おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

競い合う華やかさ。松尾自得。中村汀女。・・・「堀切菖蒲園」その2。

2021-06-11 10:55:50 | じじばばがゆく

    

               

花菖蒲の系統」。

花菖蒲には園芸上3つの系統があります。植物学的には同一種で、発祥地によって区分されています。

○江戸系

堀切で収集改良された品種の総称。江戸時代より引き継がれた多様な品種をすべて含み、色は豊富で濃淡や模様の入り方も多岐に亘る。集団で植え、花菖蒲園で鑑賞される。

○肥後系

江戸時代後期に松平菖翁から藩主に渡った品種をもとに改良された。草丈は江戸系よりも低く、花は大きく豪華であることから、鉢植えで座敷に座って鑑賞される。

○伊勢系

起源は不明。菖翁とほぼ同じ時期に松阪の吉井定五郎という武士が改良したものといわれる。色彩、弁の垂れ方等が優美であることが特徴。

このほか、山形県の長井地方で保存されている長井古種や外国種があります。

「堀切菖蒲園」では、やはり「江戸系」(小町娘・寛政・剣の舞い等)が多いようですが、「伊勢系」(初霞等)、「肥後系」(紅椿等)も植えられています。

 

       

             

句碑などもいくつか。

                 松野自得 天日に 菖蒲の花の 白まぶし

     中村汀女 花菖蒲 かがやく雨の 走るなり

    

           

渡辺千秋 歌碑。

       

       

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「江戸花菖蒲誕生の地 堀切」。久々の「堀切菖蒲園」。その1。

2021-06-09 20:59:16 | じじばばがゆく

           

6月6日(日)午後。

4年ぶりの訪問。去年は「緊急事態宣言」があったりで足が遠のいたことも。久々にやってきました。「水元公園」もたくさんの人出でしたが、花菖蒲田圃が広く点在しているため、あまり人が気になりませんでしたが、ここはもうたくさんの人たち。三々五々、株ごとにすてきな名称が付けられた花菖蒲を楽しんでいます。

堀切菖蒲園」。

江戸花菖蒲などの品種を伝統保存し、世話する職人の方々の熱意・心意気を強く感じます。これだけ多くの種類の花菖蒲を育てているところはここだけではないでしょうか? 

下の画は、「美人堀切の遊覧」。

          

数多くの江戸菖蒲(200種6000株)を鑑賞できます。

(以下、「Wikipedia」参照)
 江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信・歌川広重の浮世絵に登場する。
歌川広重 名所江戸百景「堀切の花菖蒲」
 戦前まで、この近辺には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。
 昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。

       明治後期のようす(「今昔マップ」より)。
 ○が菖蒲園のあったところ。上にある園名が記されている。ただし、「戦前まで」とあるが、「今昔マップ」ではすでに昭和初期には上記の園名は見当たらない。
 まだ「荒川放水路(現荒川)」が開削される前で、→に注目!東武線が荒川放水路によって西側に大きく線路変更される前の線路になっている(まだ上野に向かう京成線はできていない)。
 北西から南東、斜めに流れる水路は「旧綾瀬川」(後に、「荒川放水路」に組み込まれ、さらに「荒川放水路」に沿った流れになる)。東側に流れる用水路は葛西用水・曳舟川。

現在のようす。中央に「堀切菖蒲園」。左が「綾瀬川」と「荒川」。首都高の橋脚。かつての「堀切園」の位置とほぼ同じ。
                      (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「堀切菖蒲園の歴史」。

