おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「日本橋川」その3。「豊海橋」。あなご、または「チンアナゴ」。

2021-01-06 18:44:40 | じじばばがゆく

                「豊海橋」。梯子を横にしたような骨組み。

「日本橋川」河口にある最初の橋ね。

それじゃあ、橋の方に移動しましょう。あれ、眼の下に船が。「日本橋川」を上流の方へ進んで行くようね。屋形船でもなさそうだし、小ぶりの船。

              

橋のたもとに立派な解説板。

 豊海橋
日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたものでう、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。
「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て白昼に見るよりも梢画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。(永井荷風「断腸亭日乗」)

「日本橋川」に架かる橋一覧。

こちらの解説板。

 現在の豊海橋は、大正15年(1926)5月起工、昭和2年(1927)9月竣工。
日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
福田武雄はフィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感のある豊海橋を完成しました。この様式は日本で数カ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区有形文化財に登録されています。
平成14年3月 中央区教育委員会

たしかに独特の橋のかたちだわね。

川沿いには行けないから、この道を進みましょう。けっこうお店もあるのね。

 

「hinoban」。                   「あなご屋 銀座ひらい」の厨房のようね。 

 

(写真は「ぐるなび」HPより)

日本料理において、マアナゴウナギと同様に開き、天ぷら蒲焼煮穴子寿司種、八幡巻牛蒡をアナゴの身で巻いたもの)などで食べられている。蒲焼では、たれの状況次第では、より高価なウナギとアナゴは味が区別できない場合もあるという。一本丸ごと揚げた天麩羅は天丼や天ぷらそばなどに乗せると丼からはみ出す様が見栄えがし、価格も手ごろなため、名物としている店も多い。

江戸時代から東京湾羽田沖で捕れたものが江戸前の本場物とされ、現在でも東京湾岸各地で漁場となっている。また、瀬戸内海で捕れたものなども地元や関西地方で珍重されている。

岡山県郷土料理として生の幼魚(ノレソレ)をポン酢で食べる「ベタラ」がある

広島県廿日市市宮島宮島口では穴子の蒲焼を飯に載せた「あなご飯」が名物である。山陽本線宮島口駅駅弁として考案されたのが元祖で、宮島名物として定着した。千葉県富津市ではアナゴのことを「はかりめ」と呼ぶ

(この項、「Wikipedia」より)

漢字で書くと「穴子」でしょ。ほら、スカイツリーにある「すみだ水族館」じゃ、「チンアナゴ」が人気なのよね。

目が大きくて、体は細長い魚よ、巣穴から半身を乗り出したり、引っ込んだりしてかわいらしいわね。中には身体が全部穴から出っちゃって慌てふためくようす(そうかどうかわからないけど)が面白い。いつまで見てても飽きないわ。観賞魚として人気があるようね。今度行ってみて下さい。

(写真は、「Wikipedia」より)

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日本橋川。その2。永代橋。または「アベノミクス」の先兵・日銀の功罪。

2021-01-05 18:59:41 | じじばばがゆく

                      「永代橋」。

やっと「隅田川」と「日本橋川」の合流点に着いたわね。向こうに見えるのが、「永代橋」ね。昔は、この付近にあったのよね。

                        

1880年代のようす。「永代橋」。           2010年代のようす。下方は佃島。

けっこう眺めはいいわね。川風もまた、よしか。

永代橋

元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の「永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれていたことからと名づけられたようですが、一説には5代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名づけられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく眺望よし」などといわれるほど、の美しい景色が広がっていました。

歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、高尾稲荷社へ参詣する人々の姿などももいられ、詩情豊かな情景が描かれています。

なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれ変わりました。その後、関東大震災で被災したため、大正15年(1897)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。

歌川広重「東都名所永代橋全図」

「隅田川」と「日本橋川」付近の賑わい。

右奥が佃島、対岸には深川新地とあり、永代橋が深川八幡宮への道であると共に、深川の街並みが南にも広がっていったことがよくわかる。佃島沖には、帆を降ろした大型の弁財船が停泊し、荷を移した小舟が隅田川の上流へと帆を上げている。永代橋が太鼓橋になっていて、帆掛け船が通過できるようになっている。

栄泉「東都永代橋之景」。

でも、悲劇があったのよね、文化4(1807)年には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋桁が落下し、1,500人余りが溺死したって話し。詳しくは「Wikipedia」を参照してね。

文化4年8月19日、深川富岡八幡宮で12年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた。久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。また、一橋家の船が永代橋を通過する間、橋を通行止めにしたのも混乱に拍車をかけたと伝わる。ところが、詰め掛けた群衆の重みに橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。だが後ろからの群衆は崩落に気が付かず続々と押し寄せ、崩落部分から雪崩をうつように転落した。

御船手組や佃島の漁師までが救援に駆けつけて必死に救出作業を行ったが、数日前の雨の影響で水質が良くなかった事もあって救助は難航、溺れた者の中にはそのまま行方知れずになった者もいた。事故の翌日の記録として、救助された者780名でうち440名が亡くなっていたとされている。また、遺体の確認も混乱を極め、家族が誤った遺体を引き取ってしまう例も発生した。・・・

死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や『夢の憂橋』を著している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

また、町中に貼られた落書の中に以下の句が記されていたと伝えられている

御祭へ 行のの道は 近けれど まだだしも見ず 橋の落たて

曲亭馬琴は『兎園小説余録』に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。

また、当時の逸話として様々な話が伝えられているがその一つとして、本郷の麹屋の主人が祭礼を見ようと永代橋に向かう途中でスリに2両2分が入った袋を盗られたのに気づき、「金が無いのに祭りを見ても仕方がない」と思って帰宅したために事故に巻き込まれずに済んだ。ところが翌日に奉行所から主人の遺体が上ったので確認に来るように命令があり、主人が奉行所に自分は無事に帰宅した旨を申告すると役人は主人の名前が記された2両2朱が入った袋を証拠として見せた。主人からその袋を盗られて見物を諦めて帰宅したという話を聞いた役人は「恐らく、スリが盗みの後に見物に行こうとして永代橋から落ちて溺死したのだろう」と述べて、主人に袋を返すとそのまま帰宅させたという

落橋事故後、交通の要衝としての橋の維持に幕府も理解を示し、再び架橋された。

また、深川木場の材木問屋が深川万年町(当時、現在の江東区深川)の海福寺に犠牲者の供養塔を建立した。その後、海福寺そのものが現在の目黒区に移転したため、供養塔も一緒に移転されている

ということね。

そうそう、赤穂義士が本所の吉良邸から泉岳寺へ引き上げる時に渡った橋としても有名よね。

 

ちょっと待ってよ! この付近に「日本銀行創業の地」碑があったんじゃない。

奥に「日本IBM箱崎ビル」。

 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄   

「アベノミクス」という、ジャブジャブ金融緩和の主役よね、日銀。景気回復・デフレ脱却を至上命令にして、ゼロ金利。結局金余りになって、株式市場に大がかりに投資。今や、一番の株主になっているみたいよ。

