おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧下関駅。山陽ホテル跡。

2014-04-30 16:49:14 | 歴史・痕跡
 初めて下関に出かけました。海も近く、山も近く、起伏に富んだ街並みでした。往復とも迎えに来てくれた車の乗せてもらって、北九州空港から関門海峡を橋で渡って下関市内へ。帰りは少し寄り道をして・・・。思ったより早く行き来できました。
 寄り道は、例によって痕跡。旧下関駅跡。お目当てにしていた「山陽ホテル」はすでに解体され、有料駐車場になっていたのが、残念でした。それでも、車の中では「廃線」「痕跡」を熱く語って自己満足。運転してくれた地元の知人は、かなりあきれ顔でした。なにしろ、「山陽ホテル」なんてあったけ? 前にあった下関駅って? 火事で三角屋根の駅舎は焼失したけれど・・・。この火災はこちらの記憶にもありましたが。・・・。


 すっかり港にあった貨物線もすっかりなくなり、駅舎の痕跡もありませんでした。車を駐めて「たしかこのへんは、貨物線の引き込み線があったなあ」案内してくれたすでに70年近く下関に住む方も言いながら一緒に辺りを歩きました。「あそこあたりにあったホテルが山陽ホテルのはずですが」と私。めざとく広い通りに面した記念碑を見つけ、近づくと、「山陽ホテル跡」というモニュメントでした。
「山陽ホテル」。ステーションホテルというように、下関駅正面脇にあった。


かつての写真。設計は、東京駅と同じ「辰野事務所」。
現在は、広い駐車場。
右手の奥に「山陽ホテル」があった。正面が旧下関駅のあったところ。

岸壁に面したところに旧下関駅があった。

このあたりの通りはかつての貨物引き込み線跡になるか?


日清講和記念館・料亭「春帆楼」。
 明治28年(1895年)3月20日から、料亭「春帆楼」において日清戦争の講和会議が開催された。この会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した。講和に向けて会議はくり返し行われ、4月17日に講和条約が調印された。

対岸は、北九州市。この付近が、壇ノ浦。右は「関門橋」。
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光風荘。二・二六事件。・・・(湯河原・箱根路。その2。)

2014-04-12 22:33:12 | 歴史・痕跡

③光風荘


建物脇に設置された説明板。隣にひ孫にあたる麻生太郎元首相の碑文がある。

 1936年(昭和11年)2月26日珍しい大雪の早朝、国家改造(昭和維新)を目指す陸軍の一部青年将校らは1400人余の部下将兵を率いて、首都の中心部を占拠し、軍・政府高官の官邸、私邸を襲うという、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 2・26事件 を起こした。
 この事件で斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監や護衛の警察官らが犠牲になったほか、多数が負傷した。
 この事件で、東京以外の唯一の現場となったのが、ここ湯河原の 光風荘 である。
老舗旅館伊藤屋の元別館 光風荘 には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため家族、使用人とともに滞在していた。
天皇側近として国政の中枢にあり、リベラルな考え方で政・官・財界に影響力を持っていた牧野伯爵は、急進的な青年将校たちに天皇の判断を誤らせる 君側の奸(天皇を取り巻く悪者)と見なされ、襲撃の対象となった。
 2月26日早朝、東京から雪の湯河原に着いた河野壽大尉以下8名の別働隊は、光風荘を急襲。
当直の護衛官・皆川義孝巡査と銃撃戦のあと同荘を放火炎上させたが、目指す牧野伯爵は地元消防団員らの活躍で脱出に成功。
 この事件で護衛の皆川巡査は死亡。河野大尉も部下の下士官とともに重傷を負ったほか、伯爵づきの看護婦や地元消防団員も銃弾や消火作業で負傷した。
事件後、河野大尉は、収容先の熱海の陸軍衛戍病院(分院)で、差入れの果物ナイフで自決した。(以上、湯河原町HPより)

説明板。

 昭和十一年(1936年)二月二十六日、首都東京で、首相をはじめ政府高官の官邸、私邸が、国家改造を求める陸軍青年将校らの率いる兵1400余名の部隊に襲われ、斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、松尾陸軍大佐らは即死、鈴木侍従長は重傷、護衛の巡査数名死傷という大事件が起こった。
 これと同時に、遠く離れたこの湯河原でも、青年将校の一人河野大尉の率いる別働隊七名が、元内大臣牧野伸顕伯爵を、静養中のこの場所伊藤屋旅館の元別館光風荘に襲い、銃撃、放火。急を知り駆けつけた地元消防団員の救出活動により、牧野伯爵とその家族は辛くも難を逃れたが、付添の森看護婦は銃創、護衛の皆川巡査は銃弾に倒れ、後に焼死体で発見されるという事態に到った。
 また牧野伯爵を助け出した前第五分団長(現温泉場分団)岩本亀三は銃創、消火に当たった消防団員も負傷するなどのほか、銃剣をも恐れぬ地元消防団員らの勇敢な救出消火活動があった。
 これらの事実は、湯河原の歴史の一こまとして湯河原町民の心意気と共に後世に永く語り伝うべきものである。
                                平成十四年二月二十六日、郷土史研究家・高橋徳
                                            光風荘保存会

 二・二六事件(にいにいろくじけん)

 1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。

事件の概要
 大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えの下、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
 将校は近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞を占拠した。
 その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。

事件の背景
 統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚と、上下一貫・左右一体を合言葉に特権階級を除去した天皇政治の実現を図った革新派の隊付青年将校は対立していた。はじめは懐柔策を講じていた幕僚らは目障りな隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。
 革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。
 陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で士官学校事件において磯部と村中を逮捕した。しかしこれによって青年将校の間で逆に上官に対する不信感が生まれることになった。
 1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。3月20日、証拠不十分で不起訴になったが、4月1日、停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。
 1935年(昭和10年)7月、真崎甚三郎教育総監が罷免されて皇道派と統制派との反目は度を深め、8月12日白昼に統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。
 なお三井財閥は血盟団事件(1932年2月〜3月)で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(平成25年の価値にして700万円ほど)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた。2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。
 2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として3000円受領した。
 2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。
 青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。
 北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響をうけた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。
 磯部は獄中手記で「……ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」と述べている。
 村中の憲兵調書には「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。……本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。
 「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している。
 反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
 また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
 蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。

襲撃目標

 2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。

第一次目標
岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤實(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
牧野伸顕(前内大臣)
西園寺公望(元老)

第二次目標
後藤文夫(内務大臣)
一木喜徳郎(枢密院議長)
伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)
三井高公(三井財閥当主)
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)
岩崎小弥太(三菱財閥当主)

事件の経過
 反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。

政府首脳・重臣への襲撃

岡田啓介首相
 内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。
 反乱部隊が総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた巡査部長村上嘉茂衛門(官邸内)、巡査土井清松(林八郎を取り押さえようとする)、巡査清水与四郎(庭)、巡査小館喜代松(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で応戦した。4名は襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害されたが、この応戦の隙に岡田総理は女中部屋の押入れに隠れることができた。
 その間に岡田総理の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた予備役陸軍大佐松尾伝蔵は、反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。松尾はもともと岡田総理と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認し、目的を果たしたと思いこんだ。
 一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の憲兵曹長小坂慶助、憲兵軍曹青柳利之及び憲兵伍長小倉倉一らと奇策を練り、翌27日に事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田総理と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田総理を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れた。

高橋是清蔵相
 大蔵大臣(元総理)高橋是清は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
 積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から海軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。
 叛乱当日は中尉中橋基明及び少尉中島莞爾が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の巡査玉置英夫が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。
 27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。高橋は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られた。

斎藤實内大臣
 内大臣(前総理・元朝鮮総督・子爵・退役海軍大将)斎藤實は、天皇の常侍輔弼たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。
 襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現:東京都新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。
 目の前で夫が蜂の巣にされるの見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通銃創を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。 事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、奥州市水沢の斎藤実記念館に展示されている。
 斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に誄(るい、お悔やみの言葉)を賜った。

鈴木貫太郎侍従長
 侍従長(予備役海軍大将)鈴木貫太郎は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。
 叛乱当日は、大尉安藤輝三が襲撃部隊を指揮し、東京市麹町区(現:東京都千代田区)三番町の侍従長公邸に乱入した。鈴木は複数の銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。
 その後、太平洋戦争末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。

渡辺錠太郎教育総監
 陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎は真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。
 斎藤内大臣襲撃後の少尉高橋及び少尉安田が部隊を指揮し、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことは、彼の身辺に「敵側」への内通者がいた可能性を想像させる。
 殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長及び憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。
 28日付で教育総監部本部長の陸軍中将中村孝太郎が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

牧野伸顕
 伯爵牧野伸顕は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受ける。
 航空兵大尉河野寿は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させた。重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。襲撃部隊によって皆川巡査は殺害されたが、この応戦の隙に牧野は難を逃れた。
 脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。この際、旅館の主人・岩本亀三と牧野の使用人で看護婦の森鈴江が銃撃を受けて負傷している。
 なお吉田茂の娘で牧野の孫にあたる麻生和子は、この日牧野をたずねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。(以上、「Wikipedia」参照)

「光風荘」。
 
崖下から見上げたところ。奥行きは分からないが、瀟洒な建物。

昭和11年2月26日、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 「2.26事件」が発生しました。この事件で、東京以外で唯一の現場が湯河原の「光風荘」です。
老舗旅館伊藤屋の元別館「光風荘」に、当時の遺品や写真、新聞等の関係資料を展示しており、観光ボランティアによる施設案内を実施しています。
(平日の見学は、事前の予約が必要です。)
◆ 皆川巡査の遺体の傍らにあった、焼け焦げた愛用の万年筆(現物)
◆ 河野大尉が自決に用いた果物ナイフ(刃こぼれが痛ましい)と直筆の辞世の句(現物)
◆ 兄大尉に自決を促した実弟(大学生)からの手紙(現物)
◆ 事件を回想した麻生和子さん(牧野伯爵の孫、祖父母に付添い事件に遭遇)の手紙(直筆)ほか当時の新聞、写真
など多数(以上、「湯河原町」HPより)

