おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成上野駅~青砥駅。その12。曳舟川親水公園。白鳥。水戸街道。青砥。

2020-06-18 20:28:15 | 沿線歩き

                       「曳舟川親水公園」。

隣接する白鳥との間に、かつては曳舟川(葛西用水路)が流れていた。この川は、江戸時代に用水路として開削された。また、荷物を載せた舟を土手から縄を引いて運ぶということが行われ、江戸時代の流通の一つとなっていた。これが川の名称の由来となっている。その様子は歌川広重作の浮世絵「名所江戸百景 四ツ木通用水引きふね」で描かれている。高度経済成長期は、生活雑排水や近隣に多かったメッキ町工場の排水の影響で、水質が極めて汚染され、悪臭がただよっていた。1989年(平成元年)に、下水道網が整備されたこともあり、曳舟川は埋め立てられ現在では曳舟川通りと曳舟川親水公園となっており、せせらぎや多くの植物を見ることができる。
 曳舟川の名称が付けられた区間は、江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和4年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修された。 
江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は、一種の水上交通機関ではあったが、舟を曳く動力が陸からの人力であるため、馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたものであり、当時曳舟は異色の交通機関として人気があり、江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されている。 
排水規制等によって、水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は荒川に合流する手前にほんのわずか水面が残っているのみ。 
葛飾区の区間は、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園となり、自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もある。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられている。

 

(この項、「Wikipedia」参照)

「曳舟親水公園」から少し入ったところにある「末広湯」(葛飾区宝町1-2-30)の男湯には「曳舟川」のペンキ画が描かれています。

「曳舟川親水公園」案内板。亀有~お花茶屋~四つ木

四つ木方向。

 以前は、水路が2つになって並行して流れていました。現在、中央が遊歩道(親水公園)に、水路は道路になっています。

曳舟川親水公園は、江戸時代以来の区西部の主幹用水である。昭和28(1953)年に、西側の古上水堀と東側の中井堀の一本化工事が開始された。第1期工事は、お花茶屋から南の四つ木の国道6号線付近まで、第2期は、お花茶屋から亀有五丁目までである。この工事で、2本あった水路が1本となり、両側には幅10mの道路が造られた。古上水堀である曳舟川の名前のみが残ったため、かつての景観がわかりにくくなっている。両水路とも荒川を越えた墨田区では、道路として残っている。

古上水堀と中井堀を隔てていた堤(昭和33〔1958〕年5月) 

曳舟川埋め立て工事(昭和63〔1988〕年)。

(この項、「」HPより)

「お花茶屋」駅の南側付近でも2つの水路をへだつ堤のようなものがあった記憶があります。

(「今昔マップ」より) 

曳舟川の周囲は、田んぼばかりでした。お花茶屋駅の先からJR(国鉄)常磐線の線路が見えたほどです。

岡田タイヤ」の工場跡? 

 正面が広くなっていて、その奥にはそれほど高くない工場の建物がありました。その前を通るたびに、正門の中の奥まった独特の様子を興味深く覗いたものです。たしか駅伝が盛んで、いろいろな大会に出ていた会社だったような記憶があります。その工場がいつしか立ち退き、大きな跡地になりました。曳舟川が親水公園として改修されたのを機会にでしょう、その区域が、バスのロータリーと公園になりました。

青砥駅方向に向かいます。線路の北側は「白鳥」。

  1966(昭和41)年にそれまであったいくつかのまちを再編してできました。地名は、昔、白鳥沼という大きな沼があったことからつけられました。江戸時代、この辺りでは、徳川将軍家が鷹を使って鳥などをつかまえる「鷹狩り」が行われました。また、大正時代のはじめごろまで白鳥沼には多くの鴨や白鳥がいたといわれています。 

注:「今昔マップ」や「歴史的農業環境閲覧システム」を見ても「白鳥沼」は確認できず、一帯には田んぼが広がる。

水戸街道(国道6号線)」にぶつかります。

 旧水戸街道は日光街道「千住宿」から分かれ、「曳舟川」に架かる「水戸橋(現在もあり)」を渡り、亀有村(葛飾区亀有)から「中川の渡」を渡ると、最初の宿場が「新宿(にいじゅく)」(葛飾区新宿)となります。この先の金町手前で現在の水戸街道(国道6号)と合流します。江戸市中から水戸方面に向かう旅人は千住宿を経由するコースではなく、浅草から大川橋(現在の吾妻橋)を渡り、小梅(向島1丁目)で曳舟川の土手道を北上する通称「裏水戸街道」を通り亀有までのコースが近道で利用者が多かったようです。
 また、江戸時代末期には四ツ木~亀有間の「曳舟川」を「曳舟」が運行しており、コース途中での「曳舟の遊覧」も楽しみで大変人気があり、賑っていたようです。

 国道放射6号線(水戸街道)は、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の復興事業で計画されたもので、「三つ目通り」からの延長工事として計画されました。さらに、昭和3(1928)年に言問橋が完成し、国道6号は起点の日本橋と繋がりました。また、 狭い曳舟川土手道に変わる「小梅通り(当時の名称は「改正道路」)」も造られましたが、「曳舟川」が埋め立てられ、道路化されので、東武線ガードの手前で終わる、中途半端な広い道として存在しています(「本所高校」脇の道)。

 昭和14((1939)年には葛飾区側の6号線工事と合わせ、葛飾区と墨田区を結ぶ「新四ツ木橋」に着工しましたが、太平洋戦争が勃発したため、昭和18に工事は中断されました。終戦後の復興に伴い、中断していた新四ツ木橋(注)の架橋工事が再開され、昭和27(1952)年に完成し、国道6号はようやく葛飾区まで貫通しました。

橋(赤い線)はまだない。

(「今昔マップ」より)

 注:開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。 
 その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。 

案内図。

右手に葛飾区役所。すばらしい桜並木になっていますが、曳舟川から分かれたかつての用水路跡。          

高架線に沿って進みます。

高架下は月極駐車場。 

まもなく「青砥駅」。

大きくカーブして青砥駅へ。電車もぎしぎし音を立てて曲がります。                      

          

 どうしてこんな急カーブなのか? 船橋駅から大神宮下駅までもそうですが。かつて投稿した記事を再掲。

・・・

42 「青砥駅」・幻の線路跡?
2009-04-30 18:31:59 | つぶやき

 京成電車が京成本線(上野線)「お花茶屋」駅から「青砥」駅に向かうとき、かなり急カーブとなって青砥駅に到着します。そこには、あまり知られていない歴史があったようです。(今となっては真偽の程は確かではありませんが。)
 青砥駅は、1928(昭和3)年、日暮里 - 青砥間開通時に、押上線との分岐駅として開業し、1931(昭和6)年、日暮里~青砥間が本営業を開始しました。実は、それまで、立石駅(押上線)~高砂駅間に、駅は設置されていませんでした。 
 もともと、京成電鉄は、1909(明治42)年、「京成電気軌道」として創立されました。古くから参詣者を集めていた、成田山新勝寺への参拝へ、東京から向かうための鉄道事業(具体的には押上~千葉~成田間の電気鉄道)でした。そのために、「京成(東京~成田)」と社名を命名しました。
 1912(大正元)年には、帝釈天(今では「寅さん」で有名な)へ向かう「帝釈人車軌道」(線路上の車を人間が引いて走る?)を買収、本格的な鉄道事業を始めます(今のJR金町駅から柴又駅まで)。 
 次第に東へ東へと線路敷設工事が進捗して、1921(大正10)年には押上から千葉まで全通します。さらに、1930(昭和5)年、押上~成田間が全通します。こうして、本来の目的が完成しました。 
 しかし、当時、押上は、都心に行くには大変不便な位置にあるため、京成は、当初からの狙いである、押上から隅田川の向こうにある浅草まで、線路を延ばす画策をします。けれど、政財界を巻き込む「疑獄事件」を起こして、東武鉄道にその権利を取られてしまいます(東武鉄道は浅草まで乗り入れ。)。
 そこで、鉄道敷設の権利を持っていた他の鉄道会社を買収して、権利を得て、上野・日暮里から高砂までの路線を敷設し、都心まで乗り入れることになりました。
 この計画が持ち上がった時、葛飾区青戸町の南地域には駅はありませんでした。土地の古老の話ですと、今の東立病院辺り(現在の青砥駅の少し南西側)に、臨時停留所みたいなものがあって、電車が来ると、手を挙げて停めて貰ったとか。
 もともとは、京成としては、お花茶屋駅(ことによると、一つ日暮里寄りの「堀切菖蒲園」駅)から直接高砂駅までの線路を接続して、高砂を押上線との分岐駅にする計画だった。
 そこで、今の青砥駅付近の地主が立ち上がり、自分の土地を提供して青砥駅を新設することを要請した、その結果、青砥駅が出来たということです。
 1931(昭和6)年青砥~日暮里間開業。1933(昭和8)年、日暮里~上野公園(現・京成上野)間が開業し、上野から成田まで貫通しました。
 話は、余談ですが、来年・2010(平成22)年4月には、今の北総鉄道(高砂~日医大)が成田空港まで延長され、「成田新高速鉄道線」として、開業となります。同時に新型スカイライナーの投入によって、大手私鉄では最高速度となる160km/h運転を実施する予定です。40分くらいで、日暮里~成田空港間を結ぶとか。そのために将来的には、上野線を全線高架化することになるようです。
 こう見てくると、直進で進む押上線に比べて、青砥駅から分岐する上野線(京成本線)は、かなりきついカーブになっていて、たしかに不自然な感じがしないわけでもありません。また、青砥・高砂と二駅続いて、押上線と上野線の分岐駅があるのも不必要な感じがしますが。
                                  写真は、お花茶屋駅付近から続く直線道路(通称「高砂橋通り」)で(今は、水戸街道で分断されていますが)、高砂橋を通って、高砂駅まで至る道筋です。もしかしたら、この道路が幻の鉄道線の跡なのかもしれません。右手が、青戸公団住宅です。
 もし、そうだとしたら、青戸の現在も、ずいぶん違った発展の仕方があったかもしれません。青砥駅設置のもっと詳しい事情が知りたいものです。

・・・

 今回改めて調べてみましたが、よく分かりませんでした。上の記事も真偽不明、根拠薄弱なものになってしまいました。

ここで立石駅付近で通った「水道みち」に再び遭遇。「金町浄水場」からの上水道が道路下にある(はず)。    

 

それにしても急カーブです。上下線で高架が分かれているので、高い!