年金の資金なんかもどんどんつぎ込んでいるらしいし、株が暴落したらどう責任をとってくれるのかしらね。

「年金は減額します」、でも「自助」で乗り越えて下さい、ってことになるの。

国の借金は増えるばかりだし、「今さえよければ」「自分(たち)さえよければ」ってやり方、いつか破綻するわよね。

その責任、借金返済は、後世の人にすべてかぶせてしまうわけ。

今の株高だって、一般の生活感覚とはずいぶん離れている感じがするわよね、まるで実体経済と合ってないような気がするわ。 

結局、金持ち優遇政策だったのよね。お金持ちには「共助」なんて考え、まるでないわよ。持たざる者、人にあらず、じゃね。 

「隅田川」、「日本橋川」、「亀島川」に囲まれたところが、「霊岸島」ね。

ここは、「Wikipedia」をお借りするわね。

この地域は、もと平川(元の神田川)の派川・八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、江戸中島とよばれていた。徳川家康による江戸普請によって中島を埋め立てた。霊岸橋の南側の亀島川側から永代橋の南側へかけて霊岸島を掘削し、これが後に「新川」の通称で呼ばれるようになった。新堀を隔てた北側を箱崎島(現・日本橋箱崎町)、南側を霊岸島といった。さらにさらにその南側にも小規模なコの字型の堀が福井藩邸を囲むようにあり、こちらは「越前堀」と呼ばれた。霊岸島の呼称は、かつて八丁堀北東の一州にあった霊巌寺に因むが、明暦の大火で寺は深川へ移り、跡地に町家が成ったとされる。

八丁堀へつながる新堀は、さらに西の道三堀飯田堀と続く日本の江戸時代における海運の要であり、越前堀には御船手組屋敷が並び、霊岸島の南端には船見番所が置かれていた。また木場につながるこの地には船大工が多く住み、河岸には酒問屋が多く集まったという。・・・

そこは、かつて歩いたことがあるわよね。



1880年代のようす。赤丸が「豊海橋」(当時は「木橋」か?)。すぐ東、隅田川に架かる橋は、「永代橋」。中央の○が「越前堀公園」「明正小」付近。下の○が「越前堀」下流。上流の部分はすでに埋め立てられている。中央の水路が「新川」。左端、霊岸島を取り囲むように流れている「亀島川」に合流する水路が「八丁堀(桜川)」。

                     2010年代のようす。島の縦横に幹線道路。

                

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「日本橋川」。その1。または、間の抜けたことになりそうな「緊急事態宣言」。

2021-01-04 19:57:55 | じじばばがゆく

    「清洲橋」から「小名木川」」を望む。川向こう、中央付近「隅田川」河畔に「芭蕉像」。

あけましておめでとうございます。相変わらず歩き好きね。なんで今回、「日本橋川」なのよ。

銚子の海から「利根川」を船で運び、「利根川」河岸の布佐から鮮魚街道・陸路で松戸の「江戸川」河畔、そこから「江戸川」を下って、江戸川区の「新川」に入り、「旧中川」から江東区の「小名木川」を通り、日本橋の市場まで「日本橋川」を、って、けっこう大変な道のりだったのね。

「小名木川」や「新川」は、行徳の塩や近郊の野菜なんかも運んだのか。

で、今回が最終回、日本橋まで、というわけか。付き合わされる、ってわけね。ま、久々の外出だわね。

でも、なんで「水天宮」からなのよ?

 

首都高」下。かつての運河の跡。

なるほど。このあたりは、隅田川の中洲になっていたわけね。

1880年代のようす。→が「小名木川」。

2010年代のようす。架かる橋は、「清洲橋」。 「箱崎JCT」付近

これから「清洲橋」に行って、そこから南下して、やっと「日本橋川」に向かうのね。

下流方向。

上流方向。遠くにスカイツリー。

こんなことよりもさ、「緊急事態宣言」がやっと出るらしいじゃない、でも、まだ検討中だってさ。出すとしても、今度の土曜日からだって。何考えているのかしらね、だいたい去年の11月頃に出すべきだったんじゃないの。

2Fに意のままに操られ、頭が上がらない、ガースー。「GO TO 何とか」にかまけて、ズルズル判断を伸ばし、伸ばしてやっと今? それも検討するだけで終わりにするつもり?

だいたい国交相、公明党じゃないの、あの方、11日過ぎには元に戻すのが当然だ、なんて感染拡大中に発言しちゃうしさ。「小さな声」は聞くつもりなしね、あの方々。

年明けには感染が拡大するぞ、って言われていたのに。国民の神経を逆なですることで満足なのかしら。支持者にさえ受ければいいってわけね。

これじゃ、「緊急事態宣言」を出すタイミングの悪さは、まさに「異常事態(宣言)」よ。

そもそも「Go To」は問題ない、会食が問題だ、原因だなんて言ってるけど、ホントかしら?

実は「Go To」を利用して出かけたのよ。たしかに安くなって助かったわよ。でも、サービスポイント、現地で使う金券。

結局、それで夕飯を食べに行ったらさ、もう混んでて、混んでて、お客さんが一杯。若いグループなんか、マスクなしでどんちゃん騒ぎよ。「旅の恥はかきすて」じゃないけど。

地元の若者だったかもしれないけれど。あの飛沫を浴びて感染なんてこともあり得るんじゃないかな。

あら、こっちは静かなものよ。マスクを外して食べて、マスクをかけて会話・・・、尾身さんや神奈川県知事のご推奨方式よ。面倒だったわ。

あれが一番の原因だと思うわ。飲食店ばかりを責めては気の毒よ。旅行代だけを割り引くなら、飲み食いは、ほどほどに、って考える旅行客だっているはずよ。

それに、そこの地域は、「魚民」と「セブンイレブン」でしか使えないようになっていて。国道沿いでけっこうお店があるのに。

居酒屋に行く人が多くなるように仕向けているとしか考えられない。それも、地元のお店じゃなくて、全国展開のチェーン店。

おかしくない、発想が。結局、大きな旅行代理店と大企業がうまく儲ける仕組みになっている。2Fの思うままなのよ、政治献金がらみでね。

「Go To  Eat」の方が問題ありだったんじゃないの? 誰も指摘しないし、これも利権がらみのようだけど。

そのあと、飲み食いに自制心がなくなって、考えすぎかしらね、やっぱり。

これだけ続くと、自粛、自粛がマンネリ化しちゃって。

そう、友人のお宅でもコロナが出た。幸いに軽く済んだらしいけど、年末は大変だったようよ。

大阪は緊急事態宣言を要請しないようね。急拡大は抑えられている、ワクチンの接種など克服に向けた歩みは進んでいるってさ。飲み屋さんの閉店時間も今の8時から9時と遅くするみたいよ。ブレーキを緩めて経済を回さないと、って。さすが大阪、ど根性路線ね。

(注:実際歩いたのは1月3日午後でしたが、今書いている時点でのお話になってしまいました。あしからず。)

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ちょっぴり毒のあるだじゃれ、もしくは暇にまかせて。

2020-12-30 18:00:00 | じじばばがゆく

その1。

何だかますます髪の毛が薄くなって・・・。頭が涼しいよ。

「一葉落ちて天下のハゲを知る」か。

 

その2。

どうしたんだい、足を引きずって。

いや、おニューの靴を履いたら足を痛めてね。

そりゃ、「クツは災いのもと」だ。

 

その3。

どうです、爺さんの具合は?

どうもよくないですね、腹水がたまってきちゃって。

それじゃあ、悪いけど、もうダメだめかもね。「フクスイ盆に返らず」って昔から言うじゃない。

 

その4。

おめでとう、赤ちゃんが生まれたって。

そう、二人目も男の子だよ。

そりゃ、「イチナンあってまたイチナン」か。 

 

その5。

どうもあいつとは話すのは苦手だよ。

まさに「ケイエンの仲」ってことか。

 

その6。

コロナ、コロナで一年が終わってしまったね。

「ワクチンは急げ」だけど、なかなか思うようにいかないし、その前に「ゼニは急げ」だよ。

がーすーは何を考えているんだか、「GoTOトラベル、世は無情」だね。

「亭主の好きな赤提灯」もすっかり寂れてしまって。

 

その7。

井上さんは苦手だよ、上司だからがまんしてるけどさ。

「イノウエのたんこぶ」ってやつか。 

 

その8

彼女とのよりは戻ったのか?