 平日だったため、残念ながら建物の中には入れませんでした。


「光風荘」前にある湯河原温泉の源泉の一つ。

坂道を下ったところからの「藤木川」の流れ。上流が箱根方向。ところどころにある桜の花がまだまだ見頃。

老舗のお菓子屋さん。古風なたたずまい。


宿からの眺め。下流方向。右手が静岡県。 
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北九州市立百三十銀行ギャラリー(旧百三十銀行八幡支店)。八幡図書館。北九州市産業遺跡の旅。その3。

2014-03-26 22:57:49 | 歴史・痕跡



 「百三十銀行」は国立銀行条例(明治5年11月制定)に基づき、明治12年まで全国に創立された153銀行の一つで、大阪に本店があり、明治37年、若松支店八幡出張所として、今の八幡東区春の町五丁目に開設。同39年、西本町に移転と同時に八幡支店に昇格、さらに建物は大正4年、現在地の80メートル北東に新築、移転。大正12年には銀行合併で、安田銀行八幡支店となり、昭和14年まで使われた。
 その後、旧八幡市が戦災復興事業で建物を現在地に移転、市水道局の資材倉庫に使われていたが、昭和61年、市の有形文化財に指定され、平成5年10月から「北九州市立百三十銀行ギャラリー」として利用されている。(以上、「Wikipedia」参照)。

 辰野・片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)の設計といえば、このほどかつての面影を取り戻した東京駅舎(丸の内口)が有名。
 また、福岡市にある旧「日本生命保険株式会社九州支店」《明治42年(1909)2月に竣工した》も歴史的近代建築物として価値が高い。

 
 それらと比べると小規模ですが、「赤れんが」風の外壁、白と赤とのコントラストも見事です。北九州にも残っているとは驚きでした。
説明板。

 日本の近代建築の先駆者・辰野金吾(1854~1919)が主宰する辰野・片岡建築事務所が設計し、大正4年(1915)に建てられた鉄筋コンクリート造りの銀行です。外観は赤れんが風の壁体に、玄関、柱頭、窓周りを幾何学的模様で施し、「洗出し」で石造り風に仕上げ、大正期のモダンデザインを表現しています。・・・ 

 説明書きの下の写真は、1951(昭和26)年頃、震災復興事業としてもとの位置から南西約80メートルに曳き家したときの写真。

落ち着いた外観。赤煉瓦タイル貼り。
正面玄関付近。
当時の大正モダンの雰囲気。

 たまたま係の方がいたので、建物内に入らせてもらいました。明日から展示会があるということで、何もないフロアでした。
太い柱。もともとはこの柱のみで全体を支えていたとか。
大理石風の柱の仕上がりになっている。
天井。細い柱は後に照明用に設置されたもの、とのこと。
 
 もう一つ。「八幡図書館」の建物。

 八幡図書館は旧八幡市が1955(昭和30)年に建設し、合併後も八幡東区の図書館として現在に至る。八幡図書館の設計者は建築家の村野藤吾氏で、八幡駅前の国際通りという大通りや南端のロータリー周辺には、同じく村野氏が手掛けた八幡市民会館と福岡ひびき信用金庫本店が建っている。
 村野氏の建築が集中しているのは偶然ではなく、実は彼は青少年時代を旧八幡市で過ごしていたことを機縁に、旧八幡市が戦災復興事業で駅前を区画整理し、沿道に公共建築を整備する際、地縁と実績を併せ持つ建築家として、主要な文化施設の設計を市が彼に依頼した。
 「八幡図書館」の特徴は、レンガ貼の壁面と塗装仕上げの柱・梁によってグリッド(格子)状にまとめられた立面。これは、広島平和記念聖堂(広島市、1954・S29)や横浜市庁舎(横浜市、1959・S34)など村野氏の他の建築でも見られるが、2種類のレンガを用いて幾何学模様を描いている点は広島・横浜にない特徴。
横浜市庁舎(「Wikipedia」より)。

三角形・幾何学模様。
窓。



 正面入口付近に二つの国境石が置かれたありました。
  
左:「筑前國」。         右:「豊前國」。
説明板。

 古くから北九州市域は中央から東西に豊前国と筑前国の二つに分かれていました。
 その国境線には、小倉藩と福岡藩によってたたえられた国境石が多数ありましたが、現在では13基が残っています。
 ここにある国境石は二基とも上下が欠けていますが、「(従是)東豊前國小(倉領)「(従是)西筑前國」と解読することができます。(従是)は「これより」の意味です。
 豊前国の国境石は、以前、八幡東区三条にあったとされていますが、筑前国のものは置かれた場所がはっきりしていません。いずれも旧八幡市役所の内庭に保存されていたのを、昭和39年(1964)にここに移設したものです。・・・

 地元の方に車で案内してもらい、大きな収穫がありました。またの機会にはもっとじっくりと見て回りたいと思います。以上、「北九州市八幡」編でした。
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「東田第一高炉史跡広場」(八幡製鉄所発祥の地)。・・・。北九州市産業遺跡の旅。その1

2014-03-24 20:31:45 | 歴史・痕跡

 先週・3月16日(日)、縁あって「北九州市八幡」に出かけました。会議の前後に少し周囲を探索(地元の方の車で案内してもらったわけですが)しました。
 明治に入って「殖産興業」「富国強兵」のスローガンのもと、大いに発展を遂げた町並み。「第二次大戦」末期の空襲で大きな被害を受け、戦後は、公害で苦しみ、そして、それを官民一体で克服した歴史をもつ街でもあります。
 これまでも何度か来ていますが、こうして辺りを案内してもらったのは、初めてでした。ありがとうございました。
 そこで、何回かに分けて探訪記を。といっても、駆け足の旅でしたので少し物足りない気分も。

 まず「八幡製鉄所」発祥の地へ。場所は


国家挙げての事業だけに、1900年には建設中の東田第1高炉を、伊藤博文総理も視察した。足場のかかる高炉を背景に撮った記念写真。(日本経済新聞 夕刊 2009年4月2日(木) 掲載)
www.adnet.jp/nikkei/kindai/47/‎ より。

 日清戦争を契機として近代洋式製鉄所設立の機運が高まり、明治30年(1897)6月、八幡村に「官営製鐵所」が開庁しました。明治34年(1901)2月5日には東田第一高炉への火入れが、同年11月18日作業開始式が行われました。現存の東田第一高炉は第10次改修高炉であり、公称能力900トンを誇る日本最初の高圧高炉として建設され、昭和37年(1962)8月の火入れから昭和47年1月まで操業していました。しかし、長年の使用による老朽化が進み解体の危機が訪れました。
 保存を望む市民の声に、北九州市は東田第一高炉一帯を1996(平成8年(1996)に市指定文化財(史跡)に指定されるとともに保存整備されることになりました。
 付近一帯は「スペースワールド」を始め、自然史・歴史博物館や環境ミュージアムがあります。



  東田第一高炉の歩み
 東田第一高炉は、20世紀の幕が開いた明治34年(1901)、わが国初の本格的な製鉄所として建設された「官営製鐵所」で、最初に火入れされた溶鉱炉です。
 当時、本格的な製鐵技術を持たなかった日本は、ドイツから技術者を招き、言葉の壁等による幾多の困難を乗り越えながら、4年間に渡る難工事の末、ようやく製鉄所を完成させました。
 その後、10回にわたり改修工事が行われ、昭和37年(1962)東田第一高炉は現在の姿になり昭和47年(1972)、その役割を終えました。・・・

偉容を誇る施設。歴史を背景にした迫力は満点。

上部に「1901」という表示が掲げられている。ちなみに母校の高校(旧制中学)の創立年と同じ。
「原点」。
説明板。

 昭和4年(1929)八幡製鐵所内の一を決めるために6基ならんでいた東田高炉群を中心に東西を貫いた直線と旧本事務所からこれを直角に交わる点を八幡製鐵所の測量原点をきめました。この点をもとに、八幡製鐵所内につくられる施設の一や高さがきめられました。


「高炉」と「傾斜塔」。鉄鉱石やコークスは「傾斜塔」を通して、高炉に投入された。
「熱風炉」
「煙導弁作動モーター」
 
「熱風炉基盤」


「煙道」
耐火レンガが張り詰められている。

説明板。

遠くに見えるのが、「転炉」。


 転炉では、高炉から運ばれて来た銑鉄にくず鉄や生石灰などを入れて酸素を吹き込み、レールや自動車部品などいろいろな使用目的に適した粘りのある強い鋼鉄をつくります。
「転炉」の名前の由来
 転炉という名前は2つの意味があります。ひとつは炉をくるっと回転させることで更迭を流し出すしくみであること、もう一つは、転炉の英語名CONVERTER(転換する者)から付けられました。
 転炉での作業
転炉の炉体を傾け、とっくり型の口の部分から銑鉄やくず鉄、石灰などを炉内に入れます。そして、「ランス」という管から酸素を吹き付け、銑鉄に含まれる不要な炭素分などを燃やして取り除きます。こうした作業が終わると、銑鉄は粘りのある強い鋼に生まれ変わります。

「東田第一高炉史跡広場」。
「トーピードカー」。高炉から出た銑鉄を運ぶ。上部に見える人形は、その貨車に銑鉄を流す場面の再現。

 一方、「八幡」がこうして一大工業地帯と発展した陰に、長い年月、深刻な公害問題を抱えてきました。

 北九州地域は、1901年の官営八幡製鐵所の創業以来、重化学工業地帯として発展しました。中国大陸の鉄鉱石や筑豊炭田の豊富な石炭を利用した重化学工業は、当時の日本政府の経済政策を背景に大いに発展し、北九州市は日本の四大工業地帯の一つとして発展しました

《公害の発生》
 1960年代、産業の隆興に伴い、日本は急激な経済成長を遂げました。特に鉄鋼、機械、化学などの重化学工業は、その牽引的役割を担いました。
 しかし、「経済の成長」と「産業の興隆」は、同時にそれまで経験したことのない公害問題をもたらしました。土地が狭く、工業地帯と住宅地帯が隣接する我が国では、深刻な被害が発生しました。それは、北九州市もその例外ではありませんでした。
(1)大気汚染
 大規模な工場が林立する洞海湾周辺地域の「城山地区」では、1965年に年平均80t/km2/月(最大108t/km2/月)という日本一の降下ばいじん量を記録しました。そして、1969年には、日本で初めてのスモッグ警報が発令されるなど、著しい大気汚染に苦しみました。「公害の吹き溜まり」と呼ばれた城山地区では、激しい大気汚染により多くの市民がぜん息に悩まされました。
1960年代の城山地区のようす。
(2)水質汚濁
 洞海湾は、閉鎖性水域であることに加え、工場からの未処理排水や市民の生活排水が流入することから汚濁が進行しました。1969年の調査では、洞海湾の溶存酸素量0.6mg/l、化学的酸素要求量(COD)48.4mg/lを記録し、大腸菌でさえすめない「死の海」と言われました。
1960年代の洞海湾のようす。

