おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

アジサイ。タチアオイ。「隅田川渡しの跡」碑。平成中村座。(隅田公園)。

2021-05-26 19:47:33 | 隅田川

 今日のアジサイ。・・・やはり梅雨時に映える花。

昨年は6月中旬頃に立ち寄りましたが、季節の変化が早い(関東地方は? )のか、アジサイも五分咲き以上に。

そこで、隅田公園(浅草側)まで。

                

隅田公園の台東区側にはたくさん植えられています。

    

アジサイに関わって、たくさんの一言。

いろんな種類のアジサイが。

                

去年は「タチアオイ」がたくさんありましたが、今年はほとんど見かけません。 

去年のようす。

「梅雨葵」とも言われます

スカイツリー。 

山の宿渡し跡」碑。

隅田川渡船の1つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に渡船を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。

               

「隅田川」に架かる「桜橋」まで戻ります。その途中に、「竹屋の渡し跡」碑。

 

隅田川にあった渡し船の一つ。山谷堀から 向島三囲神社 (墨田区向島2丁目) の前 あたりとを結んでいた。
 『待乳の渡し』ともいい, また『竹屋の渡し』とも云う。 明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり, 同年発行の 『東京市浅草全図』では, 山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き 『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記している。
  「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと, あるいは, 山谷堀に竹屋(家)という船宿があったことが その名の由来とされている。
  「渡し」の創設年代は不明であるが, 文政年間 (1818-30) の地図には, 「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見られる。
 隅田川にのぞんだ 今戸や 橋場一帯は 風光明媚な地であったという。 文人墨客たちの題材ともなった 今戸橋や山谷堀は, 寛文11年(1671)の地図に, 今戸橋の名があることから, 江戸時代初期には造られていたらしい。 「渡し」は, 昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであった。

ふと見ると、「平成中村座発祥の地」碑。

現在は、広場になっています。

「浅草観音」の裏手でも開いたような記憶が。この場所を含めて、何回か観に来ました。江戸の歌舞伎小屋という雰囲気でたいそう楽しめました。「お大尽席」があったりして。二階席、幕の向こう側(内側・舞台袖)で観たことも。間近に役者の表情、所作が味わえました。勘九郎(当時)の才気溢れる芝居を堪能。勘三郎になってからも、・・・。

いっとき勘九郎(勘三郎)の追っかけまがいのことをして、歌舞伎座などあちこちに出かけました。まだまだこれからという時に惜しくも亡くなってしまいました。

息子達が、今、頑張っています。

浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。

翌年(2001年(平成13年))以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の18世中村勘三郎が2012年12月に亡くなった為、2013年は公演を行わなかったが、勘三郎の遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の2代目中村七之助2代目中村獅童と共にアメリカ合衆国ニューヨークで平成中村座復活公演を行った。(「Wikipedia」より)

初演の『隅田川続俤 法界坊』を観ました。そのあともいくつか。歌舞伎座での『野田版 研辰の討たれ』はなかなか面白かった。

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その7。岩淵水門。そして、「荒川」を遡る。

2021-03-09 20:07:33 | 隅田川

                右手に「荒川」の土手がみえてきます。(↓)

いよいよ合流。   

この先は、「荒川」土手の道に。 

「岩淵水門」が見えてきます。

                  

「隅田川」下流を望む。

「荒川」対岸の「芝川水門」を望む。

「荒川」下流を望む。

隅田川唯一の渡し船(「日本化薬工場」相互を結ぶ)が見える。

左手奥は「新河岸川」。

右手に「岩淵水門(青水門)」。

「海まで20㎞」(荒川)ポスト。

以上、ここまで。「隅田川」=「旧荒川」歩きを終了。「隅田川」河畔(左岸)も一部を除いて河川敷が整備され、周囲を眺めながら、のんびりと歩くことができます。右岸の方も面白そうですが。

「緊急事態宣言」が延長され、まだまだコロナ禍は続きますが、ここまでが足慣らし。

いよいよ「荒川」上流を目指して歩くことにします。地図でよく検討してみます。

鉄道でいうと、JR「赤羽」~「西浦和」~「指扇」~「鴻巣」~「熊谷」、そして秩父鉄道(東武鉄道・西武鉄道)となるはず。

しかし、「熊谷」付近までは、「荒川」とJR線などとはかなり離れているところも。バスを利用する?・・・。「長瀞」「秩父」と進んで、その先はバス利用で。

ま、源頭の「甲武信岳」までは無理ですが、・・・。

 

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その6。足立区立新田さくら公園。新田橋。

2021-03-08 20:07:45 | 隅田川

                    対岸が「カミソリ堤防」に。

足立区側に「足立区立新田さくら公園」。親子連れでにぎわっています。

                    

右手の土手下が桜並木に。その先に、「新田橋」。

 

もともと野新田(やしんでん)の渡し」(馬場の渡しとも)という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中州状に孤立した付近の交通路として利用されていた。1939年昭和14年)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て1961年(昭和36年)3月に現在の橋に架け替えられた。珍しいA字型をした橋脚は、木橋時代の橋脚を模したものである。(「Wikipedia」より)