まあな、「元の鞘に納まる」。

それってそのものズバリじゃないのか。

 

その9。

このあいだ、自転車でおばあさんとちょっとぶつかって、さんざん毒づかれたよ。

それはとんだ災難だったね。「触らぬババアに祟りなし」ですな。

 

その10。

どうも最近、年取った感じよ、いろいろ試してるんだけど、お肌が・・・。

そりゃ無理、無理、「すべての道はロウバに通ず」だよ。「ロウバは一日して成らず」とも言うしね。

 

その11。

これを出してそれをもらうか。「オッ、『拾うカードに福来たる』、ラッキー。」(これはかなり無理筋! )

 

その12。

最近、囲碁を始めたんだって。

「老いてはゴに従え」さ。

 

   ・・・暮れの忙しい中、家人は買い物だ、掃除だとばたばた動いているのに、

      ご隠居、お暇ですな・・・

これにて今年のブログは、打ち止め。   

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もう一年経つのか、早いものね、年取るのも。

2020-12-29 19:55:49 | じじばばがゆく

どうしているの? お元気ですか?

お互い、こんな状態じゃ、お会いするわけにもいかないし。

すっかり家にいたっきりで、せいぜい近所に買い物程度よ。

いろいろ制約があるしね、からだも言うこと聞かないし。

太ってしまったわよ、このところ。

あなただってそうでしょ、血圧にコレステロールに、後なんだっけ?

コロナには一番危険な因子らしいじゃない。

国会議員も亡くなったし、怖いわね。

居座って、辞職しない国会議員は何人もいるけど。

気の毒だわね、まだ若い方でしょ。

亡くなると、とたんに既往症があったからだ、なんていう人も出てくるしね。

そりゃ、そういう基礎疾患はあったけど、コロナに感染しなければ、今、亡くならなかったかもしれない。

もっと早く検査を受ければ良かったのに、遠慮したことが美談になるはずはないわよね。

そうそう、発熱があってもまずは家で安静にして様子を見て、なんて政府が言ってたこともあったわよね。

それじゃ、間に合わない人もで出てくるわよ、きっと、若い人でも。

まったく何考えているのかしらね、いまの緊急事態でね。

自助、共助、控除? 孝女? 公序?高女、って「公助」なんて、「一太郎」でも変換できないわよ。

「公助」なんて口だけでやる気ないんじゃないの。

「公助」なんてさらさら考えてないんじゃない、お得意の「公序」が大切なのかな。

まず「自助」、せいぜい「共助」どまりで、民はそこでおしまい。ってわけね。

そうそう、こっちもそうだけど、例の病気? 小康状態よ、何とかね。

お互い、年取るとイヤですね。あちこち不具合が出てきて。

それにこの騒ぎでしょ、まったくいつまで続くのかなぁ。

孫達とも会えないのは、半年以上よ、これで。

じじ、ばばにうつしたら大変だって、来やしないわよ。

見ない間にきっと大きくなっているわね、どうしているのかしら(涙)。

緑のタヌキっていうの、百合子も、スローガンばかり立て続けに発表するばかりで。

カルタ作ったり、「ウイズコロナ」じゃなくて、「ウイズアウトコロナ」でしょ。

そんな言葉遊びはいいから、何とかして下さいよ。

来年のオリンピック、その前の都議選を意識してるんじゃない。

今度は、「都民ファースト」にかこつけて、「(命を守るために)自分ファースト」でなんて言うんじゃないの。

「オリンピック」なんてもう無理よね、「人類がコロナに勝った証しとして」って、何言ってのよ、って感じ。

そうそう、もともと「福島復興」がスローガンだったはずなのにね。

マスク、うがい、三密を避けるって、みんな努力はしているのにね。

若い方はどういうつもりか、けっこう出歩いているし、それでもマスクはしているわね。

会食はどこが悪い、今の課題をいろいろ話し合う貴重な機会だって居直る2Fさん。

ただの忘年会じゃなかったの? 王さんたちと何を話すのよ、かえって迷惑だわね。

ガースも2Fには恩義がありすぎて、のこのこ出かけていったしね。

反省しています、これからは会食はしません、って。

私たちじゃ近づけない、高級料理店をはしごしてばかり。

あの方、家で食事をしないのかしらね、朝から晩まで外食って、どういうご家庭かしらね。 

まあ、どうでもいいけど、みんな、お給料は、税金なんだから。

そうそう、家庭内感染に注意! 家の中でもマスクをしていましょうって、「区報」が回ってきたのよ、ここにも。

えっ、そのうち灯火管制でもして、午後8時以降は灯りを消して静かに、ってなりそうですって。

まさかそんなことになるわけないじゃない、バカなこといわないでよ。

でも、ご近所のお医者さんでも、インフルのワクチンも在庫がなくなってしまったようだし。

このまま嵐の過ぎるのを堪え忍ぶ、負けられません、勝つまでは、って感じ。何か戦時中みたいね。

もちろんそんなことを体験ないわよ、戦後生まれですから。

電話では感染しないから安心よ、これだけしゃべっても。

えっ、電話線を通じても感染するって、冗談はよしてよ。

でも、ちゃんとマスクしているから大丈夫よ。「アベのマスク」じゃ分からないけど。

・・・

まだまだ話は尽きませんが。午後8時を過ぎたので、ここにて消灯。良いお年を

懐かしの「アベノマスク」

 

 

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三密であんみつを、ってしゃれにならないですよ

2020-12-28 20:12:34 | じじばばがゆく

おやじさんお元気ですか?

緊急事態宣言でしょ、仕事も外出も控えていますよ。

いや、おやじさん、どうしているかと思って。

こういうご時世の中、お元気ですか?

そうすね、去年も流れたし、って。おやじさんの都合が悪いっていうんで。

そうですよ、だんだん疎遠になって、そして今、この騒ぎでしょ。ますます・・・。

こっちは変わりませんよ、仕事も、生活も。

でも、大変な世の中になってしまいましたね。

今年の初め頃は、けっこう高をくくっていたんですがね。

ここまで蔓延するとは思ってもいませんでしたね。

武漢から来たから「新型コロナウィルス」じゃなくて、「武漢ウィルス」って。

日本じゃ、中国の方いらっしゃい、歓迎します、って首相が先頭になってメッセージ動画を配信ですもんね。

そうそう、その中国由来のコロナは収束して、どうも、今のはヨーロッパ由来のウィルスじゃないかって。

ウィルスも変異、変異で。

コロナ軍、あいつらも、子孫を残すために必死なんでしょうかね。

変異してだんだんと弱毒化していけば、人類と共存できる、って。

そうなれば、普通の風邪ウィルスとなっていって・・・。

しかし、なかなか敵は手強いですよ。

そうですね、なかなかワクチンができないし、治療薬もなさそうだし。

いえ、まだ自分の周りには誰もいませんよ、誰も。

あんまりピンときませんね、この騒ぎ。

タレントか有名人が亡くなって報道されるんで、何となく不安にはなりますが。

おやじさん、まだまだ元気でいて下さいよ。

会いたいですね、久々に。

何ですって、浅草であんみつを三密で食べよう、って。

たしかに浅草には有名な甘み屋さんがありますが。

そうそう、「梅園」って言ったかな。

なんですって。そこで、3人であんみつを一つ頼んで、一つのスプーンで食べよう、って。

そんなこと言ってちゃいけませんよ。いい年して、しゃれにもならないですよ。

だいたい糖分取り過ぎですよ、それじゃ。

コロナで危険なのは、糖尿病らしいですから。

でも、まだまだ元気そうなので少し安心しました。

体に気をつけて下さいよ、もう若くないんだから。

では、12月頃に連絡しますよ、おやじさん囲んで、飲みましょう。

そうそう、そのころまでにコロナ騒ぎがおさまっているといいですよね。

・・・

それから半年が経ちました。コロナの勢いは止まらず、当時の第一波から、今は、第三波のさなか。

連中からの連絡も途絶えたままです。どうしていることやら・・・。

 