 「北九州地域」は、日本の四大工業地帯の一つとして、重化学工業を中心に発展し、日本の近代化・高度経済成長の牽引役を果たしてきました。しかし、一方で激しい公害をもたらしました。大気汚染は国内最悪を記録、洞海湾は工場廃水により「死の海」と化しました。
 この公害に対し、対策を求めて最初に立ち上がったのは、子どもの健康を心配した母親たちでした。住民運動やマスメディアの報道が公害に対する社会の問題意識を高め、企業や行政の公害対策強化を促したのです。
 市民、企業、行政の一体となった取り組みにより、環境は急速に改善され、1980年代には、環境再生を果たした奇跡のまちとして国内外に紹介されるようになりました。
現在の「城山地区」のようす。
現在の洞海湾のようす。



(以上、 「」  HPを参照)

澄み切った青空の下に映える高炉。
白色の熱風炉。
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象の鼻パーク。たねまる(くん)。転車台・・・。横浜その24。

2014-03-23 09:18:55 | 歴史・痕跡
 赤れんが倉庫から「山下公園」方向へ。

「新港橋梁」。
赤れんが倉庫側を望む。軌道が敷かれている。
銘板には「大正元年八月 浦賀船渠株式會社製造 」とある。

 もともとは横浜臨港線(貨物線)の橋梁で、新港埠頭が出来た明治44年(1911)に開通した臨港線に続き、大正元年(1912)に横浜税関まで開通させた際に架設したもの。

橋を越えると「象の鼻パーク」。案内図。
実際は、「新港橋梁」から来るとこのように見える。↑が象の鼻「防波堤」。



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「象の鼻」のような形をした「波止場」になっていたことがよく分かる。
日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部(明治7年(1874年)刊行)。図の中心からやや右下に2つの波止場が確認できる。(「Wikipedia」より)
(注:Aが「神奈川砲台(台場)」、Bが「象の鼻(東波止場)」と「西波止場」)。


1970年頃のようす(「同」より)。「象の鼻」の形がまっすぐになっている(↓)。その東隣が「大桟橋」。

象の鼻パーク

 横浜港発祥の地。「象の鼻波止場」を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園。

《歴史》
1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により東波止場の先端に大さん橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。
(以上、「Wikipedia」参照。)

正面が「象の鼻」突堤。左に見えるのが「飛鳥Ⅱ」号。
芝生のところから「大桟橋」を望む。正面が「象の鼻」。
横浜開港150周年を記念したモニュメント「たねまる」くん。「開国博Y150」のマスコットキャラクター(今でいう「ゆるキャラ」)。当世のゆるキャラブームの中で、今はどうしているのか?

開国博Y150

横浜港開港150周年を記念して2009年4月28日から9月27日までの153日間、横浜市で開催された地方博覧会。

マスコットキャラクター「たねまる」

 横浜開港資料館の中庭に植えられるタマクスの木の精。上半身は芽を出した種子、下半身は船をモチーフにしており、横浜のタネが世界に向け出航するイメージを表している。博覧会のみならず、横浜開港150周年記念事業全てのマスコット。

ペリー・テイトくん

「たねまる」の友達でありライバルというサブキャラクター。開国博Y150を盛り上げるために応援に駆けつけたという設定を持つ。名前のモチーフは、横浜開港の立役者となったマシュー・ペリー。黒船をモチーフにした黒い船体につりあがった眼つきと、いわゆる「ゆるキャラ」の「たねまる」とは対照的な容姿を持つ。
 開国を求めて背中の大砲をぶっ放す、錨を振り回す、さらに頭の煙突からは大量の二酸化炭素をまき散らすなど行動も極めてワイルドかつ破天荒な存在。
 (注:どうして「くん」付けしたのか、当時の「尊皇攘夷」から「開国」「開港」へと迫られた日本の為政者の屈折感が現れているのか? してみると、現在と変わらないなあ!

 ところがこの博覧会、最終的には大赤字!
 最終的に有料入場者数123万9,325人と、計画していた有料入場者数であった500万人には及ばず、最終的には約28億円の赤字となった。閉幕後、横浜開港150周年協会とイベントの企画運営を委託した企業や入場券販売の契約を結んだ企業とのあいだで相互に提訴になった。
 2010年11月には協会と博報堂JVが調停に入り、博報堂JVに対する協会の債務残高約34億8000万円のうち、協会の資金となる約11億4100万円と市の補助金約12億6000万円を博報堂JVに支払い、残額10億3100万円は債権放棄することが発表、その後の市議会で補助金相当額の市税を投入する補正予算が可決された。・・・
 (注:とんだイベントだったわけですね。そして、「たねまる」くんも借金のかたにとられたまま、姿を隠し、今は、ここにだけ残っているということか!)

遠くに「大桟橋」に停泊中の「飛鳥Ⅱ」。上空から見ていないので、「象の鼻」とはなかなか・・・。
赤れんが倉庫を望む。

「山下公園」へのプロムナード。この道もかつての貨物線跡。
1970年頃のようす(「同」より)。「山下公園」西側、赤い直線が「山下埠頭線」。→が「氷川丸」。


 昭和30年代、山下公園の東側に山下埠頭が造成されることから既に新港埠頭(当時)の横浜港駅まで敷かれていた国鉄高島線(通称)の線路を山下埠頭まで伸ばして貨物駅を設置し貨物輸送を行う計画が持ちあがり、公園の道路側に高架を建設することになって、1961年から工事が着手され1965年に完成した。
 名称については「山下臨港線」の他にも「山下埠頭線」「臨港貨物線」「公共臨港線」などの様々な通称がつけられた。
 開通後に本牧埠頭および大黒埠頭が造成され山下埠頭の重要度が低下していき、またモータリゼーションにより鉄道輸送から自動車輸送へシフトしたことから貨物列車の運行頻度が低下していったため、山下臨港線は1986年に廃止となった。
 1989年の横浜博覧会の開催に合わせて会場近辺から山下公園までの線路を旅客輸送に再活用するために、追って廃止された桜木町側の線路と共にそのまま残されることとなった。そして博覧会開催時にはこれらの線路を利用して、桜木町駅近辺(会場ゲートの一つ)に設置された日本丸駅から氷川丸付近に設置された山下公園駅まで気動車を往復運行していた。
 この列車については当時の鉄道ファンなどから恒常的運行を希望する声もあったが、営業収支が芳しくなかったことから運行は博覧会の会期中にとどめられた。
 またこの時運行された2編成4両の気動車は、博覧会終了後に岩手県の三陸鉄道へ譲渡されて36-300形・400形となり、それぞれ2006年、2004年まで運行された後、ミャンマーへ売却された。
 その後しばらくの間、山下臨港線部分の線路と高架脚は放置されていたが、地元から山下公園内の景観復活を求める声が強くなったため、公園敷地内の高架については撤去する工事が開始され2000年までに撤去を完了した。
 山下公園より西側に残されていた山下臨港線跡の高架について、「汽車道」同様に遊歩道とされることになり、2002年、新港橋梁から山下公園まで「山下臨港線プロムナード」として一般開放された。(以上、「wikipedia」参照)

高架線跡をそのまま生かしている。
高架下。

転車台。小型のもの。特に説明板はなかったので、詳細不明。

 「山下公園」内は省略して、「桜木町」駅にたどり着き、駅そばの老舗・「川村屋」でおそばを食べて電車に乗りました。
 これで、横浜編は一段落。またの機会に探索を続けます。
 
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「高島線・みつびしどっく踏切」。「日本丸メモリアルパーク」。・・・。横浜その21。

2014-03-19 22:07:01 | 歴史・痕跡


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。横浜~桜木町。「みなとみらい21地区」などまだ影も形もない頃。高島線・高島駅が埠頭の中心地に大きな敷地を占めている。高島操車場は機関庫も有した京浜工業地帯有数の大規模な駅だった。
 右(海側)に「三菱重工ドック」の一部が見える。左上方が「横浜駅」、右下方が「桜木町駅」。

 「高島(貨物)線」

 現存する区間は、鶴見~東高島~桜木町。鶴見で東海道本線や貨物線の東海道貨物線、武蔵野線に接続し、新鶴見信号場や東京貨物ターミナル駅方面へと連絡している。また、桜木町では根岸線に接続している。
 日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車が運転されているが、線内完結の列車はなく、鶴見以東と根岸線を結ぶ中継ルートの役割を果たしている。
 路線網が縮小される前は、横浜港一帯に臨港線と貨物駅を張り巡らせており、横浜市内に発着する貨物および船舶と連絡する貨物の取り扱いを行っていた。

「高島駅」跡地。しばらく地下を通過し、途中から地上に出て桜木町駅方向へ進む。
このあたりもかつての高島駅構内。
高層ビルの向こう、運河を隔てた先にある「東高島駅」方向を望む。「日産自動車」ビルと「富士ゼロックス」ビルの間で地下化されている。
旧「高島駅」一帯は広大な敷地が残されている。
東高島駅方向を望む。線路は地下から地上に出てしばらくJR線の脇を進む。標識には、「ここはたかしま線 10番 みつびしどっく踏切です」とある。
 このあたりから東側・海岸一帯は、広大な「三菱重工横浜造船所」敷地だった。
桜木町駅方向を望む。
「自動車通行禁止」の細く小さな踏切。それでも、けっこう地元住民らしき人達が渡っていく。この辺では西に出る唯一の通り道。
踏切を通過する貨物列車。
 みなとみらい4丁目の交差点を西へ。小さな子どもを連れた家族で賑わう「横浜アンパンマンこどもミュージアム&モール」の脇の道を行くと、この踏切にぶつかる。踏切を渡ってJRの高架線をくぐると、花咲町へ。地元の人たちの大事な通路となっているようす。

