し教育訓練・輸出関係に従事。

その後、14年間ブラジルトヨタ社長を務める等、戦後日本の復興発展の最前線で約40年にわたり企業戦士として献身的に活動しました。

3番目の写真はブラジルトヨタ社長時代の酒巻和男氏です。

定年退職後、関連会社の豊田総建社長を勤め、昭和60年に退社。

平成11年、81歳で生涯を閉じる。

戦争になると実にいろいろな攻撃方法が考え出されられるのです。戦争は本当に悲劇です。嗚呼。

「日本の歴史(19)日本の運命を大きく変えた太平洋戦争」

2023年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争は日本の歴史の中で一番大きな出来事でした。1945年の日本の敗北によって日本の政治、社会、文化が根底から変革されたのです。アメリカ流の民主国家に生まれ変わったのです。
今日はこの太平洋戦争の経過を簡略に書いてみたいと思います。
太平洋戦争は、1941年から始まった戦争であり、第二次世界大戦のアジアでの戦いでした。
この戦争は日本とアメリカ合衆国との戦いで始まり、すぐに日本とアメリカ、イギリス、中国、オランダ、オーストラリアなどの連合国の間の戦になったのです。
1945年8月15日に連合国が勝利して終わります。日本政府が降伏文書の署名した9月2日が正式な終戦の日となります。さてこの大戦争の経過を見てみましょう。
以下は次の各資料の抜粋です。これらの詳細な資料の執筆者へ感謝の意を表します。
1,太平洋戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89 
2,真珠湾攻撃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
3,仏印進駐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90
4,マレー沖海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
(1)仏領インドシナ、ベトナム、ラオス、カンボジアの日本による事前占領
太平洋戦争が始まる前の1940年から1941年にかけて日本は仏領インドシナだったベトナム、ラオス、カンボジアを軍事占領します。
これが仏印進駐です。第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことをです。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられます。1907年に締結された日仏協約が事実上無効化し、南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらし、太平洋戦争への回帰不能になりました。
1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めました。そして1940年に北部仏印進駐が始まったのです。

1番目の写真はベトナムのサイゴンに進駐する日本軍です。
フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告しましたが日本側の対応はかえって激しいものとなります。結局、仏領インドシナだったベトナム、ラオス、カンボジアは日本によっ占領されたのです。

(2)真珠湾攻撃で太平洋戦争の開戦
1941年12月8日です。7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田が各機に対して「ト」の連送で、「全軍突撃」を下命します。
7時52分、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電しました。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号です。この電波は広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営へも到達します。


2番目の写真は発艦直前の翔鶴の飛行甲板です。

3番目の写真は赤城から発艦する零式艦上戦闘機です。
航空機による攻撃は7時55分に急降下爆撃隊がフォード島のウィーラー陸軍飛行場へ250 kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となりました。
ホノルル海軍航空基地作戦士官のローガン・ラムジー中佐は7時55分ごろに基地に対して急降下してくる航空機の耳をつんざく音に気が付き、近くにいた当直士官の大尉に「あいつの機体番号を調べろ。あいつの安全ルール違反を報告しなきゃならん」と命令しなす。その航空機はさらに突っ込んできたため、ラムジーは「機体番号はわかったか?」と当直士官に聞いたが「いや、わかりません。赤のバンドがついてるから隊長機と思います。」という返答があった。ラムジーが苦々しい顔をしていると当直士官が「急降下爆撃機が機体を引き起こして上昇するとき何か黒いものが落下しました。」と報告した瞬間に凄い爆発音が格納庫の方で鳴り響きます。
ラムジーは表情を強張らせ「ディック、飛行隊長を調べる必要はない、あれは日本の飛行機だ」と叫ぶと、無線室に向かって廊下を走り、当番兵に次の電文を平文で打てと命じたのです。(真珠湾空襲さる ※これは演習ではない)
こうして太平洋戦争が始まったのです。

4番目の写真はアリゾナの弾薬庫が誘爆した瞬間です。

(3)真珠湾攻撃と同時に東南アジアの軍事侵攻と占領
軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、太平洋戦争全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書『対英米蘭蔣戦争 終末促進に関する腹案』です。「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」。
戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていのです。
そして「マレー作戦」を真珠湾攻撃と並行して進めたのです。
最初に、日本陸軍の上陸部隊を載せた船団が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分に上陸し、海岸線で英印軍と交戦します。
イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれたのです。
日本軍はほぼ同時にタイにも上陸し、タイ側と戦闘を行い日本軍のはタイに進駐しました。また近衛師団も8日仏印から陸路タイに侵入しました。
日本軍を迎撃しようとしたイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」は、仏印から発進した日本海軍陸上攻撃機による雷撃と爆撃で撃沈された(マレー沖海戦)。

5番目の写真は日本軍航空部隊の攻撃を受ける英海軍のプリンス・オブ・ウェールズ(右上)とレパルス(左下)です。

6番目の写真は戦艦プリンス・オブ・ウェールズです。
マレー沖海戦は太平洋戦争の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘でありこれが東南アジア諸国の軍事占領の出発点になったのです。日本海軍航空隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈したのです。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の事例でした。