安政元年、浅草寺の別院(梅園院)で創業したことがその名の由来です。160年間守りとおした、元祖あわぜんざいの味は絶品。他にあんみつや豆かんも大人気。人気の秘訣はやや抑え目の甘さとか。永井荷風の小説の中に登場したほど、有名なお店です。

あわぜんざい
★田舎しるこ
★梅園ぞうに
★あんみつ
★豆かん

  

(この項、「」HPより)

 

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青戸3丁目都営住宅広場。思いがけない発見。

2020-06-22 21:33:08 | じじばばがゆく

               団地の一画にこんんもりした林、そして満開のタチアオイ、紫陽花が・・・。

立ち寄ってみます。

タチアオイ。

             

こんなに花々が咲きそろう広場があるとは思いませんでした。よく手入れされています。

色とりどりの紫陽花。

      

広場があり、ラジオ体操の会場にもなっているのでしょうか? 朝礼台のようなものも。藤棚もあります。

       

小高い丘状にしつらえてあって、灌木も植えられています。

散策道の足下には椎の実が散らばっています。

たくさんのタチアオイが小道沿いに。

足下には小さな花々。

                        

小さくても大輪を咲かせる。

 

     結構眼を楽しませてくれます。

ガクアジサイ。別名「隅田の花火」。
ガクアジサイ(額紫陽花)の一種で、色々な品種改良の結果、登場した新種。 日本人の独特の洒落っけがあり名前が面白い。 周りの装飾花が八重であり、夜空に打ち上げられる花火をイメージした名前に由来する。  

ご婦人がせっせと手入れをしていました。梅雨入りの、夕暮れ迫る、ひとときでした。

今日のような梅雨空。もっと紫陽花が紫陽花らしく映えるでしょうね。        

 

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2020.04.06。富士宮。桜。

2020-04-20 20:52:23 | じじばばがゆく
                      所用の折に、富士宮にある大石寺へ。全山、桜が満開。「緊急事態宣言」が発出される前日。
 噂に違わぬ桜の名所です。
                参道のシダレザクラが見事。
        

                        

 

 「三門」の修復工事中。ほぼ全景が。
      

              

 

       

 ソメイヨシノが満開の丘へ。いっとき、桜の木の多くが「てんぐ巣病」にやられたようですが、見事に復活。
   

木洩れ陽の下、親子連れなど地元の方が散策。

              

                    

桜吹雪。

タンポポと花びら。

               

      

東斜面の向こうには富士山の裾野。

なかなか顔を出してくれません。

雲の間から、ほんの少し。

                       桜越しに富士。

       



                         

         

 新型コロナウィルスによって国内外で多くの感染者と死亡者が出ている今日この頃。早期の収拾と生命と暮らし、「国土安穏」を願わざるをえません。

 ついでに、以前訪れた上井出にある、日本の五大桜の一つ「狩宿の下馬桜」を紹介。
他の四つ
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
・山高神代桜(山梨県北杜市)
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
 ※このうち、狩宿の下馬桜のみ、「特別天然記念物」に指定されている。

 1193(建久3)年、源頼朝が富士山麓で巻狩りを行った際、馬から下りた所とされたことから「狩宿の下馬桜」と呼ばれるようになった。また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われ、「駒止めの桜」という別名も。
 樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であった。しかし度重なる台風などの影響で、最盛期の姿はない。それでも、若木が出てきて薄い桜色(まさに)の淡い花を一面に咲かせていました。

下馬桜。その下には、菜の花。
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2020春。「墨堤通り」+「向島見番通り」+花街。その4。鳩の町商店街。榎本武揚旧居跡。・・・

2020-04-01 20:07:57 | じじばばがゆく
                        スカイツリーを望む街。

「天ぷら 花むら」。

住宅も古風な意匠の落ち着いた雰囲気。

「水戸街道(国道6号線)」。沿道は、ほとんどがマンションやビルになっていますが、昔ながらのおうちがお店をやっています。
萬屋糸店」。かつてあった大きな看板はなくなっています。

もう少し北寄りにも古いしもた屋(商店街の中にあって商業を営まない住み家のこと)があります。
南側にあった家が取り壊されていました。

この水戸街道南西側に「鳩の町商店街」があります。少し戻って探訪。
 鳩の街(はとのまち)
 現在の東京都墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。地理的に「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。
 この街の店舗は、警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。
また、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった。さらに、永井荷風がこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いている。これらの荷風の2作品は、久保田万太郎の手により構成され「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演した。
 玉の井と同様に、この街も訪れる作家や芸能人が多く、吉行や荷風の他、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りしたことが知られている
 また、女優・歌手の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことで有名である。
 1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業。最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだ。跡地は商店街やアパートなどの住宅となった。
 現在でも、商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えや改築により、それらも少なくなった。
また、今も、商店街や道路の名称として「鳩の街」の名は残っている。商店街は、下町らしい活気のある街であったが、現在はシャッターを下ろした店が多い。

玉の井(たまのい)
 戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の小説『濹東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。

 玉の井の起源については、永井荷風の『濹東綺譚』によれば、1918年(大正7年) - 1919年(大正8年)のころ、浅草観音堂裏に言問通りが開かれるに際して、その近辺にあった銘酒屋等がこの地へ移ってきたのが始まり。この当時、この地は東京市外であった。
 その後、関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄する。
また、浅草からこの付近まで一直線に通る道路(現、国道6号)が開通したほか、1931年(昭和6年)には東武鉄道伊勢崎線の浅草雷門駅(現、浅草駅)が開業したことで、浅草から玉ノ井駅(現、東向島駅)までのアクセスが格段に良くなったことも繁栄を助長した。

