おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新波止石造護岸。遮断防波堤。砲台跡。イルカの遊泳。かごしま水族館。(鹿児島。その6。)

2014-06-22 20:10:57 | 歴史・痕跡

 市役所前の芝生公園を港の方へ向かっていくと、「かごしま水族館」。ここには興味深い遺構があります。
水族館案内。今回は、水族館見学ではなくて、・・・。

 
 かつてのようすとその後の港湾設備の整備の説明板。

新波止石造護岸。
 「かごしま水族館」敷地内にあり、かつては鹿児島港の防波堤として機能していた港湾土木遺構。元々は湾内にあった突堤。現在は、海側が埋め立てられ、水族館の敷地となっているが、遺構として保存されている。ここは、薩英戦争の時、薩摩藩の砲台が置かれたところ。

弘化3年(1846年)頃に築造された石造の防波堤。文久3年(1863年)の薩英戦争においては砲台11門を備え、主力砲台として英国艦隊と砲撃戦を行った。

薩英戦争

 文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日)
 前年の文久2年に発生した、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされ、イギリス人4名のうち3名を薩摩藩士殺傷するという「生麦事件」の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘。
 鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。

 
砲台跡。

案内板。

「砲台跡」碑。対岸から望む。この運河ではイルカが遊泳している。正面に水族館との出入り水路。時折、イルカの姿が見える。

薩英戦争の絵図。

防波堤の船着き場。

明治天皇行幸記念碑。
 明治5年(1872年)、明治天皇が全国で初めて行幸したのが鹿児島。上陸に利用した新波止場にある記念碑。

向かい側は、桜島とを行き来する船の桟橋。

遮断防波堤。一丁台場と新波止護岸とを結ぶ防波堤。

正面奥が「一丁台場」。遠くには桜島。

 ところで、イルカの遊泳はなかなかうまく撮れません。
海面に飛び上がった瞬間、でも写ったのは、波紋だけ。
うーん!
遠すぎて!

 
足下には桜島からの火山灰が一面に。

鹿児島観光全図。


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南日本銀行。日本瓦斯。鹿児島中央高校。(鹿児島。その5。)

2014-06-21 23:56:27 | 歴史・痕跡

南日本銀行本店(旧鹿児島無尽鹿児島支店)。昭和12年(1937)建造。鉄筋コンクリート造/4階建(一部6階建)。国登録有形文化財。朝日通り交差点。

 下層部と上層部とが違和感のあるような造り。上の部分と下の部分とのバランスによって微妙な遠近感を生んでいるような印象。


日本瓦斯本社(日本水雷本社)昭和6年(1931)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。日本ガス株式会社(日本瓦斯株式会社)は、鹿児島市をエリアとする都市ガス事業者。鹿児島中央駅に近く「ナポリ通り」沿い。

注「ナポリ通り」=鹿児島市とイタリアのナポリ市が姉妹都市になったことを記念して命名された通り。「鹿児島中央駅」から東方向に延びる大きな通り。なお、ナポリ市には「鹿児島通り」と命名された通りがあるらしい。

それほど大きな建物ではないが、縦柱線(ゴチック建築、尖塔のようなイメージ)を強調し、インパクトのある建物。

  


県立鹿児島中央高等学校(旧県立第一高等女学校)。昭和10年(1935)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。設計:岩下松雄。
 玄関部分の円形がユニーク。玄関上部分の連続したアーチ窓、4階部分の真円状の造形などに特徴がある。
市内にある「鹿児島甲南高校」、「県立博物館」などにも同じような特徴があるそうだ。

上層階に特色を持つ。

正面玄関脇のライン。 

 少し前の時期に建てられた、東京都内の関東大震災復興校舎にも同じような意匠が感じられる。当時のモダン建築が鹿児島にも登場していた。
《参考》

① 旧東京都中央区立十思小学校
 ◎設計:東京市 ◎施工:鴻池組 ◎竣工:昭和3(1928)年12月30日 ◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建。
❖東京都選定歴史的建造物



②旧台東区立小島小学校


 他にもまだまだ貴重な建造物があります。残念ながら見に行けませんでしたが。

・鹿児島県立博物館考古資料館(興業館)
鹿児島市城山町1-1 明治16年(1882)
石造/2階建
国登録有形文化財

・旧鹿児島刑務所正門
鹿児島市永吉町13-9 明治41年(1908)
石造門柱
国登録有形文化財
 
・鹿児島銀行別館(第百四十七銀行本店)
鹿児島市金生町6-6 大正7年(1918)
鉄筋コンクリート造/2階建
国登録有形文化財

・鹿児島工業高等学校大煙突
鹿児島市草牟田二丁目57-1 大正9年(1920)
煉瓦造煙突
国登録有形文化財

・岩崎邸
鹿児島市春日町 大正期
鉄筋コンクリート造/4階建
国登録有形文化財

・鹿児島県立博物館(鹿児島県立図書館)
鹿児島市城山町1-1 昭和2年(1927)
鉄筋コンクリート造/3階建

・県立鹿児島甲南高等学校(第二鹿児島中学校)
鹿児島市上之園町23-1 昭和5年(1930)
鉄筋コンクリート造/3階建

・鹿児島県教育会館
鹿児島市山下町4-18 昭和6年(1931)
鉄筋コンクリート造/3階建 

などなど。
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鹿児島市中央公民館。鹿児島市役所。(鹿児島。その4。)

2014-06-20 23:37:08 | 歴史・痕跡

 「西郷銅像」の撮影ポイントとしてある敷地の一角には「中央公民館」の建物があります。隣の「宝山ホール」のモダンなつくりと比べて、どっきとするほどレトロな雰囲気の建物です。見逃せない建物の一つ。

正面。

 1927年(昭和2年)10月に開館。片岡安の建築で市中心部に位置する交通の便の良さもあり、修築を経て現在もイベント、講演会等に利用されている。国登録有形文化財。

1924年8月 - 昭和天皇の成婚記念事業として起工。
1927年10月 - 鹿児島市公会堂として開館。
1945年6月17日 - 鹿児島大空襲により一部が損壊。
1949年 - 鹿児島市中央公民館に改称。
1973年4月 - 鹿児島市公民館条例施行、市全域の社会教育施設及び中央地域の地域公民館と位置づけられる。

 鹿児島市立美術館・西郷隆盛像から国道10号をはさんで東南側、国道58号沿いに位置し、すぐ隣に「鹿児島県文化センター(宝山ホール)」があり、国道58号をはさんで中央公園がある。

 片岡安は、辰野金吾と共同で設計事務所を営み、数々の近代建築を建てた人物。辰野金吾が手がけた有名な建築物には、日本銀行本店や東京駅があります。
 片岡は、大阪中之島公会堂も設計しています。この事務所による設計の建物で、九州地区でほぼ当時のまま現存しているものを二つ訪問しています。

北九州市・旧「百三十銀行」八幡支店。

福岡市・旧「日本生命保険株式会社九州支店。


 鹿児島市にもこうして残っているわけです。

 同じ事務所の設計による「東京駅丸の内口駅舎」などもそうですが、赤煉瓦造り(風)にその特徴がありますが。この建物は鉄筋コンクリート造り3階建て。


 多くの他の都市中心部では、戦前のものが取り壊されて建て直される中、また、鹿児島市内には戦災で多くの建物が焼失、被害を受けた割には、まだまだ随所に趣深い戦前の建物が残り、現役で活躍中です。その、ほんの一部を訪ねました。

鹿児島市役所
昭和12年(1937)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。設計監理:大蔵省営繕管財局工務部。 国登録有形文化財。

圧倒的な存在感。



正面玄関。

二階への階段。

市役所から海側に延びる緑地帯から。

はるかかなたに市役所を望む。

 この緑地帯は、かつての運河跡? 
その脇にあった古い街並み。

華やかな「天文館通り商店街」とはかなり趣の異なる商店が並んでいそうな路地。黒田金物店と「名山町商店街」。

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薩摩義士碑。鶴丸城趾。篤姫像。アコウ。(鹿児島。その3。)

