大井川の土手をしばらく南下すると、右手に下り坂。その道を下っていくと、金谷宿側の「川越し場」。
ここも、対岸の「島田宿川越し場」と同じように、「川会所」「札場」人足の詰所「一番宿」から「拾番宿」などの施設が置かれていた。
公園の先にある小さな「八軒屋板橋」を過ぎると、その「川越し場」施設のあるところになります。
といっても、「島田宿川越」のように、復元・保存されているわけではない。現在、生活している建物に「八番宿跡」というように表示されている。


「八番宿跡」。 「九番宿跡」。
「大井川」は、今も昔も流れのところと川原のところが入り組んでいて、旅人は、川を渡ったり、橋を越えたり、石だらけの川原を歩いたり、と渡河が困難だった。
『東海道中膝栗毛』に「・・・蓮台に打乗り見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今や命を捨てなんと思ふほどの恐ろしさ、たとゆるにものなく、まことや東海道第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して蓮台をおりたつ嬉しさいはんかたなし」とあるように、蓮台に担がれて渡ってもその怖さがひしひしと伝わってくる。


「金谷宿」は、「大井川」の河原から西の台地に連なる谷間にかたちつくられた町。
現在、牧の原台地など金谷周辺の丘陵には茶畑が多くあるが、これは、大政奉還後、窮乏生活をしている旧幕臣らが、地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡が全国一の茶生産地となる基礎を築いた。そこには、かの勝海舟の尽力もあった、と。

少し進むと、左手に「柏屋本陣跡」。