今日は太平洋戦争の前半部分の経過を書きました。日本軍が勝っていた太平洋戦争の前半部分です。しかしこの後日本の運命は暗転するのです。明日の続編で書きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「武蔵野に幾つもある清冽な湧水の泉たち」

2023年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野は平野ですが土地が高低していて雑木林の中に幾つも泉が散在しています。その泉から清冽な水が湧き出ています。夜も昼も絶え間なく美しい水音が聞こえます。私はそんな泉が大好きです。時折り湧水の傍に行ってぼんやり眺めています。老境の幸せな時間が静かに流れていきます。
今日は武蔵野の泉をご紹介したいと思います。折に触れ訪れては家内が撮った写真でご紹介します。
まず国分寺崖線の下に湧き出ている泉です。泉とか湧水には何かロマンを感じます。
滔々と湧き出る清い泉は必ずや昔の縄文時代の人々を支えて来た筈です。奈良、平安、江戸と時代が流れ人々が農業をするようになると、これらの湧水はかけがえの無いものになりました。そのような泉の周りに集落が出来たに違いありません。姿見の池をご紹介します。

1番目の写真が国分寺市の「姿見の池」の風景です
かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。 現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えらています。文学作品にもよく登場する名所です。
平成10年度東京都と国分寺市は、池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」 として整備しました。かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。

次はお鷹の道にある「真姿の池湧水群」です。国分寺市東元町3丁目・西元町1丁目にあります。
1748年(寛延元年)から国分寺は徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となりました。
武蔵野台地の崖下の泉と清流の脇に小道が整備され、これを「お鷹の道」と呼ぶようになったのです。

2番目の写真はお鷹の道にある「真姿の池」の風景です。下流で野川に流入し多摩川へ流れ出ています。

さて国分寺市の東隣の小金井市には貫井弁天神社があります。その裏手で幾つかの泉があり湧き出していのが貫井弁天神社湧水群です。国分寺崖線が小金井まで延び、その崖下からコンコンと湧き出ているのです。

3番目の写真は小金井市の貫井弁天の裏で幾つかの泉からの湧水を集めて流れている水路です。

4番目の写真は貫井弁天の湧水で出来た深い池の風景です。
このような泉のそばに人が住みついたのです。畑作や稲作の時代になると湧水群の周囲に農地が出来、集落も出来ました。
国分寺市でも小金井市でも崖線の下側に昔から農村がありました。崖の上の台地には開発されない時代が長く続いたのです。
次に武蔵野台地の湧水で出来た善福寺池と富士見池をご紹介したいと思います。
現在の善福寺公園や武蔵関公園や石神井公園や井の頭公園などは皆湧水で出来た自然の池を中心にしています。

5番目の写真が善福寺池の風景です。
善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られ、江戸時代には、貴重な水源ででした。またこの池は遅野井池とも呼ばれ付近一帯の上井草村は別名遅野井村とも言わていました。
善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来しています。しかし現在、近所に「善福寺」という寺がありますが、それは福寿庵という元々違う名前だった寺です。後年地名をとって改名したお寺です。

6番目と7番目の写真は武蔵関公園の富士見池の風景です。
武蔵関公園は大正時代に私設公園としてボート場や遊具施設などが整備され、1938年10月に東京市立公園として開園したそうです。
池には西側と東側に「葦の島」と「松の島」という島があり、葦の島は春先に花ダイコンが咲き一面紫色になります。
冬は青空ながら寒い北風が吹いていたので人影も少なく、静かな池の風景です。

今日は武蔵の泉と湧水で出来た池をご紹介いたしました。「姿見の池」、「真姿の池」、「善福寺池」、そして「富士見池」などをご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「真冬にはなやかに咲き誇る蠟梅の花」

2023年01月16日 | 写真
隣町の府中市に広大なロウバイの花園と梅林があります。
府中市郷土の森博物館の庭が広くて梅林や里山があります。
梅林とロウバイの花園は小高い丘の上にあります。

その写真をお送り致します。
真冬にはなやかに咲き誇る蠟梅の花です。

「日本の歴史(18)日本の外国侵略時代の始まりの日清戦争」

2023年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の歴史を見ると国内では合戦が絶えませんでした。しかし明治維新で国内の戦争は西南戦争を最後にてその後はなくなりした。国内は平和になったのです。しかし明治維新後の日本は外国との戦争の時代に突入したのです。日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、ノモハン事件、太平洋戦争と続いたのです。
今日はこの戦争の時代の始まりの日清戦争のことを書きたいと思います。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて大日本帝国と清国の間で行われた戦争でした。
日本は240,616人の兵力を投入し、清国は630,000人の兵力を投入しました。日本は戦死 1,132人、戦傷病 3,758人であり一方清国は死傷 約35,000人でした。