2014-06-19 23:31:55 | 歴史・痕跡
 
「西郷隆盛終焉の地」から鹿児島本線の踏切を渡り、しばらく歩いて城山の山裾を下ると、鶴丸城趾に出ます。

「城山」の麓にある「薩摩義士の碑」。

「神になった薩摩藩士」説明板。

 江戸幕府は,1753(宝暦3)年に薩摩藩に木曽川治水工事の御手伝普請を命じました。薩摩藩は,平田靱負を総奉行に任じ,藩士・足軽以下約千人を派遣しました。工事は約1年3か月で完成しましたが,大榑川洗堰工事などの難工事などのため,約40万両の経費がかかり藩財政は大きな打撃を受けました。また工事中の自害・病死等の犠牲者も薩摩藩関係者だけで80余名にのぼりました。工事検分終了直後,平田靱負は大牧村役館において自刃したと伝えられています。・・・

 と鹿児島市のHPではこのように記されていますが、なかなかの難工事で犠牲者も大勢だったようで、いまだに語り継がれている、とのこと。

 宝暦治水事件

 江戸時代中期に幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)に絡み、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負が自害した事件。
 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。
 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、しばしば洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。
 1735年(享保20年)、美濃郡の代官である井沢惣兵衛が三川の調査の上で分流工事を立案したが、その時は幕府の許可が下りなかった。しかし、1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
 この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し、人足の動員や資材の手配をする形態であった。また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して、村請により地元に金が落ちる方針を取った。
翌1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。
 ただ、宝暦治水自体はあくまでも幕府による工事のお手伝い普請という名目で、幕府側の総責任者は勘定奉行・一色政、監督者として水行奉行・高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。
 当時、既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。
 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。
 1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
 また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。
 これらの犠牲者数は、寺の過去帳、位牌・墓碑などに記録されたものだが、幕府は寺に薩摩藩の死者を葬ることを禁じたため、実際にはさらに多数にのぼっていた可能性があるという。
 幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制し、さらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。 ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。
 1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。
 1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了して幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。辞世の句は
「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」
であった。
 薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入。返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。
 この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。
 1900年(明治33年)の分流工事完成時に、「宝暦治水碑」が千本松原南端に建てられている。1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。
 岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。なお鹿児島県と岐阜県は、これが縁で県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
(以上、「Wikipedia」より)

 なるほど、なるほど。

本丸跡に建つ鹿児島県歴史資料センター「黎明館」。月曜のため、休館日でした。

遠くに「篤姫」像。



 当時のニュース記事

 篤姫銅像が鹿児島に完成 誕生日に除幕式

 薩摩藩の出身で、幕末の徳川将軍家を支えた天璋院篤姫の銅像が、10代の一時期を送った鹿児島市の鶴丸城跡にある歴史資料センター「黎明館」に完成。篤姫誕生日の19日、市などの実行委員会が除幕式を開いた。
 像は台座を含め高さ約3・1メートルで、鹿児島市の彫刻家中村晋也さん(84)が、篤姫40歳前後の写真を参考に制作。
 除幕式で徳川宗家第18代当主の徳川恒孝さん(70)は「篤姫は早くに江戸に嫁ぎ鹿児島に戻ることはなかった。鹿児島に素晴らしい像ができてうれしい」と感慨深げに話した。
(2010/12/19 17:21 【共同通信】)


 天璋院篤姫は、2008年のNHK大河ドラマで一躍有名になった(主演の篤姫役は、宮あおい)江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となった人物。

 篤姫は天保6年(1835)12月19日、今和泉家第5代当主忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生まれました。
 幼少の頃の篤姫は一子(かつこ)と名付けられ、大変利発で活発な子だったと言われています。約19年間を鹿児島で過ごし、指宿の別邸にも度々訪れたと言われている一子は、家のすぐ前に広がる海岸でよく兄(忠冬)と遊んでいました。
 ある日のこと、海岸で漁師とのすれ違いから危険と判断した一子はその漁師に向かって石を投げました。そのことを知った父(忠剛)は、兄(忠冬)にその勇気が持てなかったことを責め、『一子が男の子だったら』と悔しがっていたというエピソードが小説には語られています。(「天璋院篤姫」宮尾登美子:著)このように一子は幼少の頃から人並み外れた感性と器量の持ち主だったと言えます。
 そんな一子が18歳のときに転機が訪れます。当時、第13代将軍徳川家定は二人の妻を公家から迎えましたが、二人とも長生きせず家定自身も病気がちだったことから、家定の母である本寿院は、広大院(十一代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫)にあやかりたいと、将軍を支えられるしっかりとした夫人を求め、嘉永3年(1850)、島津家に将軍夫人の候補を求めました。島津家には適齢期の娘がおらず、今和泉家の忠剛の子である一子に白羽の矢がたったのです。
 嘉永6年(1853)、名を篤姫と改め島津家第28代当主斉彬の実子として、鹿児島を立ち、近衛家の養女を経たのち、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚しました。しかし、一年半後の安政5年(1858)7月に家定が35歳で亡くなったため、天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切りました。
 幕末の動乱期には実家の島津家は将軍の敵となりましたが、新政府に徳川本家の存続を働きかけるなど、徳川家のために尽くしました。明治16年(1883)11月20日に49歳で亡くなりましたが、徳川家第16代当主家達(いえさと)を育てあげたのも天璋院といわれ、現在でも徳川家に大切にされています 。



HPより)

逸話として

 篤姫は嘉永7年(1854年)11月、島津重豪の十男で八戸藩主となっていた南部信順の強い勧めにより、斉彬とともに大石寺(現在の日蓮正宗総本山、静岡県富士宮市)に帰依し、同塔中遠信坊の再々興に貢献した。家定の死後の万延元年(1860年)には51日間にわたって、大石寺第51代法主・日英上人に1日3回4時間の唱題祈念を行わせている。ただし、墓所となっている寛永寺は天台宗の寺院である。(この項、「Wikipedia」より)

石垣。隆盛がつくった「私学校」石垣には西南戦争当時の弾痕の跡があるらしいが、この石垣の不揃いに破壊された穴もそれなのであろうか?

 城址は明治維新後、第七高等学校造士館の校地として使用され、さらに戦後は、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室を経て、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡に鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。


蓮の花が咲いていた。




アコウ(榕、赤榕、赤秀、雀榕)

 クワ科の半常緑高木。
 樹高は約10 - 20m。樹皮はきめ細かい。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付く。新芽は成長につれ色が赤などに変化し美しい。葉は互生し、やや細長い楕円形でなめらかでつやはあまりなく、やや大ぶりで約10 - 15cm程である。年に数回、新芽を出す前に短期間落葉する。ただし、その時期は一定ではなく、同じ個体でも枝ごとに時期が異なる場合もある。
 5月頃、イチジクに似た形状の小型の隠頭花序を、幹や枝から直接出た短い柄に付ける(幹生花)。果実は熟すと食用になる。
 アコウの種子は鳥類によって散布されるが、その種子がアカギやヤシなどの樹木の上に運ばれ発芽して着生し、成長すると気根で親樹を覆い尽くし、枯らしてしまうこともある。そのため絞め殺しの木とも呼ばれる。これは樹高の高い熱帯雨林などで素早く光の当たる環境(樹冠)を獲得するための特性である。琉球諸島では、他の植物が生育しにくい石灰岩地の岩場や露頭に、気根を利用して着生し生育している。
 日本では、紀伊半島及び山口県、四国南部、九州、南西諸島などの温暖な地方に自生する。日本国外では台湾や中国南部、東南アジアなどに分布している。
 主な低地に生育し、琉球諸島では石灰岩地にも生育する。
 防風樹、防潮樹、街路樹として利用される。沖縄県や鹿児島県奄美群島では、屋敷林にも利用される。日本では国の天然記念物に指定されている巨樹、古木も多い。
 また、ガジュマルに比べると耐寒性が高いという特性を活かし、観葉植物としても用いられる。(以上「Wikipedia」参照)

 たぶん初めて見た木でした。それにしても「絞め殺しの木」とは何とも恐ろしや。
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甲突川。歴史ロード。○に十。石橋。(鹿児島。その2。)