(「Googleマップ」より)

たしかにユニークな橋脚。対岸は、北区。

その先は、通行止め。いったん土手下の道を進みます。

右手に「都立足立新田高校」。

                          手前は「東京成徳大高校グランド」。

      

モーターボートが行き来。

「順天学園新田キャンパス」。

「環七通り・新神谷橋」。

「北区清掃工場」の煙突。

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その5。隅田川の渡し。啓蟄。

2021-03-05 20:04:15 | 隅田川

                    「天狗の鼻」基部付近。かつての隅田川はもっと東に湾曲していた。

右岸にかつての「カミソリ堤防」のモニュメント。

右手に「荒川」の土手。

上流方向を望む。大きく西へ向かう。

両岸は、高層集合住宅群。(左:北区、右:足立区)

ここで、「隅田川の渡し」について、「Wikipedia」をもとに。

注「隅田川」には江戸から明治にかけて、千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋、厩橋、相生橋等が架橋されたが、「千住大橋」から上流には橋がなかった。そのため、多くの渡し場が存在した。

《上流から》

宮堀の渡し
「神谷の渡し」とも称された。現在の新神谷橋付近にあったもので、江戸期においては主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたようである。1924年(大正13年)6月に荒川放水路が開削されると、一帯は放水路と隅田川にはさまれて中州のように孤立した地域となったために後述する野新田の渡しと共に整備が進んだ。1962年(昭和37年)10月に新神谷橋の架設工事が着工され, 1965年(昭和40年)10月に片側車線が開通することになり、宮堀の渡しはその役目を終え、昭和35年の冬に廃止された。北区の宮堀児童遊園内に案内板が設置され、王子神谷駅付近の北本通り沿いの「産業考古学探索路」碑においても記載が残る。

野新田(やしんでん)の渡し
「馬場の渡し」とも称された。現在の新田橋付近にあったもので、主に現在の足立区付近の農産物を江戸市中に運ぶ農業渡船として使われていたようである。荒川放水路開削時に中州状に孤立した付近一帯の交通路として前述の宮堀の渡しと共に整備された。付近は俗に「野新田の原」と呼ばれ桜草の名所であったという。1941年(昭和16年)の新田橋架橋によって廃止された。

六阿弥陀の渡し
六阿弥陀詣をして霊場を巡る際に必ず使う必要があったため、この名で呼ばれた。付近の地名から「豊島の渡し」とも称された。現在の豊島橋の上流200 mほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」[2]とよばれる場所にあった。1925年(大正14年)の豊島橋架橋によって廃止された。

梶原の渡し
「船宮の渡し」とも称された。足立郡江北村(現在の足立区宮城付近)から、堀船(現在の北区堀船4丁目)にあった下野紡績工場へと通う女工たちの通勤用に、両岸の有志によって1908年(明治41年)に作られたという記録が残る。当初の運賃は大人一銭、子供五厘、荷車一銭五厘、自転車一銭。駒込の市場への出荷の車を、戦争の頃は足立の軍需工場へ通う人々を、戦後は梶原銀座への買い物客らを、何往復もして運んだ渡しだったが、交通路の発展に伴い1961年(昭和36年)に廃止された。北区の白山堀公園奥に案内板が設置されている。

小台の渡し
「尾久の渡し」とも称された。現在の小台橋付近にあったもので、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。江戸期は両岸の農民が半月交代の当番制で渡していたという。明治期以降は東京府が運営していたが、交通量の増大に伴い1933年(昭和8年)に小台橋が架橋され、後に廃止された。小台橋のたもとに案内板が設置されている。

熊野の渡し
現在の尾久橋付近にあったもので、大正中期から昭和にかけて利用されていた。下流の尾竹橋や上流の小台橋が開通した後は徐々に利用客が減少したものの、1950年(昭和25年)3月まで利用された。尾久橋のたもとに案内板が設置されている。

新渡し
現在の尾竹橋の上流200 mほどの位置にあり、荒川区町屋五丁目と六丁目の境付近から、足立区千住桜木町を結んでいた。東側にあった後述される尾竹の渡しに対し、新たに設けられたので新渡しと称したという。明治後期に整備され、1934年(昭和9年)の尾竹橋架橋後に廃止された。渡し跡付近に案内板が設置されている。「新渡し」の名は都営バス王45系統の停留場名に未だに残されており、2006年に新設されたコミュニティバスはるかぜ宮03系統にも、都営バスと同位置のバス停名に「新渡し」の名が使用された。

尾竹の渡し
現在の尾竹橋の下流300 mほどの位置にあった。付近に「富士見屋」「柳屋」「大黒屋」という 三軒の茶屋があったため「お茶屋の渡し」とも称されたという。また「尾竹」の名も「お竹」という茶屋の看板娘から名付けられたと伝わっている。天保年間(1840年 - )に開設され、昭和9年の尾竹橋架橋後もしばらく運行されていた記録が残る。千住、西新井大師方面へ向かう交通路として重要な役割を果たした。付近の尾竹橋公園入口に案内板が設置されている。