長いですが。

東京の東部低地に位置する葛飾区一帯は、江戸試合に葛西三万石ともいわれる水田地帯で、稲作のほかに野菜類や花卉(草花)の栽培が盛んな地域でした。寛政6年(1794)の地誌『四神地名録』に「いろいろの草花かぎりもなき事」という記載がみられます。
堀切の花菖蒲伝来については、室町時代の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から持ち込んだのが起源という伝承があります。16世紀後半の『小田原衆所領役帳』に「窪寺」という名は見られますが、詳細は不明です。
記録に残る花菖蒲栽培の始まりは小高園の祖となる伊左衛門です。伊左衛門は父子二代にわたり、享和・文化年間(1801~1818)頃から各地の花菖蒲を収集したほか、花菖蒲愛好家で知られる旗本の松平左金吾定朝(菖翁)や、万年録三郎からも品種を入手し繁殖に努めました。
天保年間(1830~1844)になると、小高家の花菖蒲は諸大名や旗本の間え評判となります。嘉永元年(1848)には十二代将軍家慶と子の家定が鷹狩の際に立ち寄ったほか、尾張藩主徳川斉荘からは「日本一菖蒲」の画賛が贈られました。
また、初代広重などの絵師が堀切の花菖蒲を描いていることや、弘化3年(1846)に、「草花より穀物の栽培に専念すること、見物客に飲食物の提供をしない」という誓約書を代官所へ転出していることから、文人・墨客や江戸の庶民も堀切に押し寄せていたことがうかがえます。
明治維新を迎えると、幕末に日本で最初の観光花菖蒲園として開園した小高園・武蔵園に加えて、吉野園・堀切園・観花園が明治時代後期までに相次いで開園します。さらに昭和初期にかけて、四ツ木園・菖香園・(山岸)菖蒲園が開園、花菖蒲栽培農家も多数存在しました。昭和5年(1930)の日本花菖蒲協会設立時には、堀切の花菖蒲園関係者が会員の一割を占めていました。
しかし、都市化の進行に伴う水質汚染と第二次世界大戦下の影響が、花菖蒲園に及ぶようになります。昭和10年代にかけて武蔵園・吉野園などが閉園、戦争が激化すると、食糧難解消のために花菖蒲田は水田となっていきました。昭和17年(1942)の小高園の閉園により、堀切の花菖蒲栽培は一旦途絶えました。
終戦後、唯一復興した花菖蒲園が堀切園です。疎開させていた花菖蒲の株を植え戻し、昭和28年(1953)に有限会社堀切菖蒲園と名を改め営業を再開しました。その後、昭和34年(1959)に都が買収、翌年に都立堀切菖蒲園が誕生しました。当初は有料でしたが、昭和47年(1972)からは無料化されます。
そして昭和50年(1975)4月に葛飾区に移管、昭和52年(1977)には、葛飾区指定名勝に指定され、今日に至ります。現在、園内では役二百種六千株に及ぶ花菖蒲が栽培されており、その中には菖翁由来の菖翁花も含まれます。

園内図。

                                                   

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花菖蒲。アジサイ。メタセコイアの森。中央広場。そして、芝木好子『葛飾の女』。・・・(水元公園。その2。)

2021-06-08 22:28:04 | じじばばがゆく

 

カルガモ。

  

           

正面が「小合溜」。

     

      水元大橋。

アジサイも見頃。

   

           

もう少し北の方へ進むと、「メタセコイアの森」。

           

メタセコイヤが約1,800本が生い茂る都内最大級の森。高さ約20mのメタセコイヤの巨木の森は、秋には森全体がオレンジ色に染まります。

(「東京都公園協会」HPより)

中央広場へ。

シロツメクサ。

親子連れが首飾りや花冠などに作り、楽しんでいます。  

        

せせらぎ広場。  

 

さて戻ることに。

思案坂」碑。

ここ水元の地は「小鮎」の名で歴史に登場し、後に小合と称されました。
戦国末期荒廃していた小合に居を定めたのは、上州新田郡細谷郷を出身とする細谷一族です。
正平13年(1358)多摩川矢口の渡しで足利基氏に討たれた新田義興の武将であった細谷氏は戦線を離れてこの坂まで辿り着きました。満々たる流れの利根川の本流に行く手をはばまれ「行くもならず、戻るも能わず」とこの坂で思案にくれたと伝えられています。傍らの不動堂は天正15年(1587)細谷大覚坊らが施主となって建立しました。
思案坂は江戸時代には小合溜井となり、現在では水元公園に姿を変えた古利根川と共に水元の歴史を今も見守っています。

        

菖蒲の咲く頃の葛飾は美しい。田園は青葉に霞んで、雲雀が鳴く。堤の桜も花見のころは人が出盛ったが、それも過ぎると、水に柳の眺めのよい季節になる。沼地の多い土地柄で、田の畦にも菖蒲が咲いた。

『葛飾の女』より 芝木好子

銀座の老舗「森むら」を舞台に、少女が一人前の女になるまでを、旧家の誇りに生きる人々を絡めて描く「築地川」。師である日本画家・滝川清澄への思慕を絶つため、葛飾に嫁していった女弟子の懊悩を、水郷の景物を背景に美しく描く「葛飾の女」。胸奥に火を抱く、繊細で華奢な女たちの、ひたむきな生をうたいあげた、下町の感性を受け継ぐ女三代記の名作2編。

(この項、「」HPより)

 

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花菖蒲。小合溜。睡蓮池。マコモ。・・・ (水元公園。その1。)

2021-06-07 21:19:49 | じじばばがゆく

花菖蒲。そろそろ満開の季節。例年よりも1~2週間早い? そこで、「水元公園」と「堀切菖蒲園」を駆け足で。

「水元公園」は子どもや孫を連れて来たことがありますが、花菖蒲は初めて見に来ました。

JR・京成「金町駅」からは歩くと、ちょっと遠い。バスで来るのが一番ですが本数は?