 思いがけない発見でした。

 もともと、「みなとみらい21」の敷地は、「三菱重工業横浜造船所」の移転跡地を埋め立てにより拡張したもので、「横浜ランドマークタワー」は、造船所のドック跡地に建設されました。
 「ドックヤードガーデン」は、日本に現存する最古の石造りドックヤードであった旧・横浜船渠(のちの三菱重工業横浜造船所)第2号ドックを復元・保存したもの。このドックは1896年に竣工し、1973年に使用を中止するまで70数年間、港湾施設として重要な役割を果たしてきました。
 「みなとみらい」の土地造成に伴い、ドックは海岸線から離れたが、1993年の横浜ランドマークタワーの開業とともに、「ドックヤードガーデン」としてオープンしました。

 1997年12月には国から重要文化財の指定を受けました。全長約107m、全幅(上端)約29m、深さ約10m。

 横浜船渠の第1号ドックは1985年以来、「日本丸メモリアルパーク」として保存活用され、2000年12月に国の重要文化財に指定されています。(以上「Wikipedia」参照)


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓Aが現「ドックヤードガーデン」、→が「日本丸メモリアルパーク」、↓が「汽車道」。中央下が「桜木町」駅。

「日本丸メモリアルパーク」。
「日本丸」。


 この次は、「汽車道」へ。
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痕跡廃線をたどる旅(総集編。その1。)

2013-12-01 20:47:09 | 歴史・痕跡
 2008年から2009年にかけて下町地域(隅田川以東)を中心に、主に自転車で回りました。そこで、当時の足跡代わりに再掲。
 取り上げた記事の主な場所をまとめておきます。気が向いたら探訪してみて下さい。(【】は、現在のコメント。番号は、掲載番号)

《葛飾区編》
1古墳時代から続く区内の古道(四つ木、立石、小岩付近)【これは一押し、ぜひ歩くことをおすすめ】
2旧水戸街道(古隅田川・小菅付近)【よく手入れされた遊歩道】
4葛飾と足立の区界(小菅、足立区綾瀬付近)【「古隅田川」跡。入り組んでいるのが見所。】
6曳舟川通り(続)(四つ木付近)
7水道路(すいどうみち)(高砂、青戸、立石、四つ木付近)【自転車か歩きでぜひ貫徹して下さい】
8高射砲陣地跡(白鳥付近)【これは保存の価値あり】
13カスリーン台風と新中川(高砂付近)
16東京理科大と謎の鉄球(金町付近)【今はどうなっているか?新装なった公園に鎮座しているらしいが】
17新金貨物線(奥戸付近)【踏切や複線など、発見の楽しみあり】
18旧佐倉街道(高砂付近)【桜の季節にはぜひ】
20鉄橋除去工事(新宿付近)【今はすっかり工事完了、整備された道路に】
23用水路と肥溜めと(新宿付近)【落ちたくさい話も、当時はたくさん】
24岡田タイヤ(お花茶屋付近)【駅伝で有名だったらしいが】
33京成線と三角池(青戸付近)【線路を抜ける危険な近道。】
42「青砥駅」と幻の線路跡?(青戸付近)
51順天高校青戸校舎跡(青戸付近)【これはホントウ?】
61荒川放水路と木根川橋(四つ木付近)【開削の歴史を感じる】
68曳舟川親水公園(お花茶屋付近)【ぜひ「プラネタリウム」へ】
73旧水戸街道・大曲付近(亀有付近)【これはとっておき】
84青戸平和公園・野球場跡(青戸、金町付近)【平和祈願の碑】
113旧水戸街道新宿跡(新宿付近)【煎餅屋は知人の実家】
114新金貨物線複線計画跡(新宿付近他、沿線)【列車の走る場面が欲しい。後、撮影できました】
115葛西城址公園(青戸付近)【環七をはさんで。発掘では、中世の什器類が出現。】
116修徳高校脇旧用水路(亀有付近)【葛飾区には農業用水がたくさんあった】
117帝釈道(新宿付近)【これは、意外な発見】
126葛西城址(青戸)【地形的に見るとたしかなようだが】
127立石(立石)【小さな公園にひっそり。古代遺跡】
128鬼塚(奥戸)【中世の遺跡?】
 

《墨田区編》
5曳舟川通り(業平橋付近)
10ぎやまん通り(横川付近)【ネーミングがよい。由来はあるのですが】
12親不孝通り(江東橋付近)【  〃  にいわれあり】
21鳩の街(向島付近)【興味本位では・・・】
22大横川親水公園(横川付近)【東京大空襲ではたくさんの遺体が浮かんでいた】
27永柳工業工場跡(曳舟付近)【「ヒキフネに乗りませんか」】
28東京スカイツリー(業平橋付近)
29   〃 (続)( 〃 )【この他、立ち上げから完成まで徐々に高くなっていくスカイツリーの写真多数】
31アサヒビール吾妻橋工場・フラムドール(吾妻橋付近)【一見の価値あり。特に夜はいい】
34押上駅前トロリーバス(押上付近)【スカイツリーの下車駅】
36「桂友」両国高校定時制課程【廃校になった】
38伊藤左千夫・牧場の主として(錦糸町付近)【歌碑をぜひ】
40精工舎、そして錦オリナス( 〃 )【億ション見学にいかが】
43押上駅今昔(押上付近)【終点から地下駅、今やスカイツリーが目の前】
46京成電車・白髭線。【立体工事のため、痕跡はなくなった】
50東武線・隅田公園駅跡(吾妻橋付近)【痕跡が不明になりつつある】
54同潤会・中ノ郷アパートメント(押上付近)【あわせて旧「柳島アパート」も】
55今に残る東京大空襲の爪痕、飛木稲荷神社の大イチョウ(押上付近)【ぜひ見学して下さい】
56旧墨堤通りと桜並木(向島付近)【かつての海岸線が地蔵坂通り】
58隅田千軒宿。古代東海道の宿駅跡(墨田付近)【痕跡はないが、雰囲気だけでもぜひ】
59東京大空襲。江東橋のたもとにて(江東橋付近)
60 〃   。本所吾妻橋付近(吾妻橋付近)
63墨田川高校堤校舎跡(鐘ヶ淵付近)【跡地はこの自然のままに残して欲しいが】
64柳島・妙見山法性寺(押上付近)【北十間川と横十間川との分岐点】
65吉良邸跡・本所松坂公園(両国付近)【行って、びっくりします】
66両国馬車通り( 〃 )
71東京大空襲。錦糸公園にて(錦糸町付近)【すっかり模様替え】
91綾瀬橋と旧綾瀬川(鐘ヶ淵付近)【「伊沢造船」が意外な発見】
92東下りと「業平橋」(業平橋付近)【今や駅名にもなくなった!】
100両国高校旧校舎校章(江東橋付近)【今は中高一貫校】
102スカイツリー(6/28朝)(業平橋付近) 【当時は、毎日変貌していました】
103東武伊勢崎線曳舟駅線路跡(曳舟付近)
118源森橋(吾妻橋付近)【今や、「スカイツリー」の展望地】

《江東区編》
9都電(旧城東電車)跡(JR「亀戸」駅)【橋の上の「緑道」には、レールのモニュメントあり】
32都電の線路跡(都営新宿線「西大島」駅)【城東高校脇の緑道の続き】
39猿江恩賜公園・木場の跡(都営新宿線「住吉」駅)
53JR小名木川駅の跡、再開発(東京メトロ「南砂」駅)【変貌ぶりが分かる】
62東武亀戸線・廃駅(東武線「亀戸水神」駅)【この線の廃駅ツアーも興味深い】
67五間堀、六間堀。池波正太郎の世界(都営新宿線「森下」駅)【墨田区と江東区の区界にも注目】
70日清紡亀戸工場、被服廠、亀戸野球場(JR「亀戸」駅)【知られざる歴史】
75中川船番所跡(都営新宿線「東大島」駅)【一度訪れて下さい】
76越中島線跡(東京メトロ「東陽町」駅)【廃線マニアスポット多し】
77亀戸梅屋敷跡。臥龍梅。(JR「亀戸」駅)【今ある「屋敷」は、観光客のため。場所は異なる】
79扇橋閘門、小名木川(都営新宿線「住吉」駅)【独特の雰囲気あり。パナマ運河と同じ仕組み。】
81「民営機械製粉発祥」の地(  〃  )【小名木川の水利を利用して】
85亀戸浅間神社・富士塚(JR「亀戸」駅)【「富士塚」は、他にもまだあります】
89亀戸水神・水神森跡(JR「亀戸」駅)【かつての海岸線】
90深川芭蕉庵跡(大江戸線「清澄白河」駅)【資料館の方もついでに】
93埋もれる川・竪川(たてかわ)(都営新宿線「森下」駅)【首都高の橋脚で、埋め立てで】
94南砂緑道公園・都電(城東電車)跡((東京メトロ「東陽町」駅)【気分のいい緑道】
95仙台堀親水公園(  〃  )【かつての江戸の水運】
96砂村穏亡堀(都営新宿線「住吉」駅)【夏の肝試しスポットに最高です!】
97越中島線複線跡( 〃 )【まだまだ現役】
98小名木川クローバー橋(都営新宿線「西大島」駅)【広々とした景観】
101小林一茶旧居跡(都営新宿線「西大島」駅)【見落としてしまいそうな神社】

《江戸川区編》
2旧水戸街道(江戸川べり)(京成小岩駅東付近)【東武・鐘ヶ淵駅付近から古道をここまで自転車で貫徹】
11江戸川区と墨田区の区界(JR平井駅付近)【旧中川と】
19上小岩親水緑道(京成小岩駅付近)【歴史を感じる。上代の遺跡あり】
82葛西旧海岸道路(東西線・葛西駅南付近)【後、「葛西臨海公園」まで自転車で走破】
83東京大空襲・旧江戸川区文書庫(JR平井駅南付近)【平和の尊さを実感】
88城東電気軌道(新宿線・一之江駅東付近)【廃線マニアの常識】 