一本松の渡し
現在の上水千住水管橋付近にあった渡し。京成電鉄隅田川橋梁の上流100 mほどの位置にあたる。千住と町屋を結んでいた生活道路であったという。いつごろ廃止されたのかは不明。上水千住水管橋そばに案内板が設置されている。名は付近の庚申塚にあった大きな松の木に因むといわれる。この松は元禄6年に町屋村と三河島村との境に植えられたと伝えられ、後に戦災で枯死したものの、一本松グリーンスポットという小公園に現在2代目の松が植えられている。なお、近くを通る都営バス草41系統の停留所名として「一本松」の名が残っている。

現在では東京都北区志茂にある日本化薬東京工場と、対岸の足立区新田にある日本化薬東京を結ぶ従業員専用の渡船のみが存在する。

(「Googleマップ」より)

赤い線が航路。(「歴史的農業環境システム」より)

当方の写真にも。右が北区、左が足立区にある工場。

・・・

振り返ると、「五色桜大橋」が。

北区豊島団地。

川沿いに遊歩道が続きます。

右岸(北区側)も遊歩道。

超高層集合住宅。アクアテラカームスクエア」。

日なたぼっこ。

     こちら側にも。川への階段。

「新豊橋」。

3月5日。暦の上では「啓蟄(けいちつ)」。二十四節季の第3。「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味(虫偏で17画)用例:「蟄居」。「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意。

「雨水」《雪から雨に変わり、氷が溶けて水になる、という意》(15日前)→「啓蟄」→「春分」(15日後)とだんだんと春らしい陽気になっていきます。

 

 

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その4。豊島橋。豊島氏。天狗の鼻。

2021-03-04 20:00:34 | 隅田川

                    「豊島橋」。左手一帯が「豊島5丁目団地」。

                 

もともと現在の橋の上流300メートルほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。1925年大正14年)、この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって1960年(昭和35年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。なお旧江北橋はすぐに撤去されたが、旧豊島橋は1967年(昭和42年)まで存在していた。

2代目の鉄橋は1995年(平成7年)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て2001年平成13年)に現在の橋となった。(「Wikipedia」より)

(「今昔マップ」より)○に「豊島渡」とある。       現在の豊島橋(○)

上図によると、かつては「天狗の鼻」というが如く、かなり湾曲してことが分かる。現在の「隅田川」は、「荒川放水路」開削によって、少し流路変更され、カーブが緩やかになっている。北区と足立区の区界はかつての隅田川となっている(右図で破線。東、南、北側は足立区。北区が「天狗の鼻」のように突き出している。)

「豊島」という地名から、ここからは南西方向にあたる「豊島区」(池袋、巣鴨・・・。)を思い浮かべますが、北区豊島が、武蔵国豊島郡の中心部であった地で、平安時代頃より当時この地を治めていた豊島氏の発祥の地とされています。

北豊島郡はかつての武蔵国豊島郡の一部であり、「豊島」が指す範囲はより一層広かった。古代豊島郡の郡衙は現在の北区に置かれ、中世には現在の北区を発祥とし、石神井川流域を本拠地とする桓武平氏豊島氏が豊島郡を治めた。豊島という町名が豊島区ではなく北区にあったり、同じくとしまえん(豊島氏の城の一つ練馬城の跡地)が練馬区にあったりするのはそのためである。なお、豊島氏は1477年に江古田・沼袋原の戦い太田道灌に敗れて滅亡した。(「Wikipedia」参照)

右手は「首都高」。

                

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その3。あらかわ遊園。みやぎ水再生センター。桃の節句。

2021-03-03 19:48:30 | 隅田川

都立荒川商業高」。

左手に「あらかわ遊園」の観覧車が見えてきます。

子供が小さい頃、よく連れてきました。孫も。

町屋から都電荒川線に乗って「荒川遊園地前」で下車。現在、休園中のようです。

 

『尾久の民俗』(荒川区教育委員会、平成3年)p.8-9には、『新興の尾久町』(下谷新聞北豊島支社、大正12年)より引用して、大正十一年には、広岡勘兵衛が船方の煉瓦工場を廃して、荒川遊園を開園した。近くに住む石神寅松氏は荒川遊園について「道路境木材塀は全部煉瓦塀にして、南側一帯は土盛して滝も造り、水は井戸を掘った。お宮(稲荷様)の池は広く、貸しボートを浮かべ、水は荒川の水を利用した由。開園当日は、地元町会(小橋町会)として役員総出で交通整理その他を手伝った。花火も盛んに上げ、園内の滝の前では仕掛け花火を上げた。特別大玉を上げたが、ここでは危険であるため、尾久西校正門西方にある野球場で二尺玉とか三尺玉を打ち上げた。と記されている。