1番目の写真は日本軍歩兵の一斉射撃です。
(1)日中戦争の開戦と経過
資料、http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp71.html から抜粋します。
1894年7月25日の朝、既に海上では日清両軍の戦端が開かれました。仁川に向かう日本の軍艦「吉野」「浪速」「秋津島」と、清国の軍艦「済遠」「広乙」が豊島沖で遭遇して激突したのです。これを豊島沖の海戦といい、清軍は「済遠」が退却、「広乙」は座礁大破という損害をこうむりました。
そして8月1日に日本は正式に宣戦布告し、9月8日に大本営を広島に設置。同15日には明治天皇も広島に到着します。
一方、清には、ドイツ製の最新鋭の軍艦「定遠」(7400t、主砲30cm砲4門搭載)や、「鎮遠」などを擁する北洋艦隊がある一方、日本の主力艦はフランス製の「松島」(4300t、主砲32cm砲1門搭載)であり、海軍力は清が有利だと世界は見ていました。

2番目の写真は海戦の行われた場所を示す地図です。
9月15日には日本の陸軍が清国の拠点である平壌を総攻撃し、翌日に陥落。
さらに9月17日、黄海海戦によって、伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻の連合艦隊と、丁汝昌提督率いる北洋艦隊、「定遠」「鎮遠」以下12隻+水雷艇2隻が交戦。連合艦隊は単縦陣(一列縦隊)、北洋艦隊は傘型横陣形で激突し、連合艦隊が北洋艦隊5隻を沈めるなど、勝利を収めます。
そして戦いは中国へと舞台が移り、11月21日に大山巌大将率いる陸軍第2軍は、1日で北洋艦隊の旅順要塞を陥落させます。ただし、この攻略後に市民の虐殺が行われたとアメリカで報道され、アメリカと条約改正交渉中だった陸奥外相は弁明に追われることになります。
続いて翌年2月4日・5日、海軍は残存する北洋艦隊が守る威海衛に対して、水雷艇で夜襲をかけ、「定遠」を大破、「来遠」「威遠」ほか1隻を撃沈しました。これにより北洋艦隊の提督の丁汝昌は部下の助命を日本側に要請し、自殺しました。これによって清の敗北は決定的になりました。

(2)下関条約で停戦
1895(明治28)年3月20日、山口県の下関にて、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光と、清国全権の李鴻章(1823~1901年)との間で第一回目の交渉が行われます。李鴻章は直ちに休戦するよう申し入れますが、伊藤首相は軍部の戦争継続方針を鑑みて、もう少し占領地の拡大を狙っていました。
ところが3月24日、李鴻章が小山豊太郎という自由党の壮士にピストルで狙撃されるという事件が発生。幸い、李鴻章は一命は取りとめたものの、これは日本の警備の大失態です。すぐさま休戦交渉に入り、30日に休戦。4月17日に下関条約(日清講和条約)が結ばれます。
その内容とは・・・。
 1.朝鮮の独立を認める。
 2.遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲る。
 3.賠償金2億両(当時の日本円で約3億1000万円)を日本へ支払う。
 4.新たに重慶、蘇州、杭州、沙市、の4つの港湾都市をひらく。
 というもの。これにて日清戦争が終了しました。

3番目の写真は講和会議が行われた春帆楼の会議室です。会議の様子が再現された日清講和記念館があります。写真右手に李鴻章ら、左手に伊藤博文、陸奥宗光、伊東巳代治が座りました。

(3)ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉
講和条約に対して、南下を狙うロシアが反発。ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するよう日本に要求します(三国干渉)。当時の日本は、ロシアと敵対するだけの力は無く、この要求を認めます。そして、ロシアは遼東半島の旅順と大連を中国から租借することに成功。これには日本の国民全体がロシアへの敵意を燃やすようになり、臥薪嘗胆が合言葉になります。以後、軍備拡張でロシアに対抗する力をつけることになります。
ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借し、中国は列強によって領土が切り取られていくことになりました。また、日本は台湾経営に乗り出しますが、現地では台湾民主国の建国が宣言され、日清戦争よりも多い戦死者を出すほど現地の激しい抵抗に遭い、1915年まで制圧に時間がかかります。それでも日本は、台湾総督府を置いて本格的な統治を開始しました。

4番目の写真は旧台湾総督府です。現在も残る台湾総督府の建物は1916年の完成。中華民国(台湾)の総統府と3062.jpg" border="0">して今も使用されています。
以上が日清戦争のあらましです。日本は清国に勝って台湾を領有したのです。この成功体験で日本は対外戦争の夢を大きくすたのです。その後の外国との戦争へと日本は突き進んだのです。大きな不幸の始めのキッカケになりました。

今日は日本の外国との戦争の時代の始めになった日清戦争のあらましをご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「涙を誘う義経の腰越状、でも頼朝は許さない」