押上線と合流。立石駅方向。

「青砥駅」。

地上駅だった頃の青砥駅。(「葛飾区史」HPより)

《補足》「青戸」という地名

 青戸は古文献において「青津」「大戸」「大津」などと記されることもあり、表記が青戸に定着して以後もしばらく「おおと」と発音されていた。戸は、渡し場・船着場・埠頭つまり湊(水門)のことであり、江戸、水戸、奥戸、松戸、登戸、坂戸、清戸も同じである。このことからも分かる通り、この地は古来、大きな港を抱えた土地であったようである。 
正応元年(1288年)、この地を領していた青戸二郎重茂が葛西氏の代官として奥州平泉の中尊寺を訪れた記録がある。また、青戸七丁目の環七通り沿いにある葛西城址(中心部は環七通りが貫いており、わずかに残された部分が御殿山公園と葛西城址公園となった)が鎌倉幕府の引付衆であり、この地を領していた青砥藤綱の邸宅とされるが真偽は定かではない(京成電鉄の青砥駅の表記が町名と異なるのはこの伝承に由来する)。                      中世の青戸は前述の葛西城から大量の土器類が出土したことなどから葛西地域の中心地であったと推測されている。 
戦国時代、葛西城は山内上杉氏、後北条氏などの支城の一つとして使用されていたようである。

(この項、「Wikipedia」参照)

 

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京成上野駅~青砥駅。その11。「綾瀬川」。「堀切菖蒲園」。お花茶屋。

2020-06-17 20:31:03 | 沿線歩き

                         「綾瀬川」。

かつて、汚れきった川として、1980年から15年連続で全国の一級河川水質ランキングのワースト1位にランキングされ、2010年の調査でも2年連続で日本一汚れた川、まさに黒く濁った「どぶ川」とされましたが、流域の生活用水、工業・農業排水の改善、下水道の整備等によって大幅に改善され、清流が戻りつつあり、今日も浚渫作業船が活躍しています。

                                                                                                                                                                                                                                                                                  

1880年代のようす。荒川放水路開削によって分断。「隅田川」に注ぐ←部分が現存。

                                                                          

2010年代のようす。中央の荒川によって流路は荒川沿いとなり、←が元綾瀬川。「墨堤通り」に架かる橋が「綾瀬橋」。

 

振り返る。

頭上は首都高、遠くにスカイツリー。

 

葛飾区堀切に入ります。ビルのところに「菖蒲園」の絵柄。

なんといってもここは、「堀切菖蒲園」。ちょうど見ごろになっています(6月17日)。が、沿線歩きをしたのが、5月24日でしたので、まだ時期が早かった! そこで、3年前、6月16日に訪問したときの写真を再掲載します。

        

              

  

たくさんの種類の菖蒲が色とりどりに咲いています。なかなか見応えがあります。

数多くの江戸菖蒲(200種6000株)を鑑賞でき、とのこと。

(以下、「Wikipedia」参照)
 江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信・歌川広重の浮世絵に登場する。
歌川広重 名所江戸百景「堀切の花菖蒲」
 戦前まで、この近辺には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。
 昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。

明治後期のようす(「今昔マップ」より)。
 ○が菖蒲園のあったところ。上にある園名が記されている。ただし、「戦前まで」とあるが、「今昔マップ」ではすでに昭和初期には上記の園名は見当たらない。
 まだ「荒川放水路(現荒川)」が開削される前で、東武線が荒川放水路によって西側に大きく線路変更される前の線路になっている(まだ上野に向かう京成線はできていない)。
 北西から南東、斜めに流れる水路は「旧綾瀬川」(後に、「荒川放水路」の一部になってしまう)。東側に流れる用水路は葛西用水・曳舟川。

2000年代(「同」より)。○が「堀切菖蒲園」。


         全景。園内の四阿から。今年もマスク掛けで鑑賞。

ここは、荒川氾濫の時は3mの浸水。↓の線。線路も浸水?

京成「堀切菖蒲園」駅。

荒川の対岸には東武線の「堀切」駅があります。かつては同じ村落だった。

線路脇の商店街を進みます。

「平和橋通り」を歩道橋で越えます。

そのすぐ脇を京成電車が通過します。

千住大橋駅から続いた高架線がここから地上線。少し進んでから振り返る。かつてはこの付近は台風などがあると水浸しになり、線路だけが浮いたようになりました。

お花茶屋駅方向を望む。

行き止まりなので、少し迂回します。線路と道路に挟まれた狭いところに建物。 

踏切を渡って反対側へ。

「お花茶屋」駅前に。右手がホーム。

駅前の商店街。色んなお店があります。

「Ohanajaya Station」。

 地名の由来
江戸時代、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜ったとされている。 

(この項、「Wikipedia」より)

 

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京成上野駅~青砥駅。その10。東武線・牛田駅。葛飾北斎「富嶽三十六景」。堀切橋。「荒川放水路」。

2020-06-16 21:12:20 | 沿線歩き

                      京成関屋駅。

すぐ隣に東武線の「牛田」駅があります。近接し、京成から東武への乗換駅なのに異なる駅名なのはなぜ?

・出没!アド街ック天国 『~京成関屋~』 2009年9月12日(土)21:00~21:54 テレビ東京

牛田駅
東武伊勢崎線の駅。
昭和7年に開業し1日に平均して約2万人が利用するという、またこの「牛田」という名前は江戸時代の用水路「牛田圦り」の名がつけられたとのこと。


京成関屋駅
昭和6年に開業し1日に平均して約2万人が利用するという、またこの「京成関屋」という名前は江戸時代の景勝地「関屋里」からその名がつけられたとのこと。

これだけではわかりにくい。そこで、ネットを調べると、
牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の ... - 歴史と散歩とポタリングと
rekisanpota.blogspot.com › 2014/06 › blog-post_13」に歴史的経過や両社の確執など、詳しく掲載されていました。

その末尾の文章を引用させてもらいます。

・・・

時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)

時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。

・・・

注:京成関屋駅の開業は1931年12月。牛田駅の開業は1932年9月。

 冨嶽三十六景 隅田川関屋の里
関屋の里とは、現在の千住仲町から千住関屋町付近を示し、江戸時代には風光明媚な土地として知られていました。江戸の人々は、帆掛け船の行き来する隅田川と、桜の咲く穏やかな自然に恵まれたこの一帯を「関屋の里」としてとらえ、冨嶽三十六景以外にも、江戸名所百景、隅田川八景、江戸名勝図会「関屋の里」(右図)など数々の浮世絵に描かれています。とくに、桜の咲くなかでくつろぐ人々が画題となっています。
こうした美しい場所であったこともあり、「関屋巣兆」として知られる俳人建部巣兆(たけべそうちょう)の庵、秋香庵(しゅうこうあん)も関屋の里に結ばれました。

「隅田川関屋の里」では、疾走する馬と右端に見える高札場、とくにそれ以外のものは描かれていません。生い茂る草を水平線として富士山が見えます。高札場としては現在の千住一丁目と千住仲町との千住小橋南側(現在の千住仲町側)の高札場が知られていますが、この「隅田川関屋の里」に描かれた高札場とは異なるものです。
ここで人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道です。
『江戸名所図会』に、「此辺を関屋の里という」の添え書きとともに、掃部堤が描かれています。(上画・『江戸名所図会』氷川神社と掃部堤)
画の中央は千住仲町の氷川神社(千住仲町48-2)です。境内には、関屋の里から移設された関屋天満宮も描かれています。掃部堤から氷川神社に至る道は、現在ミリオン通り商店街といわれる通りになっているものと考えられます。この交差点には庚申塔が祀られ、集落との分岐点となっているようです。
冨嶽三十六景「隅田川関屋の里」に描かれた地点はこのあたりだと推察されます。掃部堤を進んで日光道中を横切ると、現在の千住緑町付近にあたる「牧の野」とよばれた低地が広がっていました。千住町が茅場として使用していた地域で、浮世絵には、この茅場が描かれていると考えられます。
北斎は他の浮世絵師と異なり、関屋の里の嫋々とした風景をとりあげず、疾走する馬をとりあげ、堤防に生える松、茅の茂る遠景という力強い風景を描いたといえます。

「武州千住」。                   

 現在では台東区域からの作品になりますが、描かれた当時は、荒川区分の小塚原・中村町の地域にあたっていたため、「千住」と表記されています。
「武州千住」はどこ?
千住といっても、宿場の賑わいは描かれず、馬を曳く農夫、釣りに興じる二人と、牧歌的な風景が描かれています。馬の背につけられている運搬具は、駄付けモッコ(だつけもっこと)、「スカリ」などとよばれる道具で、大宮台地では畑のドロツケに使われます。土や堆肥など、運ぶ形にこだわらず詰め込めるものの運搬に使われるものです。そうしたことからこの画で運ばれているものは、野菜ではなくて草・・・、このあたりは江戸近郊のため下肥を多用し、草を刈って堆肥を作る習慣がほとんどないので、馬の飼料として刈った草なのだと思われます。
手綱には替えのわらじが結び付けられており、意外と遠方への往来がうかがわれます。
画面左の端にほんの少し見えるのは、稲藁を積んだ「稲ニオ(藁 ボッチ)」で、晩秋に作られその藁は冬から春の間に少しずつ使用して、通常夏場にはなくなります。富士山には真っ白に雪がありますが、北斎は季節と雪の多少については、あまり厳密ではないようなので、緑の草や、腕を出した農夫などの全体的な様子から、現在の五月ごろを示していると考えてみました。
農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠で、隅田川の水が用水路に逆流しないための役割を果たしていました。元宿とは、この圦のある集落の名称です。大きな堰枠は用水管理の役割はいうまでもなく、千住方面から、西新井大師や武州江戸六阿弥陀の参詣の折に通る大師道、熊谷堤の通過点でも、千住の絵図(部分)に描かれた堰枠 高田家絵図があり、とても目立ったためか、いくつかの絵図にも描かれ、ランドマーク的な役割も担っていたと思われます。
従って、釣りをしているのは元宿圦、遠くに見えるのは、隅田川ということになります。現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近にあたります。