〈歴史〉

昭和16年(1941)高射砲陣地設置。この頃第二次大戦の影響で荒廃地となる。

昭和25年(1950)8月荒川区立荒川遊園が開園。

昭和27年(1952)12月つり堀オープン

当時のつり掘の写真
当時のつり掘

昭和32年(1957)10月野外ステージ付き児童館完成。

昭和42年(1967)3月大温室完成。

昭和42年当時の大温室の写真
当時の大温室

平成元年(1989)6月どうぶつ広場、しばふ広場オープン。(※この頃、子供たちを連れてくる。)

平成2年(1990)4月のりもの広場、レストハウスオープン。

平成3年(1991)4月クラフトハウス、水あそびの広場、アリスの広場等オープン。

・・・

平成18年(2006)9月あらかわ遊園「キッズランド」リニューアルオープン

平成22年(2010)8月「区立あらかわ遊園」開園60周年(※この頃、孫たちを連れてくる。)


60周年を迎えた遊園

平成30年(2018)12月あらかわ遊園休園(リニューアル工事のため)

令和4年(2022)春頃(予定)リニューアルオープン

(この項、「荒川区」HPより)

手頃な遊園地として子供や孫たちも楽しんで遊びました。観覧車、ファミリーコースター〈いも虫型の日本で一番遅いジェットコースター(自称)。1周約138メートルのコースを2周〉、メリーゴーランド、スカイサイクル〈スカイサイクルは高いところでは、地上5メートル程。1周232メートルを約3分で回れます。春の時期は桜の木々の間を通ることができます。〉、・・・。(〈〉は「あらかわ遊園」HPより)

懐かしい思い出です。

当時の園内のようす。

リニューアル後はずいぶんとようすが変わるようです。

「あらかわ遊園」観覧車(令和2年8月21日夜)。

リニューアル後が楽しみです。一番小さな孫でも連れてこようかな。

右手(左岸)沿いには大きなマンション。

上流方向を望む。

下流方向を望む。

再び高く堅固な堤防に。「1972年防潮堤建設工事」。

                

この先で行き止まり。団地内を迂回して進みます。

実は、隅田川沿いに「東京都下水道局・みやぎ水再生センター」の大きな施設があるためです。

隅田川」も大きく右にカーブしていきます。

左手から流入する川は「石神井川」。

「みやぎ水再生センター」。

みやぎ水再生センターの処理区域は、北区の大部分と板橋・豊島・足立区の一部で、面積は1,687ヘクタールです。周辺は宅地化が進んでいるため、水処理、汚泥処理ともに環境対策に配慮しています。
処理した水は、隅田川に放流しています。また、その一部を砂ろ過してセンター内で機械の洗浄・冷却やトイレ用水などに使用しています。
発生した汚泥は、センター内で焼却処理するほか、一部を東部スラッジプラントへ圧送し、処理しています。

足立区の東側の水処理施設の上部空間には、足立区の宮城ファミリー公園があります。グランドゴルフ、ゲートボールなどができる多目的広場、バスケットなどが楽しめるアクティブスポーツ広場があります。

(この項、「東京都下水道局」HPより)

けっこう遠回りになるかと思いましたが、「宮城ファミリー公園」から隅田川河畔に下りられました。

下流方向。上部は「首都高中央環状線」。この後は、上流までテラスが続くようです。

今日は、ひな祭り。桃の節句。せめて写真だけでも。 

山梨桃源郷。(「」HPより)

以前「甲州街道」歩きで、石和付近を歩いたときは、すでに桃の収穫を終えていました。

 

 

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その2。尾竹橋ワンド。「日暮里舎人ライナー」。

2021-03-02 20:29:22 | 隅田川

                          「尾竹橋ワンド」。

「尾竹橋」。

上流を望む。

公園とテニスコートが続きます。

カミソリ堤防に。昭和40年(1965)建設。その先で、行き止まりになってしまいます。

                  

来た道を引き返し、団地から一般道に。

この付近で北側を流れる「荒川」とかなり接近します。上の写真で上部に「荒川」の土手が見えます。

荒川と隅田川の位置関係。上が「荒川」、下が「隅田川」。

しばらくは「隅田川」と「荒川」との間の道を進みます。

          荒川土手下の道を進む。

左手、「隅田川」沿いには産廃業者の施設が続きます。

「隅田川」の堤防が左手に。

                

この付近の今昔。「隅田川(旧荒川)」の流れは現在も変わっていません。

(「今昔マップ」より)

来た道を振り返る。荒川土手下の道。

「公園」。「隅田川」に近づくための入り口? 

