しばらく進むと、旧道は右に折れて少し下って行きます。(本来の旧道は通りの反対側から続いていたのではないか? )
旧国道1号線(県道208号)との分岐点には笠懸松の説明の立て札があります。「旧東海道」という表示も。
笠懸松と西住墓
「・・・やがて西行は駿河国岡部の宿にさしかかった。荒れはてた小さな堂に立ち寄って、一休みしているときなにげなく後を振り返って見ると、戸に古い檜笠が懸かっていた。胸騒ぎがして、よくよく見ると、過ぎた春、都で共に修行した僧の笠だった。
笠はありその身はいかになりぬらむ
あはれはかなき天の下かな ・・・・・」(西行物語)
ここは歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。
迂回するように短い距離を進み、「岡部川」を渡って、再びメイン・ストリートの「旧国道1号線(「つた街道」とも)」に戻ると、その先、左側に「柏屋」があります。ここは急角度で右に折れる道。「岡部川」を渡る橋付近が「宿場の城戸口(見付)があったような気がします。桝形のような印象です。
「大旅籠 柏屋 歴史資料館」。
台所・土間(竈、炊事場・・・)。 2階屋根裏の骨組み。
敷地面積約2300坪。母屋の建坪100坪。家の前を通っている旧国道1号線(元は旧東海道)の拡幅のときに、建物を1間以上奥にずらしたそうです。
1820年(文政)と1834年(天保)の二度大火のため焼失し、現在の建物は、1836年(天保7年)に建てられたもので、180年ほどの歴史を持っている建物のようです。
5代目良吉(天保年間)以降は、旅籠屋と質屋を兼業しており、田畑の集積も進んで、かなり裕福だったことがうかがえます。柏屋山内家は、その富を背景に、代々問屋や年寄りなどの宿役人をつとめる岡部でも屈指の名家でした。
江戸時代の終焉によって、「宿駅制度」が廃止されると、かつての宿場町のようすが消えて、「柏屋」を取り巻く環境も激変、この建物もさまざまな変遷を経て、現在は、市の施設として保存、公開されています。
今日でも、東海道筋における貴重な建物とされ、住まいの随所に創建当時の痕跡が見られます。1998(平成10)年に、国の登録有形文化財に認定されたようです。
主屋は、歴史資料館として当時の旅籠の様子を再現し、江戸時代と明治時代の二つの土蔵は、ギャラリーや和風レストランとして利用されています。
見学料300円で中に入り、ボランティアの方に案内、説明してもらいました。
1階の「帳場」、「みせの間」、「台所」、「仏間」、「みせおく」、「奥の間」、「次の間」。急なはしごのような階段をあがった2階には「一の間」、「二の間」、そして資料展示コーナーと盛りだくさん。「みせの間」「一の間」には弥次さん、喜多さんの人形が寸劇風のやりとりをしたり、ご当地の言葉遣いも披露される、など見飽きません。
ここの代表的なイベントは「ひなまつり」。等身大のひな人形が15体、豪華絢爛な御殿飾りが披露されるそうです。(2月10日~4月5日)
そろそろ昼食。奥にある「物産館」で「おでん」をつまみながら、コンビニのおにぎりを食べました。ここのおでん「静岡おでん」は、東京(関東)とは異なって、味噌仕立て。
「どこから来ましたか? 」「静岡駅から」「どちらから?」「東京です」「歩いているんですか? 」「はい」「日本橋からか、よく決心しましたね。」「いや、何日もかけて、来てはまた戻って、の繰り返しです」「今の季節が歩くにはいいですよ。夏は照り返しが強くてね。東北の人には申し訳ないけど。私も歩いてみようと思うんだけど、なかなか。」・・・。
お茶を飲んでゆっくりして、腰を上げました。
江戸時代と明治時代の二つの土蔵。
すぐお隣に「内野本陣」跡があり、「岡部宿内野本陣史跡広場」となっています。
広場の中の建物。
そうとう大きな敷地であったことが分かります。
「問屋場」跡。
右手に「造り酒屋」が見えてきたら、左の道に入ります。この辺りからもう一つの中心地「加宿内谷」に。
地酒「初亀」。「酒浪漫」という惹句が。
宿場町らしい雰囲気。
小野小町の姿見の橋
小野小町は絶世の美人であり歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まったという。
小町はこの橋の上に立ち止まって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に落とすと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。
こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。
ここで、「小野小町」にまつわるお話しがあるとは思いませんでした。
小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)
平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
小野小町の詳しい系譜は不明。彼女は絶世の美女として数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。
生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野(旧雄勝郡雄勝町小野)といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しておりその周辺とも考えられる。
この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。
東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。
ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。このように、小野氏が陸奥国に生活の基盤があったとも考えられる。
湯沢市には小野小町にちなんだ建造物「小町堂」があり、観光の拠点となっており、町おこしの一環として、毎年6月の第2日曜日に「小町まつり」を開催している。また、米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものである。
京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。それにちなんで、毎年「ミス小野小町コンテスト」が開かれている。
山形県米沢市小野川温泉は、小野小町が開湯した温泉と伝えられ、伝説が残っている。温泉街には、小町観音があり、美人の湯と称されている。近年、科学的分析により、美肌成分が多く含まれていることが判明し、単なる伝承ではなく、効果の裏付けが確認された。
小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。
・宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。
・福島県喜多方市高郷町(耶麻郡旧高郷村)には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野の小町の供養塔がある。
・栃木県栃木市岩舟町小野寺には、小野小町の墓などがある。
・茨城県土浦市と石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。
・京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と言われ、小町の墓と伝えられる小町塚がある。
・京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。
等々。
歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。
・思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
・色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける
・わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ
・うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
・人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり
・今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり
・秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば
・花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
小野小町にちなむ作品(小野小町を題材とした作品を総称して「小町物」という。)
能
小野小町を題材にした七つの謡曲、『草紙洗小町』『通小町』『鸚鵡小町』『関寺小町』『卒都婆小町』『雨乞小町』『清水小町』の「七小町」がある。これらは和歌の名手として小野小町を讃えたり深草少将の百夜通いを題材にしたものと、年老いて乞食となった小野小町に題材にしたものに大別される。後者は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。
鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の作者とも。
(以上、「Wikipedia」参照)
ところで、裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もあります。
言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づいていて、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているというものですが・・・。
「高札場」跡。
高札場跡
高札場は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度や掟(法律や条令)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせたところです。
高札が、四辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいました。ここがメインストリートということに。
振り返って宿内を望む。
曲がり角。宿場特有の道のつくり。
「非常板」。けっこう目に付きます。非常の際に、ハンマーでたたく。試せませんが。
左手に「木喰仏 聖徳太子像」説明碑。
五行菩薩は、・・・56歳の時に「日本廻国」「千体造仏」「国分寺への納経」の願いを持ち、以来40年余り全国を歩き渡った。
岡部には寛政12年(1800)6月13日からまる8月13日の2ヶ月間滞在し、6体の仏像と数点の書画を残している。
木喰仏は、別称「微笑仏」といわれており、大きな団子鼻、山なりに曲がる太い眉、大きな弧を描く目、鼻の下の口などが特徴であり、不思議とやさしい笑いをたたえた表情が独特である。岡部に残る6体のうち、光泰寺には2体あり、そのうち一体が聖徳太子像である。
しばらく進むと、角の造り酒屋さんのところで、道は右に折れる。
「桝形」の名残り。ここが西の木戸口(見付)?