2014-06-18 23:59:26 | 歴史・痕跡

 市内中心部を流れる「甲突川」。その左岸には鹿児島の「歴史」をしのぶ遊歩道があります。
「歴史ロード”維新ふるさとの道”」。

「英国留学生」の説明板。遊歩道を歩きながら、「歴史」を学ぶという趣向。

 鹿児島市は、第二次大戦で壊滅的な被害を受けたところでもあります。

本市における戦災の状況~1.空襲等の概況~
※「鹿児島市戦災復興誌」より抜粋

 昭和20(1945)年3月から本土への空襲は本格化したが、沖縄への米軍上陸以降、次の上陸地点として鹿児島県は終戦まで単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した。
 鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。
 また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。
 これら前後8回にわたる空襲によって、市内は焼け野原と化し、鹿児島市が受けた被害は、実に死者3,329人、負傷者4,633人、行方不明35人、その他10万7,388人、合計11万5,385人に達した。
 その総数は昭和20(1945)年初期の疎開後の人口17万5,000人に対し66%であった。
 建物の罹災戸数は、全焼2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1,961戸で、全戸数3万8,760戸に対し57%であった。
 全市は文字どおり灰燼に帰し、市街地の約93%、327万坪(1,079万平方メートル)を焼失した。・・・

HPより)

戦災復興記念碑。モニュメント。

<大型建造物だけが残る焼け跡の市街地中心部>(平岡正三郎氏撮影)より 

 そうしたかつての面影は表面上は消え(通りすがりの観光客には)、近代都市にすっかり生まれ変わった鹿児島市街となっていました。市内に残る文化的遺産の多くは「明治維新」あるいは「藩主・島津公一族」に関するものが目に付きます。
 戦争遺跡となると、特攻基地のあった鹿屋あるいは知覧となります。日にちに余裕があればぜひとも行かなければならない場所ですので、次回に期することにしました。
甲突川。

鹿児島城下町絵図。

  
かつての「小路名」などの由来碑。

「薩摩暦と明時館(天文館)」。天文観測による藩独自の暦の制作の由来が記されています。
 鹿児島市内一の繁華街「天文館」通り。変わった名前ですが、どうしてそう呼ばれるのか、この解説を見るまでまったく知りませんでした。お恥ずかしい!
時を刻む語らい広場。
二つ家と呼ばれる住居形態。

  

こういう腰掛けにも歴史もの「郷中教育」のようすが描かれている(我が家の近所の公園のものには、子供の遊び歌などが描かれている)。

維新ふるさと館脇の橋。薩摩藩(島津家)の紋。島津氏の家紋は「丸に十の字」。
 この「十字」は、いったい何を意味するのだろう? いろいろな説があるようですが、「十字を切る」という形の呪符からきたとする説が正しい、らしいです。ちなみに鹿児島市のマークも島津様の紋所が取り入れてあります。


旧五大石橋の一つ「高麗橋」説明板。1993(平成5)年の集中豪雨で流された他の橋と共に、「鹿児島駅」近くの祇園之洲地区にある「石橋公園」に移設保存されているそうです。

 甲突川五石橋

 甲突川にかつて架かっていた石橋群。上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の順。1993年8月6日の鹿児島大水害により5石橋のうち新上橋と武之橋の2橋が流失し、玉江橋、西田橋、高麗橋の3橋がその後石橋記念公園に移設保存されている。

甲突川五石橋の現存時の位置図。×印は8.6水害で崩落・流出した石橋。また×印がない橋は石橋記念公園に移設保存されている。

石橋記念公園に保存されている高麗橋
(以上、「Wikipedia」参照)

現在の「高麗橋」。

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西郷隆盛。その誕生から終焉まで。(鹿児島。その1。)

2014-06-17 23:26:23 | 歴史・痕跡
 5年ぶりの鹿児島。新幹線が開通し、鹿児島中央駅も様変わり。といっても、鹿児島空港だったので、駅前を通ってみただけですが。改めてホテルから見た「鹿児島中央駅」。正面が新幹線ホーム。在来線とちょうどT字になっています。駅ビルの屋上には、観覧車。
 この鹿児島中央駅。かつては「武駅」、その後、「西鹿児島駅」と駅名が変わった。市電はかつてのまま。ずっと前に来たときは、たしか「西鹿児島駅」だったような・・・。

 来る機会もそれほどないので、一日泊まって半日「西郷」どんの世界を探索。
 
 鹿児島中央駅 ≫ 維新ふるさと館前 ≫ ザビエル公園前 ≫ 西郷銅像前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 城山 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 南洲公園入口 ≫ 仙巌園(磯庭園)前 ≫ 石橋記念公園前 ≫ かごしま水族館前(桜島桟橋) ≫ ドルフィンポート前 ≫ 天文館 ≫ 鹿児島中央駅

 上が、「シティービュー」バスのコース。約1時間でぐるりと観光名所を一周。大人190円でバスの中から名所を眺める、という趣向。もちろん、そういう観光客はいないようで、一日乗り降り自由の乗車券(¥600)を買って乗る人がほとんど。

 そこで、小生もそれに乗ってぐるりと、というのもつまらないので、途中まで乗って行って、後は歩いて回ろうという算段。朝方の雨雲もなくなって、薄日が差すちょうどいい。中央駅前のバス停を9:30発。「西郷洞窟前」で下りてさっそく歩き出しました。
 いつものように駆け足の感じ。そして、帰宅してインターネットで後追いして、あそこもあったか、近くまで行ったのに残念! そんな思いがまたしてきました。
 同じ事を何回繰り返したら改まるんでしょう。
 
 西郷隆盛南州洞窟→隆盛終焉の地→鶴丸城址→黎明館→市役所→かごしま水族館→中央公民館→山形屋→天文館通り→鹿児島中央高校→高麗橋→共研公園→甲突川→中央駅

 約3時間くらいの行程でした。見落としもたくさん、脈絡があまりなそうな歩きぶり。はてさて・・・。意外な発見もありましたが。
 まずは、鹿児島中央駅前から。

「若き薩摩の群像」。どえらく大きいモニュメント。
 
 薩英戦争において西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は鎖国の禁を犯し絵1865年藩士17名の留学生を英国に派遣しました。一行は・・・帰朝後には黎明日本の原動力となり各分野で不滅の業績を残しました。・・・

 ちなみに何となく知っていた名前は、森有礼。寺島宗則。五代友厚くらい。もちろん小生が知らないだけで他の人たちも立派な業績を成し遂げた人も多い。
 「尊皇攘夷」の旗頭であった薩摩藩は、この戦争をきっかけに「富国強兵」策に転じ、倒幕運動をいよいよ鮮明にしていった、らしい。我々郷土の先輩が「薩長土肥」による倒幕、さらに明治維新後の近代日本を担った、という強烈な郷土愛あふれるモニュメントではある。


 そこで、今回は隆盛さんをメインで。
「誕生地」。甲突川左岸。

 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。
 隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。
 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。
 明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。(以上、「Wikipedia」参照)

「西郷隆盛君誕生之地」碑。脇には、明治22年に建立された由来碑が置かれている。裏に銘記された使命は「大山巌」をはじめ、明治元勲の名がずらり。


 これらの記念碑は石造りのかなり大きなもので、下を岩を積み重ねて盛り上げてある。少し上流には、「宿敵」大久保利通の誕生地の碑がある。

「無二の友を敵としても」との説明板。

 明治6年の政変で西郷らを失脚させた大久保利通は、内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」「殖産興業」政策を推進した。
 大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれ、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
 明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
 明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。その後、自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
 明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49。

西郷洞窟。

「おはんらにやった命」との説明板。
 
 ―西南戦争 最後の司令部―
 1877年(明治10年)9月24日、西郷軍が立てこもる城山に「政府軍の総攻撃が始まり、死を決した西郷は夜明けを待って5日間過ごしたこの洞窟を出ました。・・・2月15日挙兵、熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも近代兵器の前に敗退、7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。・・・