2023年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
江ノ電の腰越駅を降りて5分ほどの踏切を渡ると、満福寺という小さな寺が現れます。義経は1185年、壇ノ浦で戦功を挙げたにもかかわらず、鎌倉入りを拒まれ、弁慶とともにこの寺に滞在したのです。
そして涙を誘う腰越状を兄の頼朝へ書いたのです。
公文所の長官の大江広元あてに送り、頼朝に届けるように頼んだのです。「腰越状」は以下のようなものです。
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「腰越状」
 義経、恐れながら申し上げたいことは、鎌倉殿の御代官の一人に撰ばれ、天皇家の使いとなって、朝敵平家を滅ぼし、先祖代々から弓矢術を奮い、父の敵を討ちました。
 褒めてもらえるところを、思わぬ告げ口で、大きな手柄も無視されました。
 罪もないのに罰を受け、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受け、残念で血の涙にふけっております。
 よく考えてみると、良薬は口に苦く、忠言耳に逆らうと、古人の言葉にあります。
 告げ口をした者を正さずに私を鎌倉へ入れないのでは、心のうちも話すことができず、むなしい日々を送っております。
 長く、情け深いお顔にもお会いできず、兄弟の情はないのと同じようです。
 私の運もこれまでなのでしょうか。
 それとも、前世で悪い行いがあったためでしょうか。
 悲しいことです。
 亡き父が再びこの世に現れて下さらないかぎり、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また哀れんでもらうこともないのでしょうか。
 昔の出来事を話すようになりますが、義経は父母からこの身体を授かり、間もなく父を亡くして孤児となり、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ赴いてから、一日たりとも安全な日々はありませんでした。
 どうにもならない命と考えながらも、京都では動乱がつづき、身の危険もあったので、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していました。
 都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていました。
 しかし、時機が熟して、平家一族を追討するために京都へ上り、まず木曽義仲を討ち取りました。
 更に平家掃滅のため、ある時は険しい岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。
 ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めて鯨の餌になってしまうこともいとわず奮戦しました。
 甲冑を枕とし、弓矢を仕事としました。
 私の本意は、亡き父の憤りを鎮めるという、かねてからの念願を叶えることのみです。
 そればかりか、義経が五位の検非違使に任命されたことは、源家の面目が立てられためったにない出世です。
 そうはいっても、今は悲しみが深く胸が締め付けられそうな気持ちです。
 神仏の助けを借りる外に、どうしたらこの苦しみや悲しみを嘆いて訴えることができるでしょう。
 そういう事ですので、社寺から出された牛王宝印のある護符の裏面に全く野心のない旨を記し、日本国中の大小の神々に誓います。
 数通の起請文をお出ししているのに、未だにお許しがありません。
 我が国は神の国。
 神に誓った起請文が通じないのであれば他に方法がありません。
 せめて、貴殿の御慈悲を仰ぎ、機会を捉えて、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝えたいと思います。
 これまでの悲しみを解決し、平安と幸福を得たいと念願している次第ですが、書き切れず、簡単な文面になってしまいました。
 そのあたりを推察して頂きますようお願いします。
 義経、謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日    源義経

進上、公文所の長官の大江広元殿へ
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1番目の写真は腰越状の原文の写真です。
この悲劇で決定的だったのが、義経が頼朝に無断で朝廷から任官(検非違使左衛門少尉)されたことでした。当時の頼朝は自ら朝廷に対し、御家人の官位推薦を行っていたのです。御家人が勝手に申し出ていては、頼朝の権威が失墜します。また頼朝が推薦することで朝廷から武士の棟梁として認知される効果も狙ったのでした。
ところが、義経はこの定めを無邪気にもあっさりと破ってしまったのです。
腰越状では、むしろ任官を「源氏の名誉」とまで言い切り、事態の深刻さが分かっていないことを示しています。作家の斎藤栄は『鎌倉ミステリー紀行』(かまくら春秋社)で、「頼朝とは兄弟である。だからたいていのことは許されると考えていた義経には、(制裁の)真意はどうしても分からなかった」と書いています。兄弟の甘えが義経の運命の悲劇を招いたのです。
義経が軽率でした。衣川の館での自害へとつながったのです。壇ノ浦での勝利が義経の判断力を狂わせたのです。
涙を誘う義経の腰越状です、
現在の腰越付近の写真を添します。写真の出典は、https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10902/ です。

2番目の写真は江ノ電の腰越駅です。江ノ電の踏切の向こう側に満福寺があります。

3番目の写真は満福寺の境内にある「弁慶の腰掛石」と右に弁慶と義経像を示します。

4番目の写真は江ノ電が腰越の小動岬を超えると車窓に海が広がる海の風景です。鎌倉の町までは腰越の峠を超える必要蛾があるのです。腰越の峠が鎌倉の防衛線になっています。

「菜の花畑が一面に咲く春が待ち遠しい!」

2023年01月15日 | 写真
寒い日が続きます。菜の花畑が一面に咲く春が待ち遠しいものです。
せめて写真だけでも見ようと思い、「菜の花畑の風景写真」を検索してらインターネットに沢山写真がありました。
そこで菜の花畑、満開の桜、残雪の山々など写真を選びお送り致します。