《足立区編》
44「亀有日立」引き込み線跡(JR亀有駅北東付近)【廃線マニアには見逃せない。上から見ると貨車が並んでいるような建物群】
45東武貨物線引き込み線跡と船着き場(京成関屋駅付近)【引き込み線の線路がそのまま残っている】
48「宮地ロータリー」のささやかな面影(JR亀有駅付近)
72葛西用水親水公園・6か村落とし親水緑道(JR綾瀬駅~亀有駅付近)【流れが涼しい】
74旧戦車街道(環七・大谷田陸橋付近)【「亀有日立」跡。新たな発見でした】
107東武線・旧大師前駅(東武・大師前駅付近)【東武としては板橋の方まで路線延長を考えていたとか。これも新たな発見】

《北区、台東区他編》
3赤羽駅南貨物引き込み線跡(JR赤羽駅下車・南口)【カーブが雰囲気を伝える。このあたりはまだまだ未探訪地域】
15春のうららの隅田川(南北線・赤羽岩淵駅下車・新荒川大橋)【荒川の向こうは埼玉県・川口市】
26八丈島のキョン(八丈空港・八丈島植物園内)【希少動物らしい。またぜひ訪れたい】
30『ワルツ』(花村萬月作)の舞台(新宿駅下車・西口付近)【戦後の闇市の面影、まったくなし】
37谷中・五重塔跡(JR日暮里駅下車・谷中墓地内)【再建計画は?】
49新緑の山谷堀公園(浅草駅下車・隅田川沿い)【「日本堤」。「吉原」への道】
52JR隅田川駅、汐入水門(JR「南千住」駅下車・隅田川沿い)【スーパー堤防。景観よし】
108都電27号線(三ノ輪橋~赤羽)、そして荒川線。(南北線・赤羽岩淵駅下車)【都電の終点?】
110汽笛一声新橋を(JR新橋駅下車・東口)【まだまだ探索しがいがありそうな地域】

 その後も、再訪も含め、あちこち探索の旅は続き、カウントも出来ない有様。地域も広がって、九州から韓国まで。その時々の旅のついでに探索をしています。乞うご期待!
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市内と市外の境。墨田区・向島編。南葛飾郡。

2013-09-24 20:34:14 | 歴史・痕跡
 台東区と荒川区は市内と北豊島郡との境界。隅田川の東は、今度は市内と南葛飾郡との境となります。向島地域で分かれていましたが、現在は同じ墨田区向島。横十間川から東がやはり南葛飾郡で、現在の江東区となります。今回は、この境界線をたどってみました。もともとは細い川(水路)の流れに沿って区分けされていましたが、現在はまったく流れの痕跡はありません。北十間川との合流地点も定かではありません「横十間川」は今も昔も変わらぬ流れです。
 よりどころは、「goo」地図の明治時代のもの。市内は詳細な地図が掲載されていますが、市外は全くの空白。その境目はいまどうなっているか? 再び路地裏の探訪ということになるのか?
江戸・安政3年(1856年)の古地図(「曳舟川」沿いの掲示による。南北を修正。)。赤い線が境界線となった流れ。赤丸に「葛飾郡請ぢ」とある。西の大きな川は隅田川。東は中川。中央南北の流れは、「曳舟川」「大横川」。南の運河は北十間川。合流点から少し東、南方に流れるのが「横十間川」。中央の鐘淵付近から南東への流れ(「古綾瀬川」)は、荒川(放水路)工事で吸収された。

首都高の向島入口。このあたりが境界線でした。墨堤通り。
「墨堤通り」から東に入ったところ。何本か道がありますが、どうもこの細い道がそうだったようです。南の広い道も隅田川から分かれて東南に流れ、曳舟川に合流した流れのようですが、これは境界線の内側(東京市内)の流れのよう。
細い路地をはさんで、東京市内と市外(南葛飾郡)とは思えないほど。現在は、墨田区向島五丁目・四丁目町内。
(「今昔マップ」より。明治末頃のようす。)このころは、はっきりと水路(境界線)が残っていました。北十間川との合流付近には大きな池(赤丸)。
南東に向かって進んでいます。
「鳩の街商店街」入り口(水戸街道側)。この通りの一本南の通りが境界線となった流れ跡。
水戸街道を渡ったところから続きます。
道路(流路の跡)に比べて両側の土台が少し高くなっています。
このあたりは、頑丈な土台になっています。
曳舟川通りから来た道を振り返る。微妙なカーブを描いています。
曳舟川通りをはさんで水路跡の道。
土盛りされた道沿いの土地。
東武線の線路にぶつかりました。振り返ったところ。両側を細い道で囲まれた細長い住宅が続いていました。水路跡?
たどってきた路地。
スカイツリーも間近。
線路を越えた付近。ここまでは何とかたどれました。
(「同」。)京成電車が押上まで開通したころのようす。黄色い○あたりに東武線との乗換駅として「請地」駅がありました。
(京成線高架線工事沿いにあった掲示写真より。)左が京成押上駅(地上駅)。右が東武線。
地図では境界線はこの通路なのですが・・・。
 この先は、戦後の区画整理で道も縦横に直線で広く流路跡はまったくさだかでなくなりました。
(「同」)。押上駅の東側一帯。区画整理されてかつての水路は?

「わんぱく天国」脇。この辺りが少し広くなったところだったと思いますが。
「わんぱく天国」。
そこからのスカイツリー。
北十間川との出会い付近。他よりも少し広くなっているのが気になりました。
来た道を振り返る。
十間橋からのスカイツリー。首都高向島入口付近からここまで(ほんの一部、不明なところもありましたが)、細い道ながらもほぼここまでたどれることに驚きました。


(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)北十間川との合流地点。(赤丸の部分)。南に流れる運河が「横十間川」。
北十間川と横十間川との分岐点。横十間川の東側が「南葛飾郡」。現在は、江東区亀戸地域になる。(江東区でも、「竪川」以南はもともと東京市内に属し、現在は深川地域。)
北十間川。かつては「南葛飾郡」だったが、現在は、川をはさんで右奥が江東区、左・右手前が墨田区。北十間川は東に流れ、旧中川に合流する。
横十間川の流れ。右が墨田区、左が江東区。横十間川は南に流れ、小名木川へ。そして、さらに南へ流れていく。

 現在の墨田区の区域にはいる江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日区北半の向島地区18ヶ村は武蔵知県事に所属したのち(同年9月8日明治改元)、同11月東京府南葛飾郡に編入されたが、区南半の本所地区は最初(慶応四年5月12日江戸府設置)から江戸府(7月17日→東京府改称)に編入された。同7年3月8日大区小区制により第六大区・第十一大区に編入され自治権被奪の憂き目に遭う。2ヶ月後の7月22日「大区小区制」を撤回すると「郡区町村編制法」ほか2法を制定し地方自治の方向を示した。11月2日郡制を復し当区では南葛飾郡16ヶ村・本所区77町が成立した。
 同22年5月1日明治政府が初めて地方自治を認めた「市制町村制」により、南葛飾郡下の須崎・押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の6ヶ村を本所区に編入し本所区亀戸町を郡下に移した。残りの10ヶ村は統合して隅田・寺島・吾嬬・大木の4村に改編、同24年3月18日本所区編入の6ヶ村を9町に編成し本所区は82町となった。同44年5月1日市制町村制の改正により本所地区では町名改称し南本所・本所の冠称を削除した。
 大正元年日9月5日吾嬬村が町制移行。同3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村となり、残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。同7年10月1日東京市周辺郡部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立した。同18年7月1日、府県制を改正し新たに「都制」を敷き東京府と東京市を廃して東京都を発足させた。
 敗戦後の同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。(「東京の地名の由来 東京23区辞典」さんより引用。途中、一部省略あり。)

 なお、「南葛飾」は、葛飾区立石にある「都立南葛飾高校」にその名を残しています。
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日曹橋。松尾工場前踏切。新砂踏切。・・・(越中島支線をたどる。その3。)

2013-07-09 19:50:47 | 歴史・痕跡
 猛暑が続く東京地方。午後の炎天下を歩いたり、自転車に乗ったりするのは生命の危機。それでもとディーゼル機関車の通過を見届けようとでかけたものの、あえなく挫折。「越中島13:42発 新小岩13:55着」。タイミングがよくありませんでした。次回に期待。(ただし、「越中島」は、「旧小名木川駅」の時間。待機時間もあるので、要注意。)
「幹線3号踏切」。「永代通り」にある「踏切」。すぐ東側に「明治通り」があり、直進、右左折の車とかなりの交通量。交差点の直前に踏切があるため渋滞がち。
踏切のすぐ南にある長い鉄橋。線路外の水路は、定かならず。もともとは「洲崎川(運河)」に架かっていた鉄橋。同じく「洲崎川」に架かっていた「日曹橋」は、「永代通り」と「明治通り」の交差点の名として残っているが、橋そのものは、現存しない。昭和30年頃には明治通りの交差点から少し南に日曹橋がかかっていた。
「洲崎川」が流れていたころ。次第に南側に土地が広がり、運河のようになっていた。(今昔マップ」より。60年代後半)
長さもあってしっかりした鉄橋。
 かつては、T字路(永代通りの終点)であったが、「清砂大橋」が架かり、葛西へと永代通りが延伸され、交差点になった。
(同。70年代後半)
亀戸方向を望む。
「松尾工場前踏切」。
かつて右手に「松尾橋梁」という会社があったようで、現在は、ゴルフ練習場になっている。
かなり大きなゴルフ練習場。
ここから線路は少し右にカーブして越中島貨物駅へと進む。
線路沿いの駐車場から越中島貨物駅方向を望む。
亀戸方向を望む。
「越中島貨物駅」に入溝する直前の踏切(正面奥)。
「新砂踏切」。その名の通り、「越中島」という地域はもう少し西南のところ。
亀戸方向を望む。
「東京メトロ」の車両基地へ続く線路。

 今日はここまで。暑さは、まだまだ続く。
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ディーゼル機関車。小名木川橋梁。小名木川駅。(越中島支線をたどる。その1。)

2013-07-07 21:12:33 | 歴史・痕跡
越中島支線(えっちゅうじましせん)
 小岩駅と越中島貨物駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の鉄道路線(貨物支線)。
 1929年(昭和4年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現越中島貨物駅)まで延伸された。
 また、1989年までは東京都港湾局所有の専用線により豊洲や晴海までつながっていたが、鉄道による貨物需要が低下したため廃線になった。
 1972年(昭和47年)まで沿線(江東区南砂)に汽車製造東京製作所が存在し、製造された車両は専用線を経由して小名木川駅より各社へ向けて輸送されていた。
 小名木川駅は2000年に廃止され、跡地は再開発によりマンションとショッピングモール「アリオ北砂」となった。
 現在は、全線単線で非電化。かつては複線だった区間もあり、その敷地は、そのまま残っていたり、駐車場や緑道になっている。
 