そうこうしているうちに、左手に「ケーズデンキ」。その先で、「日暮里舎人ライナー・足立小台」駅に。 

左手に折れると、「隅田川」河畔に。

整備されたテラスになっています。

 

下流方向。                          「日暮里舎人ライナー」。

遠くに「スカイツリー」。

水面が意外と近い。

左が「日暮里舎人ライナー」、右が「尾久橋」の橋脚。

「テラス」が上流に向かってしばらく続く。

右手奥に「荒川」に架かる「首都高」の「五色桜大橋」が見えます。

 

                 「小台橋」。

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「隅田川」。千住から岩淵水門まで。その1。カミソリ堤防。お化け煙突。帝京科学大。

2021-03-01 18:56:08 | 隅田川

                左手上に、「京成上野線」鉄橋。

2月28日(日)。晴れ。さっそくやってきました。

千住大橋から下流は以前、断続的に探索したので、今回は、京成線「千住大橋」駅下車、「隅田川」左岸に。

堤防(俗に言う「カミソリ堤防」)が高くそびえ立ち、京成線の鉄橋も少し見えるのみ。ここからスタート。

しばらくはこんな道を。出来るだけ、「隅田川」沿いに。

運送会社のところも進んでいきます。

堤防脇の道。かなり高くなっています。この辺は、地面より水面が高いのでは? 

やっと金網越しに「隅田川」の水面が。

対岸(荒川区町屋側)の風景。

下流方向。釣り人もチラホラ。

テラス風のところへ。右手は「帝京科学大学キャンパス」。

          

以前の汚さが嘘のよう。水鳥の姿も。

 

   遠くにスカイツリー。                   上流にある「尾竹橋」。

右手にはモニュメントが。

右手奥に煙突(一部)。手前が煙突の20分の1のモデル。

                    上部が実物の煙突。

「お化け煙突モニュメント」解説板。

『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。・・・

千住火力発電所は、昭和39年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。

点線部分が「帝京科学大学」。

現在、敷地の一部は、東電の変電所等に使用されています。

 

 お化け煙突は千住火力発電所の4本の煙突で、上から見ると、ひし形に配置されていたために見る場所により1本にも2本にも、さらに3本にも見えました。1本に見えるのは千住の旧区役所(現あだち産業芸術プラザ)方向と本木一丁目27番南側の荒川左岸(北側)の2方向でした。

 発電所は、現在の千住桜木一丁目13番北側の荒川(現隅田川)右岸に大正15(1926)年1月に建設され、煙突の高さは83.82メートルあり、レンガでできていました。その後、昭和30年代に周囲を鋼板で補強しました。しかし、老朽化と効率化のため昭和38(1963)年に発電所が解散され、翌年秋から解体工事を実施、11月末には完全に姿を消してしまいました。不思議な煙突は、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」(昭和28・1953年)で全国的に知られるようになったほか、漫画や文芸作品にも数多く取り上げられ、親しまれました。

  

1本                2本

 

3本                4本

(この項、「足立区」HPより。写真も。)

稼働時の千住火力発電所(昭和20年代の撮影)(「Wikipedia」より)

京成電車に乗ると、この「お化け煙突」に見入ったものです。京成電車は一つ手前の関屋駅から高架線になり、右に左にカーブし、千住大橋駅となります。煙突の本数が刻々と変化していくのを眺める、そんな楽しみがありました。ただ、上記によると、1本、または2本に見えることはなかったのですね。今回初めて知りました。

「帝京科学大学」。

 

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「隅田公園」。梅づくし。ついでに「恋人の聖地PROJECT」。

2021-02-16 20:18:50 | 隅田川

すっかり春めいた時節。昨日は突然の大雨、そして虹がかかった晴れ間。今日は、北海道を中心に猛烈な低気圧による寒波。一昨日は、福島、宮城で大きな地震、もう少し浅ければ大津波が襲った、とも。2011年の「東日本大震災」の余震ですから、まだまだ予断が許せません。

そして、今日2月16日は日蓮聖人の生誕800年(数え年)の日。当時、天変地異飢饉疫病が次々と起り、人々が塗炭の苦しみにあえぐ。そうした時代にあって、現世を逃れて来世を願うのではなく、今世の苦楽の中にこそ「立正安国」という願いと行動があると説いた、という。

コロナ禍の中で、人々はどう処したらいいか、そんなことをふと思う、今日この頃。

隅田公園の梅の花もいよいよ咲きそろってきたか? 

2月13日(土)晴れ。隅田公園。遅ればせながらその記録を。

隅田公園。

           

 

枝垂れが見事。

ちょうど満開。

小ぶりながらも花をいっぱい咲かせて。

ユリカモメの群れ。

スカイツリー。

 

 

         

「隅田川」に架かる「東武線」鉄橋脇に新設された「歩道橋(SUMIDA RIVER WALK)」を渡って墨田区側へ。

下流を望む。「吾妻橋」、「駒形橋」と続く。

「アサヒビール本社」、「墨田区役所」。

すぐ脇に「東武伊勢崎線(スカイツリーライン)」。

と、橋の手すりに「恋人の聖地」。

           南京錠を付けるのが慣わしのよう。

愛の南京錠(Love padlocks)

恋人たちが永遠の愛の象徴として南京錠フェンスや門扉、などの公共設備にかける儀式である。その対象となる場所は世界中で増え続けており、鍵をかけるためのモニュメントが特設された土地もあるが、景観を損ねるだけでなく安全性に問題が出る恐れもあることから、世界各地で撤去作業が行われている。1990年代から2000年代の初めにかけてみられるようになった現象で、その起源については定かではないが、セルビアイタリアなどでは発祥となった伝説や作品まで遡ることができる。