 「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな  勝 海舟」
 との歌が載せられている。

洞窟の裏山。

南国特有の深い緑に覆われた森が続く。

城山の展望台方向。

「敬天愛人」。「西郷洞窟」から少し下ったところ、鹿児島本線トンネル入口に掲げられたもの。隆盛の座右の銘。

右手側(「鹿児島駅」に向かう線路)のトンネル上部にある。

隆盛終焉の地。鹿児島本線沿線にある。
「南洲翁終焉之地」碑。

 「晋どん、もうここらでよか」

 城山洞窟を出てわずか300㍍、650歩でついに途は閉ざされた。
 ・・・西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下あの豪傑だった。残念なのは翁をここまで追い込んだときの流れだ」と語った、という。

西郷銅像。中央公民館広場から。
スケールの大きさに驚くが、どこかの個人崇拝に徹する国のものに比べればおとなしいものだ。
 「身長 5.257㍍、5.7頭身」。平成19年、県立鹿児島工高の女子生徒4名が実測した結果だそうだ。

 しかし、さすが明治維新の立役者を生んだ土地柄。「おらが街」にはこんなたくさんの偉人が生まれ育った、とう誇りがあちこちに「記念碑」として存在します。通りすがりの小生には見落としばかり。

大山巌。

牛島満。

 「元帥」「大将」・・・、軍人さんの多いところです。島津家関係の石碑もたくさん。・・・
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永青文庫。和敬塾。蕉雨園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その4。)

2014-06-13 22:23:15 | 歴史・痕跡

永青文庫
 1950年(昭和25年)、第16代当主細川護立(1883年 - 1970年)によって設立された。護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。
 文庫の所在地は細川家の屋敷跡(現在は敷地が分割されているが、新江戸川公園、永青文庫、和敬塾の敷地まで細川邸であった)であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である正伝永源院(建仁寺塔頭)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
 日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。理事長は18代当主の細川護煕(元首相)。
 なお、熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、 東京国際空港第2旅客ターミナル内にある「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されている。

黒き猫 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館に寄託)

収蔵品
 [国宝]
太刀 銘豊後国行平作(古今伝授の太刀)
短刀 無銘正宗(名物庖丁正宗)
短刀 銘則重(日本一則重)
刀 金象嵌銘光忠 光徳(花押)生駒讃岐守所持(生駒光忠)
柏木兎螺鈿鞍(かしわみみずく らでん くら)
時雨螺鈿鞍
金銀錯狩猟文鏡(中国・戦国時代)
金彩鳥獣雲文銅盤(中国・前漢~後漢時代)

 [重要文化財]
絵画絹本著色細川澄元像 狩野元信筆
紙本著色長谷雄草紙
紙本著色洋人奏楽図 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画芦雁図(伝宮本武蔵筆) 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画鵜図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画紅梅鳩図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本著色落葉図 菱田春草筆 六曲屏風 1909年(熊本県立美術館寄託)
絹本著色黒き猫図 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館寄託)
髪 小林古径筆 絹本著色 1931年(熊本県立美術館寄託)
彫刻石造如来坐像(中国・唐)
石造菩薩半跏像(中国・北魏)
銅造如来坐像 台座に元嘉十四年五月一日韓謙造像の銘がある(中国・劉宋)
陶磁宋白地黒掻落牡丹文瓶(そう しろじくろかきおとし ぼたんもん へい)
唐三彩花文大盤
唐三彩花文盤
刀剣武具太刀 銘守家造
破扇散鐔 無銘林又七
春日野図鐔 銘城州伏見住金家
毘沙門天図鐔 銘城州伏見住金家
牟礼高松図鐔 銘利寿(花押)
白糸威褄取鎧 兜付(しろいとおどしつまどり よろい かぶとつき)

(以上「Wikipedia」参照)

奥に見えるのが、「永青文庫」の建物。


正面。


案内板。

 北側にある建物が、「和敬塾」。男子学生寮。

和敬塾本館(旧細川侯爵邸)

 細川家第16代細川護立侯により昭和11年(1936年)に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅です。
昭和30年(1955年)、旧細川侯爵邸の敷地約7000坪および邸宅を同家より購入し、敷地内に学生寮を建設しました。
和敬塾では、本館を塾生(寮生)の教養講座の活動の場として活用する一方、外部の有識者を招いてのシンポジウム・講演会を開催し、塾生の知育、徳育の場として積極的に活用をすすめながら、文化財として保存してまいります。なお、和敬塾本館では、不定期に一般公開を実施しております。
(以上「」HPより)



1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央部分が「旧細川邸」。南から「新江戸川公園」、「永青文庫」、「和敬塾」。「胸突坂」をはさんで南から「関口芭蕉庵」、「蕉雨園」。その東一帯が「椿山荘」。

ほぼ同じ場所の1880年代のようす(「同」より)。西側の○が「細川邸」、東側の○が「山縣邸」、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。


蕉雨園
正面。

  椿山荘、野間記念館に隣接する6000坪の敷地に建つ元田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。
 非公開だが、茶会やドラマ(華麗なる一族、鹿男あをによし、どんど晴れ、富豪刑事など多数)の撮影などに使用されている。命名は、邸宅を訪れた諸橋轍次が詠んだ「芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵」から「蕉」と「雨」の二文字をとり芭蕉庵と五月雨庵にちなみ、蕉雨園と名づけられた。

田中光顕
 天保14年(1843年)、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
 土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒して、土佐勤王党に参加した。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。
 薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
 慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
 維新後は新政府に出仕。岩倉使節団で欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)、伯爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
 晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。(以上「Wikipedia」より)

 明治から昭和初期にかけての政界の黒幕といった感じですか。

「胸突坂」を登り切った辺りから。左手が「蕉雨園」。

塀越しに見える母屋の豪壮な屋根の一角。

「胸突坂」脇に見える屋敷の一角。

 折があったら、見学してみたいところではあります。でも、お茶会などには全く無縁ですからそんな機会には・・・。しかし、この辺りは立派なお屋敷と文教地区。
 帰りは、「目白通り」を西に向かって歩き、「田中邸」「日本女子大」「学習院」と横目で見ながらJR山手線「目白駅」まで(約2㎞)。
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新江戸川公園。旧細川家下屋敷庭園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その3。)

2014-06-12 22:53:37 | 歴史・痕跡

「新江戸川公園」入口。

左手にある建物が、「松聲(声)閣」
 大正時代の建物。元細川家の学問所だったところ。以前は集会所として貸し出しをしていましたが、現在、老朽化のため、安全管理の面から利用休止中。

 「歴史性を活かしつつ、区民に親しまれる利用しやすい公園施設として整備することとしました」と区の広報にもあるように、全面改築がなされるようです。

「松声閣」正面。

新江戸川公園


 細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。
 池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。
 もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました
 大きな池を中心として、その周囲の園路を歩きながら、広がりのある池や背後の山並みなど様々な風景の移り変わりを観賞出来るように計画された庭園の様式の一つです。新江戸川公園では、門から入り大泉水への視界が展開されます。そして園路を進むにしたがって、池や背後の山並みの眺めの移り変わりを、また振り返った時、池を借景とした「松声閣」の眺めを楽しむことが出来ます。
 また樹林の中の山道をしばらく登った時、樹間から眺められる大泉水の眺めが印象的です。そして園路にそって池を一周し、最初に見た風景を振り返るように設計されています。
 毎年11月下旬になると、池畔にある5本の松の枝を都会の水分を多く含んだ重い雪から守るため、わら縄で枝を吊る作業を行っています。張られた縄が、きれいな傘形になっていく様子は見応えがあります。
HPより

 当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。
 1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。(以上、「Wikipedia」より)

門から入ると、目の前に大泉水への視界が開ける。広がりのある池と背後の高台の森を山並みに見立てている。

池の端。鯉や亀がたくさん。


背後には「松声閣」。

 
湧水。

湧水の流れに沿うように野草。


「松声閣」。 


  
手入れの行き届いた庭園。

池沿いの小道の歩みを進めるうちに、次第に変化する景観を楽しむ趣向。
池も背後の「山並み」も池を前に広がる木々のバランスも見事。高低を生かしたつくりになっている。


振り返ると、池の向こうに「松声閣」。
山道からの大泉水(池)。

北東の斜面を登ると、「永青文庫」に着きます。

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関口芭蕉庵。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その2。)