(明治17年迅速側図)赤矢印 馬と農夫が進む方向、青線 浮世絵に描かれた視界。

(この項、「足立区」公式HPより)

(「」HPより)

「従千住花街眺望ノ不二」は「日本堤」(土手の通り)付近になっています。

二つの線路に挟まれた小さな商店街を抜け、京成線のガードをくぐります。

「荒川」に架かる堀切橋を渡ります。下が東武線、上が京成線。

「堀切橋」からの京成線。

        

振り返ると、遠くに「スカイツリー」。

右手前方は、首都高。

この付近は、荒川放水路の開削で大変貌した地域です。足立区側にある「隅田水門」と解説板にその一端が。

「隅田水門」の説明板。
この水門は、荒川と隅田川を結ぶ水路(荒川―旧綾瀬川―隅田川)として二つの川の流れを調節する。荒川は、北区岩淵水門付近から明治末期から大正中期にかけて開削された放水路。都内の治水事業としては最大級。旧綾瀬川は隅田川に流入していたが、荒川沿いに流れを変え、中川も荒川をはさんで分断された。また田畑や寺社、街並みなども移転・廃絶を余儀なくされた。


「荒川放水路(現「荒川」)」開削以前の地図(大正8年)。東に曲がり今の「荒川」中流付近を通っていた東武伊勢崎線が、荒川放水路開削のために現行のような線路になった。
当時は「堀切」駅はなかったようで、下の方(南側)に「鐘ヶ淵」駅が見える。また、京成電車(上野~青砥)はまだ開通していなかった。

 この荒川放水路(現荒川)もこの北側で大きく迂回していますが、その理由が千住の宿(市街地)を避けるためだった、とか。

放水路建設の背景
明治43年の洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。
荒川放水路のルート候補は、主なもので4つありましたが、治水上の効果や実現性、宿場町として栄えていた千住町を迂回するなどの背景から、現在のルートが採用されました。

○上流部
広大な荒川河川敷の北岸(熊谷堤)に寄せて蛇行部をショートカット

○中流部
千住町の北を迂回する形で隅田川から離れ、綾瀬川から中川へ通じる流路に沿わせて中川に連絡

○下流部
中川横断後は中川沿岸の市街地を避け、やや東にふくらませて中川河口に導く

(この項、「」HPより)

 

(「今昔マップ」より)

←に注目。荒川放水路開削前とその後。東武線が大きく西にずれて直線化。左図に「牛田」という地名あり。

(「同」より)

左図○にまだ東武線「牛田」駅はない。堀切橋(↓)は現在よりも下流にあった。右図の「新荒川橋」は首都高の橋。

 

千住側を振り返る。

              

     上流方向。左手が北千住方面。

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京成上野駅~青砥駅。その9。「千住大橋」駅付近再開発計画。旧日光街道。やっちゃば緑道。

2020-06-15 20:35:44 | 沿線歩き

                     「千住大橋」駅付近再開発計画。

 千住大橋駅周辺地区では、株式会社ニッピ・株式会社リーガルコーポレーションの大規模工場敷地の土地利用転換を契機に、平成15年8月に千住大橋駅周辺地区まちづくり連絡会を設立し、地域の皆様と株式会社ニッピ・株式会社リーガルコーポレーション・独立行政法人都市再生機構と足立区が協働してまちの将来像について検討を重ねながら、まちづくりに取り組んでいます。
 これまで、平成18年4月に「足立区画街路第11号線」を都市計画決定しました。また、まちづくりの目標である「うるおい・活気・安全なまち」の実現に向けて平成18年11月に「千住大橋駅周辺地区地区まちづくり計画(PDF:1,123KB)」を策定し、平成19年4月には「地区計画、用途地域、高度地区、防火・準防火地域」を都市計画決定しました。
主なまちづくりの進展として、平成22年12月にJ街区「株式会社ニッピ本社ビル」が竣工、平成24年2月にC街区「オーベルグランディオ千住大橋」が竣工、平成24年4月に「千住大橋さくら公園」が開園しました。また、平成25年6月にかつら並木通り(足立区画街路第11号線東西部)、平成26年2月にはかつら並木通り(足立区画街路第11号線交通広場)の供用を開始し、平成26年3月に「千住大橋駅周辺地区まち拓き記念式典」を開催いたしました。平成26年4月にはA街区の商業施設が開業して賑わいが増し、平成27年3月には千住大橋駅付近の京成本線高架下の道路に歩道が整備され安全性も向上しました。そして平成29年3月に千住隅田川テラスの全面開放がされるなど、当地区のまちづくりが進んでおります。

(この項、「足立区」HPより)

・株式会社ニッピ

 1907年(明治40年)4月1日、大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して設立された。資本金500万円、所在地は東京府南足立郡千住町大字千住中組。前身の1社である東京製皮は、1874年(明治7年)に弾直樹と北岡文兵衛(三井系)が設立した「弾北岡組」を1900年(明治23年)に改組したものである。 
主力製品・事業
コラーゲン 再生医療ゼラチン 牛海綿状脳症検査キット 皮革 化成品・・・

・株式会社リーガルコーポレーション

合名会社大倉組皮革製造所、合資会社桜組、福島合名会社及び東京製皮合資会社の各製靴部門を統合、各種靴の製造、販売を目的とし、東京市京橋区鎗屋町(現 東京都中央区銀座)に日本製靴株式会社設立。
1903(明治36)年 2月、本店を東京府南足立郡千住町中組(現 東京都足立区千住橋戸町)に移転。
同地に本社工場を新設し、同年5月軍靴の生産を開始。945(昭和20)年10月
終戦により民需靴に全面転換。主にグッドイヤーウエルト式製法による紳士靴の生産、販売開始。
1958(昭和33)年 8月わが国で初めてダイレクトバルカナイズ式製法を導入。1960 (昭和35年)より同製法による安全作業靴の生産、販売を開始。1961(昭和36)年11月アメリカのブラウン社(現 クラレス社)とリーガル・シューに係る技術導入契約を締結。「リーガル」ブランドの各種紳士靴の生産、販売を開始。

 久しぶりに「千住大橋」駅に来てみて周囲の様変わりに驚き。時々、電車の車窓から再開発が進んでいるようすが見えていましたが。

                    1970年代のようす。大きな工場が建ち並んでいる。

                2010年代のようす。工場跡が整地され、再開発を待つ。隅田川のスーパー堤防も工事中。

2012年頃の駅前のようす。対岸には、高層マンション。

現在のようす。 

「日光街道(国道4号線)」を渡ります。

その先、交差する道が「旧日光街道」。以前、「日光道中」歩きで紹介しました。街道歩きの初日はここからでした。

   

    かつての商店名がずらり。

・・・

そこを横切ってさらに高架下を進みます。

ここで行き止まり。高架が続きます。

 迂回して進むと、左手に「やっちゃば緑道」。

 中央卸売市場・足立市場への引き込み線跡。JR北千住駅の南方からの引き込み線が廃止されたあと、足立区が整備して緑道にしたものです。

 

ここも以前、紹介済みです。

「やっちゃば(場)」とは「青果市場」のこと。そのせりのかけ声の「ヤッチャ~」から、ヤッチャバの名が起こったといわれています。
 現在の足立市場は「水産物専門の市場」となっています。元々は旧日光街道沿いに立ち並んだ町並みが、「やっちゃば」だったところのようです。京成千住大橋駅の東北側の旧日光街道沿いにに広がっていました。

JR線のガードをくぐって関屋駅側に出ます。

左手はJR線。

ここで京成線に近づきます。線路沿いに。

振り返る。

ここで左折して京成線のガードをくぐります。

右手に京成線。

この先、以前見つけた線路跡がまだそのまま残っていました。東武線からの引き込み線。工場の中に入っています。

 

こちらの写真は、2009年5月に投稿したもの。

岡田商事という鉄骨解体業者の敷地内。

                      

 

(「今昔マップ」より)

 

道路を挟んだ左手に東武線。

京成線のガードの向こうにはフットサルのコートなどの施設が広がっています。                       

まもなく京成関屋駅に到着。

 

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京成上野駅~青砥駅。その8。「奥の細道」矢立初めの地。「千住の大橋」言い伝え、あれこれ。

2020-06-12 19:47:23 | 沿線歩き

                     「奥の細道」行程図。

「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」。

 

千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ

行春や鳥啼き魚の目は泪

是を矢立の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送るなるべし。

『奥の細道』の本文を少し付け加えると、

 彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
・・・ 

 『奥の細道』の終着は大垣ですが、ここでは、

「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 、
 
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

と詠んでいます。

 千住と大垣ではそれぞれ、「行く春」と「行く秋」、「船をあがる」と「又舟にのりて」として、始めと終りに対称的な表現にしています。

 なお、「行(く)春や」の句は、本文執筆時にここに入れるためにつくられ、初案は「鮎の子の白魚送る別れかな」であったと言われています。魚市場があったことから「鮎の子・白魚」が句中に。

碑の裏面。

江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著した俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄2年(1689)3月27日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上がり場であった。千住は寛永2年(1625)三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。

街薄暑奥の細道こゝよりす  菖蒲園 

注:「街薄暑(まちはくしょ)」=街中が薄暑(初夏の頃の、うっすらと汗ばむほどの暑さ)に包まれていること。夏の季語。芭蕉の旅立ちは弥生。季節が少しずれています。「奥の細道」がここから、という意味で用いた? 