当方、いつもの折りたたみ自転車でやってきました。

けっこうな人出です。

       

水元公園の花菖蒲田圃「みずもと桜堤」と「小合溜」の間に大きく広がっています。

    ○一帯。

   

小合溜の対岸は、埼玉県三郷市。

  右手に小合溜が広がる。

   

    

種類はさほど多くないが、たくさんの花菖蒲が見事。公園内の川辺や池、木々の緑、草原とマッチしています。

     

        

            

      

            

            

ところで、「水元公園」とは。

小合溜という準用河川を中心とした水郷公園である。小合溜の対岸は埼玉県三郷市で、埼玉県立みさと公園がある。園内には多種多様な植物が育っていて、特にサクラの咲く季節やハナショウブの咲く季節は花見客などでにぎわう。 また、公園西側の道路、桜堤は園内随一の見どころとなっている。 それ以外の季節でも、季節を問わず週末を中心に余暇を楽しむ訪問客で賑わう。

この地域はもともとは古利根川の河川敷であった。徳川家光の江戸川改修事業により古利根川は廃止されたため、小合村(1889年水元村に合併、1932年に葛飾区に合併)が江戸幕府の許可を得て埋め立てて耕作地として、水を蓄えて小合溜と称して管理してきた。

1940年紀元2600年事業のひとつとして水元緑地が計画された。1942年までに168haが買収されたが、太平洋戦争により整備が中断。戦後は自作農創設特別措置法によって150haを耕作者に開放した。

1957年、都市計画改訂により水元公園として再発足し、1959年に用地買収を開始、1964年までに8haを取得、整備の上、1965年4月1日に開園した。

1968年、明治百年記念事業の一環として明治百年記念公園の指定を受ける1987年にかけて、記念広場と「メタセコイアの森」が順次整備された。(「Wikipedia」より)

とても大きな公園で、広大な広場や深い森、小合溜の流れ、小さな水路がある水辺など、子どもも大人も散策や釣り、水遊びなどができるのが魅力です。

睡蓮池。

        

            

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アジサイ。タチアオイ。小さな草花(ドクダミ、ムラサキカタバミ・・・)。皆既月食。(青戸三丁目団地広場)

2021-05-28 21:45:02 | じじばばがゆく

                         タチアオイ。

 

昨年6月中旬に比べると、満開にはとはいきませんが。

今年も早々にアジサイやタチアオイが色とりどりの花を咲かせ始めました。

              

昨日の雨に濡れた花びら。

                  雫がまだ。

          

ガクアジサイ。

 

 

       カシワバアジサイ。

カシワに似た形の5~7つに深く裂けた葉、円錐形の花房が特徴。

            

「水戸街道(国道6号線)」沿いで見かけたカシワバアジサイ。

 

ドクダミ。名前が気の毒ですが、可憐な花を咲かせます。

 

ドクダミの名称は、民間薬として毒下しの薬効が顕著であるので、毒を抑えることを意味する「毒を矯(た)める」から、「毒矯め(ドクダメ)」が転訛して「毒矯み(ドクダミ)」と呼ばれるようになったというのが通説である。異説として、「毒痛み」の意味で毒や痛みに効くことから名付けられたという説、群落地に漂う特有の臭気から毒気が溜まった場所を意味する「毒溜め(ドクダメ)」、あるいは植物自体が毒を溜めていると解されたものが転じてドクダミと呼ばれるようになったとする説もある。ただし、あくまで植物に毒が入っているというのは誤った解釈であり、ドクダミ自体に毒はない。(「Wikipedia」より)

 

                   ムラサキカタバミ

元来は観賞用に栽培されたものであるが、現在では庭園から畑地、芝地を中心に広く見られる。土の中の鱗茎を取り尽くすのが非常に難しいので、駆除の困難な雑草である。草の丈が低く柔らかいため雑草の刈り取りから殆ど無視される対象でもある。開花が始まった頃が木子の出来るピークなので、その時期に土を深く掘り抜き捨てるしかない。なお、体内に蓚酸を多く含む関係上、用土がアルカリ化すると勢いが弱まる。花は独特の色合いで美しいが、雑草のため市販されることはほとんどない。(「Wikipedia」より)

藤棚の向こうにアジサイ。

   梅雨時に映える花です。

すっくと伸びるタチアオイの存在感。

 (この写真は、昨年6月中旬)。しばらく先が楽しみです。

5月26日は皆既月食でした。今回の満月は今年一番大きく見える満月で「スーパームーン」でした。次に日本全国から皆既月食が見られるのは、1年半後の2022年11月8日。スーパームーンの時の皆既月食は12年後のようです。

宜野湾市から。

                       (「」より)

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その4。「義経千本桜」のうち「渡海屋、大物浦の場」。片岡仁左衛門。中村勘九郎。市川左團次。歌舞伎座。

2021-05-27 20:16:36 | じじばばがゆく

 九州へ逃れるため、義経一行は大物浦の渡海屋で出船を待っています。しかし、渡海屋の主人銀平は、実は壇ノ浦の合戦で死んだはずの平知盛。女房のお柳は典侍の局、娘お安は安徳帝で、義経を待ち伏せていたのです。知盛は船出した義経一行を襲いますが、返り討ちに。帝の身を守護するという義経の言葉に安堵した典侍の局は自害、知盛も帝を義経に託すと、瀕死の体に碇綱を巻きつけ、海中へと身を投げるのでした