2014-06-11 20:40:56 | 歴史・痕跡

関口芭蕉庵正門。ただし、入口は裏手にある木戸口。

説明板。

ここから入る。ただし、月曜、火曜は「休庵日」。

 松尾芭蕉は、天保元年(1644年)、伊賀上野の城下(現在の三重県伊賀市)で生まれ、後に(1672年)、江戸に移り住み、様々な俳諧活動を展開しました。
 芭蕉は、土木技師として、上水道工事にも携わりました。
 芭蕉が郷里の伊賀から江戸に出て、深川の、いわゆる今日の深川芭蕉庵に住みつくまでの間(1677年から1680年まで)、現在の文京区関口で、神田上水(江戸川)の改修工事に携わり、この工事を監督しました。
 神田上水は、天正年間(1573~92年)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水です。井頭の池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水し、総延長約66Kmもあり、芭蕉は、宝暦期の改修工事に携わりました。(後に、神田上水は、新多摩上水施設により明治33年に廃止されています。)
 この間、芭蕉は、工事現場か水番屋に住んだといわれますが、後に、芭蕉を慕う人達により「龍隠庵」(りゅうげあん)という建物が建てられ、芭蕉の風を慕う俳人達が集い、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになったとのことです。
 元の建物は火事や戦火で焼失し、昔の面影を残そうと第2次大戦後に再建されたものですが、周囲の風情ある庭や池・木立は往時の“わび、さび”を偲ばせてくれます。
 池のほとりに建てられた芭蕉句碑には、「古池や 蛙飛こむ 水のをと」と刻まれており、芭蕉の直筆からとられたものだそうです。
 なお、関口芭蕉庵は、江戸時代には、安藤広重が「江戸名所百景」の中で「関口上水芭蕉庵椿山」を描いており、現在も、椿山荘、フォーシーズンズホテルのすぐ西側に位置した、椿山荘の日本庭園から一体の緑に囲まれた静かで趣きある場所です。

HPより

 松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。
 後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
 1926年(大正15年)には東京府(現:東京都)の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社・キングレコードらが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。
 (以上、「Wikipedia」より)
「胸突坂」。神田川の駒塚橋(ただし、1880年代には「駒塚橋」はもう少し下流にあり、「胸突坂」とは結んでいなかった)から「目白通り」に向かう坂。けっこう急な坂道。その途中に「芭蕉庵」の入口がある。坂を上り詰めると、「蕉雨園」の正門。坂の西側には「水神」。その先に「永青文庫」(新江戸川公園の上)がある。


普通の住宅みたいなので、つい「お邪魔します」と声を掛けたくなる雰囲気。

中に入ると緑が濃く、池を囲んで、アップダウンの小道が続く。

池のほとりに建てられた芭蕉句碑。「ふる池や かはつ飛こむ みつのをと」と刻まれてあり、芭蕉の直筆からとられたもの。
注:「ふ」は「婦」、「か」は「可」、「は」は者、「つ」は「川」のそれぞれ変体仮名。

池。少し茶色がかっているが、奥から湧水が引かれている。


こじんまりとしていて、風情のある池。

湧水。

自然石を並べた散策路。

芭蕉。
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」。このように因んだ句が記されたり、俳人の句碑などが点在している。
 

池の上から庭を望む。静寂な空間。水の音や木々のふれあう風の音しかない。


1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて建立された「さみだれ塚」。


 少し坂道をたどると、「芭蕉堂」がある。

1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物「芭蕉堂」。
こんもりとした木々の中。

竹林。

「つた植えて竹四五本のあらしかな」。

 
 初めて来ました。「深川芭蕉庵」が跡地にできた近代的な「記念館」(芭蕉に関する資料展示も豊富)に比べ、ここは江戸時代のかつての庭の雰囲気を残した所。
 芭蕉を知るための資料展示などは全くないが、見学者も多くなく、ゆっくりと風情を味わえます。
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椿山荘。カメの散歩。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その1。)

2014-06-10 00:25:41 | 歴史・痕跡
 先日、暑い日。久々に「有楽町線・江戸川橋」駅近くのビルでの会議。例によって、帰り道はちょっと寄り道。さすが夕方からでは限られた範囲。残りは後日(またまた暑い日)、再び出かけてみました。

 
左図が明治後期、右図が現代(「今昔マップ」より)。
A:山縣邸(現椿山荘)、B:芭蕉庵、C:細川邸(現新江戸川公園)、蕉雨園は、Bの上辺り。神田川をはさんだは、田んぼ(現早大北側付近)。
 標高は、「神田川」周辺(薄緑色)で約8㍍、武蔵野台地の東縁部・目白台地、関口台地(薄いピンク色)を通る「目白通り」付近で約27㍍。「椿山荘」など、それぞれの施設は、湧水もあり、自然の高低差を生かした庭つくりになっています。

椿山荘

 武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷だった。
 明治の元勲・山縣有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。
 1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田組の二代目当主藤田平太郎がこれを譲り受け、庭園を維持し、東京での別邸とした。戦災でほぼ焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。2013年1月1日より「ホテル椿山荘東京」に変わった。
 現在、庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。そこで、ぐるりと見学。

長松亭。茶室。

無茶庵。

「つばきやま」にふさわしく、各地からの椿が植えられている。

樹齢約500年、椿山荘最古の椎の木。


古泉水。湧水が自噴する井戸。

戦国の武将で茶人でもあった織田有楽(信長の弟)ゆかりの十三重石塔。




 庭園の頂上に建つ三重塔は、平安期の歌人として名高い小野篁ゆかりの寺院、広島県加茂郡の篁山・竹林寺にあったものを藤田平太郎が1925年(大正14年)に譲り受け、椿山荘に移築したもの。室町時代末期のものと推定され、国の登録有形文化財。
眼下を望む。
 まだまだ見所はありそうですが、ここまで。

神田川沿い。右が神田川。

五慶庵。京都二条城前にあった三井邸を譲り受け、昭和29年(1954)に移築。五島慶太にあやかって命名された。


道標。みなもと→18.1キロ 隅田川←6.5キロ

神田川 
 三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。かつては「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。(以上、「Wikipedia」より)

 外に出たら、こんな光景にでくわしました。びっくり! カメの散歩です。
???大きい。

もと来た道を戻るようす。今回の一番の驚きでした。

 早速調べると、もしかしたら、「ケヅメリクガメ」かな?
 野焼きや開発による生息地の破壊、乾燥化、食用やペット用の乱獲などにより生息数は激減していると考えられている。2000年にフランスの提案により野生個体の輸出割当が0頭と厳しく制限され、養殖個体(飼育下繁殖個体)のみ国際取引が可能とされた。2000年における生息数は18,000-20,000頭と推定されている。
 ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。大型化するため数畳分の乾燥したスペースおよびその保温設備を用意できない限りは飼育は勧められない。
 三谷幸喜による舞台劇『グッドナイト スリイプタイト』には登場人物のペットという設定で本種(の模型)が登場した。(以上、「Wikipedia」より)
 
 インターネット上では、けっこう飼育している方もいるようです。しかし、これだけ大型になると並の家では飼えませんね。それに長生きもするようですから・・・。
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北区立中央公園文化センター。中央公園。王子野戦病院。・・・(JR東十条下車。その3。)

2014-06-08 00:05:11 | 歴史・痕跡
 図書館脇の遊歩道を南に進むと、北区立中央公園に。ここにも、戦前、戦後の大きな歴史が残っています。 

 敗戦後、米軍に接収されたこの地域。1958年に北側の一部を返還した後、1961年よりキャンプ王子と呼称。1966年に部隊ハワイ移転のため閉鎖されたが返還されず、1968年にベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)が開設される。1969年12月病院閉鎖。
 返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となった。
(以上、「Wikipedia」より)


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 1971年に返還され、その後、公園として整備されるが、この時点ではまだ建物がなくなっただけで、未整備のまま。
 ↓ 現・中央公園文化センターは、旧東京第一陸軍造兵廠本部で後に米陸軍司令部として使用された建造物。