      

「おくのほそ道 旅立ちの地」

川沿いのテラスに下りると、千住にちなんだ解説板が並んでいます。

「千住の大橋と荒川の言い伝え」。

・大橋と大亀

千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。
この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。                                      千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「・・・・中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。ずっと以前から川の主と言われる大亀が棲んでいて、その棲家が橋の川底にあったので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、苦もなく打ち込めました。しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ、最大の注意を払いここを通り越すとほっとしたそうです。

・大橋と大緋鯉

千住の大橋から十数丁遡った対岸の”榛木山”から下流の鐘ヶ渕にいたる注意木を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。     ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いて立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。                                                 橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲できません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げ去りました。                               しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。                      その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。

 

             「千住橋戸河岸」。   ・川蒸気の登場  ・架橋と変遷  ・明治43年下町の大水害
        

初代北斎の画。

 

        

「河番付」。「隅田川」は行司役。         「橋番付」。こちらも「千住大橋」は行司役。

初めの千住大橋の橋杭材は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)の材木を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたという根強い言い伝えがある。当時の古い川柳にも 
「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」 
と詠まれた。実際、流されてしまった後も住民たちが槇の杭を拾い集め、火鉢にしたり、仏像に加工して守り神として祀るなど、半ば伝説化していた。その後の調査によってこの高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認され、前述の千住小橋の橋上から、その遺構を確認することができる。水面に浮かべられたブイが場所を示している。

 

    

 

「千住大橋際御上り場」。将軍家、日光門跡など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際、御上り場である。将軍家が千住近郊の鷹狩場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。

御上り場までの絵図(左上)
絵図によると新大橋(1698年架橋)があって永代橋(1698年架橋)がないので、この5年間に書かれたものと思われる。水路を主に陸路も書かれている。この時代は川の名称が定まっておらず、浅草近辺では浅草川となっている。千住では千住川と呼ばれていた。

千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着くようす
この図は小金原で行われた鹿狩りに向かう将軍が千住に到着するようすを描いた図です。描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。当時の将軍は12代将軍の家慶でした。

「旧記」

住掃部宿の役人、高尾家の由緒書です。千住大橋架橋伝承をはじめとする高尾家の来歴について記されており、千住大橋についての記述もみられます。普請奉行が伊奈備前守忠次、橋杭の槇の「御手伝」として伊達政宗の名前が記されています。      

       ???

 富嶽三十六景「従千住花街眺望ノ不二」千住浮世絵顕彰碑

葛飾北斎(1760-1849)は富嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関谷の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いています。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるため、画題の対象地と想定される付近に顕彰碑を建立しました。

位置的には違うようで、ここでいう「花街」とは浅草田圃・新吉原をさす、という説があります。

緻密な描写で日光道中(奥州道中)沿いの景観を描いている。猩々緋(しょうじょうひ)の附袋を被せた鉄砲と毛槍の隊列は国元へ向かう盛岡藩(南部藩)の行列と考えられている。画面奥の塀に囲まれた整然とした家並みは花街、遊郭である。近景の右方向へ進む大名行列、中景に稲刈りも終わった田圃、遠景の花街と富士、この三層をまっすぐに伸びた畦道が結ぶ。その真ん中で休息をとる二人の農婦が面白そうに行列を眺めている。

※山谷(東京都台東区)
…日光道中から、板塀に囲われた新吉原(吉原遊郭)を手前に富士を望む。手前の緑地は遊郭への通路となった日本堤であろう。『江戸切絵図』には、吉原遊郭から北東へ日光道中に直接向かう道があり、図中で女性が座って行列を眺める道と一致する。表題は千住となっているが、隅田川右岸の浅草山谷町付近からの風景と推測される。

(この項、「」HPより)

 

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京成上野駅~青砥駅。その7。「三河島水再生センター」。隅田川。スーパー堤防。大橋(千住の大橋)。河岸。

2020-06-11 19:48:51 | 沿線歩き

              隅田川方向に進みます。

 

「隅田川」に架かる鉄橋。

町屋駅方向を振り返る。

 幾分カーブしているところが「藍染川」流路跡らしく感じます。右手には「荒川自然公園」。この公園は、「三河島水再生センター」の水処理施設の上部空間にあたります。
 「三河島水再生センター」は、1922年(大正11年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場。

 (以下、東京都下水道局HPより)

 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設
 大正11年3月の設立当初から稼働した赤いレンガ造りの喞筒(ポンプ)室は、水再生センターのシンボル的な施設でしたが、平成11年3月に別系統のポンプ施設に切り替え、引退しました。
 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設は、「わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、高い歴史的価値が認められ、また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物が、旧態を保持しつつまとめて残る点も、近代下水処理場喞筒場施設の構造を知る上で貴重である」と評価され、平成19年12月に国の重要文化財(構造物)に指定されました。・・・

 三河島水再生センターの下水処理方法は、散水ろ床法をかわきりに、昭和9年には、パドル式活性汚泥法(鋼製の水車を回転させ空気を取り入れる方法)、昭和34年に散気式標準活性汚泥法を採用し今日に至っています。

 かつては、下水処理システムが開放施設だったため、電車内にも悪臭が漂ってきましたが、現在は、まったくそういうこともなく、上は公園として近隣住民の憩いの場所となっています。

ここで隅田川の堤に出て、「千住大橋」まで回り道をして進みます。                                         遠くに「千住大橋」。

上流方向。京成線の鉄橋が。

 両岸とも堤防の大改修と再開発が進み、高層マンションなどが出来ています。下水道の整備と生活・工業用水の流入もなくなり、川も浄化され、きれいになりました。昭和30年代ころは、ここから下流は、鼻をつく悪臭漂う隅田川でしたが。

 

            

変化する堤防の役割とスーパー堤防整備

・・・東京都は、隅田川など東部低地帯のカミソリ堤防をスーパー堤防に代表される土でできた河川堤防に改築していくことにしました。土の堤防は、大地震にみまわれても大きな損傷を受けることがなく、仮に損傷しても土でできているために応急措置が容易に行えます。さらに、現在のカミソリ堤防を取り除くことができ、人々が河川に身近に接することができるようになります。・・・今回完成した南千住北地区は、河川背後地のマンション建設や周辺道路の整備などの住宅開発事業と一体となって整備することができました。

左岸が「千住大橋駅」付近。

「スーパー堤防」上では親子連れや犬を連れての散策、のんびり自転車、など楽しんでいます。足下には草花が。

                 

京成線の鉄橋上流には、まだカミソリ堤防が残っています。

「カミソリ堤防」の例。―東京今昔物語 (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ )より―

ここで土手を離れ、「千住大橋(大橋)」に向かいます。遠くに「スカイツリー」。

千住の河岸」解説板。

 江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
 材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化2年(1845)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。

 

「千住大橋」=「大橋」。

 最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。 
 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。 
 伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたと言われる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱を使って綱引きをして、吉凶を占う行事があった。 
 架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。 
 千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ。なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。 
 その後、明治19年(1886年)に[1]二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。

(歌川広重作『名所江戸百景』より「千住の大はし」)

(この項、「Wikipedia」参照)

 「千住大橋」碑。

 ”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、30余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。

 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973)、新橋がそえられた。

 昭和59年(1984)3月 東京都

隣に歌川広重作『名所江戸百景』より「千住の大はし」のレリーフ。

 

「親柱」。

 千住大橋の上流側には親柱が一部残されていて、平成17年(2005年)1月に橋全体の塗装補修工事が行われた際に、合わせて親柱の復元改修が行われました。電灯が再設置されるなど架橋当時をできるかぎり復元したものです。

千住大橋は日光街道の出立口。ちなみに、隅田川に架橋されている橋で、「はし」はこの「千住大橋」と「新大橋」の二つ。あとの橋は、「ばし」とにごる。

1880年代のようす。2010年代のようす。

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京成上野駅~青砥駅。その6。「藍染川通り」再訪。「花の木(橋)」交差点。都電荒川線。

2020-06-10 20:45:49 | 沿線歩き

                       「藍染川西通り」。

 この「藍染川」通りは一度歩いたことがあります。そのときの投稿を再掲。(2013年9月)

 藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
 「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」と東京都下水道局HPにありましたから、かなり初期の頃に造られたことが分かります。

 今回は、その藍染川通りを日暮里から町屋までたどってみました。すべて暗渠、京成線高架沿いの、ほぼ直線で広い舗装道路となっていて、痕跡はほとんどありません。 

ここからスタート。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部? 
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。

JR貨物線の踏切を越えると、京成線高架沿いに直線で進みます。

(「今昔マップ」より)

(左図)京成電車がまだなかったころ。↓が暗渠になる前の「藍染川」。
(右図)現在。京成電車は藍染川に沿うように建設されたことが分かります。

町屋駅にかけて、京成線の高架下には小さな工場や商店がありました。それらもすべて撤去されています。

どういう工場だったのでしょうか。「禁煙」の表示や人名が残されています。

工場の名が。

・・・

今回歩くと、ガード下はきれいになり、壁も塗り替えられてかつての名残りはまったくありません。

「こばと商店街」。

「新三河島駅」。

「明治通り」を渡ります。ガード上に「新三河島駅」のホーム。

この先は、「藍染川通り」となります。

来た道を振り返る。

以前と同じうちが健在でした。

                           

「花の木橋」交差点。暗渠になる前は、大きな橋が架かっていたようです。

京成線のガードは今時珍しい印象。                  鉄骨の組み合わせが絶妙。

「藍染川通り」に面したトタン葺きの平屋のおうち。

京成「町屋」駅。千代田線や都電荒川線の乗換駅。

都電が通過中、上が京成線。

        

地域に愛され続ける唯一の都電
 都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋~早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが満載です。                              

東京さくらトラムについて
 東京都交通局では、「東京さくらトラム」を都電荒川線の愛称として決定しました。
これまで以上に皆様に愛され、親しんでいただけるよう、都電や沿線の魅力を国内外に広くアピールしていきます。

(この項、「」HPより)

 最盛期(1955年頃)には営業キロ約213km、40の運転系統を擁し、一日約175万人が利用する日本最大の路面電車でしたが、モータリゼーションの進展や営団地下鉄、都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していきます。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると、再建策の一環として1972年までに廃止されることになりました。1974年に唯一、荒川線の存続が決定して現在に至ります。 

(「Wikipedia」より)

 この「荒川線」が存続したのは、                                      ①三ノ輪橋~早稲田間の9割が道路と分離された専用軌道のため、道路渋滞の影響が少なかったこと          ②並行する道路がなくバスによる代替輸送が難しかったこと                           などから、地元の強い要望を受けて1974(昭和49)年に永久存続が決定しました。元々は2系統の路線を一体化して「荒川線」が誕生しました。
 他の路線については、ほとんどの区間が併用軌道(道路上に敷設されている)で、交通渋滞に与える影響が大きく、地下鉄やバス転換が容易であったために廃止されました。

注:荒川線の前身は、「王子電気軌道」という私鉄でした。

線路沿いにバラの花が満開。 

          