そういえば、「房総往還」の旅の途中、木更津港の「中の島大橋」で見かけました。・・・

 

狸のカップル像。右手に南京錠がたくさん。
「中の島大橋」が「恋人の聖地」に選定された、とか。さすが木更津。タヌキですね。 

・・・

隅田川で見かけるとは思いませんでした。

恋人の聖地

特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定された観光スポットである。

自然に囲まれた場所、夜景の綺麗な場所、記念品が作られる場所などが選定され、最初の発表は2006年4月19日にされた。

少子化対策と地域の活性化への貢献」をテーマとした『観光地域の広域連携』を目的として恋人の聖地プロジェクトが始動し、2006年より、「全国の観光地域からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポット」を「恋人の聖地」として認定している。また、主旨に賛同する企業・団体が管理する場所のうち「恋人の聖地」としてふさわしいと判断した物も、同様に「サテライト」として認定している。

今後の展開としては、「既存の観光スポットのリノベーションを図り、新たな観光スポットとして訴求力を高め、新たな来訪客層の開拓」をかかげ、また、「恋人の聖地」認定地同士の連携による情報発信力向上等も視野に入れている。観光庁およびJTBが後援している

2019年6月時点、埼玉県沖縄県など一部を除く日本各地に選定箇所が存在している(サテライトを除く)。島根県にいたってはサテライトとしての認定を受けている場所もない唯一の都道府県となっている。

選定委員

 (この項、「Wikipedia」参照)  

東京都の“恋人の聖地”
  1.  ヴィーナスフォート/パレットタウン大観覧車
  2.  六本木ヒルズ展望台/東京シティビュー
  3. 日比谷松本楼

   ・・・

2020年!それぞれ年間3,000万人以上が訪れる浅草と東京スカイツリータウン®の2大観光拠点をつなぐ水辺に新たな「聖地」が誕生。すみだリバーウォークは、既設の隅田川橋梁に対して新たに設置した歩道橋。カラーデザインは東京スカイツリー®とおそろいの「スカイツリーホワイト」を基調とした色に。昼景はもちろん、夜間のライトアップもロマンティックに。東京の代表する隅田川、浅草、東京スカイツリー®を一手に見渡せる水辺の風景は、まったりのんびり散策デート、気分を盛り上げるためのロケーション、思い出づくりのフォトスポット、などなど、二人の間に様々な演出を提供してくれる東京随一のパワースポットだ。(「恋人の聖地PROJECT」HPより) 

それにしても「南京錠」という呼び名が面白い。日本における南京錠という名は、近世において、外国由来のものや、珍しいものや小さいものが「南京」を冠して呼ばれたことに由来するようですが。 

対岸の台東区側を望む。

  

 

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隅田公園。2021。梅めぐり散歩道。ユリカモメ。(「向島百花園」休園中)。春一番。ブログ開設から6000日目。

2021-02-04 20:01:27 | 隅田川

            

 

「隅田公園 梅めぐり散歩道」。

梅めぐり散歩道 梅と日本文化
 梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました平安時代になり、梅は上流社会の流行花木になり、和歌などに多く歌われました。
 梅にまつわる話では、菅原道真が太宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」有名です。安土桃山時代には中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして、鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に創られるようになりました。
 江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。

※「飛梅伝説」に関わる歌

 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ《菅原道真 (『大鏡』》

5,6年ほど前から整備してきたようです。今年も梅が咲き始めていました。

2月3日(水)午前。快晴。まだつぼみのまま。

去年の同じ時期に比べて少し開花が遅いかもしれません。暖かさで一気に開花すると思いますが。

「マンゲツロウバイ」。

       

         

シダレザクラとスカイツリー。

足下には「スイセン」。

        

「水原秋桜子句碑」。

                 羽子板や子はまぼろしのすみだ川

公園内には、他にも正岡子規の句碑などが。

                          雪の日の隅田は青し都鳥

「ミヤコドリ」「ユリカモメ」(「Wikipedia」より)

『伊勢物語』では、

・・・

なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる川あり。
それをすみだ川といふ。
その川のほとりに群れゐて、

「思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな。」

とわび合へるに、渡し守、

「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」

と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。

さる折しも、白き鳥の嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。

京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。


渡し守に問ひければ、

「これなむ都鳥」

と言ふを聞きて、

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
 
・・・
 
とあります。しかし、「都鳥」は全身が白くなく、黒毛が目立ちます。そこで、その表現に近い鳥は「ユリカモメ」のことではないか、と。一方で、嘴や脚が赤くはないのでやはり「ユリカモメ」とはいえないのではないか、とも。
 
都鳥=ユリカモメ? 正岡子規の句中の「都鳥」は「ユリカモメ」を指すと思われますが。
 
ハトに混じって餌をついばむユリカモメ。
 
スズムシの生育地。
 
「吾妻橋」からの隅田川。
 

ところで最近は、毎年訪れる「向島百花園」。

今年は、現在閉園中(「緊急事態宣言」発出のため)。これから見頃なのに誠に残念です。

今は、「向島百花園」Twitterからようすを確認するしか・・・。                                                

                               (Twitterより)