戦前・戦中
 玉の井の銘酒屋は、間口の狭い木造2階の長屋建で、それぞれの店には女性を1 - 2人程度置いていた。1階には狭い通りに面して小窓が作られ、ここから店の女が顔を覗かせて客の男を呼んだ。女性が接客する部屋は2階にある。区画整理のできていない水田を埋め立てて作った土地のため、あぜ道の名残の細い路地が何本も、密集した銘酒屋街の中を縦横に入り組んで通っていた。また、その地質のせいで、雨が降ると相当ぬかるんだ。
路地の入り口には、あちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っており、この街を荷風はラビラント(迷宮)と呼んだ。
 この土地の遊興費は、荷風によれば平均的な店で1時間3円、「一寸の間」(ちょんの間)で1円から2円程度とのことである。また、銘酒屋は外からみるとあまりきれいではないが、中へ入ると「案外清潔だった」という(断腸亭日乗 昭和11年5月16日)。
 所轄の寺島警察署の統計によれば、1933年(昭和8年)には、この街にあった銘酒屋の数は497軒、そこで働いていた女性の数は1,000人いたという。だが、実際にはこれよりもずっと多かったという説もある。
 また、荷風以外にも、徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチローなど、この街を訪れる文士が多くいた。また、尾崎士郎は「人生劇場(残侠編)」の中に玉の井を登場させた。高見順は、小説「いやな感じ」の舞台を戦前の玉の井に置いている。漫画家の滝田ゆうは玉の井の出身で、自分の少年時代をモデルに寺島町奇譚を描いている。作家の半藤一利は、玉の井があった寺島町の隣町の吾嬬町育ちで、「永井荷風の昭和」(文春文庫)の中で少年時代にたずねた思い出を記している。
 第二次世界大戦中は、軍需工場の工員や兵隊たちで賑わったが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で街のほとんどが焼失した。
 終戦後の玉の井は焼け残った地域に移り(焼失前の位置は寺島町五丁目、六丁目、現在の東向島五丁目、六丁目の一部。戦災後の位置は寺島町七丁目、現在の墨田三丁目の一部)、営業が続けられた。場所が移ったこと等から戦後の玉の井を新玉の井という場合もある。また、一部の店は1キロほど離れた場所に作られた「鳩の街」に移転した。銘酒屋街は警察の指導により、「カフェー」風の店に改めさせられ、いわゆる赤線地帯となった。
 吉行淳之介は、戦後の玉の井も、鳩の街など他の赤線地帯とは違った独特の風情があり、その記憶は滝田ゆうの作品につながると書いている(滝田ゆう「寺島町奇譚」解説)。
 売春防止法施行後は、この地区に娼家はなくなり、ほとんどは商店や住宅が建ち並び、一部に町工場のある東京の普通の下町となった。多少、飲み屋やバーがある程度で、吉原のように歓楽街にはならなかった。だが、赤線廃止後何年かは、娼家はなくなったのにもかかわらず、まだ営業している店があると思い込み、この街を訪ねてくる男たちが絶えなかったという。
 小説「濹東綺譚」や「いやな感じ」の初めに登場する、東向島広小路付近の東武伊勢崎線の踏切も、昭和40年代初めに、この付近の線路が高架化されたことにより、水戸街道(国道6号線)を跨ぐガードとなった。この踏切の近くで、前記の2小説の主人公がタクシーを降りる場面がある。
 現在でも、戦災で焼け残った地区(新玉の井、現在の墨田三丁目付近)に昔の面影のあるカフェー風の建物、銘酒屋風や色タイルを貼った建物等が残っているが、それらも改修や老朽化に伴う建て替えにより少なくなってきている。ただ、密集した街の中を入り組んで通る細い街路だけは、ほぼ昔のまま残っている。

その他
 よく間違われるのだが、戦前・戦中の玉の井は、吉原のように公娼の集められていた「遊廓」ではなく、私娼の集まっていた私娼窟(私娼街)である。地元の人々は「めいしや」(銘酒屋)と呼んでいた。いわば、モグリ営業の売春宿が軒を連ねていたわけだが、当局は黙認していた。

(二項目とも「Wikipedia」参照)

 「鳩の町」も「玉の井」もすっかり面影を一新し、商店街や住宅地となっています。東武線の駅名も「玉の井」から「東向島」に。
 興味本位で歩き回ることはなしにして、と。

「鳩の町商店街」入口。鳩のデザインが。

細く続く商店街。閉まっているお店も多い。

空き地に「国有地」の標識が立っています。

消防車が入れないような細い路地に住宅が密集。生活感は大いにあり。

手押しのポンプが片隅に。使用、可?

「はとのまち整骨院」。

棟割り長屋風の店舗が三つつながりで。

スカイツリー。

                       

旧玉の井付近をいくつか。

玉の井の入口付近、老舗の酒屋。「酒喜屋」さん。

この路地から四方に小道が続く。

当時の雰囲気を伝える建物いくつか。

 

さて、また「鳩の街」に戻って、

榎本武揚旧居跡」解説板。
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中浜万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で函館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。1862(文久2)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この函館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)年に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から73歳で没するまでこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

「見番通り」から「墨堤通り」に戻り、左に折れると、
 
 明治20年(1887)に建てられた「墨堤植桜之碑」。
 榎本武揚による「篆額=石碑などの上部に篆字で彫った題字)。「墨堤植桜之碑」と上部に彫られている。

篆字

墨堤植桜の碑
 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が百本の桜を、同11年には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。・・・弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村 人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
             平成2年3月    墨田区

 こうして再び「墨堤の桜」に戻ってきます。料亭のお座敷は無理なので、今度は、「江戸蕎麦」のお店か「カド」に立ち寄ってみようと思います。

 それにしてもコロナはいつおさまることやら。「緊急事態宣言」行使を手中にしているアベは、どう出るか?
 知事選を前にして、「緑のたぬき」の張り切りぶり。TVの露出に、かつての東日本大震災のときのイシハラ選挙を彷彿とさせる計算が?
 1年延期となったオリンピック。巨額の誘致資金が元電通役員へ。この方、今も裏で暗躍している風、はたしてどうなるか?

《補足》隅田公園で落としてはならない施設が隅田川から右にそれる「墨堤通り」際にありました。
 
隅田公園少年野球場
 この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子供達の荒れ地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
 以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇るホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。


 以前、この隣に「室内温水プール」がありましたが、取り壊されて貸し駐車場になっています。
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2020春。「墨堤通り」+「向島見番通り」+花街。その3。「青柳正家」。「めうがや」。・・・

2020-03-31 20:59:44 | じじばばがゆく
青柳正家
青柳正家のこだわり
 昭和24年の第1回全国銘菓奉献結成式典において、当店の味に大変満足されたのを機縁に、一條実孝公によって命名されたものです。その格式高い「正家」の名を賜った昔から現在まで変わらず、最上級の材料を吟味し、心を込めた手作りにて「すべてのお客様に満足いただける商品」をと努めております。
 和菓子の心「春夏秋冬」の季節感をお届けできるよう、ひとつひとつ大事にお作りしております。
 毎日を特別にする日々のお茶のお供に、大切な方への贈り物に。
 お客様のご用命をお待ち申し上げております。
                                             (この項、「2020 © 菓匠 青柳正家」HPより)

 「正家」と命名した、一条実孝自らが筆を取った看板を掲げています。

工芸菓子「牡丹」。菓子の材料で制作してある。

 この界隈には、意匠の凝った飲食のお店や伝統工芸のお店などがあります。

こちらは「向島七福 すずめのお宿」。江戸蕎麦の店。

 

 江戸と東京を味わう――。江戸の食文化【江戸蕎麦】を向島花街で伝える。天ぷらや蕎麦前で一献も
 江戸時代に医食同源として根付いた【江戸蕎麦】。
 当時は醤油の替わりに味噌を大根おろし汁に溶いた“江戸つゆ”で食していました。
 そんな江戸っ子が好んだお蕎麦を気軽に味わえる「向島七福すずめの御宿」。
 蕎麦は国産玄蕎麦100%の自家製粉を使用。
 揚げ前カウンターで愉しむ【天ぷら】や蕎麦前料理、コース料理など、幅広いメニューをご用意しています。
 心温まるおもてなしと共に、お蕎麦でまず一献いかがでしょうか。
                      (この項、「食べログ」HPより)
 「抜け雀」という古典落語があります。一文無しの絵師が宿賃代わりに衝立に描いた雀が抜け出し、「雀のお宿」と評判になって大繁盛するお話ですが、それにあやかったネーミングなのでしょうか。

こちらも「江戸蕎麦」屋さん。僖蕎(ききょう)」。

  
 長年培った和食の技術を礎とし、江戸の「粋」を東京の花街・向島にて体現致しました。時節により蕎麦粉の産地を吟味し、職人が丁寧に手仕事で打ち上げます。厚削りの香りが際立つ、から目のつゆで頂く江戸前二八そばと素朴で旨いつまみを迎える豊富な地酒。そばと季節料理の会席や個室もご用意し、家族のお食事やご接待など幅広くご利用頂けます。江戸の「粋」を東京の「モダン」な空間で感じるひと時。「江戸蕎麦 僖蕎」が新しい味わいと愉しみの場を花街・向島にてご提案いたします。