 一度、「早稲田」から「三ノ輪」まで乗ったことがあります。車窓風景や乗降客のようすなどけっこうな乗り心地でした。今度、沿線を歩くということを企画してみたい。

 

人種的平等、そしてそれをさがしもとめる人々を、私たちは支持します。(「Google」)

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京成上野駅~青砥駅。その5。「山吹の花一枝」像。日暮里舎人ライナー。藍染川。

2020-06-09 20:53:39 | 沿線歩き

                   「山吹の花一枝」像。太田道灌像に対面する女性の像。

荒川区HPより)
2018年5月23日 · 
【山吹の里伝説・日暮里に銅像~「山吹の花一枝」像 除幕式~】
 平成30年5月23日(水曜)、JR日暮里駅前広場において、平野千里(ひらの・せんり)氏作「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)像の除幕式が行われました。
 これは、東京荒川ライオンズクラブ設立55周年を記念して、同クラブが荒川区に寄贈したものです。「山吹の花一枝」像が、30年前にも設立25周年を記念して区に寄贈された太田道灌(おおた・どうかん)騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)の近くに設置されたことで、山吹の里伝説にちなんだ像2体が並び立つことになりました。
 「山吹の花一枝」像は、日暮里の地ゆかりの武将・太田道灌の山吹の里伝説にちなんで制作されたもので、太田道灌が鷹狩の途中で急な雨にあい蓑を借りるために立ち寄った農家で、出てきた娘が蓑がないことを山吹の一枝を差し出して伝えたというものです。 また、今回の銅像制作は、荒川区顧問であり、日本を代表する彫刻家の平野千里氏の手によるもので、区内ではJR南千住駅前に立つ松尾芭蕉像も平野氏の作品です。

日暮里駅前にある「太田道灌像」。 

若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話があります。

ここで「落語」を紹介。

道灌 (落語) 
あらすじ
「岩田のご隠居」宅に遊びに来た八五郎は、隠居に張りまぜ(=複数の絵を貼った)の屏風を見せてもらう。八五郎は絵のひとつについて、「シイタケの親方みてェな帽子かぶって、虎の皮のモモヒキ履いて突っ立ってるあれは誰です?」とたずねる。それは太田道灌の「山吹の里」の伝説を描いたものであった。隠居は以下のような道灌の逸話を語る。 
室町時代中期の武人・道灌は、狩りをしている最中に村雨に遭い、雨具を借りようと1軒のあばら家に立ち寄った。15歳くらいの少女が出てきて、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ山吹の枝を盆に乗せて差し出し、頭を下げた。道灌が意味をつかみかねていると、家来のひとりが「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』という古歌がございます(後拾遺和歌集・兼明親王作)。これは『実の』と『蓑(みの)』をかけ、『お出しできる雨具はございません』という断りでございましょう」と進言した。これを聞いた道灌は「ああ、余はまだ歌道(かどう)に暗いのう」と嘆き、それ以来和歌に励み、歌人として知られるようになった。 
これを聞いた八五郎は「うちにもよく傘を借りに来る男がいる。ひとつその歌で追っ払ってやろう」と思いつき、歌を仮名で隠居に写してもらって帰宅する。ほどなくして雨が降り出し、その男が飛び込んでくる。からかうチャンスがやって来たと感じた八五郎は内心で喜ぶが、男はすでに傘を持っていて、「提灯を貸してほしい」と八五郎に頼む。雨具でなければ「蓑ひとつだに」ができないため、八五郎は困り、「『雨具を貸してください』と言やァ、提灯を貸してやらァ」と男に告げる。男がしかたなく「雨具を貸してくれ」と言うと、八五郎は少女を演じ、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ、歌が書かれた紙を差し出した。男はそれを「ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ」とつかえながら読み、「短(みじ)けェ都々逸だな」と感想を漏らす。八五郎が「都々逸う? おめえ、よっぽど歌道が暗(くれ)ェなァ」とからかうと男は、 
「カド(=角)が暗ェから、提灯借りに来た」

(この項、「Wikipedia」参照)

右の頭上に「日暮里舎人ライナー」。

 

京成の日暮里駅も大改造されています。成田空港まで「スカイライナー」が発着します。変則的な駅の構造ですが。

「ひぐらしの里」とある。

駅前も大きく様変わり。高層ビルが建ち並んでいます。

高架線に沿って、「新三河島」駅に向かいます。

                        

駅方向を振り返る。「音無川」跡の道。

JR常磐線。

頭上が京成線。

その上に「日暮里舎人ライナー」。正面奥が西日暮里駅付近。

京成線の高架脇を進みます。

JR貨物線の踏切を渡ります。

と「藍染川西通り」との表示が。

ここから町屋駅の先までかつて流れていた「藍染川」跡の道路を進むことに。

 

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京成上野駅~青砥駅。その4。羽二重団子。芋坂。正岡子規。音無川。日暮里。

2020-06-08 20:43:53 | 沿線歩き

                  羽二重団子」。

「団子の由来」解説板。

芋坂も団子も  月のゆかりかな  子規

 江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせゝらぎと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました。 文政2年小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。この団子はきめが細かく羽二重のようだと称され、そのまゝ商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を受け継いでおります。

 

                「子規の句碑」。
              芋坂も団子も月のゆかりかな

角に「王子街道」という道標。「音無川」が王子から流れてきているという証。

「羽二重団子」脇の「芋坂」。

「芋坂」から通りを望む。

羽二重団子(はぶたえだんご)は東京都荒川区にある株式会社羽二重団子が製造販売している団子。
 きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来で、そのまま名前となった。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類が売られている。串団子であるが、粒の形が一般的な球形ではなく厚みのある円盤状なのが特徴的。
 文政2年(1819年)、初代 庄五郎が「藤の木茶屋」を武蔵野国谷中本村字居村(現在地 東京都荒川区西日暮里 付近) に開く。当初の品名は「大だんご」であった。 のちに団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、慶応4年の二代目庄五郎の頃には菓子名「羽二重だんご」、屋号も「羽二重団子」となっている。(以上、「Wikipedia」より。)

 以下、「羽二重団子」HPより。

●江戸の昔より、日暮しの里・呉竹の根岸の里といえば、音無川の清流にそうた塵外の小天地として知られました。花に鶯、流れに河鹿、眼には遥かな荒川の風光にも恵まれて、人々は競ってこの智に別荘を設けました。くだって明治大正の頃まで、粋で風雅な住宅地として憧れの土地柄でありました。
●文政二年、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。こうして創業以来六代百八十年、今も江戸の風味と面影をうけ継いでいるのでございます。
●団子というものは、そもそもは中国渡来の野趣ある菓子でありましたが、江戸時代に入って普及したものです。ことに元禄年間には名物団子が随所に現れ、流行になりました。けれども今日では、昔からの名ある団子が都内ではほとんど見られなくなりましたことは、いささか心さびしいことです。
●羽二重団子は、その光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが身上です。よく吟味した米の粉を搗抜いて、丸めて扁たく串にさします。昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類を商っております。材料の吟味に製法に、家伝に即した苦心を怠らず、いまの東京に類をみない古風な団子をご賞味いただけるのも、代々のご愛顧のたまもの、商売冥利と存じております。

 

「芋坂」の説明板。

 芋坂
 善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。坂名の由来は未詳。明治15年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が、失われてしまった。伊藤晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいをよくあらわしている。   荒川区教育委員会

1880年代のようす。

上の赤丸が善性寺、下の大きな赤丸が芋坂と思われる。

2010年代のようす。

左上が「日暮里駅」。カーブしながらJR線を越えていくのが京成線。芋坂は跨線橋として存在(中央付近)。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「芋坂」とこの付近は、2013年9月に訪れています。その時の投稿。

「芋坂」の説明板。

慶応4年(1868年)、上野の山での官軍との戦いに敗れた「彰義隊」が「芋坂」を逃げ落ちて行った、と。


「芋坂跨線橋」。JR線に架かる歩道橋。

芋坂跨線橋からスカイツリーを望む。

渡りきった谷中側にある説明碑。「芋坂」。
 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が、「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因んだという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
   芋坂も團子も月のゆかりかな 子規

「正岡子規と当店」。

 子規居士が上根岸町82番地に居を構えたのが明治25年である。爾来、亡くなる明治25年までの十年間随分とご愛顧を頂いたと当店四代目は伝える。
 『仰臥漫録』から明治34年9月4日の日記を抜粋すると「芋坂団子を買い来たらしむ(これに付き悶着あり)あん付き二本焼き一本を食う」とある。多分悶着とは妹の律さんと当店の団子のことで言い争いがあったのであろう。旺盛な食欲が日記から推察でき、死を目前にした子規居士の人間味を彷彿とさせる。
観月会
芋坂の団子の起こり尋ねけり
根岸名所の内
芋坂の団子屋寝たりけふの月
短歌会第四会
芋坂の団子売る店にぎはひて
 団子くふ人団子もむ人
俳諧稿巻一より
子規歌集より

 他にHPでは次の俳句も紹介されている。
芋阪に名物の團子あり
名物や月の根岸の串團子
秋昔三十年の團子店

「将軍橋と芋坂(善性寺)」の説明板。

 善性寺は日蓮宗の寺院で長享4年(1487)の開創と伝える。・・・宝永年間(1704~1711)、(六代将軍徳川)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政2年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の羽二重団子)がある。芋坂も団子も月のゆかりかな 子規 

門前の通り。音無川跡の道。根岸方向を望む。

「東京消防庁荒川消防署音無川出張所」。
消防車。表示が「音無川」となっている(○のところ)。

「日暮里駅」前より音無川跡(来た道)を振り返る。久々にやってきて、大きく変貌した駅前のようすにびっくり! かつては安い大衆酒場があったり、ラーメン屋があったり、と雑然とした町並みだった。

 日暮里から王子までは音無川跡もJR敷地内だったり不明だったりで、跡をたどるのはここまで。ただし、駅前から西日暮里駅に向かう蛇行した道が「音無川」跡のようです。

・・・以下今回。

日暮里駅方向に進みます。

日暮里駅前の通り。

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京成上野駅~青砥駅。その3。「寛永寺」。「寛永寺坂駅」跡。「東臺門」。

2020-06-05 20:53:33 | 沿線歩き

             「区立上野中学校」前の通り。京成線はこの道路下を通り、上野の山を下ります。

その手前で直進して、右折すると寛永寺の大きな霊園。通りに面したところに、「厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門」。