気象庁はきょう、関東地方で「春一番」が吹いたと発表しました。去年、関東地方で春一番が吹いたのは2月22日でした。統計を取り始めた1951年以降、最も早い記録のようです。

北国ではまだまだ寒さが続いています。

※このブログを開設してから今日で6,000日目。我ながらよく続いていると感心します。

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隅田公園。向島百花園。冬の。その1。

2020-12-21 20:28:52 | 隅田川

東武線とスカイツリー。ガード下には新しくお店がいくつか誕生。TOKYO MIZUMACHI」。「三つ目通り」をはさんで、スカイツリー側にも。

                

          

  隅田公園。日だまりを求めて。

      

              

水鳥の姿もチラホラ。

池の水量も少なめ。清掃中? 

向こうに墨田区役所。

左手にはスカイツリー。

桜の葉もすっかり落ちて。

冬空に。

穏やかな冬の日差しに。

                     

              

「十月ザクラ」。

「冬ザクラ」。

小鳥(↓)が柿の実をついばむ。

        

別の日。東武線の隅田川に架かる鉄橋脇に浅草から渡れる歩道橋ができました。そこを少し歩きます。

金色のビルは、アサヒビール本社。

「源森川水門」。隅田川との水門。

江東0㍍地帯を守る防潮水門。通常は開放されているが、高潮や津波の恐れがある場合は直ちに閉鎖される。

 

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今を盛りのタチアオイ、咲き始めたアジサイ。そして、満開のツツジ。隅田公園。

2020-06-01 20:37:08 | 隅田川

隅田公園。サクラ、ウメばかりではなく・・・。タチアオイ。

「梅雨葵」とも言われます。

「アオイ(葵)」というと、つい葵の御紋、徳川家の家紋と思ってしまいがちですが、まるで違う植物の葉をデザインしたもの。

 葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもの。

  

 フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。 その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏(河内源氏)系新田氏流世良田氏(得川氏)の末裔ではなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。 
 豊臣家が滅んだ後、徳川家康の権威が上がると徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋となっていった。家康が征夷大将軍となった後、次第に徳川将軍家以下一門に制限され、他家に使用禁止となったは、享保8年(1723年)。 
 天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが、徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。

(この項、「Wikipedia」参照)

アジサイ(紫陽花)は、これからが見所。

     

        

「山の宿の渡し跡」。

山の宿の渡し跡            台東区花川戸1丁目1番
隅田川渡船の一つに,「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は, 隅田川に船路を描き, 「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は 吾妻橋上流約250メートル。 浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を, 命名。 別称は, 東岸船着場が 枕橋橋畔にあったのにちなむ。 枕橋は 墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は, 江戸中期ごろから墨堤と呼ばれ, 行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く, 山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運んだであろう。したがって, 江戸中期以降の開設とみなせるが, 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡しを描いていない。

(明治の古地図「goo」より)

 渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名されたようです。また、「花川戸の渡し」と称されたり、東岸(対岸)の船着場が北十間川・枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも。
 ただgoo提供の明治古地図(年代不明)には、「枕橋の渡し」「山の福の渡し」と表記されています。「福」は「宿」の誤りか。その地図には、少し北の隅田川沿いに「山の宿郵便局」と記載された郵便局があります。 

        

そして満開のツツジ。

出かけたのは、5月28日(木)。もうちょっとアジサイが見頃になったら、梅雨空の下、来てみましょう。

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2020春。「春は名のみの風の寒さや」。隅田公園のサクラ。その2。

2020-03-26 20:10:20 | 隅田川

                        「言問橋」を渡って、再び墨田区側に。
                       

2階建てバスもお客がパラパラ。

橋の上から手が届くところに花びら。



橋のたもとにある「小梅 埼玉屋」さんで、桜餅と草餅を買います。

墨田区側は、池のある庭園風に。

             



小梅邸と明治天皇行幸」解説板。
 江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治の初めに歩兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
 江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年(1875)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治29年(1896)には洋館が造られました。

注:江戸時代から明治の後期にかけては、「水戸街道」は日光街道の千住宿から分岐していたので、ここで言う「水戸街道(現国道6号線)」は存在していません。旧街道と現街道は葛飾区新宿(にいじく)で合流します。


公園内には、記念碑もあります。

花びら越しのスカイツリー。



根元に一輪。

築山風のところにもサクラの木々。

       

ここからのスカイツリー。

                

お目当ての枝垂れ桜はまだつぼみ。

 ところで、長い間工事中だった南側。東武線と接する道路や線路下のお店、さらに北十間川と大がかりな工事がほぼ完成。広々とした芝生広場などが開放されています。


            

          東武スカイツリーライン線の電車。

 さっそく春の陽気に誘われて家族連れやカップルがそれぞれくつろいでいます。


広場からのスカイツリー。

                     

