おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

興津の薄寒桜。女体の森。身延道。興津の一里塚。(新蒲原から興津まで。その5。)

2015-01-14 23:27:30 | 旧東海道

 足を踏み外したら転落しそうな、急な階段を下りきると、大きな墓地の一角。新しく造成された墓地のようだ。

「案内図」。休憩施設も備わっている。

 直線の下り坂。「往還坂」。振り返って望む。

 下りきって左の道。かつての「下道」に通じる道。

 そのまま進み、左折すると、JR東海道線の踏切に(本来はまっすぐ進む道が旧道)。旧国道1号線に出る。その先は、「興津川橋」。

 橋のたもとの案内版。上、中、下道の解説。

 

「興津川橋」。向こうの橋は、国道1号線。

当時は人足による川渡し。川の水量により運び賃が変わっていたらしい。JRの鉄橋の辺りがそのところ。

広重「奥津」(「Wikipedia」より)。
 奥津(興津)は興津川沿いの宿場であり、川は浅く架橋はなく徒歩渡りで、河口での力士の川渡りの様子が描かれている。一人は馬、一人は駕籠であり、人夫との対比も面白い。遠くには、三保の松原が描かれている。

 「興津川橋」を渡って右の下り坂から東海道線沿いに進む。

    

おそらくこれが旧東海道らしい。そして、合流する通りは「国道1号線」。その先、左手にあるのが、

「興津の薄寒桜」。

 平成12年2月植樹

 この樹は1912年(大正元年)ワシントンのポトマック河畔に当時尾崎東京市長が桜の「苗碑を寄贈する為、当地の農水省果樹試験場にそれの育成を懇願された際の一種である。
 従ってこの時の苗木はポトマック河畔の桜と同年生まれの兄弟である。尚、この薄寒桜はその子供に当たる

   興津商工会

 「米国、ワシントンの「桜」と清水区、興津の「薄寒桜」は兄弟だった! 」

 日米友好のシンボルとして、日本の桜がアメリカに送られたことは有名ですが、その苗木が興津で生産されたことは、意外に知られていません。

~~~日米友好の桜の誕生の地、興津~~~

 日本の桜の苗木がアメリカに送られたのは、1912年(明治45年)、いまから100年前のことです。
 この苗木が作られたのは、静岡市清水区にある「果樹研究所カンキツ研究部興津」(通称、興津カンキツ試験場)。担当したのは熊谷八十三技師でした。
 実は、東京興農園より2000本の苗木が明治43年にも送られたのですが、農薬のない時代、苗木は船上で病害虫が大発生し全て焼却処分されしまいました。
 日本の威信をかけて再度送るため、苗木づくりを興津カンキツ試験場に委託されたのです。大変な労苦の甲斐あって明治45年6040本(59種類)を送ることができました。病害虫の発生もなく無事に到着でき、ワシントン、ポトマック河畔に植えられました。
 ワシントンに贈られた苗木と兄弟とされる苗木が、興津カンキツ試験場に残されましたが、戦争を経てほとんどが枯死してしまい、薄寒桜一本だけが残りました。
 残ったこの薄寒桜をなんとか残そうと頑張ったのが、今は亡き青木氏でした。(静柑連技術者 )
 当時青年だった佐野林作さんは、青木さんのことを知り、青木さんの思いに感銘を受けて行動をともにしたのです。接ぎ木から増やした二世は薩埵峠にも植えられました。
 佐野さんは、日米友好のシンボルである桜の100年の歴史は、興津の歴史でもあるこの桜を大切に次の世代に伝え、「興津から世界に羽ばたくように」との願いを込めて、「薄寒桜を育てる会」を立ち上げたのです。
 興津の海岸沿いは、バイパスが通ることとなり、歴史的にも有名な座漁荘や清見寺を代表する建物、風光明媚な海浜は、変容してしまった。
 連合自治会の副会長を務めていた佐野さんは、以前の興津を再建したいと、国や県に対し交渉を続け、人口海浜の着手など、「地域町並みデザイン推進協議会」にかかわり、自らができることを実践すべく、平成12年に「緑化推進事業」のなかに「薄寒桜を育てる会」を取り込み、地域ぐるみの活動を始めたのです。清見潟公園を中心に植樹を始め、今では町内、興津川沿いなどにも1,000本ほどが植えられているそうです
 その後、商工会議所の地域の町おこしと連携し、「興津 薄寒桜まつり」が始まりました。今では来場者が3万人を超える盛況となっているそうです。
 接ぎ木で増やした二世は、由比の薩埵峠にも(15本ほど)植えられました。一月に咲く、日本の中でも最も早いとされる薄寒桜は、峠でも見事に成長し咲き誇っていました。
 今では、ハイキングに来る人々を楽しませてくれています。

(「興津の薄寒桜 100年の歴史 - 健康いきいき心ときめき www.kenkouikigai.jp/archive/03/039EAWW3K7OLYN.asp」より)

 このいきさつは、初めて知った。

右手にある「女体の森 宗像神社」。

「女体の森」とはいかなるいわれが。

 創建は平安時代中期といわれ、祭神はスサノウノミコトの子の3人の女神(宗像三女神)で航海安全の神。女神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われている。江戸時代に木、豊穣、音楽、知恵、水の神として信仰する弁天信仰と同化され、境内の森を「女体の森」、池を「弁天池」と名づけている。
 地元の漁師は、神社の森やクロマツを灯台代わり目印にしていた。

 実は、パソコンで「女体の森」を打ったら、こんな記事がトップに。

Amazon.co.jp: 女体の森: みうらじゅん, リリー・フランキー: 本.
          

 本書は、『週刊SPA! 』の「グラビアン魂」の対談中から厳選して収録したものです。
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 その途方もない時間を費やして、粋人たちが出した「美女」の定義とは一体!?
 これは、世界最高水準の知的エロトーク集なのです。

 ?? こっちの方が面白そう! 

 それにしても、「女体の森」はインパクトがありすぎ。東海道の「旅人」にはけっこう受けているらしい。

 不謹慎でした

 しばらく進むと、右手に「身延道」碑。「題目碑」など所狭しと建てられている。

  

身延道

 身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、 鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。また江戸時代初期には身延山参詣の道として使われるようになった。

 その先の右手には、「興津の一里塚」跡。

日本橋から41番目の一里塚。

来た道を振り返る。

 午後3時少しの前の空はすっかり晴れ渡り、次の17番目の宿場・「興津宿」に入っていく。

 品川―川崎―神奈川―保土ケ谷―戸塚―藤沢―平塚―大磯―小田原―箱根―三島―沼津―原―吉原―蒲原―由比―興津。

 やっと3分の1弱。距離にして約164キロメートル。
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