 かつての小名木川駅発着列車では、D51形蒸気機関車やDD51形ディーゼル機関車が使用されたほか、後年にはコンテナ輸送も行われていた。現在は、越中島貨物駅にある東京レールセンターから発送される鉄道用レールの輸送(工事臨時列車)に使われるのみとなっている。
 この工事臨時列車は、宇都宮運転所所属のDE10形ディーゼル機関車による牽引で、日曜日を除き2往復のダイヤが設定されている。

※時刻表
 列車番号  新小岩  越中島貨  備考
 9295   12:10     12:22     レール
 9294   13:55     13:42


京葉道路高架線を通過するディーゼル機関車(午後2時40分頃。「歩道橋」から)。
「越中島貨物駅」方向へ向かう、思ったよりも長い貨物列車。(同)。

LRT構想

 江東区では亀戸駅 - 新木場駅間にLRTを走らせる構想がある。亀戸駅前 - 南砂付近までを高架化または既存路線を活用し、以南は明治通り沿いの都有地に線路を敷設する案が出されている。
 沿線住民の約8割が南北を結ぶLRTの実現を望むなど実現への期待が高いが、公的支援なき収支の均衡が見込めないほか、新木場駅付近での国道357号との平面交差などの問題が指摘されている。
 また、関連する路線としてゆりかもめを豊洲駅から亀戸駅まで延伸する要望や提案が江東区議会で行われている。

歴史

1929年(昭和4年) 亀戸駅 - 小名木川駅間開業
1950年代前半(昭和20年代後半) 東京都港湾局が専用線を豊洲、晴海まで敷設
1958年(昭和33年)小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間開業
1971年(昭和46年)起点を新小岩操駅に変更
1986年(昭和61年)新小岩操駅廃止のため、起点を小岩駅に変更
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道に承継。
1989年(平成元年)東京都港湾局専用線全廃。
1990年(平成2年)京葉線越中島駅との区別のため、越中島駅を越中島貨物駅に改称
1997年(平成9年)小岩駅 - 越中島貨物駅間の定期貨物列車廃止
2000年(平成12年)小名木川駅廃止。
(以上、写真以外は、「Wikipedia」参照)
 
 というわけで、亀戸駅から越中島貨物駅までたどります。梅雨明けの炎天下、さすがに暑かった!

左が総武線亀戸駅方向。しばらくは高架線が続きます。これは「京葉道路」を越える高架橋。
「小名木川」に架かる鉄橋。
機関車が通る線路だけ下を覆い、もう一つの線路は撤去したまま。
年季の入った石とコンクリート造りの橋脚。
ツインタワー。かつては、この二棟の高層マンションが飛行機の上からもよく見えて、目印になった。今では、スカイツリーが目印の独り占め。
「小名木川」。

小名木川

 1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳))に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。そこから、「小名木川」を別名「塩の道」とも称した。
 その後、塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
 開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。利根川~江戸川~中川~小名木川~隅田川というルート。
 明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」(「小名木川」と「旧中川」を結ぶ)「小松川閘門」(「旧中川」と「荒川」を結ぶ)「船堀閘門」(「荒川」と「中川」を結ぶ)が設置されていた。
 昭和50年代には地盤沈下などによりそれぞれ閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
 名称の由来は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとったもの。

鉄橋の脇の公園にあった「釜屋の渡し跡」の説明版。「小名木川」を南北で船で渡った。

 釜屋とは鋳造業のことで、太田六右衛門と田中七右衛門の2人は、近江国栗本郡辻村の出身で、代々鋳物を業としていた。寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため大島村に移り、幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。原材料や製品の輸送に使った両家の前の堀は「釜屋堀」と呼ばれた。(「東京の地名の由来辞典」より)

小名木川貨物駅

 総武本線貨物支線の貨物駅として1929年(昭和4年)に開業し、付近を流れる小名木川との水陸の物流連絡として機能した。最盛期には5面のコンテナホーム、6本のコンテナ荷役線、4面の有蓋車用貨物ホーム、6本の貨物荷役線を有していた東京都東部の鉄道貨物輸送の拠点であった。
 しかし、貨物輸送形態の変化による取り扱い量減少によって2000年(平成12年)に廃止され、業務は隅田川駅に移管された。
 総武本線越中島支線の貨車牽引は、古くは新小岩機関区のD51形などの蒸気機関車、末期は佐倉機関区(後の千葉機関区)DD51形などが担当した。また、当駅の貨車入れ換えや越中島貨物駅への貨車牽引は京葉臨海鉄道へ委託していた時期があり、同社の機関車の姿が見られた。
 かつては、貨物輸送の他、都営地下鉄大江戸線の12-000形を木場車庫へ搬入する際に当駅まで甲種車両輸送された。また、かつて付近に存在していた汽車製造東京製作所へ続く専用線もあり、甲種車両輸送列車の始発駅となっていた時期もあった。現在の川崎重工業へ合併される1972年まで存在していて、都内では唯一の車両製造メーカー工場としても注目されていた。151系、181系、153系、157系、165系、101系、103系、113系、115系、455系の他0系新幹線、私鉄・地下鉄公共電車もここから輸送された。
 現在は、再開発により構内の線路・施設がすべて撤去され、高層マンションやショッピングセンター「アリオ北砂」となっている。
昭和初期の頃のようす。上方の赤い線が「小名木川」。紫で囲った大きな円が「小名木川駅」。さらに城東電車の「いなりまへ」駅、汽車製造会社。「明治通り」もまだ全線開通していない。(「今昔マップ」より)
最盛期の小名木川貨物駅。すぐ右にある南北に通じる道路は「明治通り」。

現在の様子。かつての貨物駅の面影はどこにも見当たらない。
右が今も使われている貨物線(単線)。左が「アリオ北砂」。
小名木川貨物駅への引き込み線の跡にある「公園」内に設置された車輪の「モニュメント」。
公園の中にある。脇には説明板。
「小名木川駅の歴史」。
跡地にできた大規模なマンション棟。
さっきの航空写真と重ねると、上の部分が「アリオ北砂」、下の部分がマンション群。赤丸がモニュメントのある公園。
 
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耕道踏切。東京街道。立石大通。・・・(「新金貨物線」踏切をたどる。その4。)

2013-07-02 20:48:29 | 歴史・痕跡
 「富士見橋」をくぐると、「新中川」沿いに進みます。「新中川」と線路の間や東側にはかつては畑・耕作地が続いていましたが、現在は、ぐっと少なくなって、マンションや住宅地に変わりつつあります。それでも、周りが農村地帯だった名残りが踏切の名にも残っています。
富士見橋下を通る貨物列車。(午前6時25分頃)。
かなり長い。(同)。
遠ざかる貨物列車。(同)。

紫蘇がたくさん。
「新金貨物線」を進む機関車(ほぼ同じ場所で今年春頃の撮影)。(午後1時30分頃)。
「耕道第二踏切」。「新中川」の堤防道に抜ける踏切。「新中川」が開削される以前からの農耕地があった名残りでしょう。
明治10年頃のようす。田んぼが広がっている。一番右の水路は「東用水」。右端中央の水路は「中井堀」とそこから分岐する「西井堀」。中川の氾濫原流域が東に大きく湾曲している。現在、その中央を「環七」が通っている。地図上で下方、東西を貫き、少し湾曲した道が「古代東海道」に擬せられている道。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
「富士見橋」方向を望む。
幅1㍍。車・オートバイなどは当然通れません。耕運機ははたして?
表示。
踏切を通過する貨物列車。間に合わず最後尾近くでなんだかよくわからん写真ですが。(午前10時45分頃)。
「耕道第二踏切」近くの中川土手から遠くにスカイツリー。左に流れていく川が「新中川」。
「耕道踏切」。ここも同様。背後には、ささやかな畑地。
「東京街道踏切」。「小松川街道」の続きか? 旧水路(中井堀・仲井堀)は、「新中川」に向かって川の中に消えていく。「西井堀」との分岐点も川の中に水没。
赤い線が「新金線」青色部分が「新中川」、が「東京街道踏切」。
踏切脇の「中井堀」水路跡。左方向が「新中川」。しっかりした鉄橋(いつまで残すことやら)。
雑草を刈った後のようす。
「新中川」土手から踏切を望む。道(水路跡)が新中川によって途切れている。
新小岩から金町に向かう電気機関車。(「東京街道踏切」から)
鉄橋を通過する。(同)
「細田踏切」。
その付近を通過する貨物列車。かなり長い。午後4時前。
「立石大通踏切」。「古代東海道」にある踏切。
西側「三和橋」(「新中川」に架かる橋)方向を望む。広く整備されいます。通過する車両数は、「水戸街道」の踏切「新宿新道」に次いで多い。
が踏切のところ。
 室町時代以降、中川の流路変更や新田開発などによって、このあたりは大きく変貌します。「奥戸の渡し」の位置に大きな変化がなかったとすれば、現在の「奥戸橋」付近にあたります。さらに、中川を越したあたりも古代道を正確には分かりません。しばらく進むと、環七を越え、区立奥戸小あたりから、はっきりとした直線道路が「京成小岩駅」踏切以東にまで延びています。明治以前には一部、南に迂回する道筋の方が顕著でしたが、それも本来の直線道に改修されています。
 現在、この道路は、柴又街道付近まで道路の拡幅整備工事が盛んに行われ、用地買収も進んでいます。かつて古代人の東西往復道としてにぎわったであろう「官道」が、今また便利な葛飾区南部の東西を貫く幹線道路として蘇ってきています。実に歴史のおもしろさを感じます。
 「古代東海道」は、柴又街道を過ぎると、「上小岩遺跡通り」と名付けられた直線道としてそのまま京成線の踏切を越え、「岩槻街道」と交差、しばらく行くと、江戸川堤防手前の寺院のところで突き当たりになります。
「区立奥戸小」前に設置されている「案内板」。ただし、便宜上、南北がほぼ反対になっていて、上が南方向。さらに、「新金線」は表示されていない。