「日本の歴史(17)海に沈んだ安徳天皇と義経の自害、そして鎌倉時代」

2023年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
源平合戦は壇ノ浦で決着がつき平家が滅亡しました。1185年3月24日もことでした。安徳天皇が平家の一族とともに海の底に沈んだのです。
安徳天皇は小さな手を合わせると祖母の二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の波間に身を投じたのです。安徳天皇は1178年に生まれ 1185年7歳で没しました。
源氏の総大将は源義経でした。しかしその後兄の源頼朝と不仲になり奥州の藤原氏のもとに身を寄せます。兄の頼朝は大軍を奥州へ送り源義経を自害させ、藤原氏を滅ぼします。その後は鎌倉幕府が全国を統一して日本の歴史で初めて武家政権になったのです。

今日はこの激動の時代の歴史を分かり易く簡略にご紹介いたしたいと思います。まず出来事を示します。
源義経は平治元年(1159年・1歳)誕生
文治元年(1185年・義経27歳)
正月、平氏追討のため西国へ出陣する。
2月、屋島の戦い。
1185年3月、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。
4月、京へ凱旋。しかし兄、頼朝の怒りをかう。
文治3年(1187年・29歳)2月、奥州の藤原氏のもとへ落ち延びる。
文治5年(1189年)閏4月30日、襲撃を受け衣川館で自害。享年31。
そして日本の武家政権として鎌倉幕府が源頼朝によって確立したのです。

頼朝の死後、鎌倉時代仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権になりました。その北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となったのです。この武家政権は室町幕府と続き江戸幕府へと継承されたのです。
鎌倉時代(12世紀末 ー元弘3年/正慶2年(1333年))は幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。本格的な武家政権による統治が開始した時代です。
始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説があります。1192年と1183年と守護・地頭設置権を認められた1185年です。
源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、京都の朝廷と地方の荘園はそのままにして地方支配は地頭等を利用して全国の支配構造ができあがったのです。
元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、全国支配が強化されることになったのです。こうして頼朝の新統治理論は以降の幕藩体制の根幹を成すものになったのです。
源頼朝の死後、外戚である北条家が台頭し幕府の実権を掌握します。北条氏による執権制度が創設され、源氏将軍が断絶して以降も、幕府体制は永続するように制度整備がなされたのです。
鎌倉時代で特筆すべきことは仏教の革新運動です。
12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆します。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた、大衆の救済への志向であり仏教が個人の救済を重視するようになったのです。
これは保元の乱、平治の乱から治承・寿永の乱と続く戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためです。また、仏教の一般大衆化も推進されました。
鎌倉仏教の一覧です。
浄土信仰
浄土宗(法然)
浄土真宗(別名:一向宗)(親鸞)
時宗(一遍)
禅宗
臨済宗(栄西)
曹洞宗(道元)
法華経
法華宗・日蓮宗(日蓮)

今日は海に沈んだ安徳天皇と義経の自害、そして鎌倉時時代の全国統一と鎌倉仏教について書きました。鎌倉に関連した写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は1185年7歳で海の底に沈んだ安徳天皇です。

2番目の写真は鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

3番目の写真は鎌倉大仏です。

4番目の写真は現在の鎌倉の遠景です。

5番目の写真は現在の鎌倉八幡宮です。鎌倉幕府は鎌倉八幡宮のすぐ下にありました。

「カトリック教会、2023年1月15日のミサ動画配信」

2023年01月15日 | 日記
カトリック教会、2023年1月15日の年間第2主日のミサ動画配信は以下の通りです。

2023年  1月15日 10時のミサ

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=wQtRHSdKdo8

聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=S9gFYQ22aVo


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。

後の4枚の写真はの関口教会の今日のミサ風景です。



「淋しげに咲いているコブシの花」

2023年01月14日 | 写真
早春の山にひっそりと咲くコブシは何か淋しげです。
同じ春の花でもモクレンは華やかに咲きます。春先は太陽の光も弱弱しく何故か淋しい気分になる時があります。春の憂いです。そんな時、コブシの花を見るとコブシも淋しいように咲いています。
春は明るい希望の季節ですが淋しい季節でもあるのです。そんなコブシの花の写真をお送り致します。

始めのコブシの2枚の写真は九州の別府のそばにある志高湖のコブシの花の写真です。写真の出典は、http://shidakanokaze.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-9ceb.html です。
3番目の写真は東京都調布市のコブシで写真の出典は、http://kawasakimidori.main.jp/webzukan/kobushi.html です。
4番目の写真はコブシの花の拡大写真です。出典は、https://hanashiru.com/magnolia-kobus/ です。

コブシの原産地は朝鮮半島と日本です。果実がごつごつで、握りこぶしのようなデコボコがあるということでコブシとよばれるようになりました。
モクレンとコブシの違いは、花の付け根を見ると一目瞭然です。モクレンにはありませんが、コブシの花の付け根には1枚の葉がついているのです。