(「」より)

「渡海屋内の場」。

   中村勘九郎(当時)

魚の名などを入れ込んだ掛け合いが面白い。

義経(中村福助)一行の出立。

すると銀平(実は知盛の亡霊=こういう設定が歌舞伎らしい)が装束をただして

片岡仁左衛門。

       「大物浦の場」。

             幕が揺れ、荒海に。

左は弁慶(左團次)。

碇綱とともに海中に身を投げる。

     

壮絶かつ豪快な場面。歌舞伎らしい迫力満点。この場面は何度か他の役者でも観たことがありますが、鬼気迫る演技に圧倒されてしまいます。

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2021春。隅田公園。墨堤通り。(3・29)。快晴。散る春を惜しむ。その2。

2021-03-30 19:32:45 | じじばばがゆく

        オオカンザクラは、見事な葉桜に。

土手への階段も花びらで。

ソメイヨシノ

              

古木が多い。それでも満面の花。

             

足もとの花びら。

一面に積もった花びら。

              

昨日の嵐で吹き寄せられ、

記念碑にも散り注がれ、

                

隅田公園。

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2021春。隅田公園。墨堤通り。(3・29)。快晴。散る春を惜しむ。

2021-03-29 19:47:55 | じじばばがゆく

昨日は春の嵐。そして今日の隅田公園。墨堤通り。満開を迎えたサクラも散り始めています。

                                               

オオシマザクラはすっかり葉桜に。

首都高下のソメイヨシノも青葉が目立つように。

    

             

ソメイヨシノ以外のサクラはほぼ葉桜に。

        

イツカヤマ(早晩山)

               

ヨウコウ

                

散った花びらの下に「サクラソウ」が何輪か。

                

その中で、ベニユタカは満開に。

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2021春。墨堤通り。隅田公園。《3・24快晴。3・25花曇り》その2。

2021-03-26 20:08:55 | じじばばがゆく

                  「隅田公園(墨田区側)。

                ソメイヨシノ

ゲンペイモモ。

                  

ヤエシダレ

                

    

「墨田区役所」。左奥が「アサヒビール本社」。

  広場には親子連れや若者たちが。

アーコレード「長命寺桜餅」脇。

英国でオオヤマザクラとコヒガンの交配により育成された品種。英国での開花期は春とされているが、日本では春と秋(9~11月)の二季咲きとなっています。花が大輪で花色もやや濃色の美しい品種。

                 

オオシマザクラ                     

ヤマザクラ「墨堤通り」沿いに1本。

               一輪。

古来日本人に最もなじみが深かったサクラ。江戸時代後期にソメイヨシノが開発されて現在の主流になるまでは、花見のの対象は、主にヤマザクラであった。そのため和歌にも数多く詠まれており、「吉野の千本桜」とは、このヤマザクラを指していた。野生種のため個体間の変異が比較的大きく、同一地域にあっても個体ごとに開花期が前後する。したがって、栽培品種でクローンのため同一地域では一斉に咲くソメイヨシノとは趣が違っていた。

サクラの中では非常に長寿の種であることが知られており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜や樹齢1500年を超える淡墨桜、樹齢1000年と言われる樽見の大桜、その他にも樹齢300年を越える石割桜などが有名である(いずれも国の天然記念物)。

向島歴史散策案内図

「見番通り」脇の小学校記念植樹タイハク(太白桜)

タイハクは日本原産のサクラであるが、一時的に日本で失われてイギリスから逆輸入することで日本で復活したサクラである。タイハクのようにイギリスから日本に里帰りして日本で復活したサクラにはホクサイがある。タイハクやホクサイは海外に持ち出されたことで絶滅を逃れたが、それ以外のカンザンなどの多くの古くからあるサクラの栽培品種は、明治時代に荒川堤に移植されたことで、その命脈を現在に繋ぐことができた。(以上、「Wikipedia」より)

 

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2021春。墨堤通り。隅田公園。《3・24快晴。3・25花曇り》その1。

2021-03-25 20:38:10 | じじばばがゆく

            「墨堤通り」。ほぼ満開。

            ソメイヨシノ。 

               

水上バス。

              

隅田公園(浅草側)。ミヤコドリが一羽てっぺんに。

              墨田区側を望む。

オオシマザクラ(「長命寺桜餅」脇)

            

             ソトオリヒメ

センダイヤ

  シロタエ

ヨウコウ(「墨堤通り」・首都高下。)

                             

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3月19日。友引・三隣亡。今朝の隅田公園。「朝日に匂う桜花」。サクラ。菜の花。

2021-03-19 18:57:22 | じじばばがゆく

さて、三隣亡とは?