                      (この項、「一休.com」HPより)

めうがや」。  

 「向島めうがや」は慶応3年(1867)の創業。
 初代・長七が万治2年(1659)創業の「めうがや足袋総本店」(旧日本橋区浪花町二番地)より暖簾わけを許されたのが始まりで、元は浅草田町(現台東区浅草五丁目)に店を構えたが、2代目・七蔵を経て3代目・由太郎のとき現在地に移転した。
 関東大震災後の帝都復興事業に伴う区画整理を契機としての移転であった。
 4代目の定男を経て、現5代目の芳和がその伝統を受け継いで今に至っています。


向島めうがや5代目 石井芳和 職歴42年
ひとこと
足袋でお悩みの方には是非御誂えをおすすめ致します。きちんと御つくりさせて頂きます。
趣味
銭湯めぐり、落語
・ 平成30年度 墨田区伝統的手工芸技術保持者 表彰
・『平成25年度・東京都優秀技能者(東京マイスター)知事賞』受賞
・ 墨田区登録無形文化財保持者 平成24年認定
・ すみだマイスター 平成5年認定
・ 墨田区伝統工芸保存会会員
・「すみだモダン」2010認証
・「すみだリーディングファクトリー2018」選定
(この項、「」HPより)

 通りすがりにお店の中を覗くと、ご主人がミシン掛けをしていました。
 古くから料亭の女将や芸妓さんを得意先にもつ、あつらえ足袋の老舗。花街の女性の足元を細く美しく見せる江戸足袋を作り続けています。

このお店も落とせません。カド 季節の生ジュース くるみパン」。
 このお店の内装を担当したのは、作家・志賀直哉の弟の建築家、志賀直三。若い頃に留学した、ロンドンのパブを再現した、とか。
 店内は、絵画などが辺り狭しと飾られ、バロック調、ルネサンス調、ロココ調・・・。まさにヨーロッパスタイルの趣き、らしい。一度は入るとその装飾に皆がびっくりする(らしい)。しかし、生ジュースやくるみパンは店主自慢の絶品(のようです)。
 一人で入るのには、勇気がいるかな。

この先、右手に「見番」の大きな建物があります。

一角に煉瓦塀が残っています。内側には何もありません。

                          

めっぽう古そうなおうちがあったりします。

スカイツリーを見上げる。

やはりこの界隈は奥が深い街並みです。まだ探索は続きます。
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2020春。「墨堤通り」+「向島見番通り」+。花街。その2。「見番」。「櫻茶ヤ」。・・・

2020-03-30 19:39:27 | じじばばがゆく
                       「美家古(みやこ)」他にも古くからの料亭が点在しています。

「壱松(いちまつ)」、「市山(いちやま)」、「入舟(いりふね)」、「きよし」、「櫻茶ヤ(さくらちゃや)」、「すみ多(すみだ)」、「千穂(せんすい)」、「千代田(ちよだ)」、「月笛(つきぶえ)」、「道成寺(どうじょうじ)」、「波むら(なみむら)」、「ふ多葉(ふたば)」、「美家古(みやこ)」

     (以上、「向嶋墨堤組合」HPで紹介されている料亭)

おもてなしの心
 料亭と言う響から連想される「贅を尽くした雅やかで高貴な処」と評されることが多々あります。実際はそれほど敷居は高くありません。お客様のご予算、内容に応じてご利用いただけるのも料亭の仕組みです。風情を重んじ、旬の素材で季節を食彩共に愛でる料理と落ち着きのある部屋、さりげなく置かれている調度、床の間、おもてなしの心。全ての纏まりが醸し出す無形の演出、日本の食文化,、伝統を受け継ぎ次世代に継承する事が私共の使命と考えております。

 門口を通ると広がる和の空間、粋と寂の趣を控えめにしつらえた佇まい、お客様の心へさりげない癒しへのいざない。これから繰り広げられようとする宴へのときめきをお部屋にお通しするまでも家人の立ち居振る舞いの淑やかさ、言葉遣い、手の動き、目くばり、気くばり、その一つ一つに「もてなしの心」を感じていただけることでしょう。そして、お料理。季節、厳選された素材、彩り、調理の技、器との競演、ここで大事なもてなしをする家人の気くばり、美味しいお料理をより美味しくお召し上がり頂くための「間」※タイミング。ご酒をお召し歓談をされているお客さまへ、どの「間」で次のお料理をお出しするかも「もてなしの心」なのです。宴が終わりお客様をお見送りするまでの心の緊張。
 「また、寄らせてもらうよ」のお言葉。感謝と緊張の糸がとける瞬間です。時代は変われど歴史ある日本文化、伝統、作法を重んじた料亭の文化を末永く継承すると共に、より一層、「もてなしの心」を求道、邁進いたします。

お座敷と芸者さん
 江戸時代前期、松尾芭蕉の登場により江戸中期以降、俳諧、連歌などの会席が料理茶屋で開かれるようになり、舞踊、邦楽で宴席に興を添え、客をもてなす女性の職業として芸妓の形が出来ました。時代が替わり会席の形も色々と変化をしてきましたが、料亭のお座敷と芸妓、伝統芸能の取り合わせは今の時代でも遺っています。

 日本の伝統芸能は長い歴史と共に様々な唄、器楽、舞、演者、流儀、流派、と広域でとても語り尽くすことが出来ません。花街向島では現在も技術の伝承者と共に継承されている奥深い文化である伝統芸能を遺すためにも、芸妓衆の習い事として日々お稽古を各分野のお師匠さんに付けていただいております。

 邦楽を介して学ぶ作法も重要ですが「呼吸」「間」「情緒」そして「粋」を音曲の調べと共に情感で表現する奥深い日本の伝統芸能を身につけなければ一流の芸妓にはなれない重要な教養の一つでもあります。
 現在、邦楽の範囲としては浄瑠璃(義太夫、常磐津、清元)、器楽(三味線、笛、小鼓、大鼓、大皷※おおかわ、締太鼓)が主な演練演目としてあり、一つを昇華するにも大きな時間を費やします。自己の教養を高めることが客をもてなす才色兼備の芸妓に育っていくのです。

 芸妓の身のこなしや立ち居振る舞いは邦舞、邦楽の基礎をしっかりとしたお稽古を続け身につけることが感性の現れとなります。現在、向島花街では日本舞踊として200流派を超える流派の中から「西川流」と「猿若流」のお師匠さんよりお稽古を付けていただいております。

西川流
 日本区内には200を超える日本舞踊の流派がありその中でも5大流派と言われる中の一つに数えられているのが初代創始は江戸三座の櫓付振 付師としても活躍し、三百有余年の歴史を有し現在も多くの門弟を世に送り出しています。

猿若流
 江戸三座に入り、江戸歌舞伎の始祖と伝えられている。寛永元年(1624年)初代猿若(初代中村勘三郎)により猿若座(後、中村座)の櫓をあげ、現在まで約400年の歴史と伝統を継承し日本舞踊の発展に努めています。

お座敷の遊び
金比羅船々
 芸妓と向い合い善の上に椀のような道具を真ん中に「金比羅ふねふね・・・」を歌いながらジャンケンの形で椀のような物を片方が取ったらグー、そのままならパーを出す。間違えたら負けの反射神経が問われるゲーム。

投扇興
 流派もある伝統的対戦ゲームで、桐箱の台座にたてられた「蝶」と呼ばれる的へ扇を投擲して落ちたときの形により得点を算出し点数を競う。

とらとら
 体を使ったジャンケンで和唐内(やりでつく格好)、虎(よつんばい)、お婆さん(杖をつく格好)の組み合わせで、勝敗は和唐内は虎には強いがお婆さんには弱い。虎は、お婆さんには強いが和唐内に弱い。お婆さんは、和唐内に強いが虎には弱い。