コブシは地方によっては別の名前で呼ばれることがあります。代表的なのは「タウチザクラ(田打ち桜)」で、コブシの開花が田んぼの準備を始める目安となったことから付けられた名前です。

今日は早春の山にひっそりと淋しげに咲くコブシの花をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の歴史(16)一般庶民の生活の歴史」

2023年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
学校の歴史教育は実につまりませんでした。天皇や武士政権の権力者の名前とその交代の年号を完璧に丸暗記すると良い点数が取れるのです。
他人には言いませんでしたが、そんな教え方を内心軽蔑さえしていました。当時は先生は聖職者として絶対的な権威を持っていた時代でした。
学校で教える歴史とは権力者の歴史だけだったのです。一般庶民はどのような暮らしをして、どんな気持ちで生きていたかを教えません。その歴史的な変化を教えません。権力者へ納める税金はどのように納めていたかも具体的に教えません。長い間不思議に思っていました。
ところが庶民の生活の歴史的変化を明快に説明し、関連する道具を展示している博物館があるのです。
東京都府中市立の郷土の森博物館です。ここでは縄文・弥生時代から古墳時代に始まって、平安、鎌倉、江戸と全ての時代の歴史を権力者の歴史と一般庶民の歴史に分けて説明しています。とくに一般庶民の歴史は知らなかったことが多かったので驚きの連続です。
そこで以下に一般庶民の生活の歴史的な変化を少しだけご紹介したいと思います。
(1)平安時代になっても庶民は縄文時代とあまり変わらない掘立小屋に住んでいたのです。
平安時代の府中には京都から派遣される多数の役人と一般庶民が暮らしていました。役人の生活は贅沢でしたが、庶民は質素な食器を使い貧しい生活をしていました。

1番目の写真は庶民が使っていた食器や壺です。縄文時代とあまり変わっていません。

2番目の写真は庶民の家です。一般庶民は縄文時代とあまり変わらない掘立小屋に住んでいたのです。

3番目の写真は平安時代の農機具です。
農民が使っていた農具をよく見ると、鉄の刃は磨きながら丁寧に使っていた様子が伺えます。
(2)鎌倉時代になっても租税は京都から派遣された守護へ納めていた。
武家政権の鎌倉時代になっても庶民は平安時代と同じ掘立小屋に住み、租税は京都から派遣されていた守護に納めていました。武蔵野国では府中にある国衙政庁にいる守護職の代理人へ納めていたようです。

4番目の写真はその様子を説明しています。
そして納めた租税の何割かは鎌倉幕府へ送られた筈です。その上、地方地方の小型武力集団(国衆)へも租税を納めていた筈です。
学校で教える歴史教育では農民の租税の納め方を具体的に教えません。しかしそれこそが一般庶民の死活につながる重要な項目なのです。そのような疑問が湧いて来る説明板ではないでしょうか?
(3)鎌倉時代には天皇や貴族のための佛教から庶民のための仏教が出て来た。

5番目の写真は鎌倉時代の庶民の宗教を説明しています。
鎌倉時代の武蔵野国の農民は板碑という自分の信仰のための碑を実に多数立てたのです。
上の方に梵字が彫ってあって、庶民の土俗信仰を暗示するような異様な雰囲気を与えています。

6番目の写真はこの板碑の写真です。
器用な農民は仏像もほりました。素朴な仏像です。

7番目の写真は農民が彫ったと考えられている仏像の写真です。
現在の日本人は無宗教の人が多いのですが、鎌倉時代から江戸時代の庶民は非常に強く宗教を信じていたのです。
(4)多摩川で魚を取ることは非常に重要な産業だったのです。
現在、多摩川で漁業を営む人はいません。しかし江戸時代までは沿岸の庶民の生活にとっては死活問題だったのです。

8 番目の写真はその多摩川での漁業を説明しています。
取っていた魚はアユ、ハヤ、ウナギ、コイ、カジカ、川エビ、川カニ、などなどでした。

9番目の写真はドウという漁具です。

10番目の写真はその他の漁具の写真です。

(5)一般庶民は芸術作品を作らず生活に必要な道具を作った。
庶民は藝術作品は残しませんでした。使っていた道具を民藝作品として高く評価する人々もいますが正直言えば洗練されていません。
しかしすぐれた芸術作品を残した絵師や彫り物師はお寺の支援や保護を受けたいたことが多かったのです。そのお寺の財政を支えていたのが農民や一般庶民だったのです。
ですから、ある国の歴史や文化を総合的に考える時、一般庶民の歴史も重要だと私は信じています。
一般庶民の歴史が私の好奇心を刺激し、尽きない興味を掻き立ててくれているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい花々の写真を見つけたのでお送り致します」