三隣亡の由来は全く不明で、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったかは判明していないが、江戸時代に入ってから確立されたとする説が有力とされている。実際、三隣亡は、江戸時代よりも前の古い暦注解説書には書かれておらず、江戸時代になってから見られるようになっている。

江戸時代の本には「三輪宝」と書かれ、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていた。すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになる。これがある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかとされているが、真偽は不明である。後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで同音の「三隣亡」に書き改められた経緯がある。

三隣亡と建築

三隣亡は少し前までは建築関係者の大凶日とされ、棟上げや土起こしなど建築に関することは一切忌むべき日とされた。その字面から、この日に建築事を行うと三軒隣まで亡ぼすとされたためである。現在でも、棟上げなど建築に関することの凶日とされ、建築関係の行為は避けられることが少なくない。「高い所へ登るとけがをする」と書いている暦もある。

(この項、「Wikipedia」より)

月に2回あるようで、今月は31日(水)も。

ということで、今朝の隅田公園。曇り空のため、咲き始めたサクラもさえない写真ですが。

「エドヒガン」。

なんといっても、「朝日に匂う桜花」という如く、朝日に照り輝くサクラが一番。

と、つい書きましたが。実は、この一節。もともと本居宣長の作「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」によります。

それが、軍歌「陸・海軍礼式歌」の一節となり、

朝日に匂う桜花
春や霞める大八州
紅葉色映え菊香る
秋空高く富士の山
昔ながらの御柱と
立ててぞ仰ぐ神の国

・・・

《作詞 本間雅晴 作曲 佐藤長助》

また、特攻隊の名称「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」「敷島隊」にもなった、という曰く因縁のある歌です。

※「にほふ(匂う)」=鮮やかに色づく。色が美しく輝く。照り映える。

※「本間雅晴」=太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは米軍にも知られているものの、戦後は「バターン死の行進」における部下の行為の責任を問われ、銃殺刑に処された。

・・・

「ヨウコウ」。

「オオシマザクラ」。

「オオカンザクラ」は既に葉桜ですが。隣には。

  健気にも。

             

「ソメイヨシノ」。

             

 

 

むしろ足下には菜の花や他の草木が、春の訪れを。

      

 

                      

そして「雅」。既に満開。

                        

午後から晴れてきました。「ソメイヨシノ」が一斉に開花する勢い。

そして午後4時過ぎの隅田公園。

浅草側の隅田公園では。枝垂れ桜とスカイツリー。

                           

こちら側もまだ。

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・・・そして「向島百花園」。河津桜。

2021-02-19 22:12:10 | じじばばがゆく

 

「梅まつり」の幟の向こうに「スカイツリー」。

ところで、「向島百花園」が「緊急事態宣言」延長でまだ休園が続きそうです。そこで、去年、一昨年のようすを紹介

春もやゝけしきとゝのふ月と梅 はせを

こんにゃくのさしみも些しうめの花 はせを

「かごしまこう(鹿児島紅)」。

「しらかが(白加賀)」。

「しらたきしだれ(白滝枝垂れ)」。

   
「紅千鳥」。

2018年の写真。 

鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。(写真は「Wikipedia」より借用)  

「紅冬至」。

「八重野梅」。

「鴛鴦」。

早く再開して欲しいものです。

ところで帰宅の途中、ふと見ると、「河津桜」がすでに開花しています。

              

早くも桜の季節を迎えました。

     

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「香梅園梅まつり」。ついでに「亀戸梅屋敷」。

2021-02-17 20:15:42 | じじばばがゆく

                                      小村井梅園の由来」解説板。

小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸511番に3千3百坪の広さを持ち、切り絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。

園内には、築山や池に名石が組まれ、東西に亘り松の大木が二列に立ち並び、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣り堀もあり、花菖蒲に秋の七草と多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には、「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり その傍ら梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の花を穿つ 実に新香の梅屋敷にも倍勝景・・・」と記されています。惜しくも明治43年の大水で廃園となりました。面影を偲び、此處にその由来を記して記念とします。

                        平成二年九月吉日 平成二年度世話人 

狭い敷地にたくさんの梅、梅。             

古木から新しい木まで。

枝垂れ系の梅が目を引きます。                   「見驚」。薄紅から白へと変わる大き目の花を見て驚いた、というところからこの名がついたとも。シーズンの終わり頃に開花。ちょっとまだ早すぎた感じです。

初日とあってたくさんの人。

「錦光」。枝振りが見事。

    庭先にも。

   「紅冬至」。

見上げるほどの大木の先にいくつか花が。青空に映えています。

「御簾の内」。

狭い敷地に所狭しとたくさんの梅の木。

「向島百花園」(ここもそれほど広くはありませんが)のように、梅の木が適度に間隔で配置され、メジロなどの野鳥も訪れ、池や築山などもある、という風情とは異なっています。