 「Wikipedia」ではさらっとまとめているが、「王子野戦病院」開設反対運動は、全国的に注目された運動でした。

大原クロニカ
『社会・労働運動大年表』解説編より


王子野戦病院設置反対運動[社]1968.3.3

 東京・北区の米陸軍王子キャンプ内への野戦病院設置に反対する運動は,地元住民を中心に1966年以来続けられてきたが、’68年2月20日の北区労連主催の集会を契機に4月15日まで、反日共系全学連が9度にわたり激しいデモや基地突入を繰り返して警官隊と衝突、死者1人、延べ613人の逮捕者を出すなどして全国的関心を集めるものとなった。
 一方、地元では町会・商店会や主婦・高校生なども参加する地域ぐるみの反対運動が展開され、美濃部都知事が米軍に移転を陳情したことから、政府も東京・多摩町への移転を検討することを約束せざるをえなくなった。在日米軍は、3月18日、開院を強行したが、’69年末には閉鎖された。〔参〕《日本労働年鑑》38集


 この出来事は多くの方が回想的に書かれています。その一つ。

もの書きを目指す人びとへ――わが体験的マスコミ論――岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から 第67回 ベトナム戦争の余波は王子にも


 ベトナム戦争の激化は、日本にさまざまな余波をもたらした。1967年(昭和42年)10月から、わが国で連続的に起きた第一次羽田事件、老エスペランチストの焼身自殺、横 須賀港に停泊中の米空母イントレピッドからの米兵脱走、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港とそれへの抗議行動……といった事件や出来事は、いずれもベトナム戦争と深 くかかわっていた。
 余波はこれらの事件や出来事にとどまらなかった。1968年早々、王子野戦病院問題 が持ち上がる。佐世保でのエンタープライズ寄港騒ぎのほとぼりがまだ冷めやらない1月24日、東京都北区の小林正千代区長は区議会で「米軍側から、北区内の米軍王子キャン プに、近くベトナム傷病兵用の野戦病院を開設するとの連絡を受けた」と発表したからである。
 当時、米軍王子キャンプは北区十条台にあり、広さは約12万2千平方メートル。米陸軍極東地図局があったが、これが1966年にハワイに移ってからは、空き家となっていた。 米軍側の説明では、そこを改装し、そこに埼玉県入間市のジョンソン基地にある米陸軍第七野戦病院の一部が移転してくるのだという。ベッド数は350から400。2月半ばごろまでに移転を終え、3月初めに開院の予定との説明だったという。
 東京23区内に米軍の野戦病院を設置されるのは初めてだった。当時、日本各地に米軍の野戦病院があり、ベトナム戦線からそこへ運ばれてくる傷病米兵は月に4、000人以上にのぼる、といわれていた。戦争の激化でその数が増え、これに対処するため米軍としては野 戦病院の増設を図ったものと思われる。
 北区としては、もともと極東地図局が移転した後の王子キャンプを区に返還してほしいと望んでいた。67年12月には、区議会が返還要求を決議した。そこへ、野戦病院が来る。なにしろ、王子は住宅の密集地帯であるうえ、キャンプの近くには中学校、女子高校、大学などの学園地区があった。それだけに、社会党、共産党、区労連などの革新団体からはもちろん、保守系区議、町内会、PTA、商店連合会などからも反対の声が上がった。「野戦病院が設置されると、汚水、汚物の処理、伝染病などの問題が起きないだろうか。入院米兵の外出で風紀上の問題も派生しかねない」というわけである。
 米軍野戦病院設置が北区民ならびに都民からいかに歓迎されなかったかは、3月21日に都議会が超党派で病院廃止運動を行うと決めたことからもうかがえる。
 この問題は、「ベトナム反戦」を掲げて佐藤首相の南ベトナム訪問阻止(第一次羽田事件)、同首相の米国訪問阻止(第二次羽田事件)、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止といった過激な実力闘争を繰り返してきた反代々木系学生にとって、格好の標的となった。北区長の開設発表直後から、王子キャンプ周辺で反代々木系学生による開設反対デモが続発する。
 2月20日夜には、北区労連が主催した反対集会に反代々木系学生約900人が合流し、うちヘルメットをかぶった約400人が警備の機動隊に角材をふるってぶつかったり、投石を行い、36人が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。

・・・(中略。この間激しい反対運動が波状的に行われる)

 地元住民、革新団体、反代々木系学生らの反対にもかかわらず、米軍側は4月15日までに王子キャンプへの野戦病院の移転を完了した。
 長崎県佐世保市で展開された米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争を取材中にけがをして佐世保労災病院に入院中だった私が、退院して埼玉の自宅に帰ったのは1月27日。5日間自宅で療養し、会社に出勤したのは2月2日。その私を待っていたのは王子野戦病院問題だった。
 反代々木系学生が王子キャンプに向けてデモを繰り返すたびに、私は王子へ向かった。このころの私は、まだ頭部の裂傷が完治せず、頭部に包帯を巻いたままで、東京労災病院に通院中だった。が、反戦運動は私の取材分野であったし、それに、野戦病院開設をめぐって 何が起きるかをこの目できちんと見届けねば、との思いが強かったためだ。
 もちろん、警視庁クラブ詰めの記者やサツまわり(警察まわり)など多数の記者が反代々 木系学生デモの取材にあたり、私もその一員にすぎなかったが。
 王子キャンプ周辺は住宅の密集地帯だったが、それも軒の低い平屋建てや二階建てが多かった。路地は狭く、加えて、それらが入り組んでいた。まるで迷路のようだった。夜になると、王子キャンプの正面ゲート前でこうこうとライトが照らされている以外は、一帯には街灯も少なく、暗かった。そこで、角材と石をもった学生集団と、投石よけのジュラルミン製楯と催涙ガス銃を携えた機動隊との衝突、攻防が繰り返された。それは、まるで闇夜での“市街戦”だった。催涙ガスのにおいが路地にただよい、目がちかちかして痛んだ。
 学生集団が突進する。すると、機動隊がそれを阻もうと前進する。すると、学生集団が狭い路地を一目散に逃げ回る。逃げ場を失った学生の一部は民家の敷地内に飛び込み、その家の屋根によじ登って機動隊の追跡から逃れようとする。中には、屋根から屋根へと飛び移 る学生もいた。
 佐世保で機動隊による警棒の乱打をあびて負傷したばかりの私は、機動隊の動きにすっかり過敏になっていた。「二度とけがをしたくない」。だから、機動隊が学生集団の排除にかかかる気配をみせると、私はいちはやくその場から離れ、安全な場所に移ろうと心がけた。 が、路地が行き止まりだったりして、逃げるところを失ったこともあった。そんな時は、申し訳ないなと思いながらも、やむなく、民家の屋根に逃れた。頭部の包帯を手で押さえつつ屋根から屋根に飛び移りながら、「これじゃあ、まるでネズミ小僧次郎吉だな」と苦笑したものだ。  
 それにしても、米兵がたたずむ米軍施設の前で、日本人同士が激しく争い、互いに傷つけ合うのを見るのはつらかった。なにか、とても悲しかった。
 米軍は、1969年11月、王子野戦病院を閉鎖した。ベトナム戦争の縮小にともない、日本に運ばれてくる傷病兵が減ったためだろう、との見方が日本側には強かった。
 これにより、米軍王子野戦病院問題は解決し、王子の街は平穏を取り戻した。が、私は、問題はほんとうに解決したんだろうか、との思いをいまなお禁じ得ない。というのも、ベトナム戦争終結後も、いや、東西冷戦が終わっても、日本には引き続き米軍基地が存続し、周辺住民との間で摩擦を起こし続けているからだ。2005年からは、米国政府の世界戦略か ら在日米軍の再編問題が浮上し、沖縄、岩國、神奈川などの基地周辺住民や関係自治体に「米軍基地の機能が強化され、基地公害がいっそう増すのではないか」との懸念を生じさ せている。
 王子野戦病院問題は、決して遠い過去のものではないのだ。(2006年2月9日記)