このあたりで、「新中川」開削のために線路が少し東にカーブすることになりました。線路の向こう側が「新中川」方向。
中川放水路の開削工事では多くの家屋が立ち退きに。JR新金線も同様に、まっすぐに進んでいた線路は東側にカーブすることになりました。ここがもともとの線路だったところの分岐点(線路の西側地点)。金町方向を望む。
赤い線が旧線路。
線路跡は舗装道路になっています。右が旧線路。左が現在の線路。
新中川土手から見たところ。直線道路が旧線路。
「金町」方向を望む。
最後の踏切、「奥中区道踏切」。ここから「新小岩」へは高架となって「新中川」を越えていき、本線に合流する。
「奥中区道踏切」から「新小岩」方向を望む。線路の右手に見えるのは、「葛飾区立奥戸中学校」。「新中川」開削の際、旧線路と新線路の間に建てられた学校。
最初の高架橋。完成が、「1957・10」とある。 に注目。
 
「新中川」
 1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年(1939年)4月、中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置された。しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止、事務所も廃止となる。
 1947年9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討された。1949年11月 中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化した。
 葛飾区、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成した。

 1965年3月、一級河川に指定され、河川名を「新中川」に改称された。

 「1957(昭和32)年10月完成」ということは、本格的な開削工事が始まり、線路の移設が完成したことでもあるでしょう。

現在のようす。(「今昔マップ」より)

 「新金貨物線」と同じように興味深いのは、「越中島支線」。非電化の単線貨物線。ここは、一日2、3本貨物列車が通る。機会があれば、この支線を探索します。
「越中島支線」。新小岩~(亀戸)~(小名木川)~越中島。

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旧佐倉街道。小松川街道。富士見橋。・・・(「新金貨物線」踏切をたどる。その3。)

2013-07-01 22:13:15 | 歴史・痕跡
 水戸街道(国道6号線)を通過した「新金貨物線」は、南に進んでいきます。このあたりからもかつての農業用水と交差する箇所がいくつかあります。
その一つ。斜めに横切っています。
東側から。線路内以外は用水路跡は定かではありません。
「新堀踏切」。広い道路との交差点ですが、かつては北側に「用水路」がありました。
「にいぼり」という名称。東西に延びていた用水路。北側(金町)を望む。

そのまま西にたどっていくと、「中川」近くの用水路跡の緑道(新宿方向から)と合流しています。中川寄りにかなり大きな「新宿ポンプ場」があるので、その施設との関連はありそう。
線路内の空き地を利用して、近所の方の「家庭菜園」が続いている。ナスやミニトマトなど通過する列車が少ないからできること。無断で使用しているという感じ。でも、高いフェンスのどこから出入りしているのでしょうか?
「高砂踏切」。「新宿」で「水戸街道」と分岐して市川に向かう(「小岩の渡し」)「佐倉道(街道)」上の踏切。

 このあたりは、昔は「曲金(まがりかね)村」。「高砂」は後から付けた名。昭和7年葛飾区高砂町(曲金村にあった字の名からとった)。同40年新住居表示により諏訪町の全部に高砂町・本田立石町・奥戸新町・細田町・鎌倉町・新宿町3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「高砂」とした。
 
   高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて
   月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
   早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり
 
 から、「高砂」というおめでたい名を地元の方が字とした、という。
 「曲金」は、中川がかなり蛇行している流域で「曲尺」(かねじゃく)から来ているように思われます(墨田区内の隅田川沿いにある「鐘ヶ淵」の「鐘(かね)」も同じではないか)。
「曲尺」。

東側・踏切沿いにあった家。朽ちたようだが住居表示があったので民家?
「東用水」跡を渡る鉄橋。ここも道路・水道工事中。いずれ道路として整備されるはず。
踏切の北西側。かなり広く深い流れの跡。「佐倉道」と交差している付近。
水戸街道に向かう道路(「東用水」跡)。広くて直線の道。旧「佐倉道」はその西側にある、細く曲がりくねった道。 

        
        
1880年代のようす。                    2010年代のようす。二本の用水は道路となっている。右端に京成「高砂駅」。
かぎ型に曲がる道(↑)が「佐倉道」。上下の流れが「東用水(上下之割用水)」。


線路を越えたところ。道路、緑道として整備が進んでいる。
「小松川街道踏切」。
 この踏切は、旧「佐倉道」から分かれて南下する道にある踏切。「東用水」からこの先で分岐した「中井堀」沿いに進む道で、「東京街道踏切」にもつながっていく道のようです。
「小松川街道」から踏切の西側を望む。
以前、この踏切で撮影した貨物列車。
前掲の地図上で、赤い線が「小松川街道」らしい道。
明治10年代の古地図では、「中井堀」沿いに進み、途中で「西井堀」沿い、途中から分かれてさらに「小松川境川」沿いに進んで、小松川方向に向かったようすが読み取れます。

「中川」に架かる「高砂橋」の手前にある「富士見橋」からの新金貨物線。金町方向を望む。

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三重田街道。浜街道。柴又街道。新宿新道。用水路跡。・・・(新金貨物線踏切をたどる。その2。)

2013-06-30 12:39:54 | 歴史・痕跡
 かつての田園地帯を南に進む「新金線」。「中川」の東側を通ります。
 その途中。
用水路跡(線路の西側)。
線路の両側(東西)は、緑道として整備されているが、線路下はご覧の通り。
振り返ると、用水路跡(緑道)が西へまっすぐ進んでいきます。
そのまま追っていくと不自然なかたちで緑道が狭くなり、車両通行止めに。用水路跡の証拠。
ネコがお昼寝。のところ。
用水路跡。(線路の東側)。住宅地で行き止まり。振り返ると、まっすぐに「大堰枠」の方向へ。
鉄道開通後の地図(地図は、「今昔マップ」さんより転載。以下、同じ)。ちょうどのところに当たる。

「三重田街道踏切」。「東用水」沿いの道路。整備されて道幅も広く明るい雰囲気の道路に大変化。「三重田街道」のいわれは浅学のため、不明。この道は「大堰枠」から「小合溜」の方向に進み、さらに戸ヶ崎方向にも。その辺りの地名と関連があるか?
赤い線が「三重田街道」。が、後の「新金貨物線」との交差地点。水戸街道の宿場町だった新宿から東北の方向へ進んだ「街道」のようだ。
「東用水」跡でもある。
ほぼ4年前のときの同じ地点。鉄橋が工事中の土砂の中に埋もれています。
「浜街道踏切」=「水戸街道」。「水戸街道」は、「陸前浜街道」と称されていました。
踏切脇の水路跡。
補強された橋桁の上に線路。
さすがに水は流れていない。
踏切から東を望む。
踏切から西を望む。正面の奥が「水戸街道(浜街道)」と「柴又街道」との分岐点。
「帝釈道」の道標。
「柴又踏切」を望む。
「柴又踏切」。柴又帝釈天への道。現在の「亀有警察署」の脇を通って行く。
この脇にも用水路跡。
雑草に覆われていた。
振り返って金町方向を望む。
の、上から「三重田街道」「浜街道」「柴又」踏切。
「新宿新道踏切」。現水戸街道(国道6号線)の踏切(「新宿新道」という呼称に注目)。幹線道路のため、ここの交差、通過(交通渋滞)をどうするかが、大きな課題。「亀有警察署」付近の大がかりな拡幅工事、「中川大橋」付近からの高架工事のからみなど難点が多い。
撮影時には少し交通量は少なめだったが。
午後1時40分頃、水戸街道の踏切(新宿新道踏切)を電気機関車1両が通過。長い渋滞が生じた水戸街道上り。渋滞の先が踏切の赤信号。(後日に撮影したもの)
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新宿(にいじゅく)道。帝釈人車鉄道。大堰枠。・・・(新金貨物線踏切をたどる。その1。)

2013-06-28 21:59:25 | 歴史・痕跡
 JR「金町」と「小岩」(地元的には「新小岩」)を結ぶ「新金(しんかね・しんきん)貨物線」。
 この間の都議選でも、候補者の中からは、住民の交通手段として整備せよ、などという主張がありました。もともと複線化の用地は確保されていますが、一日中、交通量が多い「水戸街道」踏切の解消、総武線の混雑UP、貨物運搬との併用、採算性、・・・、解決しなければならない多くの問題を抱えているようです。
 久々の晴天。金町~新小岩。そんな路線の「踏切」をたどってみました。その多くは、明治以来の古道の踏切です。
明治13年頃のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)カギ型にまがった顕著な道が旧水戸街道。現在も「新宿」付近ではそのまま残っている。「水戸街道」から分岐して中央・東南に延びる斜めの道は「帝釈道」。小合溜からの流れが二手に分かれるところは「大堰枠」。


 新金貨物線(しんかね/しんきんかもつせん)

 東京都江戸川区南小岩七丁目にある小岩駅と東京都葛飾区金町六丁目にある金町駅を結ぶ総武本線の貨物支線。小岩駅 - 金町駅間 8.9km (小岩駅 - 新小岩信号場駅間2.3kmは本線と重複)
 明治期及び大正期の国鉄総武本線の東京側の終着駅は両国橋駅(現・両国駅)で、隅田川への架橋がなかなか行われなかった。そのため国鉄の貨物列車は次のような経路で千葉県内外との連絡をはかっていた。

①総武本線亀戸駅/東武亀戸線亀戸駅 -(東武亀戸線)- 曳舟駅 -(東武伊勢崎線)- 東武北千住駅/常磐線北千住駅から隅田川西岸へ。
②千葉県内から輸送されてきた貨物は両国橋駅で荷馬車や船に積み替えて隅田川を渡り、隅田川西岸へ。