それでも、地元の方々の「小村井梅園」復活への熱意・情熱を充分感じさせる趣です。

ここから少し南、「明治通り」と「蔵前橋通り」との交差点に「亀戸梅屋敷」という観光施設があります。その付近にはかつて大きな梅屋敷があったそうです。「向島百花園」「小村井梅園」と並び、とりわけ有名だったようです。

・・・

江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や堅川を船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。

特に庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた水戸光圀は、まるで竜が臥しているようであると感嘆し、その木に「臥竜梅」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえ、「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです。

「亀戸梅屋敷」の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写(作品名「日本趣味:梅の花」/1887年)するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。

(この項、「」HPより)

粋な江戸ッ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。当時の賑わいの場として、そして、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化を世界へ発信する拠点として、当館を「亀戸梅屋敷」と名付けました。

浮世絵師・歌川広重が描いたこともある江戸時代の亀戸に実在した梅屋敷。
亀戸梅屋敷はその歴史ある建物をモチーフにして、
観光案内所や物産店、江戸切子ギャラリー、寄席等、
亀戸の文化、歴史の魅力をたっぷり味わえる複合商業施設です。

(この項、「江東区」HPより)

      歌川広重画。(「国立国会図書館」HPより)

左の浮世絵を模写した絵がゴッホの作品として有名。

明治43(1910)年、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸町・大島町・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。現在は、浅草通り沿いに説明板と記念碑、細い紅白の梅が植えてあるだけです
 写真は、その跡地の遠景(北十間川から写したもの)。

(「今昔マップ」より)

この地図(1896~1909明治中後期)で、上方に「江東梅園(小村井梅園)」、下方に「臥龍梅」とあります。

 

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「日本橋川」。その5。「桃乳舎」。江戸橋。日本橋。魚市場。そして「箱根駅伝」。

2021-01-08 20:01:59 | じじばばがゆく

              「桃乳舎」。レトロな建物が存在感、抜群。

ちょっと横道に入ったところにあるお店よ。オフィス街の裏手。近くのサラリーマンの方々に人気のお店。あまり女性客はいないわね。以下は、「」HPさんの訪問記事。

茅場町駅から約10分の箇所、オフィス街のやや裏手に突然と古めかしいビルが出現します。それが今回伺った桃乳舎。創業明治22年のこのお店は、元々ミルクホールとして始まり、喫茶店へ拡大。そして食堂へと変遷していったとのこと。現在のビルは昭和8年に建てられたとのこと。人気の秘密は味と価格にあります。見てください、この価格!ランチなんと500円!!!雰囲気も味も、昭和の王道で、本当にタイムスリップしたような気分になれました。味、クオリティ、量、値段全部が素敵で、12時前から行列が出来る意味が理解できました。ここはみんなが一度は行くべきお店です、はい。

 

(写真は、「食べログ」HPより)

昔からけっこう地元では有名な「大衆食堂」だったようね。行く機会はなかったけれど。

ここにも。エンブレムがすてきね。

次は「江戸橋」。

 17世紀に大船町(後に本船町)と本材木町の間の日本橋川に架けられた。当初の位置は現在より下流にあり、すぐ東脇を楓川が縦貫していた。1632年(寛永9年)成立の『武州豊嶋郡江戸庄図』では写本によって江戸橋が描かれているものといないものがあり、創架年代を1631年(寛永8年)頃とする説と、次に登場する『正保年間江戸大絵図』までの間とする説がある。橋名の由来は、隣の日本橋との連想から命名されたとする説の外、都市化以前の江戸中心部が この周辺だったのではないかと推測する説がある。

橋の下は漁船や乗合の舟が集まり、南側には船宿があった他、隅田川の舟遊びのための屋形船なども停泊していた。南西側は木更津河岸と呼ばれ、江戸と上総国木更津を行き来する木更津船が発着した。南詰には明暦の大火後防火のため江戸橋広小路が設けられ、賑わった。

1875年5月に石橋に、1901年には鉄橋へ改架されている。 1927年(昭和2年)昭和通り開通に伴い現在地に架け直された。

(この項、「Wikiprdia」参照)

                      1880年代のようす。江戸橋が「石橋」の頃。

                     2010年代のようす。「楓川」などは首都高や昭和通りに。                                                  

こう見ると、「日本橋川」の川面が残されたのは、奇跡的なことかもしれないわ。

 

             

『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』歌川広重画。

やっと「日本橋」に到着しました。 

                                         頭上は「首都高」の橋脚。                   

「日本橋由来の碑」。

日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
昭和十一年四月
日本橋區

              

日本国重要文化財「日本橋」
・構造、形式
石造り二連アーチ橋 高い欄付(青銅製照明灯を含む)
附 東京市道路元標 一基 
・所有者
 国(建設省:現国土交通省)
・指定年月日
平成11年5月13日 指定(建 第2362号)
・指定の意義
明治期を代表する石造りアーチ道路橋であり、石造り石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。また、土木家、彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネッサンス式による橋梁本体と和漢折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。
建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定

