「菊川」の家並み。平日のせいか、人通りもない静かな集落を歩きます。このまま、誰にも会わずに次の「日坂宿」まで、とすら思えるようなのんびりした歩み。
と、橋のたもとに老夫婦。「こんにちは。この道でいいんですよね。」「こんにちは。ええ、いいですよ」「ありがとうございます」。
しばらく進むと、バスが。「おでかけバス・金谷駅行」。二人は乗り込みました。
見送りがてら、来た道を振り返る。
「菊川の里」。「きくがわ」と読むらしい。
巨大な案内図。「昔をしのぶ 間の宿 菊川」。
家並みと2,3代前の持ち主の名前が記されています。
そこから、来た道を振り返る。
「間の宿 菊川」。隣が「おでかけバス」のバス停。
間の宿 菊川
間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿 「菊川」 が置かれました。
間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。
島田市観光協会
「菊川の里会館」には、昔をしのぶ案内碑がいくつかあります。
宗行卿詩碑 日野俊基歌碑
源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。
「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ
今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」
承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。
「いにしえも かゝるためしを 菊川の
おなじ流れに 身をやしづめん」
間の宿菊川は史跡とロマンの里である。
島田市教育委員会
観光協会
右の石柱が「日野俊基の歌碑」、左が「宗行卿の詩碑」。
「菊川由来の石」。
その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。白菊姫の伝説による菊石は北へ1㎞位の処にある佐夜鹿公民館の傍らにあります。
説明板の足元にある石には、たしかに菊の文様らしきものが。
木柱に書かれてあるのは、源頼朝の歌。
まちえたる人のなさけもすはやりのわりなく見ゆる心ざしかな
一一九〇年十月十三日 源頼朝公詠
ここでは、どうも鎌倉幕府側は分が悪いのでしょうか、もう少し気の利いた石碑か説明文が必要だと思いました。だいたい「一一九〇年」は、ありえないでしょう。もちろん、この地での歌でもなさそう。
注:「すはやり(すわやり)」とは半生干しの魚肉、特にサケ(鮭)の肉をさす、らしい。戦国武将たちの大好物だったとか。
金谷宿の昔ばなし
・「八挺鉦(やからかね)」(八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話。)
・「与茂七越し」(東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)
・「柳井戸」(渇水期にもまったく涸れることがなく柳色の水を湛えている「柳井戸」を造った名医のお話)
・「矢の根鍛冶五條才兵衛のこと」(大阪城攻撃の際、徳川家康開運の鏃として名高い矢の根鍛冶の名手のお話。)
トイレに入ったついでに。バス停には、宗行卿にまつわる絵などが描かれています。まさに「ロマンの里」らしい雰囲気です。
「小夜の中山方面」という道標に従って進みます。
緩やかな上り道。後ろを振り返る。
左奥、山間に見える橋脚は「国道1号線」。
丘陵地帯。見渡す限り「茶畑」。
「茶」の字が遠くに見えます。
「←日坂の宿。菊川の里→」。
そこから振り返る。けっこう歩いて来ています。
「阿仏尼・歌碑」
ここから先には、「小夜(さよ・さや)の中山」峠にちなんだ和歌や俳諧の碑が続きます。気がついて撮ったものをまとめて先に紹介します。
上の碑は、「雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月 阿仏尼」
「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり 衣笠内大臣」
「旅寝する さよの中山 さよ中に 鹿も鳴くなり 妻や恋しき 橘為仲朝臣」
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山 西行法師」
「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山 蓮生法師」
「あづまぢの さやの中山 なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ 紀友則」
「ふるさとに 聞きしあらしの 声もにず 忘れね人を さやの中山 藤原家隆朝臣」
「道のべの むくげは馬に くはれけり 芭蕉」
「あづまぢの さやの中山 さやかにも 見えぬ雲居に 世をや尽くさん 壬生忠岑」
「命なり わずかの笠の 下涼み 芭蕉」
「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 芭蕉」
「甲斐が嶺を さやにも見しが けけれなく 横ほりふせる さやの中山 読人不知」
一つか二つ落としたかも知れませんが、さすが古よりの「歌枕」の名所だけのことはあります。お茶畑、道の辺にさりげなく置かれた歌碑は見物でした(唯一、「私的には」西行法師の歌碑だけはいただけませんが)。