2023年01月12日 | 写真
花の写真を撮っている間は楽しいものです。その自然で、繊細な美しい姿に魅了されて夢心地になります。至福の時間です。
自分で写真を撮るだけでなく他の方々の撮った写真を眺めて楽しみます。そうしてその美しい写真を撮った方へメッセージを送り転載するお許しを頂きます。皆さん、喜んで、どうぞお使い下さいと言ってくれます。花のお陰で暖かいものが流れます。
以前に趣味人倶楽部の「大チャン」(https://smcb.jp/users/434777 )へお願いしましたところ、どうぞ ご自由にお使い下さいという返事を頂きました。
「大チャンさん」は神奈川県にお住まいの男性の方です。とても鮮明な、そして美しい花の写真なので皆様へお送り致します。

1番目の写真は朝顔です。何とも言えない半透明な赤紫色が心を奪いますね。

2番目の写真はナデシコです。自分の庭のナデシコは薄い桃色ですが、このように濃い色も良いものです。

3番目の写真はネムノ木の花です。高い木の梢に咲いているのが普通です。このような写真を撮る苦労がしのばれます。

4番目の写真は萩の花です。萩の花は小さくてよく見えません。しかしこのように拡大するとその甘いような色合いがよく見えます。白い部分は蝶ですね。

5番目の写真はセイヨウノコギリソウです。西洋で品種改良したのでしょうか。いかにも洋花のような個性的な美しさが楽しいですね。

私が花を注意深く見るようになったのは結婚してからです。妻の母が草月流の活け花を教えていたので、その展覧会に何度も妻に連れられて行きました。古流や、池の坊や、小原流の展覧会も見ました。
活け花は いけた人の心を写します。芸術性を映します。独創性が見えることもあります。
フラワーアレンジメントの華麗さ、茶花の簡素な美、それぞれ心を惹かれます。そして我が家にも季節の花々が活けてあります。
華道は日本にしかない誇らしい文化です。外国に華道はありません。
しかし花々を花瓶に飾るのはどの国にもあり、その飾り方がおのずと日本の華道のある部分と共通な活け方をしているのです。
特に西洋のテーブルの上に飾る四方花の生け方には優れたものが多いようです。
そして教会の祭壇の前に飾る切り花の活け方も華麗で素晴らしいものが多いのです。見ていると花屋さんが構図を考えながら、ゆっくり活けています。

西洋で忘れられない活け花はスウェーデンの大学の廊下に飾ってあった枯れた大麦の束です。赤い大きな素焼きの花瓶がレンガ床にドンと置いてあり、その素焼きの花瓶に枯れた大麦の束が無造作に活けてあったのです。
実験室が並んだ殺風景な廊下に、その活け花は豊かな大自然を連想させ、ほのぼのとして空気をかもしだしていたのです。
その活け花を活けたのはエケトルプ教授の秘書でした。上品な高齢の女性でした。素晴らしいと褒めたら嬉しそうにしていました。

今日も寒いようです。皆様のご健康をお祈りします。後藤和弘

「日本の歴史(15)信仰の対象としての聖徳太子の虚構」

2023年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
厩戸王(うまやとおう)は敏達天皇3年(574年)に生まれ推古天皇30年(622年)に没しました。蘇我氏と協力して日本の統治を行った有力な政治家でした。日本書紀には聖徳太子として登場し「17条の憲法」を作り、遣隋使を派遣し、仏教を広めたと数多くの功績が書かれています。
しかし日本書紀は天皇の権力を誇大に書かれており、数多くの虚構に満ちています。
私は厩戸王(うまやとおう)の存在とそのリーダーシップは信じますが日本書紀に書かれている聖徳太子の具体的な功績は一切信じていません。
今日は聖徳太子を信仰する宗教のことを書きます。宗教ですから真偽は議論しません。現在の聖徳太子を信仰する宗教は日本の寺社に「太子堂」があって花が毎日供えられていることから理解出来ます。聖徳太子を神として「家内安全」を祈るのです。
しかし聖徳太子は時代によって以下のようにその評価が変わってきたのです。
浄土信仰が盛んであった頃は、聖徳太子は浄土への導き手として尊崇されました。また、戦国時代には物部氏を破った「軍神」としても信仰されたのです。
江戸時代の儒学者や国学者には仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判されました。
明治時代になると憲法制定の先駆者や大国と平等外交を行った外交家として高く評価されるようになったのです。
第二次世界大戦期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」の部分のみが強調され、聖徳太子に関連する小冊子を文部省が生徒へ配布します。
戦後になると「和」は平和と同一視されるようになり、「民主憲法」の元祖とみられるようになったです。また亀井勝一郎や家永三郎のように「人間としての聖徳太子」を見るものも現れました。
こうした状況を見ると「聖徳太子観は時代とともに変わる自分を映す鏡」のようなものです。
私の言いたいことは聖徳太子を信仰する神道のようなものが日本に根強くあるということです。
そして明治維新以後、日本政府は富国強兵を支える思想の一つとして聖徳太子を賛美したのです。私は戦前、戦後の学校教育で「聖徳太子は偉い!」とさんざん教わりました。何故偉いのかは教わりませんでした。厩戸王(うまやとおう)などという本名は教わりませんでした。ただ一度に10人の訴えを聴くことが出来たと教わりました。当時は教壇の上に昭和天皇と皇后の並んだ写真が飾ってあったのです。
大人になって戦後に出版された聖徳太子に関する本が沢山でました。それらを読んで厩戸王(うまやとおう)という名前の卓越した統治者がいたことは信じました。しかし彼の具体的な功績は虚構であると信じています。
聖徳太子の没後に大化の改新が起きます。大化の改新を実行したのは中大兄皇子と中臣鎌足です。聖徳太子の部下たちです。ですから大化の改新は聖徳太子の影響を深く受けたと私は信じています。
この改革によって各豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったのです。
そして「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになりました。