 江戸幕府第4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝8年(1680)4月8日に39才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの難を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。(以上、台東区の解説板より) 

多くの建物が消失しているのが分かります。

歩いていると、下から電車の通過音が。

寛永寺」。葵のご紋。

おしゃれなバス。

台東区循環バス「めぐりん」は、台東区内を循環するコミュニテイバスで、「北めぐりん(浅草回り)」「北めぐりん(根岸回り)」「南めぐりん」「東西めぐりん」「ぐるーりめぐりん」の5路線が運行しています。皆様のご乗車をお待ちしております。

(この項、「」HPより)

「言問通り」にぶつかります。京成線は、この先で、左斜めに進んで行きます。

              

↓が地上に出る京成線。

「言問通り」に面して「寛永寺坂」駅がありました。現在は、地上部分は、コンビニになっています。

           

以前訪れた時には、倉庫会社があって、社屋がかつての駅舎を流用していました。その時の投稿記事と写真(2012年5月)。

寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま使われている。

 寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
 駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。
「国旗掲揚塔」跡。コンクリートの土台部分が残っている。それによれば、紀元2600年・昭和16年12月8日(時あたかも、真珠湾攻撃の日)に建立となっている。まさにそこにも記されているように「国威発揚」の時代であった。

・・・

2012年に訪問した時は、まだ当時の駅舎の原型が保たれていました。コンビニになってすっかり様変わり。当時あった「国旗掲揚塔」跡も既に無くなっているのでしょうか? 駅前広場は、現在、駐車場として残っているようです。

「谷中霊園」への道。

開口部。トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。

 ここに掲げられている扁額。 揮毫は京成電気軌道の創立者、本多貞次郎によるもの。右から左に「東臺門」と刻まれています。 トンネルの入口であることからの命名。

「臺」=「台」。

「日暮里駅」方向を望む。

「言問通り・寛永寺陸橋」を渡り、日暮里側へ。

この先、「羽二重団子」から日暮里駅と続きます。途中のお店。

頭上が京成線。

           右の高架線が京成線、左がJR線。奥が「京成日暮里」駅

 

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京成上野駅~青砥駅。その2。「旧博物館動物園」駅。「黒田記念館」。旧帝国図書館。

2020-06-04 21:01:19 | 沿線歩き

                     「旧博物館動物園」駅。

さて、元の道に戻って。「博物館動物園」駅はすでに廃駅となっています。このブログでも取り上げたことがあります。

以下、2012年5月投稿

「博物館動物園駅」。1933(昭和8)年、上野駅まで京成本線が開通したのに合わせ、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、東京科學博物館、恩賜上野動物園や東京音樂學校・東京美術學校(現在の東京芸術大学)などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少のため、1997(平成9)年に営業休止、2004(平成16)年に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存する。
 相対式ホームで、上下線で互い違いにホームが設置されていた。改札口は上りホーム側に設置されていた。地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館の敷地内と上野動物園旧正門へ続く2か所があった。
 前者は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古く、営業休止時まで供用されていた。後者は、昭和40年代に現行の動物園正門が開設されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。
 地下の壁面には東京芸術大学の学生が描いたとされる「ペンギン」「ゾウ」の絵画がある。最後まで木製の改札ラッチが使われていた。大規模な改修を受けなかったため、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く残していた。また、自動券売機が設置されなかったため、当駅発行の乗車券は駅員による手売りであった。 
 ホームや通路は薄暗く、壁はむき出しのコンクリート、さらには戦前、戦中、戦後にかけての長い営みを経てところどころで煤けていた。改札からホームへ向かう階段の途中にトイレが設置されていた。
 当駅の休止にあたって、「記念乗車券(ありがとう博物館動物園駅 営業休止記念乗車券)」が発売され、5枚セットの各硬券乗車券には、ホームや改札、ペンギンの絵画など、当駅の特徴あるイメージが添えられていた。
 休止・廃止された理由として、ホームの有効長が短いため、京成では最も短い4両編成しか停車することができず、その4両編成でさえも先頭車両の端の部分はホームからはみ出している状態だった。はみ出ている部分には列車と壁の隙間に台を設置して対応していたが、このことが安全面で問題になっていた。
1981(昭和56)年以降、普通列車の一部が6両編成になったことで停車する列車本数が減り、乗降客の多くが南隣の本線の終着駅・京成上野駅を利用するようになった。同駅からの距離は0.9kmと近い。
 休止直前は営業時間が7時台から18時台までで、1時間に1本も列車が停車しない時間帯があった。駅員は一人勤務であり、駅員の休憩時間確保のためにこのようにしていた。さらに、開業以来本格的な修繕がなされていないため、老朽化が進んでいた。自動券売機や自動改札機が設置されておらず、改修や維持に大規模な投資が必要だった。
 乗降客数が最も多かったのは、1972(昭和47)年に中国からジャイアント・パンダが上野動物園に来園し、その後に起こったパンダブームの頃と言われる。
 現在、駅舎(地上部分)である西洋式建物の地上口には、廃止となってから「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲示された。この地上口は扉こそ閉じられているが、休止前と変わらない。
 地下施設のホームや改札も休止前の状態を保っており、列車が通過する際のわずかの間に見ることができる。上下線とも進行方向左側を眺めていると、地下道、地上への階段、案内表示などがそのままであるのがわかる。非常灯が点灯しているが暗めである。
 1991(平成3)年頃から「上野の杜芸術フォーラム」(2003年よりNPO法人)を中心に「M in M」(Museum in Metro)と称し、西洋式建物を含めた地下施設の保存・再生を提案している。なお、営業休止以降も西洋式建物については定期的にクリーニングを行っている。また、毎年9月から10月頃にかけてこの界隈で開催されるイベント「art-Link 上野 - 谷中」にも度々当駅を利用した企画が行われている。
1995,1996年の3月には、駅構内をアート空間として照明・音響・映像などの演出を試みる『光と音のインスタレーション』というイベントが催された。
2010(平成22)年12月から駅舎取り付けの照明灯が復元された。電球はLEDのものを使用している。
                                                (以上、「Wikipedia」参照) 

 子どもの頃、親に連れられて、あるいは小学校の遠足で、上野動物園や博物館に行くのに利用した記憶があります。上の記事のように、薄暗く、何だか空気が淀んだような臭いがして、子供心にもあまり利用したくない駅でした。長じてからは利用した経験がありません。上野駅の方で降りた、というよりも動物園などにも行かなくなったということでしょうか。
 帰りの電車。出発して右に左にカーブを繰り返し、スピードを出し始め、あっという間の通過ですが、ホームがはっきりと見えました。明かりが灯されて黄色の柱、壁も見えたような・・・。

「下り線ホーム」。

京成電車。かつて走っていた電車の色調。今も4両編成。

・・・

注:現在は、4両編成の電車は走っていない、と思います。 なお、今年の2月の土曜・日曜・祝日を中心に、一般公開をしたようです。

すぐそばにある「旧東京音楽学校奏楽堂」。

「滝廉太郎」像もこの一画にあります。

案内図。

↓が京成線(地下)。○が大きく左に折れるところ。

案内銅板」。なかなか見事です。

 さて、地下を走る京成線を地上からたどっていきます。

黒田記念館」。

 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館です。館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和5(1930)年には、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。 
 平成12(2000)年の新庁舎の竣工により、東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとなりました。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、平成13(2001)年9月に開館、平成14(2002)年には国の登録有形文化財となっています。 
 平成19(2007)年4月1日には独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置されました。これにともなう組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管されました。 
 平成24(2012)年4月からは、耐震補強を中心とした改修工事のため閉館していましたが、平成27(2015)年1月2日にリニューアルオープンいたしました。

 

注:赤い線が地下を走る京成電車の路線。

(この項、「」HPより)

国立国会図書館 国際子ども図書館」。

 「国際子ども図書館」に使用されている「旧帝国図書館」はルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつで、久留正道により設計され、東京都選定歴史的建造物に選定されている。旧帝国図書館は1906年竣工の第一期工事と1929年竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリートである。 
 この建物は国際子ども図書館に転用されるにあたり安藤忠雄建築研究所と日建設計により設計、鴻池組により改修が行われ、2002年に完成、全面開館した。改修においては歴史的建造物の保存と再生、現代の施設としての活用が掲げられ、外装、内装は旧態を残すよう極力保全するとともに、徹底的に補修、復元を施した。復元は古写真を利用したシャンデリアの模造復元にまで及んでいる。歴史的建造物の保全という方針も徹底しており、室内でも床を本来の床板より数十cm上にパネルで底上げし、パネルと本来の床の間の空間に空調ダクトや照明ケーブルなどを通している。 
 また、旧態の復元・保存と現代の施設としての機能を両立させるため公道のある側とは反対の西側壁面をガラスのカーテンウォールで覆い、旧西側外壁の外側に張り出すように箱型の建造物を増築した。箱型増築部分は旧建造物では階段や回廊が狭かった問題を、外側に大型のラウンジを付け足すことによって解消し、またエレベーターや空調などの近代設備を歴史的建造物を傷つけることなく設置した。加えて東西を貫く形で一階建てのガラスボックス建造物を張り出させ、公道側の東にエントランス、中庭側の西にカフェテリアを新設した。 
 この改修は高い評価を受け、第45回BCS賞(建築業協会賞、2004年)、第15回BELCA賞(建築・設備維持保全推進協会賞、2006年)を受賞した。週二回行われる国際子ども図書館の見学ツアーのうちの木曜日の14時から行われる回は、建物の特徴、由来に絞って説明が行われている。 

(この項、「Wikipedia」参照)

 

右 小泉八雲記念碑
先生原名ハらふかぢお・へるん英国ノ人西紀千八百五十年地中海ノれふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
 昭和10年(1935)6月

かなり重厚な趣で、存在感のある建築です。はじめて知りました。

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京成上野駅~青砥駅。その1。京成上野駅。上野のお山の散歩。お化け燈籠。野口英世像。