 当時はノンポリの学生だったが、大学紛争が盛んになり、さらにベトナム戦争反対運動など、その周辺にいて少しはかかわっていた。そういう時代を振り返って、8年前にこうした文章を記録した「岩垂弘」さんではないが、「王子野戦病院問題」は、いよいよその日本が当事者として戦争に積極的に荷担することに踏み込もうとする2014年現在にあって、過去のものでもなければ、他人事でもないという思いをますます強くします。

注:「岩垂弘」=ジャーナリスト。元朝日新聞記者。日本の平和運動や協同組合運動を中心に取材活動をしている。今も現役の方。

北区立中央公園文化センター。

 中央公園文化センターの建物は、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年(1930年)に建てられました。戦後、造兵廠の一部は米軍に接収されこの建物も米軍施設として使用されてきましたが、昭和46年に区をあげての返還運動と多くの人々の努力が実り日本に返還されました。そして昭和56年文化センターとして生まれ変わりました。
HPより)
 ここにはあっさりと記されています。現地にも、この建物のいわれなどの説明板などは、設置されていないようです。

 ・・・米軍の王子キャンプ(またはキャンプ王子)として利用され、ベトナム戦争時にはキャンプ内に野戦病院も置かれていた。その一方で野戦病院の閉鎖運動や日本への敷地返還などを求めたデモなども付近ではしばしば行われていた。 そうしたこともあり1971年に当地は返還され公園として整備され、1976年に北区立中央公園として開園して現在に至っている。公園内には戦前置かれていた東京第一陸軍造兵廠の本部の建物が現在でもそのまま残されており、現在では中央公園文化センターとして生涯学習の場として各種ホールや会議室・研修室などが入った施設となっている。
 この建物は1930年の建設で、米軍接収後はもとの茶色から白色に塗装され、その特徴ある外観から、ドラマや映画のロケなどにもしばしば利用されている。(「Wikipedia」より)

建物全体の案内図。コの字型をしている。

正面玄関。

車寄せ。

二階への階段。

一階フロア。

外壁上部の飾り模様、窓のかたちなどに特徴あり。


  裏手。

 どこかで見たことがあるようなデザイン、雰囲気。
 台東区立東浅草小学校(旧待乳山小学校)の鉄筋コンクリート校舎。ここはほぼ同じ時期の昭和3年に建てられた。用途は違うので構造も異なるが、全体の雰囲気が風雪に耐えてきた重みを感じます。
復興校舎様式の一つ、インターナショナルスタイル(国際建築様式)。
しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えないほど。


「昭和皇后行啓記念」碑。昭和18年5月19日。

中央公園。何組かの親子連れがのんびり。

  建物脇にある「赤羽台第3号古墳石室」。

建替えが進む団地。
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自衛隊十条駐屯地。北区立中央図書館。(JR東十条駅下車。その2。)

2014-06-06 22:24:36 | 歴史・痕跡
 戦前から戦後へと。そして、旧日本軍から米軍へと引き継がれた軍事施設。今も残る(保存されている)建物などを探索。自衛隊補給本部とその周辺。
正門。京浜東北線・東十条駅からはけっこう歩きます。最寄り駅は埼京線・十条駅。

「陸上自衛隊補給統制本部・海上自衛隊補給本部・航空自衛隊補給本部・航空自衛隊第二補給処十条支処・北関東防衛局調達部」。
 背後の赤煉瓦塀は、工場の壁面に使用されていたものを再利用したもの。奥に見えるのは、デジタル通信基地網の一環として建てられた通信塔。

 明治38年初冬、東京砲兵工廠銃包製造所が小石川からこの十条台へ移転し、その後、東京第一陸軍造兵廠等逐次名前を変更し、旧陸軍兵站の中枢として重要な役割を果たしてきました。
 戦後は米軍の使用を経て、昭和34年に自衛隊に移管され、武器補給処十条支処を主体に使用されました。
 平成9年度、防衛庁本庁庁舎移転計画により、海上自衛隊、航空自衛隊及び調達実施本部が十条駐屯地に再配置されるとともに、平成10年3月陸上自衛隊補給統制本部が新編され、陸上・海上・航空・契約本部が共存する全国でもまれにみる駐屯地・基地となりました。
 十条駐屯地には、全国の自衛隊が国防、災害派遣、国際貢献等の任務を達成するために必要不可欠な物(装備品等)の調達、保管、補給または整備及びこれらに関する調査研究等の事務処理を行う部隊が所在しています。
HPより)

 「集団自衛権」・「解釈改憲」路線をめざす今の政治情勢では、ここも慌ただしくなるのでしょうか? たんなる「防衛省」事務方の施設ではなく、制服組・実働部隊も配備されているので。今後の動向が気になる場所ではあります。

遠くにあるのは、赤煉瓦のモニュメント。施設内のため近づけませんでした。
左奥に建物群。

パネルが設置されているので、事前に許可をとれば間近に見ることができるはずです。

 赤煉瓦づくりの建物「東京砲兵工廠銃砲製造所275号棟(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)」を生かした北区立中央図書館。


 次の資料は、2002(平成14)年、当時の北区長に対して「社団法人日本建築学会」より提出された保存・活用要望書の一部。
                           
旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟についての見解  社団法人日本建築学会・建築歴史・意匠委員会委員長 高橋 康夫

1、建築物としての見解
 陸上自衛隊十条駐屯地の歴史は、東京砲兵工廠が小石川から十条の地に移ってきた明治38(1905)年に始まる。十条駐屯地には、明治から昭和戦前期にかけていくつもの建物が建設されたが、現在は旧275号棟が残るのみである。
 これら、旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物の設計は陸軍省による。当時の陸軍省は優秀な技術者を数多くかかえており、質的にも高度な建物を建設していた。十条駐屯地の建物は、そのような高度な技術を持った技術者によって建設された例としても、重要な存在といえる。
 旧275号棟の建物は、弾丸鉛身場の建物として大正8年に建設された。建物の規模は桁行方向が54.00メートルで、梁間方向が26.94メートルの大きさをもつ。梁間方向の中央部に鉄骨の柱をもち、鉄骨で作られた二つのトラスからなる2連棟の形式をもっている。軒高は5.45メートルで、外壁は1.5枚厚の煉瓦造平屋建の建物である。
 現在は失われてしまった建物をも含めて、陸上自衛隊十条駐屯地に建設された主要な煉瓦造の建物をみると、その構造形式が同じ煉瓦造であっても、明治期には「木骨煉瓦造」の建物が多く、大正期には「煉瓦造」の建物が多くなっている。明治から大正にかけて、日本の主要な建物は煉瓦造で建設されており、また煉瓦造の建築技術も、地震に対する対応など大きく発展しつつあった。旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物について関東大震災による被害をみると、明治期建設の「木骨煉瓦造」よりも大正期建設の「煉瓦造」のほうがはるかに少なくなっている。このことは、十条駐屯地の建物をみても、明治から大正にかけて日本の耐震構造技術が進歩していたことがわかる。大正期に建設された275号棟の煉瓦造の建物は、技術的にある程度完成されたものであると評価することもできる。文化財としても、東京に残された数少ない煉瓦造建物の一つであり、重要な存在といえよう。