今日は信仰の対象としての聖徳太子のことを書きました。そして日本書紀の聖徳太子に関する記述には虚構が含まれていることを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は聖徳太子ゆかりのものです。

1番目の写真は聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画、『唐本御影』です。(8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある)

2番目の写真は聖徳太子ゆかりの夢殿(法隆寺)です。

3番目の写真は聖徳太子 磯長墓です。(大阪府南河内郡太子町)

4番目の写真は太子堂(鶴林寺)です。

5番目の写真は聖徳太子の肖像が描かれた一万円です。

「日本の歴史(14)天皇を中心にした日本が出来た飛鳥時代の大化の改新」

2023年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
飛鳥時代は、日本の歴史の時代区分でですが、天皇中心の国家体制が出来始めた重要な時代です。現在の奈良県の明日香村飛鳥に宮があったので飛鳥時代と言います。飛鳥に宮都が置かれた崇峻天皇5年(593年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を言います。
現在、法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くにあり、大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝でした。
聖徳太子(厩戸皇子)は推古9年(601年)、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手し、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだのです。
その後、聖徳太子の没後に大化の改新が起きます。
大化の改新は、皇極天皇4年(645年)6月12日の乙巳の変に始まる一連の国政改革です。狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指しますが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含みます。改革そのものは、年若い中大兄皇子と中臣鎌足の協力によって推進されました。
大化の改新での主な改革は以下の通りです。
(1)日本や天皇という名称の公認をした大変革
この改革によって各豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったのです。
そして「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになりました。中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させ、皇極天皇の弟を即位させ孝徳天皇にしました。その孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして日本で初めての元号「大化」を定めました。
(2)蘇我入鹿の暗殺と中大兄皇子と中臣鎌足が権力を握る
大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変から始まりました。
中大兄皇子と中臣鎌足が権力を握り大化の改新を始めたのです。
(3)大化の改新の第一段階
大化元年内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師の任命、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都の決定など様々な改革が進められたのです。
(4)大化の改新の第二段階
翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた改新の詔も発布されたのです。
(5)大化の改新の第三段階
大化の改新の第三段階で発せられた詔は、大和政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっています。
(6)大化の改新と中国、朝鮮との外交
大化の改新の第三段階には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容し始めたのです。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分がありました。
朝鮮との外交では高向玄理を新羅へ派遣して形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげました。
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びます。661年、百済の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御したのです。662年、百済再興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡しました。
日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなったのです。668年には新羅によって高句麗も滅亡します。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都しました。
唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めたのです。
(7)大化の改新の詔の内容
大化2年(646年)には新政権の方針を示す改新の詔が発布されました。詔は大きく4か条の主文からなっています。詔として出された主な内容は豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものでした。

一 昔から天皇が設置された子代の民や各地の屯倉,そのほか臣・連・伴造・国造・村首らの私有する部曲や各地の田荘を廃止する。その代わりに食封を大夫以上の者に身分に応じて与える。その下の諸官人にはその身分に応じて布帛を与える。・・・・

二 初めて都城を定め,畿内の国司・郡司や関所・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き,駅鈴・関所鑑札を造り,地方行政区画を定めよ。京には坊毎に坊長一人を置け。・・・・・郡は40里を大郡とせよ。・・・・郡司には国造の中から清廉で政務に役立つ者を大領・少領に選任し,強健・明敏で筆算の巧者を主政・主帳に任ぜよ。・・・・

三 初めて戸籍・計帳を作り,班田収授法を定めよ。およそ50戸を里とし,里毎に里長一人を置く。・・・・

四 これまでの貢納・力役をやめて田に課する調の税制を行え。・・・・また戸毎に調を徴収せよ。・・・・調の付加税の塩・贄はその土地の産物から選べ。・・・・役所に仕える仕丁は,従来30戸に一人を出すのを改めて50戸毎に一人を出して各役所に割当てよ。・・・・宮中に仕える采女は,郡の少領以上の家の姉妹・子女の容姿端麗な者を差し出せ。

以上のように飛鳥時代は多事多難でした。しかしその多事多難の中で「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものにし日本国の原型を作ったことは特筆に値いします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は607年に斑鳩に創建された聖徳太子ゆかりの法隆寺です。