2020-06-03 20:07:06 | 沿線歩き

    5月24日(日)。晴れ。外国人観光客用の宣伝も、心なしか元気なさそうな日曜日の午前。

 今回は京成上野駅から青砥駅まで。「京成本線」。

 京成上野→日暮里→新三河島→町屋→千住大橋→関屋→堀切菖蒲園→お花茶屋→青砥

 上野と日暮里の間には、廃駅となった「博物館動物園、「寛永寺坂」がありました。その現状も含めて。

暑い一日でした。しかし、自粛解除前のため、上野公園は、動物園も博物館も閉鎖されていて、ほとんど人出もなく、親子連れや散歩する地元の方などが目立ちます。こういう人通りの少なさは、今後、滅多にないでしょう。

京成上野駅 

 京成は都心側ターミナルとして上野乗り入れの免許を持っていた筑波高速度電気鉄道を買収し、その免許を利用して当駅へ延伸を行うこととなった。 
 上野公園地下線建設時の条件として、もともと上野恩賜公園が御料地から1924年、当時東京市に払い下げられたものであり、「公園の樹木、特に桜の根を損傷してはならない。寛永寺などの建造物に影響を及ぼしてはならない」などの厳しい条件を付けられた。後年行われた大規模改良工事の時も公園の環境保全には特に注意が払われていた。 
 太平洋戦争末期に陸運統制令による強制収用で当駅 - 日暮里駅間の営業を休止し、下り線を三線軌条化した上で地下線内に国鉄車両を搬入して指令設備などが置かれたが、実際にはあまり使用されなかったようである。また、上野駅構内を軍需工場に転用するための検討が行われ、機材の配置図面作成や条件交渉が行われているうちに終戦を迎えたという。

1929年(昭和4年)2月12日 - 筑波高速度電気鉄道が免許を取得。
1930年(昭和5年)10月15日 - 筑波高速度電気鉄道が京成電気軌道(現・京成電鉄)と合併。
1933年(昭和8年)12月10日 - 「上野公園駅」として開業。
1953年(昭和28年)5月1日 - 「京成上野駅」に改称。
1972年(昭和47年)10月25日 - 「スカイライナー」運行開始に伴う大規模改良工事を開始。
2019年(平成31年)3月19日 - リニューアル工事が完了。

 地上への出入口は、東日本旅客鉄道(JR東日本)上野駅および上野公園(西郷銅像付近)の入口に近い正面口と、池之端口(2か所)の計3か所が存在している。また改札外地下通路を通じ、中央通りを隔てて対面にあるヨドバシカメラ マルチメディア上野店にも、当駅連絡通路としてアメヤ横丁方面出口が設定されており、店内地下1階を経由して連絡している(始発から22時まで)。 
  開業時の駅本屋は、現在の当駅正面口から中央通りを隔てて対面になる位置に建設され、「京成聚楽ビル」「上野京成ビル」等の名称があった。大日本食堂(現:聚楽)の運営する飲食店が入居していたが、戦後は京成電鉄本社として機能し、その後1969年から1977年まで「上野京成ホテル」として使用された。末期にはヨドバシカメラ上野駅前店や飲食店等のテナントが入居し、ビル内の駅出入口も「アメ横口」として残されていたが、老朽化に伴い2006年に解体された。跡地にはヨドバシカメラのビルが建設され、ヨドバシカメラ マルチメディア上野店となっている。上野中央通り地下通路が完成してからは、同通路を通じてビル地下1階に連絡している。 

(以上、「Wikipedia」参照)

  当時の京成上野駅。地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だったのでしょう。子供の頃の印象では薄暗く、独特のにおいが漂っていたような。地下道には床屋さんとか飲み屋さんがあった、と。そんな上野駅ですが、今は、外国人観光客の利用者も増えて、こぎれいな駅に様変わりしています。今はまだ、ほとんど外国人の姿は見かけませんが。

 さて、地上に出て、上野公園内を。

緑も濃くなった上野公園。

 京成線は日暮里駅の手前、JR線を越える付近でトンネルから地上に出てきます。それまでは上野の山の地下を抜けていきます。

「しのぶ川」。

                     

 

       小松宮彰仁親王」銅像。

 小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。 
安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867) 勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。 
同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。 ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。 
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。 
同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。 
同36年1月18日、58歳で没。 
銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。 
作者は文展審査員の大熊氏廣。
「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

人通りはこの程度。正面は、「国立博物館」。

 ○のところに「京成本線」とある。

この案内板で確認すると、京成線は「寛永寺・お化け燈籠」、上野動物園入り口付近、「都美術館」の脇を抜け、「区立上野中学」前の道路下を走っているようです。

上野駅(地下)方向を望む。

 

                   お化け燈籠」。

 佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の灯籠で、
  奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
  東照大権現御宝前石燈籠
   寛永年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この灯籠を寄進したのである。
 勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北條氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を領した。
 燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.36メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。

上野動物園」。この時は、まだ休園中。

 「初代歌川広重 東都名所上野東叡山全図

少し道をそれて、東側に。

野口英世」像。

野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。明治31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、明治33年(1900)12月に渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。
 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩武術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定した。
 昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
 なお、銅像全面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会が設置したものである。

こちらは「旧奏楽堂」にある「滝廉太郎」像。

「国立科学博物館」。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その8。立石様。駅周辺再開発計画。青砥藤綱。

2020-05-29 21:08:42 | 沿線歩き

                      京成線の線路にぶつかります。高架工事中。都内各地で立体交差事業が進められているようです。

京成の踏切脇の電柱には「4.0m」の表示。ここは、4㍍以上浸水するおそれが。

見上げると、はるか高いところに赤い線(→)。

そういえば、昔からこの辺りは台風の度に浸水して、救助ボートが出たりしたところだった記憶が・・・。

立体交差工事が進展中。

踏切を越えて、左に曲がりますが、先ほどの道とは直線でつながっています。「立石大通り」=「奥戸街道」。

                 

実はこの通り。「古代東海道」であると同時に京成電車が路上を使用していました。

左の↓が線路。右の↓が「立石大通り」。途中で現在の線路に合流。○が旧立石駅。(「今昔マップより)

「立石」という地名になった「立石様」。現在は、立石8ー37ー17の児童公園内の祠にある。

葛飾区指定史跡 立石

 古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)年の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名が出ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
 地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
 この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。

 ここにもあるように、用途などは、はっきり分かっていない。掘り起こそうとして災難に遭ったという伝説や、掘り出そうにも掘り出せない「根あり石」とも。
 一説では、古代において官道脇に道しるべとして石を設置することがあったとか。その一つではないかという。
 ただ「立石様」は古墳時代に千葉県の鋸山付近から古墳の石室を造る石材として運搬してきたものであると言われ、またこの近くには古墳もいくつか発掘されていて(「立石様」とは目と鼻の先にある南蔵院裏古墳など)この辺りにも別の古墳が存在していたとも考えられ、その一部ではなかったか。
 それが、奈良時代以降になって墨田区墨田から江戸川区小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられる。
 「立石様」は、江戸時代には地上60センチ以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。現在では、わずかに数センチほど露出しているにすぎない状態。

写真は、その部分。

途中で左に折れ、線路脇に。

この道は「水道路」。金町浄水場から一直線で延びる水道管が敷設されています。

立石駅方向。四つ木方向。

「立石駅」ホーム。

         

線路の南にある「立石仲見世商店街」

 ここは戦災で家を焼かれた浅草の飲食業者が疎開してきて露店を始めたところだ。「仲見世」という名前は、彼らのルーツである浅草を偲んで命名されたらしい。
 狭い通路に惣菜屋や居酒屋などが立ち並び、雑多な雰囲気を醸し出す商店街の上にかかるアーケード。1960年に作られた古いもので、レトロの雰囲気。

こちらは少しモダン。

 

 

せんべろの街「呑んべ横丁」駅の北側。

 人がすれ違うのがやっとな狭い通りに飲み屋が連なる昭和の雰囲気。ここも再開発で半数以上が取り壊され、残りも余命幾ばくぞ、という印象。

立石駅北口地区第一種市街地再開発事業

 この項「」HPより)

京成線の西北側(下り線側)で工事が進行中。

線路沿いに歩くと、行き止まりに。踏切を渡って下り線側へ。

           

こちら側が工事中に。

まもなく「青砥駅」。上野線との乗換駅。

          青砥駅。地名は「青戸」ですが駅名は「青砥」?

 講談の太平記に登場する青砥藤綱が由来とされる。町名は江戸時代の川運の港を意味する「戸」からきた青戸であり、混同されることが多い。また、駅開業時は亀青村青戸ではなく、本田町中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の住居表示施行後である。(この項、「Wikipedia」より)

青砥藤綱

 出身は上総とも武蔵ともいう。青砥藤満の妾の子という伝承もあり。『弘長記』によれば伊豆の武士で承久の乱で上総国青砥荘を領した大場近郷の子孫と伝えられる。11歳の時に出家したものの、21歳の時に還俗して家に帰った。学問に優れ、儒教や仏教に広い知識を有していたという。 
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。この時、藤綱は28歳であったという。 
 ある人が時頼と所領を争ったさい、奉行人たちはその権威をはばかって敗訴としたのを、藤綱は道理を重んじて所領を返し、その人が謝礼に贈った銭をも返した。これによりその公正・剛直が広く知られるようになった。 
 かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。 
 次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。 
 『太平記』巻35においても藤綱の逸話が記され、『大日本史』にも載せられている。また、現在の葛飾区青戸や横浜市金沢区富岡に屋敷があったとする伝承も存在するが、その実在には疑いが持たれている。 
 江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。

『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ)

 文久2年3月(1862年3月)に江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」。

 石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。 
 「白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)や、二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」では「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差して男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが名高い。花道を堂々と登場後、舞台に来て捕り手を前に五人組が勢揃い。一人ずつ「渡り台詞」で見得を切り、縁語や掛詞を駆使した七五調のリズミカルな「連ね」で名乗る姿には歌舞伎の様式美が凝縮されている。この様式ははるか後世の『秘密戦隊ゴレンジャー』を初めとする子供向け「戦隊もの」のヒーロー番組にまで受け継がれている。「青砥」は追っ手の名前青砥藤綱に因む。

(以上、「Wikipedia」参照)

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その7。玉子屋。「キャプテン翼」。旧線路跡。古代東海道。