2、地域としての価値
 陸上自衛隊十条駐屯地の煉瓦造の建物には、北区内の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦が用いられており、北区の郷土史的な視点から見ても重要な存在であることがわかる。
 明治以降、多くの煉瓦造の建築物が建てられていったが、建設に使用した煉瓦の生産についてみると、ホフマン窯などをつくり、西欧の技術をそのまま受け入れていた点もあるが、その一方で、それまで瓦を焼いていた伝統的な職人たちが、瓦と一緒に煉瓦を焼いた事例も明らかにされている。またその煉瓦は、伝統技術を受け継ぐ左官職人によって積まれた。町場の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦は、当初は窯の火力が低く、建物の構造として使用するだけの強度をもった丈夫な煉瓦を焼くことは出来なかったが、やがて登り窯をつくるなど改良を重ねていくことで、十分な強度を持った煉瓦も焼けるようになっている。たとえば、銀座煉瓦街を建設した明治初期には、隅田川(旧荒川)流域で瓦を焼いていた業者が煉瓦を焼くことを試みている。このような業者は、明治35年には旧東京府内に19軒あり、王子周辺にもいくつかの工場が確認されている。
 煉瓦のなかには、煉瓦を焼いた工場の刻印が押されているものがあり、この刻印によって、どこで焼かれた煉瓦であるかがわかる。調査の結果、十条駐屯地内の煉瓦造の建物にも、王子周辺などの工場で焼かれた煉瓦が使われていることが確認されている。旧275号棟の建物にも、王子周辺の工場で焼かれた煉瓦の刻印を確認することが出来る。このように、旧275号棟の建物は、北区の近代史を考えるうえで重要な存在であり、かけがえのない建築物である。しかも現在は、十条駐屯地の建物の建て替えがすすんでおり、建設時の姿をうかがうことのできる建物は、旧275号棟だけである。
 北区内の煉瓦工場で焼かれた煉瓦を使用して建設された旧275号棟の建物は、日本の近代を支えてきた「近代化遺産」「産業遺跡」としても注目される。そして、旧275号棟の建物に使われている鉄骨材からは、「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印も発見されている。当時の建築に使われた鉄骨材の多くは外国製によるものであるが、ここでは、国産の材料である八幡製鉄所でつくられた鉄骨が使用されているのである。建物に使われた鉄骨そのものも、日本の近代化遺産として重要である。
 さらに十条周辺を見れば、醸造試験場、製紙工場、印刷工場、青淵文庫、晩香廬などなど、北区の近代を伝える建築物が集中してみられる。まちづくりにおいて、北区の独自性、北区らしさを打ち出していくうえでも、これらの近代化遺産は今後大きな役割を果たしていくことと思われる。旧275号棟の建物は、北区のまちづくりを考える上でも欠くことのできない建物であるといえよう。
 以上のように、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟は、日本の近代建築史を考えるうえで、また北区の近代化、さらには近代化遺産など、歴史的な景観と、その歴史の継承を考えるうえでも、極めて重要な建物に位置づけられると判断できる。ついては、貴台におかれましては、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解をいただき、このかけがえのない文化遺産が、永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第である。

 地元住民・区民の粘り強いり組みもあって、今日、図書館施設の一部として保存活用されている。赤煉瓦棟を生かしたカフェがあったり、ガラス越しに痕跡を保存したり・・・、明治以来の「軍都」の歴史資料の閲覧など北区独自の取り組みが根付いているようです。

正面。北側は広い芝生の広場と児童公園が設置されている。





側面。遊歩道を挟んで西側が「自衛隊十条駐屯地」。
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読書「富士山コスモロジー」(藤原成一)青弓社

2014-06-02 22:52:40 | 歴史・痕跡
 2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコの世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目となった。
 富士山は当初、自然遺産として登録を目指したが、ゴミの不法投棄などによる環境悪化や開発により本来の自然が保たれていないなどの理由で、文化遺産登録を目指す方針に転換。
 登録対象となった「構成資産」は山頂の信仰遺跡群や富士五湖などを含む25件。
 当初、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」は、富士山から45キロ離れた「三保松原」を対象から除くという勧告となった。最終的には富士山を駿河湾越しに臨む文化的価値が認められ、一括登録された。
 その後、「観光資源」としての富士山を大々的にアピールし、結果的には「自然」を売り物とする印象が強い。かえって自然破壊が進むのではないかと心配になる。
 この書は、2009年5月に発刊されたもの。本文中にもありますが、「自然遺産」としての登録ではなく、「文化遺産」として登録する方針を先駆的に主張した書。古代から現代に至るまで、富士山にかかわる思想・信仰・美学などを取り上げています。「宇宙観」「世界観」「人生観」「歴史観」、そしてその根っこにある「宗教観」を産み出してきた「富士山」。
 時には火の神、時には水の神・・・。人々に恵みを与える一方で畏怖の念を与え続けてきた「富士」。そこには、「富士山」と対峙する人々の生き方、国土のありよう、などまさに「文化」そのものであったことが詳細に述べられています。信仰の対象としての富士山、富士講の成り立ちや定着など興味深いものがありました。

 富士山は自然の山であるだけはでなく、芸術の山、宗教の山である。不幸にも軍事の山、天皇制体制の山、公害の山でもある。富士山ほどひとの欲望、国家の欲望に応じてきた山はない。それによって富士山は豊かな文化遺産、宗教遺産をつくりあげ、かつ、マイナス遺産をも生んだ。私たちは時代ごとにありとあらあゆる要望を富士に託した。その反省もこめて、富士山と共働してつくりあげた多様な遺産を自然、文化、宗教、歴史、民俗資本として見直し、富士山の全遺産目録、全資源目録をつくる。・・・世界遺産登録への声援とカウンセリングである。」(P278)

 今、地元では「富士山学会」と名づけた有識者の会が積極的に活動している、と聞きます。「かぐや姫」伝説、「竹取」伝説など富士山にまつわる伝承なども採取しているとか。

 引用文にもあるように、これを機会にたんなる「観光資源」にとどまらない地道な研究成果を期待します。 
   
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「船受枠」(台車)と運輸船。南禅寺船溜。(琵琶湖疎水。その3。)

2014-05-04 22:06:46 | 歴史・痕跡
 「ねじりまんぽ」付近から「インクライン」を下っていきます。
右手下に朽ち果てたような建物。かなり古いようす。




ここにも「船受枠」(台車)と運輸船(復元された木造・三十石船)。「伏見の清酒」や米俵などが積んであった。かつて行き来した船の雰囲気。


ここまで来ると、道路面と高さが変わらなくなる。右の通りは「三条通り」(旧東海道)から分岐した道。
「南禅寺船溜」(下方)を望む。右は老舗の料亭。右一帯が「南禅寺」の広い寺域。
南禅寺境内には、疎水の分水が流れる水道橋がある、とのこと。時間がなくて行けなかった(写真は、「Wikipedia」より)。
「南禅寺船溜」。
「琵琶湖疎水記念館」。ここも閉館時間を過ぎて中に入れなかった。
来た道を振り返る。

ここからは、広い運河になって京都市内を鴨川まで流れていく。その途中にも見所は多い。右手奥が動物園。観光船もやっているようだ。

 
記念碑「京都三代事業」と「モニュメント・巨大な輝き」。「琵琶湖第2疎水」、「水道」、「市電の走る幹線道路の道路整備」が、その三大事業。

「南禅寺・哲学の道」交差点。
案内図。赤丸が「インクライン」のエリア。
「いのちの水 琵琶湖疎水」

 そのさわりに触れただけの探訪でした。今度は、じっくりと味わってみたいと思います。
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ねじりまんぽ。水力発電所。(琵琶湖疎水。その2。)

2014-05-03 21:23:16 | 歴史・痕跡

 「ねじりまんぽ」。アーチ部に煉瓦やコンクリートブロックを用いるとき、まっすぐに積まずに、斜めにねじって積んだ構造のトンネル。

上部のインクライン(水路)の下を通るためのトンネル。「ねじりまんぽ」の構造をしている。手前の通りは「三条通り」。旧東海道。江戸・日本橋からはるばる来た旅人が、京の終点・三条大橋に向かう道。

「雄観奇想」と刻まれた扁額。
「陽気発所」と刻まれた扁額。

トンネル内は暗くて、携帯ではうまく撮れませんでした。残念!


 琵琶湖疎水の流れは、水道水(浄水場)へ引き込まれるのみではなく、日本最初の水力発電所に用いられました。

太い導管。
かなり激しい水量。
煉瓦造りの現役の発電所の建物。


第1期蹴上発電所のようす。
第2期発電所のようす。

インクライン。下方(南禅寺船溜方向)を望む。そこそこの傾斜面(「今昔マップ」によれば、標高差約40㍍)。線路が保存されている。
上方(蹴上方向)を望む。新緑が美しい時期。雨にぬれていっそう緑が映える。

両側は桜の木。春はさぞかし賑わうだろう。その他の季節も自然と溶け合った、静かな散歩道に。
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