おまわりさん
 芸妓と2人でジャンケンをして勝った方は太鼓をたたき、負けた方は1回転してまたジャンケンをするゲーム。

お食事だけでもご予約いただき気軽にご利用頂けるのも花街向島の魅力です。
・・・
見番とは
俗称:見番  正式名:向嶋墨堤組合
 花街の成り立ちからご説明、向島に料亭街の集合地域として繁栄し歴史も古くからの痕跡を残している。ここでは終戦後から現在の見番 (向嶋墨堤組合)になるまでをご説明させていただきます。

 向島は隅田川の東岸に位置しており、春は桜、夏は花火、秋は向島百花園、冬は隅田川七福神巡りと四季折々の情景と風情の趣を醸す地域故に人々の往来も多くなり、花街の成り立ちを要する置屋、料理屋、待合の三業種の営業が許可された三業地と呼ばれるようになりました。

 昭和61年11月15日、芸妓組合、料亭組合、料理店組合が合併し、見番(向嶋墨堤組合)として現在に至っています。主な業務は料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋、他花街の統括管理が主な業務、また、芸妓の育成、お稽古、等々、伝統文化継承の貢献も行ってる花街では重要な組織が見番です。

置屋とは
 自店に登録されている芸妓を料亭へ斡旋したり新人芸妓を育てたりと花街には無くてはならない業態。花街向島では50件近くの置屋があります。

 と、以上「向嶋墨堤組合」HP)より引用。

 

向嶋墨堤組合(見番)」解説板。
 江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。
 伝統や文化を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかつての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも波及していった。
 向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄などの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。
 向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成24年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴り物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。

 やはり小生には敷居の高い、無縁の世界ですね。「縁無き衆生は度しがたし」。
 せめて料亭の写真だけでも。
「櫻茶ヤ」。

         「桜まつり」の提灯が掲げられています。

シダレザクラはほんの一輪ほど。

 注:コロナ騒動で、「桜まつり」も中止になり、隅田川土手の提灯も一部、26日には取り外されました。

「ふ多葉」
「多」は「」。
「葉」は「」。

「入舟」。

「波むら(なみむら)」。

「「すみ多(すみだ)」。
「だ」は「」に濁点。

 この界隈は料亭ばかりではありません。歴史と文化を感じる建物やお店が存在します。次は、その紹介を。
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2020春。「陽光」。「衣通姫」・・・。「墨堤通り」+「向島見番通り」+花街。その1。

2020-03-27 20:18:23 | じじばばがゆく
                       「ヨウコウ(陽光)」。華やかな紅色。
            
愛媛県に在住していた高岡正明がアマギヨシノ(天城吉野)とカンヒザクラ(寒緋桜)を交雑させて作出した園芸品種
高岡正明は第2次世界大戦中に学校教員であったが、戦後、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強いソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと台湾原産の暑さに強いカンヒザクラを交雑させて誕生させた。樹形は広卵状で、ソメイヨシノより早く咲き、花は一重で大輪、鮮やかなピンク色となるのが特徴。てんぐ巣病や病害虫に強い樹勢強健な種とされる(この項、「Wikipedia」より)

 「隅田川」沿いの「墨堤通り」・高層道路下の歩道脇には、ソメイヨシノだけでなく、他の種類のサクラも植わっています。
 
                「ソトオリヒメ(衣通姫)」落ち着いた白さが魅力。 
伊豆大島の都立大島公園でソメイヨシノとオオシマザクラの自然交配で生じた
一重咲きの桜 花は白色だがやや紅色がかる
名前は『日本書紀』に登場する衣通姫(ソトオリヒメ)にちなんでつけられた

シロタエ(白妙)」。八重咲きの大輪。 
 シロタエは数少ない大輪で白色の種であり、オオシマザクラ系のサトザクラ群で園芸品種の八重咲きの桜
現在の栽培種は昔東京の荒川堤で栽培されていたもの
花径は5~5.5㎝あり花弁は13~15枚でほぼ円形
花の色は白色で、外側の花弁は先端や外面が淡紅紫色を帯び「白色八重咲き」の代表と言われている・・・
          
         

センダイヤ(仙台屋)」。

                    
原木は高知県高知市の仙台屋という店に植えられていた桜で、東北地方にあった山桜を移植したものと伝えられる
牧野富太郎博士が命名した、と言われている
咲き始めに花弁の先と縁の色がやや濃い紅色を持つ一重咲きの桜

エドヒガン(江戸彼岸)」。


エドヒガンは桜の原種の一つでありソメイヨシノお交配親としても知られている
名前は文字どおり彼岸の頃に咲き、関東を中心に広く分布していることによる
花の色はかなり濃い紅紫色から純白色まで変異が大きい
桜の中では非常に長寿の種であることがしられており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜(山梨県)や樹齢1500年を超える淡墨桜(岐阜県)、樹齢1000年を超えるといわれる樽見の大桜(兵庫県)、その他にも樹齢300年を超える石割桜(岩手県)などが有名(いずれも国の天然記念物)

向こうにスカイツリー。ヨウコウ(陽光)」。

ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)」。

         

「祝 第5回忠臣蔵サミット記念樹」。
蕾から花弁が開くにつれて、花色が濃い紅紫色から淡紅紫色へと変化する。このため、5分咲きから7分咲きの頃に紅の色がもっとも濃く見える
・・・平安神宮の八重紅枝垂は、谷崎潤一郎の「細雪」にもその姿が描写されている
「平安神宮紅しだれコンサート」は例年、京都の春の風物詩となっている

 
               「ヨウキヒ(楊貴妃)」。艶やかな色合い。
サトザクラ群の一品種。もと東京の荒川堤で栽培されていた品種。
花は八重で4月中旬頃に咲き、花びらは淡紅色であるが先端は濃紅色
奈良興福寺の僧侶「玄宗」が非常に好んだことから、唐の「玄宗」皇帝が楊貴妃を寵愛した故事にちなみこの桜を「楊貴妃」と呼ぶようになったという
江戸時代の文献にもその名が記載されており、古くから知られた桜である。
 
 さて、「墨堤通り」が首都高速下から離れ、右折すると、右手に「見番通り」の標識。探訪してみます。
         

右手に「須崎会館」。「須崎」はこの付近の旧町名。現在は、向島五丁目西町会の事務所。
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行く年来る年。香港からも。

2020-01-04 19:48:36 | じじばばがゆく
 暮れの24日、25日と香港から若者がやって来ました。毎年、この時期に訪日。

 4年前にホームステイでお世話した青年。

 33歳の誕生日を我が家で。お土産もいっぱい持ってきての参上です。ありがとう!