 総武本線の貨物列車が隅田川を渡れないことは物流にとって非常に不便なことで、千葉県の経済にも影響が大きいため、1920年(大正9年)に総武本線新小岩信号場 - 常磐線金町駅を結ぶ本貨物線 (7.1km) が計画され、1926年(大正15年)7月1日に開通。同時に貨車の入れ換えを取り扱うために新小岩操車場が開業される。この貨物線の開業により、総武本線の貨物列車は本貨物線と常磐線を経由して隅田川西岸へ直通することができるようになった。
 その後、両国橋駅止まりだった総武本線は関東大震災の復興計画として中央本線御茶ノ水駅まで延伸することになり、総武本線は隅田川西岸へ伸びることに。ただし、延伸された御茶ノ水 - 両国間は、秋葉原駅の前後が電車列車のみ通過することを前提として急勾配で敷設されたため、その後も貨物列車は新金貨物線経由で運転されていた。
 1984年(昭和59年)2月1日の国鉄貨物輸送の大改革によって貨物列車の運行形態が大きく変わったが、本貨物線は総武本線と常磐線の連絡線として、今も一日数本の貨物列車が運行されている。イベント列車の経路としても使われることがある。
 全区間が単線。用地は複線分確保されているが、一部は駐車場等に転用されている。


1920年(大正9年)本貨物線が計画。
1926年(大正15年)7月1日 新小岩操車場 - 金町駅間 (7.1km) が開通。新小岩信号場を新小岩操車場に変更。
1928年(昭和3年)7月10日 新小岩操車場を新小岩駅に変更。
1933年(昭和8年)6月12日 新宿駅発のイベント列車として行先不明列車が本貨物線を経由。
1959年頃 新中川掘削工事のため、一部線路の付け替え。
1964年(昭和39年)9月25日 電化。
1968年(昭和43年)6月1日 新小岩駅の貨物取扱・操車場業務が分離され新小岩操駅開業。
1986年(昭和61年)11月1日 新小岩操駅を廃止し新小岩操車場に変更。これに伴い起点を小岩駅に変更。
1987年(昭和62年)3月31日 新小岩操車場を貨物駅に変更し新小岩操駅開業。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道が第一種、日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる。
2011年(平成23年)3月12日 新小岩操駅を新小岩信号場駅に改称。

 旅客路線化計画
 葛飾区・江戸川区区域は南北を走る公共交通が路線バスしか存在せず、唯一の例外が、南北に走る鉄道である京成金町線しかない。そこで当貨物線を旅客化して南北公共交通手段とする計画が浮上し、検討されている。しかし採算性や設備の問題など、数々の課題が存在し、現在計画は検討中断状態にある。また一部区議会議員が、LRT(「次世代型」の路面電鉄。低床車両を導入)での運行計画などを提唱している。
(以上、「Wikipedia」参照。)

時刻表
列車番号 金町  新小岩 鹿島ス 蘇我  千葉貨 備考
--------------------------------------------------------------------------------------------------------
97 S65-70 00:27  00:38-04:41 07:15着           東京タ22:15発 コンテナ 日運休
99 S210-258 06:24  06:35-11:13 13:38着 越谷タ05:50発 コンテナ
1091 S65-53 09:39-10:41発 10:52-11:23 --- 11:54-12:23 12:34着 隅田川07:00発 84-*
t8977 DE10 11:52発 --- 12:24着
5971 T64-14 21:30 21:40-22:23 --- 22:58-23:11 23:21着 川崎貨17:20発 新までS210-206

列車番号 金町  新小岩 鹿島ス 蘇我  千葉貨 備考
-------------------------------------------------------------------------------------------------------
96 S65-70 15:43  14:52-15:31 12:49発           東京タ17:52着 コンテナ 日運休
t8976 DE10 16:32着 --- 15:36発
1092 S65-53 19:30-19:58 18:34-19:20 --- 17:27-17:59 17:15発 隅田川20:14着
98 S210-258 19:59  18:55-19:49 15:53発 越谷タ20:31着
5972 S210-209 22:47 21:03-22:37 --- 19:56-20:23 19:44発 川崎貨01:20着

踏切の数は、全部で15カ所。今回は、金町から新小岩に向かって(この表の下から順番に)、約4キロ。注:表中、「新宿街道」は「新宿新道」の誤り。

貨物線ができる前のようす(明治末から大正初。「今昔マップ」より)。赤い線が後にできた「新金貨物線」。

 ところで、→に注目!
「帝釋人車鐵道」と。レールの上を人が引いた車が走る。「金町」~「柴又」。後の京成電鉄へつながる鉄道。

帝釋人車鐵道
 以下、www.kk-net.com/~tabuchi/TAISHAKU.htm さんのHPより転載。

 明治から大正初めにかけて、現在の東京都葛飾区内の金町-柴又間に人車鉄道が存在した。「帝釈人車軌道」である。
 明治32年(1899年)に設立された帝釈人車鉄道株式会社は、同年に当時の日本鉄道(現JR常磐線)金町駅と柴又間を結ぶ約1.2kmに軌間610mmの人車鉄道を建設し同年12月17日に運行を開始した。開業式は株主でもある題経寺で行われた。この人車鉄道は金町駅から題経寺(帝釈天)までの参拝客の輸送が目的であった。なお、同社は明治40年(1907年)に社名を帝釈人車軌道株式会社に改称している。
 その後、帝釈人車軌道は明治33年(1900年)に柴又-総武鉄道(現JR総武本線)小岩駅間の延長を特許出願したが、後に出願を取り下げたため実現には至らなかった。
 帝釈人車軌道は全線専用軌道で、金町はループ線になっていて人車軌道としては珍しい複線であった。停留所は金町と柴又に置かれ、事務所、改札口、車丁小屋、便所、車庫が施設されていた。
 人車(客車)は6人乗りで、長さ6尺幅4尺と長さ4.5尺幅3.8尺の二種類があったらしく、最盛期には人車64輛と保線工事用トロッコ4輛を保有していた。
 運賃は、片道5銭、往復9銭(当時、あんパン1個が1銭、牛乳1本が3銭)で、乗車券は金町行きが白、柴又行きが赤、往復が青に色分けされていた。
 この軌道では押し夫の事を「車丁」と呼んでいて、通常は一人(強風時は二人)で人車を押していた。
 営業報告書が残っている明治37年(1904年)以降を見ると高収益を上げていた。当時としては便利な交通機関として好評で、文人の尾崎紅葉や夏目漱石に愛用され、更に時の内務大臣であった原敬も好んで利用した。
 その後、京成電気軌道(現在の京成電鉄の前進)の進出の脅威にさらされた帝釈人車軌道は、明治45年(1912年)4月27日に軌道の特許権を京成電気軌道に譲渡し、この譲渡によって帝釈人車軌道株式会社は同年解散した。
 人車軌道を手に入れた京成電気軌道は早速電気への動力変更を出願し併せて京成柴又と人車柴又間を延長し、人車の運行を廃止して大正2年(1913年)に金町まで延長し、同10月21日に電車の運行を開始した。これが現在の京成電鉄金町線の京成金町-柴又間である。
「路線図」。注:佐藤信之氏著「人が汽車を押した頃」より転載
人車の運転のようす。
柴又駅のようす。(いずれも「葛飾区郷土と天文博物館」より)
現在の京成金町線。
現在の柴又駅前。

常磐線の高架(「金町」駅西)。
この付近で本線と分かれ、南西に向かう。
マンションや住宅のすぐ脇を通る。
最初の踏切「新宿道踏切」。
金町方向を望む。
 
 実は、かつてはこの手前(金町寄り)にも踏切(用水路沿いの道路のための)があったはずだが、現在は、線路で行き止まり。
「用水路」跡。この線は、かつてはほとんど田んぼや畑の中を通っていたので、用水路を越えているところが鉄橋またはコンクリート溝として残っている。
向こう側の家並み。マンションとションと住宅の間に用水路(道)が続いている。
水路跡の緑道。「小合溜」→「上下之割用水」(下の割ー現在の江戸川区ーまでつながっていた)→「大堰枠」。ここで、南に向かう「小岩用水」と南西に向かう「東用水」とに分岐していた。それだけではなく、ここには他にも目についただけでも二本の用水路が残っている。(「東用水」は高砂の手前で「東用水」と「西用水」とに分岐していた。)つまり、「大堰枠」は、多くの水路の合流・分岐点。この水路は、中川から流れきた水路で「大堰枠」手前で流れ込んでいた、と思われる。

「第二新宿道踏切」。
「車両通行禁止」の立て札。他にもこうした踏切が2カ所ある。

この二つの踏切は、「新宿町」の北に位置し、かつては「内野」と言われた地域にあり、二本とも明治中期以降の開発で整備され、顕著な道として存在していた。
この付近からほぼ一直線の線路が南に延びていく。
複線のための土地は確保されている。

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環七~旧江戸川河口・舞浜大橋。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その3。)

2013-06-01 19:34:58 | 歴史・痕跡
 この交差点を渡ると、「臨海町」。周囲は団地。小学校もあって、子ども達の下校姿がちらほら。そろそろ幼稚園バスのお迎えです。
右側は、高層団地。
オートバイなども進入禁止。植え込みが続く中、安心して往き来ができます。
右に小学生の頭が少しのぞいています。
道は左にカーブします。振り返ってみたところ。
ほぼ直角に曲がります。
のところ。
 
 ようやく旧江戸川河口に着きました。「海岸堤防」はもう少し北側、「左近川」と「旧江戸川」との合流点まで「旧江戸川」沿いに入り込んでいました。ここで終点(この先、旧江戸川の西側を「都道450号線」は上流に向かっていく)にします。
来た道を振り返る。中央、遠くに見える観覧車は「葛西臨海公園」内のもの。
風が心地よい。「旧江戸川」の上流を望む。新中川との合流点はここから北の方角。
川幅も広い。
高層団地。ここは、葛西海岸堤防の内側で、干拓以前からの土地。
高い堤防。右の林は「葛西臨海公園」の敷地。対岸に見えるのは、「ディズニーランド」。
左から「一般道」、「高速道」、「一般道」、「鉄道」と四本の橋脚が並んでいます。この長い橋「舞浜大橋」を渡って行く自転車の姿もけっこう目につきます。対岸は、舞浜。ディズニーリゾート。
左手の対岸は、リゾートホテル群。橋の陰には、「ディズニーランド」。
足下は、海の雰囲気。
東京湾を望む。


清砂大橋からここまで。やって来たルートを改めて赤く(埋め立てが始まったころの地図上で)。
 せっかくだから、次回は、ここから「新中川」と「旧江戸川」との合流点「瑞穂大橋」まで遡ってみよう。
 「高砂橋」~「舞浜大橋」~「清砂大橋」。「新中川」から「旧江戸川」河口、さらに「荒川」河口付近までの探索も完成ということになります。
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