 「春は名のみの・・・」は「早春賦」の一節。

 「早春賦」は、1913年(大正2年)に発表された吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
 『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作。
 長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。
 題名の「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春に賦す」が原義である。

歌詞
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か


 作詞の吉丸一昌(よしまる かずまさ)は、東京府立第三中学校(現両国高校)教諭(当時の教え子の中には芥川龍之介もいた)の経験もありました。その関係で、今も歌い継がれている「東京府立第三中学校・両国高校」の校歌(石原重雄作曲)を作詞しています。

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2020春。「春は名のみの風の寒さや」。隅田公園のサクラ。その1。

2020-03-25 20:13:37 | 隅田川

                      都内は満開、というニュース。そこで隅田公園へ。
3月24日(火)。晴れ。北風寒し。
ソメイヨシノは、ほぼ満開? でも、古木が多いせいか、元気がなさそう。

それでも足下には菜の花。そしてサクラ。




そぞろ歩きの人びとも寒そう。川面がきらきら光って春らしいが。
    コロナ騒動で屋形船も元気がない。

「鬼平情景 みめぐりの土手」。 
         大川(隅田川)の土手下にある「三圍(囲)=みめぐり神社」にまつわるお話。

雪洞も大きく揺れて。
                   華やか気分にはなれます。



 「桜橋」を渡って浅草側へ。


                  

スカイツリーを借景に。



                       

          

洒落たカフェテリアが出来たんですね。

紅色の衣をつけたスカイツリー。

スズムシ等の観察用の竹林。

「TOKYO2020」も「1年程度延期」に。トランプとスポンサーの意向(威光)で、アベさんもやっと決意。
今度はコロナにかこつけて「非常事態宣言」か。

思惑通りにいくかどうか。

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隅田公園。梅めぐり散歩道。2020。

2020-02-10 21:14:52 | 隅田川

                     2月7日(金)。晴れ。寒し。
隅田公園の梅を観に行きました。6日の寒さが引き続き、けっこう寒い中での。でも、北風ではなくて幸い。
隅田公園はサクラで有名ですが、台東区側の北に梅が植栽されているところ=「梅めぐり散歩道」があります。
去年初めて訪問。今年はどうかな、と。少しずつ整備されているようですが。

上空の寒気で、飛行機雲が幾筋も。

満開に近い梅も。

バックにはスカイツリー。



                   

見物客もほとんどいない。公園全体も少なそう。雷門界隈ははたして?


     



      

正岡子規・句碑
             雪の日の 隅田は青し 都鳥(明治廿五壬辰年)
『寒山落木』明治十八年ヨリ同二十五年マデ
明治十八年 夏郷里松山ニ歸ル○嚴嶋ニ遊ビ祭禮ヲ觀ル○九月上京
仝 十九年 夏久松定靖公ニ扈從シテ日光伊香保ニ行ク○九月歸京
仝  廿年 春腸胃ヲ病ム上野ヲ散歩ス○夏歸省○九月上京
仝 廿一年 夏牛嶋月香樓ニ居ル○九月歸京常盤會寄宿舍ニ入ル
仝 廿二年 四月水戸ニ遊ブ徃復一週間○五月咯血 七月歸省九月上京不忍池畔ニ居ル後再ビ常盤會寄宿舍ニ入ル 十二月歸郷
仝 廿三年 一月上京七月歸郷 九月三井寺觀音堂前考槃亭ニ居ルコト七日直チニ上京
仝 廿四年 春房總行脚十日○六月木曾ヲ經テ歸郷 九月上京途中岡山寒懸ニ遊ブ○秋大宮ニ居ルコト十日 冬駒籠ニ居ヲ遷ス○川越地方ニ遊ブコト三日
明治廿五年 一月燈火十二ケ月ヲ作ル其後何々十二ケ月ト稱スル者ヲ作ルコト絶エズ 春根岸ニ遷ル 夏歸省ス 九月上京 十一月家族迎ヘノタメ神戸ニ行ク京都ヲ見物シテ上京○此年夏ヨリ日本紙上ニ投稿十二月ヨリ入社

【説明】隅田公園の北側の端に、大正時代まで「竹屋の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。近くにある待乳山聖天からの眺めを詠んだものと思われます。(Untitled - 上野観光連盟)

そして、「花」歌碑。
                春のうららの 隅田川
           のぼりくだりの 船人が
           櫂のしづくも 花と散る
           ながめを何に たとふべき

           見ずやあけぼの 露浴びて
           われにもの言ふ 桜木を
           見ずや夕ぐれ 手をのべて
           われさしまねく 青柳を

           錦おりなす 長堤に
           くるればのぼる おぼろ月
           げに一刻も 千金の
           ながめを何に たとふべき


 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。この碑は、羽衣自筆の歌詞を刻んだもの。



                       

サクラの古木と。



メジロが1羽飛んできました。梅の蜜を吸いに。



                    

吾妻橋を渡って墨田区側へ。

            

 例の騒ぎで、「スカイツリー」に向かう人は(特に外国人)少ない印象。     

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