 去年は雪と光のプロムナード見物で、仙台に向かいました。
 今年は、盛岡に雪を見にと、26日に出かけました。それから台湾で正月を迎えてそのまま、帰国とのこと。

 毎年、けっこう活発に海外旅行をしているようです。

 盛岡に向かうまでの時間、人生相談を。積もる話もたくさん、たくさん。
 結婚のこと、仕事のこと、香港のようす、・・・。出発時間ギリギリまで「ニッポンのお母さん・お父さん」と。

 ところで、訪日外国人のために「JR7日間(新幹線含む)乗り放題」のチケットが3万円くらいで入手できるようです。
 JAPAN RAIL PASS
 これを使ってフルに旅をする計画。

 行く先々でビジネスホテルを取っての旅。盛岡は大浴場があるという「ルートイン盛岡駅前」を予約。

 東京に来る前は、大阪で日本語学校時代に友人や先生と。

 離日前には、東京で同じような仲間と再会を楽しむとか。
 けっこう有効活用しています。日本人向けでこの値段なら、当方も利用するのにね。

 さっそくビールを飲みながら歓談。香港のビール以外にも日本のご当地ビールやお酒を。
 ただし、彼は日本酒は苦手なようです。でも、日本語もけっこう上手なので、会話も進みます。孫達も大喜び。

 27日朝、さっそく盛岡の写真を送ってくれました。少し雪が積もっています。

 実は、当方、6日にお葬式が入って、盛岡に行くことに。さっそく青年と同じ「ルートイン」を予約。6,700円也でした。

 今年も、あわただしい1年になりそうです。

            
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先日、網走でお世話になった方からお菓子の詰め合わせが

2019-12-23 20:04:02 | じじばばがゆく
 先日はたいへんお世話になりました。
 おかげさまで元気でやっています。

 いえいえ、別にたいしたものではありませんが、ご家族で食べて下さい。

 ええ、「六花亭」。もともとは帯広ですけど、北海道のお菓子としてはけっこう売れています。
 このあいだお見えになったときに、テーブルに置かせていただいたんですが、お召し上がりにならなかったようですので。

 いえいえ、せっかく網走までお見えになった、ということで、たいへん感謝しています。

  

 そうですか。「網走監獄」と「野取岬」へ行かれたのですか、それはそれは。

 小さな街ですが、網走監獄で有名になったんで、全国から観光客が来ますね。

 野取岬もいいですよね、灯台もすてきだし。
 外国人の方も歩いていましたか、ご夫婦で。なかなかいいですね。

 ええ、私のうちは網走からは少し東です。「知床半島」の付け根のところで、斜里の漁港のところに住んでいます。

知床半島のランドサット衛星写真(Shuttle Radar Topography Mission使用)
                                   半島中央部を縦走している知床連山の西側が斜里、東側が羅臼。

 「野取岬」から東の方に見えていたでしょう、「知床半島」が。あそこの根元付近ですね。

 いえいえ、この辺りにはそんな立派なお菓子なんかありませんから。せめて北海道らしいものを、と思って。

 何といってもバターですから、北海道は。お菓子にも必ず使用されていますしね。



                       

 包装紙の草花の絵もいいでしょう、花の季節は短いですけれど、けっこうすてきな花がたくさん咲きますよ。

 いやいや、少しずつですが色んなお菓子を詰め合わせただけですよ、まあ食べてみて下さい。

 「マルセイバターサンド」、「チョコマロン」、「霜だたみ」、「いつか来た道」、「大平原」、「玉がしわ」、
 「百歳」、「おふたりで(抹茶)」、「畑の大地ひろびろ」、「花の大地ひろびろ」、「雪やこんこ」、・・・。
          
            

 本格的な雪はまだですね。今朝の最低気温はマイナス8℃でした。今?マイナス2℃くらいですかね。
 最高気温は、夏でも平均で8度以下ですよ。東京の方はうらやましいです。蒸し暑さはかんべんですが。



                 

 お菓子の箱を見ながら、あれこれ電話で話していると、さっそく、生まれて半年、全身焦げ茶のちび猫がやってきて、座り込みました。
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ようやく還暦になる連中とささやかな飲み会。

2019-12-19 20:17:26 | じじばばがゆく
 お久しぶりです。このところ、いつものメンバーで変わりばえがしませんが。

 そうなんですよ、この二人はもう還暦。この二人が、これからって。年明けすぐですけど。お互いに。

 還暦のお祝いを来年3月にでもみんなに呼びかけて盛大に、っていっても10人くらいですが。

 昼1時頃からお昼を兼ねて、というのはどうだろう。「木曽路」かどこかで。
 けっこう高いですかね、あそこは。昼のランチならば、少しは。

 女性はいつも貴方しか来ないけれど、・・・。

 えっ、7キロも太ったんですって、お父さんが亡くなってホッとしたんじゃないですか。
 長い間面倒見てたんですものね。100歳にもう少しっていうところでしたかね。

 ご主人も亡くして、今は娘さんとお二人ですか。
 寂しくて、寂しくてってどこが? いい加減にしなさいよ、いい年して。

 そうそう、このあいだ、庭の整理を手伝って、あのへんで40坪ってけっこう広いおうちですよね。
 借地ですか、更新料がどのくらいになるかって? う~ん、高くなりそうですかね。

 娘さんに膝が悪いのに太るなんてって怒られたって。そうかもしれませんね。

 長老は膝と腰が悪いんですって、大事にして下さいよ。

 まあ、3人とも何とか自営業なので、何とか頑張っている。
 死ぬまで働くって。
 私はもうじき息子に仕事を譲ろうと考えているんです。
 
 お二人は、乳児院育ちでたいへん苦労したって聞いたことがありますが。
 偶然、同じところで育ったんだそうで。
 
 あなたは、里親の方に引き取られてそれから逢わずじまいだった。

 それが、定時制高校で偶然一緒になって、その時初めてお互いが同じところに預けられていたことを知った、とか。

 母親の不倫の末に生まれた子供だったんだ。それでも父親は自分の子供として認知してくれた、でも、乳児院に預けられた、と。

 このあいだ、父親が亡くなって、連絡があり、その遺産相続やら何やらで、他のきょうだいとも会えたんですよね。
 けっこうな資産家だったとか。

 ま、その時は土地の売買やら何やらで、少しお手伝いさせて貰いましたが。

 私もその定時制に通っていて、皆さんとも知り合いになれたわけです。
 
 みんな、いろんな辛い、辛くもないか、過去を背負いながら、前向きで仕事も学校も頑張っていたよね、ってちょっと嘘くさいけど。
 
 そう、おやじが筑豊の炭鉱で働いていたけど、閉山になって茨城で小学校の用務員になったんですよね。
 自分は、中学を出てから東京に出てきて下町の工場で住み込みで働いていたんだ。
 
 でも、その後も資格を取ったりして、仕事を続けて元気でやっているんだし、家族共々ね。

 定時制高校もけっこう色んな人がいて面白かったですね。多士済々っていう感じ。先生も色々・・・。

 バイタリティーがあるよね、俺たち。

 あいつはどうしているかな? キー坊とか、家具職人とか、一時羽振りがよかったあいつなんか、今どうしているのかな?
 茅ヶ崎でサーファーショップやっているやつがいましたね。

 文明堂とか、タカキュウとか勤めていたじゃない。もうとっくに辞めたか。

 そういえば、修学旅行で隠れて酒盛りをやって、見つかって大目玉食らったよね。阿蘇だったっけ、長崎だったっけ。

 わざわざ甲府から出てきて、明日は朝から研修会ですか。産廃関係もけっこう大変なようですね。

 女の人たちはどうしているのかな。また声をかけてみよう。
 子供も大きくなっているよね。どこのうちも。

 ほら、看護師さん、青森のたしか下北半島の出身の、色が白くて美人だった。あの人なんか今どうしているのかねえ。

 お孫さんがいるんですか、それは、それは。

 旦那さんがもう定年っていう方もいるでしょうね。年金生活まではまだ間があるけど。
 もちろん、これからは、年金だけじゃ生活できるわけないしね。

 話を戻すけど、還暦の集まりは、あまり高い場所じゃなくて、昼過ぎからやれるところで、もう少し手近なお店を考えてみようか。

 決まり次第、来年早々にも連絡しますよ。

 では、みんなもお元気で。 
 
 12月17日。北千住・居酒屋「へちもん」にて。食べ物も飲み物もコスパはまあまあ。接客もよし!

 (注:写真は、「へちもん」HPより。)
  
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