2020-05-28 19:46:17 | 沿線歩き

                         四ツ木駅。

昔からあるお店「玉子屋」さん。

割烹 玉子家
玉子家の玉子丼は500円という安さ!
90年程前に、ここ四ツ木にはお店が少ないからと、料理屋をはじめた先代。
もともとは、養鶏をしていたのですが、高速道路建設のため移転した時に
養鶏は辞め、料理屋のみにしてしまったそうです。
卵は産みたて、鶏も冷凍では無い直産ものにこだわっています。
こちらの玉子丼は、卵本来の味を損なわないよう具は玉葱、筍、椎茸、三つ葉だけです。
シンプルではありますが、食べ応え十分。汁物、煮物、漬物が付いて500円とは、うれしいお値段です。(注:現在は600円)

こちらのお店は、元々養鶏をしていた事からこの名前が付いたそうです。
先代が、食事を出すようになってから90年。
今も、玉子と鶏を中心としたメニューが数多くあります。
おりもさんは、玉子丼とやきとりをいただきました。(2,003年3月15日放送 「ぶらり途中下車の旅より)

京成押上線四ツ木駅と周辺のまちづくり  
 1912(大正元)年にできた最初の四ツ木駅は、現在の駅より北側にありました。このころは、1両だけの電車が1時間に1本走っているだけで駅員も1人くらいでした。その後、大雨による川の氾らんから東京を守るため、現在の荒川をつくる工事が始まったことから、鉄橋と線路を新しくつくらなければならなくなりました。この新しい線路のルートに合わせて、1923(大正12)年、今の場所の近くに駅が移りました。  
 現在の四ツ木駅は、1999(平成11)年に完成しました。四ツ木駅の周りでは、なかなか開かない踏切をなくすために線路を高い場所につくり直す工事や、災害に強い地域にするため、せまい道路を広くしたりしています。また、木でできた古い建物を燃えにくい建物に変えていく事業も進められています。

以前の四ツ木駅。

           現在の四ツ木駅。

(写真は、「」より)

そして今や「キャプテン翼」一色。

          

高橋陽一先生 ゆかりの駅『四ツ木駅』をキャプテン翼一色に!
 日本にサッカーブームを巻き起こし、国内外の多くのサッカー選手に大きな影響を与えたとされる「キャプテン翼」。その原作者である高橋陽一先生の出身地・葛飾区四ツ木は、サッカー界にとっての「聖地」です。
「サッカーの聖地」四ツ木を訪れる人たちに、その玄関口である四ツ木駅から「キャプテン翼」の世界観を楽しんでほしい。そんな思いを込めて、京成電鉄では駅全体に「キャプテン翼」の装飾を施しました。

(この項、「」HPより)

 そういえば、去年暮れに訪日した香港の青年。四ツ木駅に訪れることをとても楽しみにし、我が家に荷物を下ろすと、さっそく出かけました。

 こちらはスルーして駅下のガードをくぐり、先に進みます。実はこの商店街をもう少し行ったところがかつての(「荒川放水路」が出来る前の京成線の線路が通っていた道です。(突き当たり)

 

○が旧駅。(「今昔マップ」より)

左は荒川放水路が完成していない頃。右は現在の様子。 

この先を右に曲がって立石駅方向へ。この付近に旧四ツ木駅があったか?

 振り返る。旧線路は、この先正面を南西に進んでいた。   

この付近は道路整備中。新築の家や空き地が目立つ。

ミヤタ自転車・○○兄弟商会」。

「川魚鶏肉・柏屋」。

実はこの道は古代東海道の道だとされ、この先、「立石大通り」の道へ続きます。旧線は、しばらくこの「古代の道」を走っていました。

 「古代東海道」は隅田河畔から東武鐘ヶ淵駅付近を通り、荒川を越え、四つ木橋の北詰、「レンバンサイクル」という自転車屋さんの脇の道から、水戸街道を越えて、四つ木駅の商店街を通り抜け、「立石大通り」から中川を渡り、小岩へと続き、江戸川付近までのほぼ直線道路。この道は西から東まで、かつて歩いたことがあり、ブログにも掲載しました。

「水戸街道(国道6号線」から荒川(西)方向を望む。


水戸街道を渡ったところにある「案内板」。上が北。

水戸街道から四ツ木駅商店街方向を望む。

商店街との合流点から振り返る。「○○兄商会」脇の道。

    

さて、古代東海道だった道(旧線路)を東に進みます。

「(荒川が氾濫したときの)浸水水位」。↓の赤い線。3m。この先はもっとすごい!

「ファイト翼くん」。葛飾郵便局前。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その6。木根川橋。さだまさし。荒川放水路。綾瀬川。

2020-05-27 20:31:57 | 沿線歩き

                    「木根川橋」。
 この付近、荒川には三本橋が架かっています。下流から「木根川橋」、「新四つ木橋」、「四つ木橋(四つ木小橋)」。しかし、歴史的には変遷がありました。子供頃は、今の「四つ木橋」を「新四つ木橋」と言っていましたし、「荒川」を「荒川放水路」と言っていましたが。

 荒川放水路(現:荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていた(現在は新四ツ木橋が架かっている)。 
 1922年(大正11年)6月30日、荒川放水路開削に伴い橋長451メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木製の方杖桁橋の四ツ木橋(旧橋)が架橋された。また、綾瀬川には1921年(大正10年)11月30日開通した橋長53メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木桁橋の四ツ木小橋が架けられていた。位置は現在の国道6号ではなく、約500 m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側、東京都道465号深川吾嬬町線の延長上にあった。木橋ながら戦車を通すこともできた。 
 1969年(昭和44年)12月、木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100 m下流に木根川橋が橋長539.6メートル、幅員10.5メートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋された。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されている。なお、木根川橋の工事名は四ツ木橋であった。また竣工は1969年(昭和44年)2月であった。
  現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画があり、戦後、1950年に工事が再開、1952年(昭和27年)7月に完工、7月30日に永久橋が開通した。これが現在の四ツ木橋である。東向島広小路止まりだった都電も、この橋を渡って路線延長される計画が存在した(着工せず、廃線)。 
 開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。 
 その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。 

京成線橋梁。

上流方向に向かって「京成線橋梁」「新四つ木橋」「四つ木橋」と並ぶ。 

 


旧四つ木橋(今の「木根川橋)。
2・26事件発生の際は、この木橋を市川の陸軍連隊所属の戦車部隊が続々と反乱軍鎮圧に渡っていった、とあります。
  
下流方向。
木根川橋   歌:さだまさし. 作詞:さだまさし. 作曲:さだまさし.
『先生、俺達の木造校舎すっかりなくなっちまったんですねェそれに、あの暑い夏に重いローラー転がしてならしたテニス・コートの上にプールなんか出来ちまって… 先生、時の流れって、そんなもん ...』
さだ まさしさんは、葛飾区立中川中学校出身。


さだまさし
歌手・小説家
1. 昭和27(1952)年~ 
2. 昭和47(1972)年、フォークデュオ“グレープ”として「雪の朝」でデビューした。翌年に発表した「精霊流し」はレコード大賞作詞賞を受賞。平成13(2001)年には、自伝的小説『精霊流し』がベストセラーになる。その後に発表した『解夏』や『眉山』もベストセラーとなり、いずれも映画化された。平成27(2015)年、「一般財団法人 風に立つライオン基金」を設立、国内外で奉仕活動や慈善活動をしている個人や団体を支援したり、大災害が起きた際などに支援活動をするための組織作りを行っている。 
3. 小学校卒業後、ヴァイオリン修業のために単身上京。昭和40(1965)年より昭和42(1967)年まで葛飾区に在住していた。
(この項、「葛飾ゆかりの人」HPより)

「木根川橋」を渡ると、葛飾区に入ります「綾瀬川」。

「荒川放水路(現:荒川)」開削工事は、「綾瀬川」「中川(古利根川)」が流路変更、寸断され、さらに、多くの田畑、家屋が移転しての難工事でした。

荒川放水路

 荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。 
 1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断、死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起した。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先し荒川放水路の建設を決定する。内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年(大正2年)のことである。 
 この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。 
 結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。 


 当時は工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、現代のような重機はほとんどなかった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・物価高騰も難工事に拍車をかけた。 
 1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。 
 「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。 
 また、この部分を横断する鉄道は地下鉄を含め地下(トンネル)ではなく、すべて橋梁で横断している。なお、荒川全体では埼玉高速鉄道線が赤羽岩淵 - 川口元郷間で、新荒川大橋(国道122号)のすぐ西側を唯一地下で抜けている。

(この項、「Wikipedia」参照) 

 

 

(写真・絵図は「」HPより)

このHPには、経緯から現況まで詳しく掲載されています。

荒川放水路で寸断され残された「綾瀬川」が隅田川に合流する地点。「墨提通り」にある「綾瀬橋」という橋が「元綾瀬川」に架かっています。

写真は、綾瀬橋から隅田川との合流点を望んだもの。右手に見えるのは、「伊沢造船」という造船所。創業は1877(明治10)年。古い歴史をもつ造船所です。(2,009年9月撮影)

旧中川。中川(古利根川)が明治末の荒川放水路開削によって分断され、中川は荒川沿いに流れるようになり、西側の部分が取り残されてしまいました。現在、上流は江戸川区・墨田区、下流は江戸川区・江東区の区界となっています。
 かつて、旧中川一帯は、増水・決壊など台風などの被害が続出していた地域でした。また家庭や工場からの排水で淀んだ川になっていましたが、近年は、護岸工事・治水工事、環境整備によってかつての清流を取り戻し、両側の土手沿いの道も川の流れにも親しめる自然環境になっています。都内の広い河川の中では、一番水辺に近く散策できるようです。しかし、蛇行する流れは今も昔も変わりません。北東は荒川に接し、南東も再び荒川に接しています。

旧中川の最上流。「木下川(きねがわ)排水機場」。(2,012年9月撮影)

下町の河川の氾濫から地域を護るための施設。この施設は旧中川の水をくみ上げ浄化して荒川に流すためのもの。
 そのため、現在の旧中川には、かつてのような川上から川下へという流れはない。旧中川全域が潮の満ち干に関係なく、ほぼ一定の低水位に保たれるようになっている。
 「きねがわ」は荒川をはさんだ葛飾区側に「木根川(きねがわ)」として存在する。荒川開削以前は同じ地域・集落と考えられる。荒川の少し上流にある「堀切」なども同じ。

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