重要文化財日本橋」 附東京市道路元標(一基)

                   所在地:日本橋室町1丁目~日本橋1丁目
日本橋の創業は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な5つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街のの中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。
現在の日本橋は明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。・・・照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも風洞生銘はで、青銅の照明灯装飾品の麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像は、、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名o の揮毫は、第15代将軍徳川慶喜の筆によるものです。

また、「東京市道路元標」は昭和42年(1967)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣佐藤栄作の筆による「日本国道道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。  平成31年3月         中央区教育委員会

「道の起点としての日本橋」。     

        

「三越」。

     「野村證券」。

上流(「神田川」方向)を望む。

 

下流方向(「隅田川」方向)を望む。橋脚がかなり無粋だわね。

東海道五十三次之内 日本橋 朝之景 / 歌川 広重

 日本橋は五十三次の出発点であり、ここより京都までは124里半(約492km)である。鐘が七ツ(午前四時)を打つと木戸が開かれ、一日が始まる。朝焼けの空を背景に、日本橋の近くの肴市場から威勢のいい魚商が魚をかついでゆく。大名行列が橋を渡ってくる。犬が遊んでいる。塀や甍の直線に日本橋の力強い曲線の構成が、街の活気をさらに強調している。そして橋の中央から高く立つ毛槍が爽快な旅立ちを表わしている。

(「知足美術館」HPより)

 明治時代のようす。活気のある風景。(「Wikipedia」より)

川下りが出来るのね。今度乗ってみたいわ。

この付近の案内図。

あら、一番大事なこと、忘れてるじゃない。今回の目的。これを撮らなきゃダメよ。

「日本橋魚市場発祥の地」。「乙姫像」。

「乙姫像」下の解説文。

本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝに運送して日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所圖會にのこれる日本橋の魚市 魚河岸のありしはこのあたりなり旧記によればその濫觴は遠く天正年間徳川家康の関東入国と共に摂津國西成郡佃 大和田兩村の漁夫三十餘名江戸にうつり住み幕府の膳所に供するの目的にて漁業營みしに出づその後慶長のころほひ幕府に納めし残餘の品を以てこれを一般に販売するに至り漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ市場の形態漸く整ふさらに天和貞享とすゝみて諸國各産地との取引ひろくひらけ従ってその入荷量の膨張驚くべきものありかくしてやがて明治維新の変革に堪へ大正十二年関東大震災の後をうけて京橋築地に移転せざるの止むなきにいたるまでその間じつに三百餘年魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地としてよく全國的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁榮をほしいまゝにするをえたりすなはちこゝにこの碑を建てる所以のものわれらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらずひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり

東京に江戸のまことの 
しぐれかな

昭和二十九年三月

旧日本橋市場関係者一同に代わりて
日本芸術院会員 久保田万太郎 撰
日本芸術院会員 豊道慶中 書

さすが「久保万」ね、みごとなものね。

左の解説板。

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正十二年(一九二三)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(一九五四)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

平成十九年三月

中央区教育委員会

実はこの日(1月3日)は「箱根駅伝」2日目だったのね。

上の写真で手前に置いてあるのはTV用の機材。

この先、左折していよいよゴールというところ。けっこう警察官や実行委員が出ていて、立ち止まらないで! という案内を。まだまだ時間が早いので、人はいなかったけれど。(結果はご承知の通り)。

「高速道路」の橋桁に「日本橋」だって。おかしいわよね。

さて、ここまでね、戻りましょうか。ちょっとお茶でもしますか。3密を避けて。

「日本橋魚河岸」。

             「両替商の街」。

ちょっと見て、あの細長いビル。お寿司屋さん。頑張っているわね。

             「昔からある店」寿司貞。

ではまた。ごきげんよう。

・・・

この散策から5日が過ぎ、「緊急事態宣言」が発出されました。

去年の4月よりもかなり緩やかな印象。飲食店ばかりやり玉にしているけれど、通勤とか何とかならないのかな。

飲食して家に帰って家族に感染させるのが悪い、っていう話しだけれど、どうもそれだけじゃなさそうよ。

箱根駅伝だって観戦は遠慮して下さいって言ったって、けっこうな人出だったようだし。

国民には我慢を強いて、これを乗り切れば、オリンピックが開催できれば、って何とか支持を取り戻せる、って。

党利党略で生命や生活を軽んじていけないわよね。

だいたい、中国や韓国、ベトナムなどからの入国は制限しないらしいじゃない。

そもそも、年末年始は感染が少なくなるか、と思ったなんて言っているようじゃ、どうしようもないわよね。

って、やっぱり最後は、愚痴やら不満やらになってしまったわね。

 

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「日本橋川」その4。湊橋。茅場橋。鎧橋。または、「首都高」地下化計画。

