最近、大阪などにばたばたと出かける機会が重なりました。行き帰りの新幹線、飛行機などで読書する時間も。文庫本を読みながらの往復。その中で、いくつか読書感想(文)を。その一つ。
一読して、筆者の鋭い感性(同性の、同業?の、人生の酸いも甘いも見据えた者の)に圧倒されました。
一葉の、一生を貧困と病苦の中に生きた薄幸の人、それでいて、わずかの期間で多くの不朽の名作を残した女性、というイメージをその「虚像」をはいでみせた、と。
桃水との関係もけっしてプラトニックな、一葉の片想いとらえつつも、性的な関係が存在したのではないか、と。日記を読み解く中で、むしろ破り捨てられた部分に注目して二人の関係をひもとく。男女の関係をめぐる一種の推理、探偵もののような印象。
当時、一葉と桃水との関係をゴシップとして噂され、それをことさら公に否定していくことで、作家として自立していかんとする一葉の心のひだをえぐりだしていく。
さらに、一葉が仕事、生計を立てる手段としての物書き、「ものをかけばおかねになる」という発想につながっていった、一葉周辺の人間関係、文学的・芸術的環境の存在などが掘り下げられている。
その前段として駆け落ちして江戸に出てきた両親のようす・野心、人となり。そして、一葉の幼少期の恵まれた環境、婚約者らしい男の裏切り、家運の没落・・・、それらの「小説的」世界を小説家の感性で追っていく。
特に、貧窮したのち、桃水、のちには占い師?の男にお金を無心する、一葉と、それを受ける男(けっして純粋な関わりではなく、何らかの代償、報いを意識しての)との間の「生」と「性」。これらの心の機微を見て見ぬふりをしてはならない、との指摘は鋭い。
解説で田中優子さんも語っているが、この書は、一葉論であるとともに瀬戸内寂聴の人間観であり、人生観でもある、ようです。
筆者は、「一葉の真剣な恋は、わずか一年の間に十年の恋の深さを味わいつくした。しかも、その恋は、死の床までひそかに一葉の胸底に生きつづけていた。」と記しながらも、直後、「もし、桃水との恋がつづいていたら、一葉の文学的開眼は永久に訪れなかったであろう。」と。
その上で、筆者は、「一葉は小説家である前に天性の詩人であり、詩人である前に、ひとりのなまなましい若い女であった」、と。生きる(一家を支えながら生活する)女性としての生き様への共感をこのように表現しています。
下世話的には、一葉が通った菊坂の質屋さんの建物が解体の危機にあるらしい、との記事が最近の新聞に載っていた、と、つい、よけいなことを書いてしまっても、寂聴さんは許してくれるだろう。
一読して、筆者の鋭い感性(同性の、同業?の、人生の酸いも甘いも見据えた者の)に圧倒されました。
一葉の、一生を貧困と病苦の中に生きた薄幸の人、それでいて、わずかの期間で多くの不朽の名作を残した女性、というイメージをその「虚像」をはいでみせた、と。
桃水との関係もけっしてプラトニックな、一葉の片想いとらえつつも、性的な関係が存在したのではないか、と。日記を読み解く中で、むしろ破り捨てられた部分に注目して二人の関係をひもとく。男女の関係をめぐる一種の推理、探偵もののような印象。
当時、一葉と桃水との関係をゴシップとして噂され、それをことさら公に否定していくことで、作家として自立していかんとする一葉の心のひだをえぐりだしていく。
さらに、一葉が仕事、生計を立てる手段としての物書き、「ものをかけばおかねになる」という発想につながっていった、一葉周辺の人間関係、文学的・芸術的環境の存在などが掘り下げられている。
その前段として駆け落ちして江戸に出てきた両親のようす・野心、人となり。そして、一葉の幼少期の恵まれた環境、婚約者らしい男の裏切り、家運の没落・・・、それらの「小説的」世界を小説家の感性で追っていく。
特に、貧窮したのち、桃水、のちには占い師?の男にお金を無心する、一葉と、それを受ける男(けっして純粋な関わりではなく、何らかの代償、報いを意識しての)との間の「生」と「性」。これらの心の機微を見て見ぬふりをしてはならない、との指摘は鋭い。
解説で田中優子さんも語っているが、この書は、一葉論であるとともに瀬戸内寂聴の人間観であり、人生観でもある、ようです。
筆者は、「一葉の真剣な恋は、わずか一年の間に十年の恋の深さを味わいつくした。しかも、その恋は、死の床までひそかに一葉の胸底に生きつづけていた。」と記しながらも、直後、「もし、桃水との恋がつづいていたら、一葉の文学的開眼は永久に訪れなかったであろう。」と。
その上で、筆者は、「一葉は小説家である前に天性の詩人であり、詩人である前に、ひとりのなまなましい若い女であった」、と。生きる(一家を支えながら生活する)女性としての生き様への共感をこのように表現しています。
下世話的には、一葉が通った菊坂の質屋さんの建物が解体の危機にあるらしい、との記事が最近の新聞に載っていた、と、つい、よけいなことを書いてしまっても、寂聴さんは許してくれるだろう。