今回の中心は、「小夜の中山峠」越え。「小夜」は、「さよ」と読んでいましたが、西行法師の有名な歌「年たけて」では、「さや」と詠んでいることを発見。「佐夜」とも書くと。
この峠は、「箱根」「鈴鹿」と共に東海道中の三大難所と言われていたところ。すでに「箱根峠」を越え、「薩埵峠」を越え、「宇津ノ谷峠(蔦の細道)」を越えて来たので、何となく楽な印象。が、ここは最後に、「二の曲がり」沓掛の急坂が待ち構えています。
以前からどんな急な山道りでも、登りはほとんど苦になりませんでしたが、下りはどうも膝の関節が・・・。今回は、果たしてどうなるか?
周囲は、丘陵。お茶畑が一面に広がるところ(のはず)。少しくらい寒くても、西風さえあまり強くなければいいな、と願うばかりの、2月24日(火)。
在来線の東海道本線。東京から沼津、静岡を経て、「金谷」まで、4時間以上かかってやっと到着。「金谷」駅のホームからは富士山が見える、らしい(ホームから富士山が見えるもっとも西の駅、らしい)。でも、あいにくの曇り空。残念!
ガードをくぐって駅の裏手に出て、坂道を上がっていきます。
「常夜燈」。左手の民家の脇。
その先、橋のたもとには、
「金谷大橋(西入口土橋)跡」。
現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。
金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました。
島田宿・金谷宿 史跡保存会 島田市教育委員会
東海道線の敷設などで、川幅や道筋にも変化があって、宿場そのものも分断されてしまったようすです。
緩い坂道を上り、国道473号線を横切ると、「旧東海道石畳入口」になります。
ここが上り口。
すぐ右手にあるのが、「石畳茶屋」。
説明板。
島田市指定史跡 「東海道」金谷坂の石畳
この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。
いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました。
平成4年3月 島田市教育委員会
その先にあるのが「鶏頭塚」。
鶏頭塚
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。
「曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保甲子4年(1744)2月19日没」と刻んだ自然石の碑である。
巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。
なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。
東海道金谷宿
いよいよ本格的な石畳の上り坂。上りやすいように敷き詰められています。旧宿場町挙げての一大イベントでよみがえったことはすばらしい、心意気を感じます。
右手には「すべらず地蔵尊」。
長寿・すべらず地蔵尊
このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。
けっこう汗をかいてきて、ダウンのコートを脱いで歩いた方がいいような天気になってきました。
案内板。
上りきって県道にぶつかったら右に進みます。この辺りは、「牧ノ原台地」の一角、「川根茶」の産地。一面、お茶畑です。
「国指定史跡 諏訪原城跡」という案内板を見て、右手の細い砂利道を行くと、
深くて急斜面の自然の堀が残されています。
しばらく進み、県道を越えると、今度は「菊川坂」という「下り坂」になります。
休憩所・四阿が設置されていて丁寧な説明板があります。「茶の里再発見 粟が岳の『茶』の字が見えるよ」に誘われて北西を見ると、一面の茶畑の向こうに、
案内板。
菊川坂と金谷坂
江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であっっため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。
この故事に因んで、菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再び蘇らせました。
菊川坂は21世紀の幕開けの事業として平成13年1月21日静岡県内の東海道21宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷約500名を越える皆さんの力で道普請に着手。平成12年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約700メートルの石畳が完成しました。
金谷坂は、町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって、平成3年11月24日子供達からお年寄りまで500名余の町民の力で道普請に着手、翌年3月に400メートル余の石畳が出来上がりました。
江戸時代後期の石畳そして平成の道普請により出来上がった石畳に、それぞれ、むかしの旅人への、あるいは平成の助郷役の人たちへ思いを馳せながらこの石畳を踏みしめてください。
島田市
ちらほらと桃や梅の花が。
「芳名板」。
平成十三年一月廿一日、「菊坂助郷伝説として旧東海道22宿助郷並びに大勢之助郷を以て平成之道普請を相催し候
依って茲に助郷として出役下され候面々の氏名を刻印し、以て当石畳之復元を後世之伝説と致すべく候。就いては助郷衆に対し謝意を表すべく此の芳名板を設置致す者也
遠江国棒原郡金谷宿
菊川坂石畳
この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。
江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣十二ヶ村に割り当てられた助郷役の人たちによって、敷設されたものです。この長さは380間(約690メートル)あったともいわれています。
しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損したところもありますが、このように長さ161メートル、最大幅4.3メートルを残しておあります。
かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時を偲ぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません。
島田市教育委員会
平成の道普請。 江戸時代後期の石畳。
けっこう急坂になります。道端には、春先らしい花々。
菊川坂石畳と間の宿菊川
菊川坂石畳は平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。
菊川の里は吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。
承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。
更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変でとらえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。
江戸時代には、西の日坂宿・東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。
このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。
●中納言宗行卿の詩 昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命
●日野俊基の歌 古も かかるためしを 菊河の おなじ流れに 身をやしづめん
島田市教育委員会
「菊川坂」を振り返る。
こうして、「金谷宿」のはずれから「間の宿・菊川」入口まで、二ヶ所、平成の道普請の石畳道を上って、下ってきたわけです。