2021-01-07 19:57:12 | じじばばがゆく

               「湊橋」。二番目の橋。

ここで、「日本橋川」「神田川」「外濠」の全容を。             (「」HPより)

 

  

この橋は、霊巌島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。注:埋め立て地で地盤がゆるかったため、「こんりゃく」といわれた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679年)に架けられました。

 この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋をはさんだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。

 橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。

 現在の橋は、関東大震災の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。

橋脚の真ん中には、帆かけ船をデザインした徽章。

「隅田川」方向を望む。「豊海橋」が見える。

「日本橋」方向。首都高の橋脚が林立。

この先、川を望むのか、首都高の橋脚を眺めるのかって感じになってしまうわね。

首都高の地下化計画が始まったようだけど。

・・・

日本橋川上空の首都高速は1964年の東京オリンピック前に建設され、半世紀以上が経過。1日約10万台の自動車が走行して損傷が激しいため、神田橋JCT(ジャンクション)付近(千代田区内神田2丁目)から、江戸橋JCT付近(中央区日本橋小網町)にかけての延長約1.8kmの構造物を更新、地下化する事業を進める。

 日本橋川周辺は国家戦略特区の都市再生プロジェクトとして多くの再開発計画が立ち上がっており、首都高速の日本橋区間地下化事業や、東京都の「補助第96号線整備」も、周辺の計画と連携しながら景観・環境改善に向けて推進しているところだ。

 日本橋区間地下化事業では、地下埋設物移設や常盤橋出入口・呉服橋出入口・江戸橋出入口撤去などを経て、地下化工事の準備が完了。日本橋川の水位を下げ、地上から地盤を掘削、支障となる橋脚の移設などを行ない、シールドマシンによるトンネルの掘削が終わるのが2035年ごろ。そして高架橋の撤去工事が2040年ごろに終わる予定だ。

(この項、「トラベルWatch」HPより)

(「首都高速道路日本橋区地下化事業」HPより)

20年先か、う~ん、まだまだ先なのね。

「箱崎料金所」。

「茅場橋」。

上流を望む。

「新大橋通り」にある橋。さりげないモニュメント。

                     1880年代のようす。「茅場橋」はない。

                     2010年代のようす。橋の頭上には「首都高」。

 

次が「鎧橋」。

鎧橋が最初に架かったのは明治5年(1872年)で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。

 その後、明治21年(1888年)には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。

 その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。

 「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・

 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・

 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」

 現在の橋は昭和32年(1957年)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。

 橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。

橋の名前に由来するのは、「鎧の渡し」。「鎧」と「兜」で対になっているわけね。向かいの兜町側に由来の示す碑が建てられているみたい(未確認)。

「Wikipedia」で補足するわ。

この付近は、古くはの生い茂る沼地で、江戸時代徳川家康江戸城築城計画に合わせて埋め立てられた。橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいた。鎧の名の由来には2通りの言い伝えがある。一つは源頼義が奥州討伐の際にこの場所で暴風雨に遭い、自分のを海中へ投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ風がおさまったのが始まりとする説、もう一つは平将門と鎧を奉納したのが由来とする説である。

鎧の渡しは50 mほどの渡しで、賃料は1人1文、武士僧侶山伏医者は無料だった。『市中取締類集』に嘉永3年(1850年江戸町奉行へ賃料の値上げを訴えた記録があり、鎧の渡しの実態を知ることが出来る。これによると極印のある渡し船は2艘、水主(船頭)は4人(1人・日給150銭+飯料150銭)、運賃の受け取り役である渡銭は2人(1人・日給53銭+飯料150銭)。有料利用者数は1ヶ月3万7千人で、近くにある無料の江戸橋を利用する者も多かったことを考えると、1日1200人以上の有料利用者数はかなり多いといえよう。しかし、人件費だけで歳出の85%に達しており大幅な赤字だった。特に支出を圧迫している水主の給金を減らそうにも日本橋川筋は特に通船数が多く、人件費が嵩んでも腕の良い船頭を選ばざるを得ない事情があったようだ

初代の橋が架けられたのは1872年明治5年)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された。周辺は江戸時代から米問屋や酒問屋が多く、1871年第一国立銀行本店、1878年には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が開設されるなど商業の町として発展した。1888年(明治21年)4月7日にトラス橋に架け替えられ、路面電車が走るようになった。1915年(大正4年)に拡幅工事が行われたが、1946年昭和21年)には老朽化により本橋の都電の通行を終了。1957年(昭和32年)7月には、現在のゲルバー桁橋に架け替えられた

『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」。歌川広重画。谷崎が描いたように、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。

川向こうに「東京証券取引所」。頭上は、「首都高」で覆われている。

 

都電が通っていた頃の「鎧橋」と現在。

「ぺんてるビル」がこの奥に。クレヨン、サインペン、シャープペンシル・・・。けっこうお世話になっているわよね。

さて先に進みますか。次は「江戸橋」かな。その前にとっておきの建物を紹介するわね。

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